act.8

 客の間を抜けてくる2人組の男を、サーペントが指で示した。その指をついと動かし、店の奥に立つ2人組を示す。
「あれと、これ。俺の客かあんたの客だと思うけど、どうする、逃げる? つかまえる? 殺す? 手伝おうか。今ならオークションのオマケ商品ってコトで、一時間だけ試用無料でいいよ」
「君は、何者だ?」
 記者のするどいまなざしをチラッと眺めて、サーペントは物憂げに、
「それ聞いてどうすんの。何が知りたい。俺の生い立ちから話そうか? ちょっと高いよ」
「──何の目的で俺に接触した」
「情報。俺もキリング・ムーンを追ってるからね」
「何のために」
「喧嘩してるから、今」
 ウェンは、眉をしかめた。
「何の話だ?」
「喧嘩してんの。その気晴らしだよ」
「ふざけるな」
「みーんなそう言うんだよねぇ」
 いかにも落ち込んだように、サーペントは大きな溜息を吐き出した。ぴたりと目を覆うバイザーをかける。銀色のフィルムの下にラベンダーの瞳が隠れた。そうすると、白い貌がますます作り物めいて見える。
 ちょいちょいとウェンを招いて、
「とりあえず、あんたか俺か、どっちがヤツらの狙いか確かめようか。囮やってくれる? あっちのドアに歩いてって、通路に出てみてよ」
「俺が殺されたらどうする」
「救急車か霊柩車を呼んであげるさ」
「Maj──」
「俺はあんたの情報がほしい、あんたは俺が持ってるキリング・ムーンのネタがほしい。了解? 嫌なら俺は消える」
 唇が、にっと妖艶な笑みを刻んだ。
 一瞬ごとにくるくると表情や声音を変えるサーペントを、ウェンは理解しがたいものを見る目つきで見ていたが、肩をすくめた。
「君が囮をやればいい。俺がバックアップする」
「あー、なるほど?」
 小馬鹿にした口調で言うなり、サーペントの体が沈んだ。下がろうとしたウェンにぴたりと身を寄せながら膝をかかえ、ひょいと立ち上がる。ウェンの体が軽々と宙に浮いた。
 ウェンは護身の銃をとろうとしたが、肘をつかまれてぐっと体ごと持ち上げられ、次の瞬間、手すりの向こうに投げ落とされていた。
「うわあああぁっ!」
 全身をばたつかせながら、ウェンは内臓が上にひっぱられるような感覚を味わう。床が近づいてくるのがわかったが、どうしようもない。顔をかすめる風を感じてぞっと全身がこわばった一瞬、衝撃に叩きのめされ、肺中の息を吐き出した。
 息ができない。痛みはなかったが、全身がつまったようで体が動かせずにいると、ぐるりと視界が回転した。転がり落ちていく。どこまでも。悲鳴をあげようとしたが肺にもう空気はなかった。天井の手前を、奇妙な光沢をおびた赤い金魚が鱗を光らせながら泳いでいくのが見えた。
 一階のソファの上にいると気がつくまで、少しかかった。周囲をかこむ映像は、客向けのスポットヴィジュアルだ。金魚と水の泡。それとも気泡? よろめいて立ち上がろうとした目の前に、つめたい足音が近づいた。
「ミスター・ウェン?」
「‥‥‥」
 まだ体が思うようにならない。どうにか上体を起こすと、三階から見た2人組の男が彼を見下ろしていた。身ごなしのするどい男たちだ。後ろの男は上着のポケットに手を入れていた。
「いっしょに来てもらえないか」
「‥‥何のために?」
 声をどうにか出しながら、ウェンは起き上がろうとしたが、男がすばやく距離をつめてウェンの肩をつかんだ。誰か、店のガードのようなものがいないのかとウェンは目を動かしたが、周囲は金魚の長い尾にくるまれて、赤や金の光がキラキラと舞い、その向こうに誰がいるのか、何がおこっているのか、まったくわからなかった。
「それは俺の知るところではない」
