act.21

 肌を熱いほどの湯が叩き、ふっと赤らむ体のラインに湯のすじがからみつきながら、締まった筋肉にそって流れ落ちていく。肌にまとわりつく透明な湯から白い水蒸気がたちのぼり、バスルームには湿った熱気がこもり出していた。
 サーペントが目をとじ、心地よさそうな溜息をついた。覆うもののない裸身を湯がすべりおちていくのを見ながら、エースが喉の奥で笑う。
「そのまま眠るなよ」
「うーん。いいかも‥‥」
 頭の真上のシャワー口から細かに噴きだしてくる湯を浴びながら、サーペントはガラス張りの壁に右手をつき、左手を長い髪の間へすべらせた。シャワールームと浴槽がガラスで区切られた広いバスルームの床は、青いガラスタイル貼りで、天井の柔らかなライトパネルの光を淡い青に反射している。サーペントの肌にもかすかな青みが影をつけていた。
 しなやかな背骨の脇を湯のうねりがつたいおちてゆくのを見ながら、エースはボディシャンプーを手に取った。泡立てながらサーペントに近づき、シャワーの湯をミストに切り替える。こまかい霧がシャワールーム全体にふりはじめると、エースはサーペントの体に背後から手を回し、泡をすべらせはじめた。
「眠ってもするからな」
 耳元に囁く。細かなミストが肌に珠をむすび、肌の至るところを流れ落ちていく。サーペントは壁に片手をついたまま、やわらかく体を這うエースの手の感触に首をそらせた。笑う。
「悪趣味ぃー」
「お前が言うかね」
 思わずエースも笑い出した。自分が何をしたのか、サーペントはわかっていないとしか思えない。彼にモラルを期待したことはないし、これからもする気はないが、やはり困った相手だとは思う。
 体中に泡をすべらせていると、サーペントがくるりと振り返り、顔をエースに寄せた。エースの頬を舌腹でゆっくりとなめあげ、囁く。
「まだ血の匂いがする」
「そうか?」
 泡まみれの体にエースが腕を回すと、サーペントが泡をエースになすりつけるように体を動かした。くせのある金髪を指の間につかみ、サーペントはエースの耳朶を噛む。
「俺も、お前も」
 そう言ってくすくす笑うサーペントの体を、エースはきつく抱きしめた。硬くなった互いのペニスを押し付け、擦れる感覚にエースは呻きをこぼした。
 車内でじゃれるだけじゃれあって、たかぶった欲望はもうギリギリだった。たかが一月離れていただけなのに、会ってしまえば前より強く惹きつけられる自分を感じる。回した腕を下げてサーペントの尻をつかみ、自分へさらに引き付けると、腰を強くこねるように動かした。サーペントがエースの首すじに強い腕を回し、肩に乱暴な噛み痕を残しながら、その動きに応じて腰をゆすり、互いのはりつめた茎を擦りあわせた。
 激しい息の音をたてながら、快感の動きを強めていく。からみあう肌の間を泡と湯が流れ、あわさった肌はその間にきしむような水音をたて、薄紅に染まりはじめる肌から湯の蒸気がたちのぼった。ささやかなミストの水音の中、サーペントの背中に物狂おしいほどの指を這わせ、エースは腰からひろがる愉悦の熱さに呻いた。サーペントの動きもただ欲望を追うだけの単調で我を失ったものになり、くりかえしエースに腰をこすりつける。
 その喉から一瞬の激しい声がほとばしり、サーペントが首をのけぞらせた。体の間に精液がとびちるのを感じながら、エースはサーペントの体を強く抱きしめる。サーペントは首をあおのかせたまま、笑うような息をこぼして密着した腰を揺らした。湯と精液の入りまじったぬめる感覚にはじかれて、エースも激しい快感の中に達していた。
 互いの体を抱きしめながら、二人はタイルの床にずるずると崩れる。濡れた唇を求め、互いの腕を求め、強く肌を合わせて熱い体を求める。ほかに何も感じない。何も必要ないほどに、ただ相手だけを求めながら、むきだしの欲望をぶつけあった。
