空路を乗り継いで、連邦加盟都市連合の一つ、アーリギェットへ。低圧チューブロードを車で三時間。その間、運転をオートにして仮眠を取り、固形食を流しこんだ。
チューブロードから吐きだされるように地上道へ出ると、荒野のような灰色の風景を二時間走った。地面はところどころ塩を吹いて白く、立ち枯れた木々はまばらな墓標のようだった。土壌改良剤を投入し続ける予算が組めなくなって、もう15年。この地にあった入植計画は立ち消えたままだ。あるいは故意に立ち消えにされている。
低くうなる風が常時地平を這い、エースは運転しながら窓を開けて悲鳴のような風の音を聞いていたが、やがて、まきあがる埃に閉口して窓をしめた。
風力発電の巨大な風車が立ち並ぶ。ゆっくりと回る羽根の下をくぐりぬけ、エースは道を外れて荒野を横切った。風に、ちがう音がまじってくる。ざらざらと、奇妙なほど耳障りな音は段々と近づき、やがてエースが車をとめたのは、高波が打ち寄せる青黒い崖の上だった。黒っぽい海の色を眺め、地図を取りだしてコンパスで位置を計る。GPSではなく、時間と太陽の位置から正確なポイントを割りだした。車のGPSも切ってある。
電子的なデータは信用できない。なにしろエースが今から訪れようとしているのは「地図にない」島だ。そこへ行く船もなく、空路もなく、地図にものらず、一般の衛星写真からもフィルタリングで島全体が消去されている。そんなものが、この世界にはあちこちに散らばっている。ブランクエリア。行き着くことができず、地図にない場所は、存在しないのとまるで変わらない。
情報を消去された出来事や人間が「存在しない」のと同じで。たとえばサーペント。彼はそういう意味ではどこにも「存在した」ことがない。はじめから、世界の隙間で生まれた。世界の幽霊のような存在だ、と、自分で言って笑っていた。
(幽霊──)
あるいは、亡霊。停めた車に擬装用のカバーシートをかけ、後部のラゲッジルームから潜水ユニットを引きだしながら、エースは考えをめぐらせた。遠い眼下、岩に砕ける波はガラスのかけらのようだった。
エースもまた、今や亡霊だった。己の死を偽装して世界から姿をくらました今、生きているはずのない人間。そして彼が行こうとしているのは、地図にない場所だった。
記憶にあるよりめっきり老けこんだように見えた。あれから三年しかたっていないのに、もう10歳は年をとったようだ。目元に深いしわがあり、口の横にきびしい線がくっきりと見えた。一体何が、と思いかかり、エースは気がついた。あの時、すでに幾度もエイジングをくりかえしていたのだろう。この地に引いて、若返りの処理をしなくなったから、素顔があらわにさらけだされたということだ。
白いものがまじる髪と目尻の上がった細いグレーの目、そして静かな物腰からは、彼女が何者かを想像することは難しい。足首までのローブウェアを揺らしながら、ログハウス仕立ての丸太壁の居間へ入ってくると、暖炉の前へ腰をおろし、手にした何かを丁寧に磨きはじめた。
エースは柱の影から姿を見せる。
「ランテリス博士。俺を覚えているか?」
「‥‥大尉」
女は能面のような無表情をエースへ向けた。
「私が亡霊なのか、君が亡霊なのか、どちらだ?」
「おそらく、どちらも正しい。俺もあなたも、世間的には死んでいる人間だ」
苦い笑みが影のようにエースの頬をかすめた。
「連邦の保護プログラムがあなたに対して行われていたとはな。──あなたを‘殺した’のは俺だと思ったが」
「記憶を取り戻したのか。どこまで?」
興味をあらわにたずね返したランテリスに、エースを恐れる雰囲気はなかった。
低い傾斜のついた屋根にとりつけられた天窓の向こうには、塗りつぶされたような闇がひろがっている。エースは物憂げに目をほそめた。