 言いながら、男がウェンの手首に金属のバンドを巻く。ぴたりと皮膚にはりつくそれは、きわめて細い鎖が布のように編まれたもので、ちくちくと刺激がはしるのを感じた。拘束用のチェインブレスだ。対になったバンドと一定以上の距離が離れると、運動機能を麻痺させる電流を流す。対のバンドが男の手にはまっているのが、シャツの袖口から見えた。
「俺は記者だぞ──」
 声を上げようとした瞬間、電流が手首から流れ、肘から肩まで焼かれるような痺れがはしって、ウェンは悲鳴をあげた。その口を手がふさぐ。首すじに無針注射器のノズルがあたった。冷や汗が全身から流れる。目のすみで金魚が天井へ方向を変えた。
 いきなり、すべてが暗闇につつまれた。
 自分の視界がおかしくなったのだとウェンは思ったが、周囲がいっせいにどよめいた。明かりが消えたのだとやっと気付く。何かが激しく動く音がして、ウェンをつかむ手が不意に離れたかと思うと、数秒して耳元に声が囁いた。
「立てるか? こっちだ」
「‥‥チェインブレスをはめられた‥‥」
「わかってる」
 立ち上がったウェンをサーペントの手がつかみ、肩に腕を回してウェンを前に押しだす。方向を導き、もつれる体を支えながら、暗闇の中をすばやく走り抜けた。カーテンのような布の後ろへウェンを押しこみ、裏の小さな扉をくぐらせる。
 扉の向こうも暗闇だったが、天井の非常パネルがぼんやりと光っていた。狭い店裏の通路の途中で足をとめ、サーペントは床の格納扉を引き上げた。ウェンにバイザーを渡し、先へ行くよう示す。
「奥にアンダーウェイへの点検口につながる梯子がある。ロックは外してあるから」
「‥‥‥」
 ウェンは一瞬、たじろいだ。サーペントに三階から投げ落とされたショックが体にまだ残っている。サーペントは目を覆うバイザーの下からウェンの表情を読んだか、うっすらと微笑をうかべて小首をかしげた。
「そう。じゃあ、戻る?」
「‥‥ソファがあるとわかった上で、落としたのか」
「その質問には意味がない。俺はいくらでも嘘をつけるし、あんたはどう言おうと俺を疑うだろ?」
「答えろ、Maj──」
「そうだよ」
 ひどく面倒そうに、サーペントは答えた。
「俺は情報がほしい。あんたが床で首の骨折って死んだらあんまり役には立ってくれない。記者にしては馬鹿な質問をするもんさ。さ、わかったらさっさと行くんだ。じきに明かりがつく」
 言いながらすばやく銀のシャツを脱ぎ、手にしていた黒いボディスーツを頭からかぶった。シャツはくるくると丸めてパックにつめこみ、腰の後ろにベルトで巻く。髪をすばやく首の後ろでくくった。
 ウェンをもう一度、つめたい声でうながした。
「さあ」
「‥‥‥」
 まだウェンの目には迷いがあったが、うなずいてバイザーをかけた。こめかみのところのボタンを押すと、赤外線のノクトヴィジョンが起動して、暗闇が薄緑色に透けて見えてくる。
 サーペントの姿は奇妙な形に見えた。熱を通さないボディスーツのために、スーツから出ている顔や手足だけが明るく浮かび上がってくるのだ。その腰に異様なシルエットを見つけて、ウェンは眉をひそめた。サーペントが手にしていた小さな袋の中味、その温度が透けて見えている。それは、まるで───
 サーペントがひらりと手を振った。声に出してうながされるより早く、ウェンは体を返して床下格納庫へともぐりこむ。だが、首すじを冷たいものが流れ落ちていくのをとめることができなかった。
 サーペントが持っていたもの、それはまぎれもなく、切り落とされた人間の手首だった。


 強化カーボンのメッシュフレームがからみあう地下構造の中、サーペントはウェンをつれて点検用のレールを歩いた。あたりには水の供給音や運送パイプ内の荷物の移動音が低く満ちている。
 しばらく行ったところで、歩きながらサーペントが携帯端末を取りだし、耳にあてた。