 本当はもっと優しく抱ければいいのかもしれないと、サーペントを立たせてガラスの壁へ押し付けながら、エースは溶けるような意識のかたすみで思う。多分、時には。だがもう灼けるような欲望と愛しさの区別もつかないまま、求めるしかない。
 後ろから貫かれ、サーペントはガラスの壁に指をくいこませるようにしながら荒い声を上げた。自分の奥を、苦痛すら与えながらきつく満たしていくものが、どうしてこれほどの快感を呼ぶのか。理由もわからないまま、体が溶けるような快感にただ呻いて腰をゆすった。上からふるミストの水滴がついたガラスに指がすべるが、頬を押しあてて体を支えながら、腰をさらに後ろへつき出す。
「ああああっ、エース──」
 名を呼んで乱れはじめるサーペントの腰を後ろからかかえ、エースは熱い奥を貫きあげる。ゆっくりと引き抜き、甘い声を聞きながらもう一度深く埋めこんだ。肉欲だけではない、何かを彼の中に刻みこみたいのに、どうしようもなくエースは溺れていく。濡れた髪を背に垂らし、乱れる姿をうっすらと映すガラスに体を押し付けながら、淫蕩に腰を振るサーペントの体は、記憶以上に熱く彼のものを呑みこむ。奥へ深くうずめたまま腰を回すと、サーペントが呻いた。
「エース‥‥んっ、てめェっ‥‥」
 右手が自分のものへのびてゆくのを、エースが手首をつかんで背中へひねり上げる。本気の喧嘩ならこんなことはできないが、こうして身を合わせている時のじゃれあいならこちらが有利だ。エースは焦れた呻きを上げるサーペントの首すじを背後から噛んだ。
 サーペントが背中をさらにそらす。腰をつきだしてエースを求めながら声を上げた。
「や、あああ、早く‥‥! も、だめ──」
 陥落なのか、誘いなのか。きっとそれはサーペントにもわからない。だが短い哀願は、今のエースにはあまりにも甘美だった。腰を大きく動かして後ろを突き上げながら、エースはサーペントの手を離し、自分の手でサーペントの欲望をしごきはじめる。ひたすらに追い上げ、追いつめられながら、サーペントは上気した体をくねらせて快感をむさぼり、高い声を放った。つながった二人の全身をミストの滴と汗が入りまじってしたたってゆく。
 サーペントの手がガラスにずるりとすべり、呻きながら彼はタイルの床へ崩れた。エースの腕に腰を抱かれ、体をねじって尻だけを高く上げている。這いながら体を揺すって呻く彼の腰をかかえ、さらに強く突き上げながら、エースは意識を根こそぎ持っていかれるような快感のうねりに溺れていた。


 求めることも求められることも。それほど異なってはいないような気がする。こんなふうに深く肌を合わせていると。
 快感が入りまじり、己の体と相手の体の境目がなくなっていくようだった。むさぼりながらむさぼられ、互いに溺れ、なにもかもを投げ捨てるように、肌の熱だけがすべてになる。
 暗い寝室のベッドにいつ自分たちがうつってきたのか、エースにははっきりとした記憶がない。サーペントもそうだろう。そんなふうに理性を失うのは、彼が相手のセックスだけだ。エースにとって長い間、セックスは単なる行為であって、快感と利益の二つを常に自分の側の天秤にかけていた。
 サーペントだけはちがっていた。サーペントだけが彼をなすすべもなく魅了し、溺れさせる。脳も思考も灼ききれそうな熱い快感。理性や計算を保つことなど、はじめから考えられない。この強烈な愉悦をサーペントも味わっているのだろうか。そう思えばまた腰から全身がとろけそうな異様な快感のうねりに呑み込まれそうになる。
「‥‥ほんとに、ほんとに怒ってるんだよ」
 乱れたシーツの上に仰向けになったエースをまたいで座り、彼の屹立を奥へとくわえこんだまま、サーペントが興奮に光る目をエースへ向ける。長いクリームブロンドは乱れに乱れ、頬には唾液のすじが光っていたが、エースにとってはこの上なく魅力的な姿だった。
「知ってるよ」