彼女の頭を撃ち抜いた、その瞬間、手の中にあった銃の重さと反動をおぼえている。その殺人の後、エースは記憶処理を受け、誰を殺したのか忘れたまま罰を与えられたのだ。
──だが、記憶は奪われたのではない。与えられたのだった。殺人の記憶こそが刷り込まれた、偽の記憶だった。
エースを殺人者として、この女を隠すために。より深く隠すためにエースに殺人の記憶を刷り込み、さらに記憶処理をかけた。
今や「キリング・ムーン」と呼ばれる戦闘レプリカント──あのメインフレームを設計したのが彼女だった。注意ぶかく情動を除き、意志を奪い、号令のもとに殺戮を行う「兵器」となるように。自分が作り出したレプリカントたちを、彼女は「細胞」と呼んだ。
彼女の名が計画書に出たことはない。その名は秘匿されていた。ランテリスという名すら、レプリカントにかかわるための名であって、本名ではないはずだ。もしかしたらその名を自分は知っているのかもしれないと、エースはかすかに疑っていたが、取り戻した記憶の中にそれはなかった。
「あなたにたどりつける程度には、いろいろなことを思い出した」
「どうやって。ヘタに記憶のブロックを破ろうとすれば死ぬことはわかっていただろう?」
エースは暖炉のかたわらへ歩みより、煉瓦に肘をかけて彼女を見下ろした。
「ニュース記者が俺の部下に接触して、彼の記憶のブロックを破ろうとしたが、デスペナルティの発動で彼は死んだ。‥‥その時の会話記録を専門家に渡して、そこからペナルティの言葉の組みあわせを推測してブロックを外してもらった。自分の中に死のトリガーが仕込まれているなんてぞっとしないからな」
エースは淡々とした口調で言った。その時、死んだ部下とともにいたのがセイン・ワートブル──サーペントが会ったと言う、あの記者だった。
会話記録は、部下自身がワートブルにも知らせず記録していたものだ。それが死の後でエースの手に届くようにして。まるでそれが遺言だとでも言うように。
(奴は、エリギデルでの戦闘の後、ずっと苦しんでいた──)
エースは静かな青い瞳で見下ろしたが、女の視線はそれを受けとめて小揺るぎもしなかった。
「私を処刑でもしに来たか? それとも告発か? 抱きに来たようには見えないな」
「質問がある。何故あのレプリカントをふたたび野に放った?」
「私が?」
笑ったようだった。唇がふるえる。エースは首をふった。
「廃棄したはずだった。残らず。それがキリング・ムーンとしてよみがえった‥‥生き残りを都市に放して追加実験か? 幾人殺せば気が済む? ランテリス、‘亡霊’にくらい正直に話してみてくれないか。神父に懺悔するより少しはマシだろう」
低い声で言ったが、ランテリスは何の表情の変化も見せなかった。エースは、女の目を見たままつづける。
「三年前、セイン・ワートブルがエリギデル・ミステリーを探ろうとして俺にコンタクトを取ろうとした。俺は応じなかった」
応じれば、あの記者は殺されていただろう。軍当局によるエースに対する監視の目はきびしいものだった。
「彼はバートリューズ・ウェンという別名を使っている。二年前、あなたが大学に残してきたレプリカント・フレームの論文に、彼はその名でアクセスしているな。そして11ヶ月前、サリュミノの駅でレンタカーを借りた。──ここへ来るためだったのだろう? あそこからここまで、100キロ程度だ」
「ふむ」
「ワートブルは、あなたがレプリカントのフレーム設計者であることを知り、あなたに会いにきた。そうだろう?」
女は、すいと右の眉を上げた。手にした銀のナイフに薄い砥石をあて、ゆっくりと動かす。
「私がここにいることをお前はどうやって知った、エース?」
「記憶を取り戻して、あなたが死んでいないと確信したからな。死が偽装であるならば、連邦があなたに対して保護プログラムを発動させたのだと思った。あなたのしたこと、あなたの作ったものは、それほどインモラルだった。そこまで気付けば、俺には探す方法がある。一度ならず、証人を‘隠す’のに手を貸したことがあるからな」