「ん。──そう、OK。そのままチェックしといて。──別にいいだろ、お前のためにやってるわけじゃなし。お互いさま」
 切ってから、立ち止まると、ウェンに柱の根元へ座るよう示した。
「ブレスを外しとこうね。うっかりはぐれると面倒だ」
 ウェンはうなずいて、チェインブレスがはめられた右手首をさしだした。サーペントはベルトにくくりつけていた袋を開け、中から人の手首を取り出す。すっぱりと何かで切断された手首には、ウェンにはめられたものと対のチェインブレスがはまっていた。
 手首を持って、サーペントはウェンのバンドと手首のバンドをふれあわせる。接触させたまま操作すると、ウェンのチェインブレスの留め金が外れた。
「‥‥ありがとう」
 手をさすりながら、切り取られた手首から目をそらし、ウェンはひとまず礼を言う。サーペントはクスッと笑った。
「そう、俺は親切なんだ。どうする。ちょっとの間、雇ってみる?」
「それは──君の条件と、情報次第だ‥‥。そもそも、君は何者だ? 何のためにキリング・ムーンを追う」
「俺は別に何者でもない。あんたが考えてるようにはね。キリング・ムーンを追うことにもあまり意味はない。しいて言うなら、単なる遊び」
「本気か‥‥?」
「どうでしょう。それは俺にもよくわからない」
 腕組みして、サーペントはフレームに肩をもたせかけた。瞳はバイザーに隠されていたが、ウェンはノクトビジョンの映像の中でサーペントの唇がくいっと吊り上がるのを見た。片はじだけ。
「そもそも俺が生きててこのかた本気だったことが、そうそうあるとは思えない」
 ウェンは吐息をついた。
「‥‥それは、何となくわかる」
「ありがとう」
「だが俺は、目的が理解できない相手とは組めない。情報の取引はありがたいが」
「理解ねェ‥‥うーん。俺はとにかく、キリング・ムーンが何なのかちゃんと知りたいし、とっつかまえてこの目で見たいんだよね。ほかは二の次。そもそもこの街に来たのも、キリング・ムーンを見たかったからだしね」
「何故」
「人を殺したことはある、ウェン?」
 ふいに放たれたその問いは、内容に不釣り合いにおだやかな声で、暗闇を揺らすことなく吸いこまれるように消えていった。
 ウェンは低い声でこたえる。
「‥‥ある」
「好きでも嫌いでもない、敵でも味方でもない、自分と何の関わりもない人間を殺したことは?」
「‥‥‥」
 サーペントを見上げるウェンの表情に、じわじわと理解の色がひろがった。それがひどくうっとうしいと、サーペントは思う。だが笑みは消さなかった。
「つまり、君は、そうか。殺し屋か?」
「そうだね。そうでないとは言えないが、今はそういうわけでもない。なぁ、俺が何者かって、そんなに重要な話?」
 サーペントの声は変わらず静かだったが、奥底にうんざりしきった苛立たしさがあった。
「今朝何食ったかとか靴は左右どっちから履くかとか、そういうことなら言えるけどさ。俺はべつに誰でもないし、あんまり誰かであったことがないんだよ」
「キリング・ムーンのように?」
 ついっとサーペントが小首をかしげ、一瞬にして無表情になる。それを見つめて、ウェンはつづけた。
「あれも、"何者か" であったことがない。殺すためにつくられ、殺しつづけるだけの虚無の存在、絶望的な人形だ。何の目的もない。何の温度もない。だからか? 自分に似ていると思うから、追うのか?」
「──」
「君は、自分が何者でもないと言った。だが、何者でもあろうとしないまま人が生きていくことはできない。顔や名前を持たないまま生きていくことができないように。君が本当に何者でもないというのなら──君は、この世界に実体のない、影のような存在だ。生きている実感がないから、他人を傷つけるのか?」