 かすれた声で返し、下から突き上げてやる。サーペントが呻いてぐらりと体が揺れ、両手をベッドについた。頭を振る。幾度もエースを受け入れた後ろは、貫かれるたびに精液と潤滑ジェルがまじりあった濡れた音をたてた。
「ん──、あっ、あぁっ‥‥」
「でもな。‥‥あれを、放ってはおけない、だろ」
「幽霊、のことは、放っとく、くせに‥‥」
 あえぎながらサーペントが手をのばし、エースの乳首を爪でこねた。短く呻くエースを見てニヤッと笑う。エースが息をつめてぐいと体をおこし、サーペントの腰をかかえて逆からのしかかった。角度を変えて貫かれ、サーペントが笑いとも呻きともつかない声を上げ、膝でエースの体をしめつけながらエースの首に腕を回した。
 シーツがきしんでサーペントの背中の下でよじれる。思いきり突き上げられていた。
「く‥‥んぁ‥‥っ」
「あれは、どうしようも‥‥ない」
 サーペントの膝をつかんで大きくひらかせ、腰を半ば持ち上げるように体を二つに折り曲げて、エースは深く貫いたペニスでゆっくりと奥の粘膜を擦り上げる。快感にひくつく奥はエースの脈動にからみつき、熱くしめつけた。
 彼の動きにあわせて腰を揺らしながら、サーペントが目をほそめた。快楽に溺れていても、エースの声の中にあるひややかさを聞きとっていた。のばした指先でエースの髪をかき乱す。
「‥‥何で‥‥?」
「お前、業者の焼却リスト、しらべなかったろ──」
「リストって──あぁっ、んっ」
 性感を執拗に擦り上げられ、サーペントのまなざしが甘く溶けた。腕がずるりとエースの首からすべり落ち、シーツをつかんで腰をゆすりあげる。エースはゆっくりした動きに変えながら、荒い息で説明した。
「アリアを‥‥娘を殺した罪でバルデウスに投獄された男は、暴動に巻き込まれて死んでるよ、サーペント。保管庫に入っていた死体は、バルデウス・ケージ解体の際、名簿つきで業者に渡されて、焼却された」
 サーペントが驚いたのを、エースはしめつけてくる奥の反応で悟る。淫蕩にきつくくわえこまれて、彼は息をつめた。
「じゃあ──あの、幽霊は‥‥」
(アリア──)
 アリア。
 殺人者が死んでいるのならば、あれは誰だ?
 反問しようとして、ふいにサーペントが「ああ」と呻いて頭をそらし、パールグレイのシーツに髪を乱しながらクスクス笑いはじめた。自分がフェリカに語ったバルデウスの説明を思いだす。
(人に、自分が誰であったのか忘れさせていく。日々、罪だけを教えこみ、罪を悔やむことだけを強いる)
 顔を奪い、名を奪い、「リセット」と「再刷込」をくりかえす。バルデウスはそんな刑場であり、実験場であり、処刑場であった。
 ──肉体だけでなく、魂の‥‥
「んっ‥‥そうか、アレは‥‥あそこでは、他人の罪の刷り込みを囚人に行うことまで、やってたのか‥‥」
「おそらく」
「あいつ‥‥あの幽霊、アリアとは、何の関係もないんだ‥‥罪を、コピーされただけで──」
 サーペントの足がエースの腰にからみつき、二人はゆっくりとした動きで快感を味わう。じれったい動きで浅い部分を擦られ、呻いて身をよじらせながら、サーペントがかすれた声で言った。
「じゃ、アレ、‥‥誰?」
「知らん」
「‥‥って」
「調べるつもりは‥‥ないしな」
 エースはサーペントの膝をかかえたまま体を重ね、ピンクにほてった首すじから肩へねっとりと舌を這わせる。汗の塩味と酸味が舌を刺した。サーペントが腰をくねらせて誘いながら、またあえぎまじりの笑い声をあげた。
「あいつには、じゃあ、他人の罪の記憶だけしかないんだ。‥‥アリアを殺した、偽物の記憶‥‥」
「わかっただろ。もう、放っておけ」
 囁いたエースの髪をサーペントが両手の指でかき乱し、ぐいと握りしめる。その動きが体の奥にうねる快感からなのか、それとも別の感情からなのか、淫らに上気した顔からはまるでわからない。エースの顔を固定し、熱に浮かされたラベンダーの瞳でエースを見つめた。