「インモラル、か‥‥モラルが私たちに意味を持つとは知らなかったな」
「連邦には、あなたを隠すのではなく消す選択肢もあったはずだ。あなたが生きて口をきいては困る。自分の命を守るために、あなたは保険をかけたんだろ。レプリカントのフレームプログラムと、遺伝子モデルあたりか? 自分の身の安全がたもたれなければ、それらを暴露すると言ったところで。──だから、連邦はあなたをここに保護した」
「遠くはないな。だが、ワートブルとやらが私に会いにきたというお前の話には、問題があるぞ、エース。お前とちがって、あの男が私が生きていることを知るのは難しい。居場所をさぐるのはさらに」
見上げる視線はするどいものだったが、ランテリスの口元には笑みがあった。エイジングを受けず、老いたと言ってもいい素顔をさらしながら、なお艶としたものが目の奥に宿っている。死んだはずの男がいきなり目の前にあらわれても動じもせず、彼女は会話をたのしみはじめているようだった。
エースは淡々とこたえる。
「簡単なことだ、ランテリス。彼があなたを探しだしたんじゃない、あなたが彼を呼んだんだ」
「何故私がそんなことをする?」
「俺は、人の動機には興味がない」
肩をすくめた。ランテリスが喉の奥で擦過音のような笑い声をたてた。
「そうだな、エース。お前は人の心の中には興味がない。人の求めるもののことなど、どうでもいいと思っている。なら、何故聞きに来た? 私が何を望んで何をしようと、興味はないだろう?」
「動機に興味はないが、目的は大きな意味を持つ」
静かな声で、エースはつづけた。暖炉の内側には木を模した精妙なヒーターがしこまれて、火勢の強弱をまねて不安定な熱を放散している。オレンジ色の光が、ランテリスの持つ薄刃にうつりこむのが見えた。トンボの羽のように薄く丁寧に磨き込まれたメスのようなナイフだった。彼女はこれで小さな生き物を解剖するのが趣味だった。愉しみとしてではなく、純粋に、機械の中味を見るように。
「あのレプリカントをふたたび動かした理由は何だ、ランテリス? ──どうやって、‘亡霊’を引きずり出した」
「セイン・ワートブルは、あれの存在が罪だと言った」
ふいにランテリスの瞳の奥にはげしい光がやどったが、抑えた口調はその激情をみごとに隠していた。その声で彼女は、一語一語区切るように丁寧な言葉をつづける。
「罪、結構。彼はその罪を暴くのだと言った。──おもしろい。やれるものならやってみるがいいさ。エース、あの男はな、私が後悔していると思っている。私が何を作ったのか、エリギデルの失敗ではじめて悟り、悔やんでいるのだと。冗談ではない、私ははじめから、自分が何をしているか知っていた。人を殺すために、私は心血を注いでレプリカントのフレームを作ったのだ」
エースは左手で落ちてくる前髪をかきあげながら、黙ってきいていた。セイン・ワートブルが何をどこまで意図していたのかはわからないが、彼はたしかに、ランテリスの中にある何かの引き金を引いたのだ。
「だが連邦の連中は知らなかった。自分たちが何を作っているのか。知らぬまま兵器をつくらせ、その結果を見て、すべてを埋めようとした。‥‥阿呆が」
さらりと罵倒して、ランテリスは首をかるく振った。エースを見上げ、
「そもそもあのレプリカントは都市型にデザインされていたのを知っているか?」
「いや」
「丁度よく戦争がおこったから、戦場でテストしたがな。あれは、都市戦闘のためにつくられたものだ。ならば、一度は都市に放してやるべきだろうさ」
「‥‥」
「私が考えているのは、あれは‘人を殺す’ために作られたということだ。私がそのようにフレームをつくり、そのように発現させた。──ならば、そのように扱ってやらねばなるまい。野生の獣が狩りをするように、あれは人を殺す。それが生きる目的であり、手段だからだ」