「あんたは、詩的な空想をもてあそんでいる」
 サーペントが喉の奥でかわいた笑いを洩らした。
「俺は、自分が何者であるか迷ったことはない。今さらあんたに決めてもらわなくても結構。なあウェン、あんたと俺と、人殺しって意味ではなんにも変わらないのさ。キリング・ムーンもね」
「俺は──」
 ウェンは怒ったように声を荒げたが、周囲にひびく自分の声におどろいて声をおさえた。
「身を守るためだったし‥‥罪の意識もある」
「それ、エラいのかね」
 サーペントはまたかすかに笑ったようだったが、ウェンにはよくわからなかった。サーペントの声に怒りも嘲りもなかったが、それは奇妙に苦く、痛々しくすら聞こえた。彼らをとりまく暗闇の深さのせいか。
「後悔しているから? 仕方がなかったから? 理由がある人殺しって、ない人殺しより上等か? 理由のために人を殺すほうが余程ひどいように、俺には思えるね。何かと人の命を取引したわけだろう?」
「それは──」
「キリング・ムーンは、人の命なんかどうでもいいことを知っているんだよ」
 物憂げに、だがひややかに、サーペントはウェンの言葉をさえぎった。さえぎられなくとも、ウェンは自分が何を言おうとしていたのかわからなかったが。自己弁護をする必要などあるはずもない。サーペントの言っていることは、別の言語で話されているようだった。
「キリング・ムーンに知能はない‥‥」
「あんたにはわからないだろう。俺がキリング・ムーンを追うのは、あれに惹かれているからだ。何故惹かれるのか、俺は考えないし、あんたには理解できない。人を殺すのと同じでね。俺が人を殺すことに意味はないし、キリング・ムーンを追うことにも意味はない。俺たちは意味なく人を殺すし、意味なく生きのびている。そこに意味を持つのは、あんたたちのような外側の人間だけだ」
「‥‥君は、異常だよ」
 ぽつりと、ウェンがつぶやいた。
「まるで一人で戦場にいるようだ」
 その声の奥に同情を聞いて、サーペントはうんざりと目を細めたが、それ以上は何も言わずにあごをしゃくった。ウェンが溜息をついて、立ち上がる。サーペントの後ろをついて歩き出した。


 ノクトヴィジョンを通して見ても、アンダーウェイはまるで暗い森のようだった。カーボンチューブが入り組んだ外殻のところどころで、熱をもったパイプが火のようにかがやいて見える。
 防災上、アンダーウェイは区画ごとに隔壁で仕切られ、内側は迷路のようになっていた。迷いなく通り抜けるサーペントの後ろから、ウェンが不安げな声をかける。
「どこまで行くんだ」
 サーペントがふっと笑みをうかべた。闇を歩くのが心地よくて、連れがいるのを忘れかかっていた。
「心配しなくてもいい。あんたを殺す気ならもうやってる」
「情報を取ってから殺すかもしれない」
「じゃあ、心配してればいい」
 素っ気ない答えにまた溜息をついて、ウェンは歩きづらいレールの間の溝を歩き続けた。
「彼らといっしょに行ったほうがマシだったかな」
「やつらは、あんたを一寸刻みにしてディスポーザーに放りこむだろうよ。あれは公安の人間だ。後ろには連邦の軍部がいる。連邦の軍人が街に入りこんでいるのは知ってるだろ?」
「‥‥ああ。キリング・ムーンとその秘密をほうむるために」
「そしてそれを嗅ぎ回るジャーナリストをどうにかするために、かも」
 いたずらっぽい口調で言って、サーペントは肩ごしにちらっとウェンを振り向いた。ウェンはくたびれた表情のまま、後ろをついて歩いている。その表情が、ウェンのかぶった仮面だということはわかっていた。サーペントを油断させ、自分に有利に物事を引き込むために。
「ウェン。どこからキリング・ムーンのネタを仕入れた?」