「あいつは、永遠にアリアを追いつづける──彼の知らない、殺してもいない、少女を──」
「‥‥」
「なあエース、幽霊はあいつか? それともアリアか?」
 エースはそれにはもう答えず、すくいあげたサーペントの膝をさらに高くかかえて、激しく突き上げた。サーペントがエースの髪をつかんだまま言葉にならない声を上げ、火照った全身でエースの動きを受けとめる。互いを求める情熱と欲望はまだまだ高まっていくのに、体はひどくもどかしい。快感の呻きをこぼしながら汗みどろの肌を擦りあわせた。
 深みまで貫かれるたびに奥襞を圧倒的な熱がえぐり、するどい愉悦が体の裏に奔騰する。内も外も、エースがふれていないところなど一箇所もないような気がする。サーペントは荒い声を上げ、淫らな悪態を口走りながら腰を振った。
 自分が本当に生きていると感じるのは、ほとんどこの刹那だけだった。エースを受け入れている、自分の体が芯まで熱くなっているのを感じる。昂揚と快感に我を失って、さらに深く強くとエースの存在をむさぼりながら、サーペントはその一瞬ずつに狂っていく。
 血の一滴までもが熱に揺らぎ、肌を内から灼くようだった。体の芯はとうに甘く痺れ、エースが貫くたびにサーペントが上げる声はもう言葉にならなかった。
 一瞬。また一瞬。永遠のような刹那。目の裏に白い光が散って、鮮烈な快感に体ごとひきずりこまれる。絶頂にサーペントは高い声を放ち、首をのけぞらせてエースの熱を体の奥に受けとめた。限界をこえる。溺れるだけ溺れながら、甘い苦痛の中に何もかもを手放していた。


 指先が汗まみれの髪を肌からかきあげ、またゆっくりと肌にふれ、熱の余韻に火照った体を愛撫していく。それはやさしく頬をなで、額にふれ、唇をなぞってから首すじから肩へ、さらに腹部へとすべりおちた。
 それが途中から指ではなく唇に変わったことに、サーペントはぼんやりと気付いていた。
「‥‥エース?」
 かすれた声で呻く。愛撫はしばらく続き、サーペントは重い手を持ち上げて、腹のあたりにあるエースの頭をさぐると、髪をつかんで引いた。
 エースが顔をあげる。サーペントの腕はぱたりとベッドに落ちた。
 エースはベッドに上体をおこして座り込み、サーペントの顔を見つめていた。汗ですじになったクリームブロンドが頬から首すじに乱れ、ひらいた唇からまだ荒い息をついている。目はとじ、睫毛が息の一つごとに揺れ、ほてった頬には汗が光っていた。どこかしら獰猛な、むきだしの鋭さがその貌にはある。そしてそれが痛々しいほどに、サーペントの表情は無防備だった。
 身を傾け、エースはサーペントの唇にキスでふれる。耳元へ囁いた。
「会いたかった」
「‥‥へェ。俺もだ」
 眠そうに目をあけ、サーペントは微笑する。満足しきった、だが攻撃的な笑みだった。
「珍しく、気が合う」
 そう言いながら気怠い腕をエースの首にからめ、引き寄せて、もう一度キスをねだる。ねっとりと舌をからめ、口腔をなぶって熱いキスをくりかえし、光る目でエースを見つめた。
「でもまだ許さない」
「どうしてほしい」
 エースは笑みを返した。くせの強い金髪が汗に乱れ、額にはりついている。サーペントの指先がそれを払い、こめかみから頬骨までのラインをなぞった。
「何してくれるのさ」
「ん。‥‥とりあえず、シャワーあびて、それから」
 愛撫の痕もなまめかしく散ったサーペントの体を抱き起こし、エースは両腕を回して愛しげに抱きしめる。どちらの体もまだ火照って、情交の名残りでベタついていた。
「しばらく眠れ。そばにいるから」
「うん」
 腕の中で、意外と素直に、サーペントはうなずいた。クスッと笑って、その体がエースの腕の中で小さく揺れた。
「どうした?」
「ん。いや、やっぱり生きてる相手のがいいね。死体と寝てると、自分も死体になるような気がした」
「‥‥あんまり馬鹿なこと、するなよなぁ」
「お説教? 俺に嘘をつくのとどっちが馬鹿だよ、馬鹿」