「情報源は死んでも教えられない。君こそ、エリギデル・ミステリーの話を誰から聞いた」
「エリギデルの生き残りから」
「生き残りがいるのか!? 誰だ、会わせてくれ──」
「だーめ。今喧嘩してるんだ、そいつと」
 相変わらず、からかうような口調だった。サーペントが本当のことを言っているのかどうかつかみかね、ウェンが黙る。
 サーペントは同じ口調のまま、
「情報提供者を名指ししろとは言わない。だが、キリング・ムーンを追いはじめたあんたの動きは、異様に早い。はじめの殺人が行われたのが8ヶ月前。あんたはその時、すでにその街にいた。偽名を使って。バーニエス。どうやって、あそこで殺人が起こると知った? キリング・ムーンがあの街に解き放たれると、はじめから知ってたんじゃないのか?」
「‥‥‥」
 ウェンが足をとめる。一瞬ごまかしかかったが、すぐに吐息をついてサーペントを見つめた。
「過去の犯罪を立証し、有罪を明らかにするのに、一番いい方法を知ってるか?」
 サーペントは目をほそめた。にっ、と妖艶な笑みをうかべる。まるで共犯者のように。
「ああ、知っている」
「‥‥‥」
 ウェンは無言のままうなずき返す。ウェンの顔にはひどく暗い決意がみなぎって、サーペントを挑むかのように見つめている。サーペントは身を翻し、またもとの足取りで歩きはじめた。
 それきり何も言わず、2人は暗闇をたどりつづける。ガラガラと遠くで何かが通り抜ける音がひびいたが、彼らの位置からは何も見えなかった。低い駆動音が足の下からつたわってくる。支柱に打込んである発光パネルが淡い誘導の光を放ち、ノクトビジョンを外すと、あたりは薄ぼんやりとして見えた。
 ポタッ、と何かが落ちる音がした。
 水滴のような、澄んだ音を耳にして、ウェンの目が動く。バイザーをかけたが、何もわからない。また外した。
 ポタッ。
 ‥‥ポタッ。
「おい──」
「あんたから聞きたいことは聞いたから。俺の情報をあげよう」
 サーペントは目の前にある空隙をひょいとまたいで、大きなプラットホームのような物の上にとびのった。おっかなびっくり追ったウェンに、あごをしゃくる。
「このあたりに幽霊が出るという噂があってね。昨日、しらべてみたんだ」
「‥‥‥」
 ポタッ───
 頭上のパイプにわずかな亀裂が入っているのか、水が滴っている。小さな水たまりに歩み寄ったウェンの後ろから、サーペントがハンドライトで床を照らした。
 乾いた血が黒くこびりつき、水が滴ってその上を濡らしている。ところどころに服の切れ端のようなものが落ちていた。
 ウェンが息を呑む。
「これは‥‥ここに、キリング・ムーンがいたと言うことか‥‥?」
「その血は62時間程度前に流されたもの。キリング・ムーンの前回の犯行とおおよそ一致するし、複数の人間の血液が混じっている」
 サーペントは肩をすくめた。
 ウェンは床の映像を手持ちの端末におさめ、血をサンプルケースに取る。溜息をついて立ち上がった。
「地底の幽霊が‥‥」
「いや」
 サーペントが首を振る。彼もバイザーを外し、頭上から落ちてくる地下の雨を見上げていた。
「幽霊は、大柄な男だそうだよ。‥‥キリング・ムーンは、少年タイプのレプリカントだと言う話だね」
「どういうことだ?」
「さあ」
 面倒そうに返して、サーペントは歩きだす。ひょいと手を振った。
「地底の幽霊と、新月のレプリカント。新聞記事にするにはちょいと安っぽい。さ、もう地上に戻る時間だ。ついてこないなら置いていくよ」
「‥‥‥」
 歩き去る寸前、ウェンはもう一度血の痕をふりむく。闇に沈む血の上を覆った水が、薄暗がりにぼんやりと光って見えた。


「幽霊、ねえ」
 口の中でひとりごちて、エースは数歩あるき、足をとめる。頭上にかかる複雑な高架橋を見上げた。まるで蜘蛛の巣を下から見たように、入り組んだ立体交差と空橋を透かして遠い空が見える。それはどんよりと濁っている気がしたが、いつもとくらべてどうだかはわからない。夜なら美しい銀河の投影も見えるだろうが。
 片手の端末でネットの書き込みを眺めながら、エースはまた歩きはじめた。
 新月の夜に幽霊が出る、とマーキュリーの走り屋の間で流れる噂を追っているうちに、キリング・ムーンの二つ目の犯行現場近くへ来ていた。最新の現場よりはイルヴェン中央に近いが、夜になれば人通りは少ないだろう。辺縁の工場ベルトと中央を分けるための緩衝地帯で、運輸道路と緑化帯が入り組んだ形で配置されている。
 噂を追うと、幽霊はずっと前からいたらしい。何故「幽霊」と言われるのかは諸説あり、「血まみれでいるのを見た」というのから「半分透けてた」「ぶつぶつと何かの名前を呼びながらさまよっている」「後ろに亡霊がいた」など、色々な噂がある。要するに、あまり生き生きとしているようには見えないらしい。接触報告は、デマと思われる物以外は見当たらない。
 気になるのは、キリング・ムーンがあらわれた三ヶ月前から、いきなり幽霊の出現回数がふえていることだった。しかも新月近辺に限って。幽霊の目撃証言を集めた個人のサイトをいくつか当たり、その中から重複する証言を拾い出して、エースはその目撃現場をたどっていた。
「まさか幽霊探しをすることになるとはな」
 つぶやいて、周囲をぐるりと眺めていると、携帯の呼び出し音が鳴った。エースは一瞬、目をとじる。
 イヤホンを耳に装着すると、受信ボタンを押した。
「はろー」
 と、のんびりした声が流れ出してくる。エースはふっと笑みをこぼして、歩道をゆっくりした足取りで歩き始めた。3日ぶり、か。
「どうした」
「今、何してる?」
「歩いてる」
「馬鹿」
 耳元でののしって、相手は笑った。エースは道端で立ちどまり、緑化帯との間に打たれた杭に腰かけた。
 おだやかな声で説明する。
「幽霊の噂、知ってるか。おもしろいからあれを拾っている」
「ああ‥‥成程ね、やっぱり。アレ、なんだろうね?」
「見当はつけてるが、お前には言えないな。いくら払う」
「くそったれ。──あのさ、お前、セイン・ワートブルって戦場記者知ってる?」
 エースは鋭く目をほそめた。
「ああ。知っている。エリギデルをこっそり追っているという話だった。非公式に接触を求められたことがあるが、会ったことはない。彼がイルヴェンにいるのか」
「バートリューズ・ウェンって名乗ってる」
「お前のオークションの相手だな?」
「そう」
 知られていたことを驚いた風もなく、淡々とした返事が戻ってきた。
「キリング・ムーンの存在を暴露して、エリギデル・ミステリーをスクープするつもりだと言ってる。本気かどうかは知らないが。彼が俺に言ったんだ、"過去の犯罪を立証し、有罪を明らかにするのに、一番いい方法を知ってるか"って」
「‥‥‥」
 エースは目をとじて、長い息を吐き出した。
(有罪を明らかにするのに──)
 一番いい方法、は。
 しばらくの沈黙の後、彼はつぶやくように言った。
「わかった。ありがとう」
「別に」
 ひややかなほどの声が応じる。通話が切られるかと思ったが、それきり沈黙の気配がつづいた。
 エースがたずねる。
「どうした?」
「──俺を呼んで、エース」
 その声はひどく静かなものだった。
 小さく微笑して、エースはそっと呼んだ。
「サーペント」
「‥‥‥」
「サーペント?」
 返事はない。通話は切れていた。
 端末をしまって、エースは立ち上がり、もう一度歩きはじめた。

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