「あれは‥‥」
 サーペントの腕もエースの背へ回り、背骨の横のくぼみを滑って肩甲骨の上へのぼってくる。汗と精液にまみれた体をあわせると、互いの肌の下で血が脈打つのが感じとれた。
「もう捨てたくせに。全部。なのに、お前は忘れない」
 ナイフのような声で、サーペントは囁く。シーツのよじれを膝の下にきしませて。全身をエースへ預け、背へ指先をくいこませた。エースが呻くほど、その手は強い。
 エースは目をとじ、サーペントの髪をかき乱すように抱きしめた。
「ああ。‥‥すまん」
 言えなかったのはそのせいか、と思う。
 何故キリング・ムーンを殺す必要があるのか。キリング・ムーンの中に自分と同じ──「父親」という扱いの自分のDNAドナーのDNAの一部が、あのレプリカントの中に組み込まれているのだと。
 サーペントにそれを言えなかったのは、自分が捨てた筈の過去に引きずられ、自分が「何者であったのか」に引きずられていることが後ろめたかったからなのか。
 エースは言われてはじめて、そのことに気付いていた。
「うん」
 ぐっとするどい痛みを背に残し、サーペントの腕がゆるんだ。身を離し、ベッドに座りこんだままエースを見つめていたが、手をのばして指先でエースの頬にふれる。爪にかすかな血の色がついていた。まるで猫だな、とエースは背の痛みを感じながらぼんやり思う。遊びと狩りの境い目がない。
 サーペントがじっとエースの目をのぞきこんだ。
「忘れようなんてしなくていい。忘れたフリもいらない。俺は嘘なんかいらない」
「‥‥」
 強い光をたたえた瞳に微笑して、エースはサーペントの唇に短いキスをした。
「わかった」
 それでもまだサーペントはエースの目の底までも見透かすようにのぞきこんでいたが、やがて一つうなずくと、裸のまま両足をはねあげ、くるりと体を回してベッドを降りた。軽い足取りでシャワールームへ入っていく。
 エースはそれを見送ってから、背中に手を回して、刻まれた小さな傷にふれる。指先に血の感触。ひとつ肩をすくめ、彼は指先を苦笑まじりの唇に含んだ。
 ベッドに身を倒そうとした時、ドアが開いて、サーペントが顔を出した。シャワーを浴びたにしては早すぎる。その手に剃刀を握っているのを見て、エースが眉を上げた。
 ──ふっ、と嫌な予感が首をはしった。
 サーペントは小首をかしげる。
「お前、覚えてる? 丸坊主にするって言ったの」
「‥‥」
 エースは額に手をやって、溜息をついた。そう言えば。ランテリスに会いにイルヴェンを離れる際、あの子供の子守をサーペントにたのんだ──あの時、サーペントが交換条件として言ったのだ。「丸坊主にするか」と。
 そして、それを引き受けたのも、勿論、思い出している。
「‥‥いい記憶力だな」
「まーね。どうする、泣き入れる?」
 サーペントがかろやかな仕種で剃刀を振った。
 立てた膝に肘をのせてかるく首をかたむけ、エースはサーペントを見ていたが、苦笑した。
「いや。好きにしていいよ」
「ふぅん。まぁ、俺もあんまりそういうシュミはないけど、物は経験だし、じゃあお言葉に甘えて」
 右手に剃刀、左手でシェービングフォームの缶をもてあそびながら、サーペントはベッドに向かって歩き出す。妙に真面目な顔をしているのを見て、エースはまた嫌な予感がした。と、言うか、サーペントの視線の向きがおかしい。明らかに髪を見るには下を向きすぎている。
「‥‥お前、まさか」
「坊主ったら、上より下だろう」
「ちょっと──ちょっと待て!」
「たまにはそういうプレイも燃えるかもしんないし。ねェ?」
 剃刀がくるりとサーペントの手の中で回る。別に笑うわけでもなく近づいてくるサーペントに、エースは本気で青ざめて、壁際へ下がりはじめた。

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