彼女の語りは熱をはらんでいたが、強圧的でも狂信的でもなかった。
「再テストへの私の提案に、ラボは同意した。都市戦闘におけるデータをとるためにな。それで彼らは、停止コードの再刷り込みを行った上で、レプリカントを都市に放った」
「‥‥何故、エリギデルから回収したものを使った。戦場での‘暴走’で、あれのマインドフレームが壊れたことはわかっていたはずだろう。上から再刷り込みをしたところで、服従するはずもない」
エースは吐息をつく。暴走。服従するべき「人形」の。エリギデル・フィールドでの惨状が目の奥によみがえって、頭の芯が痛んだ。あの地でレプリカントたちは次々と狂い、暴走した。服従するべき命令のすべてを受け付けず、強制的に停止させられるまで殺戮をつづけた。
あの地でおこったことを、ランテリスは「脳共鳴」だと報告した。レプリカントは同一の遺伝子フレームから作られ、発生している。それゆえに、彼らの間には個体差を超えた「共鳴」現象が起こり、戦場での殺人体験を共有しながら増幅し、ついには行動を制御するはずのマインドフレームを破砕したのだと。
‥‥残ったものは、「本能」。
ランテリスがあかるい笑い声をたてた。
「今暴れているものは、回収したものではないよ。一度も戦場に出していない個体だ。三年前には養体ポッドに入っていた」
「まさか」
エースの表情がこわばった。ランテリスは肩をかるく揺らして、
「そうさ。戦場に出た個体はすべてデータをとった後、廃棄している。今キリング・ムーンと呼ばれているのは、同タイプだが戦闘経験のフィードバックすらされていない、まっさらなはずの個体だよ、エース」
「‥‥脳共鳴か──」
エースが呻くように言う。ランテリスが、出来のいい子供を見る教師のようににっこりした。
彼らにおこった脳共鳴は、空間をはるかに超え、養体ポッドの中のまだ目覚めていない個体にはたらきかけるほど、強いものだったのだ。おそらくは、一体残らず。戦場にいるといないを問わず、殺したと殺さないを問わず、すべての個体があの暴走に感染し、その種を内に持った。
その瞬間に刻みこまれた狂気の萌芽が、「キリング・ムーン」を生んだのだ。
短く目をとじる。痛みのようなものが頭の芯にずきりと脈打った。
擦過音とともに、エースはすばやく身をひねった。頬をランテリスの放ったナイフがかすめる。背後でそれが壁に当たる音を聞きながら、エースはランテリスを見下ろして立っていた。
この家に仕掛けられているすべての防御装置は、すでに解除されている。それはランテリスもすでに知っているはずだった。
「エース、お前は人の動機に興味はないと言った」
ランテリスは立ち上がろうともせず、両手をだらりと床に垂らしたまま、エースをにらみつけるようにしていた。
「だが、お前の動機は何だ? キリング・ムーンを追い、何をする気だ?」
エースは無言のまま静かに歩み寄る。ランテリスが小さく指を曲げるのが見えた。銀のふさでふちどられたローブの袖の影に、細いものの形がうかがえた。
「私を断罪できるのか、お前が? お前もまた、共犯者だったくせに──」
囁くような声を聞きながらエースは右手を振り、飛来した二本目のナイフを手の甲で払い落とした。一気に右足を踏み出し、暴れようとする女を前からかかえこみながら短い当て身を入れる。ぐったりとした体を横たえると、アンプルをとりだして無針注射器にセットし、彼女の首に当てた。
たっぷり一昼夜、眠るだけの薬剤を投与すると、エースは立ち上がった。何故だかランテリスを殺す気にはなれなかった。他者を断罪するほどの身ではないし、人を殺すほどの怒りを彼女におぼえることができなかった。
女には甘いんだね、とよく知った声が耳元でからかうような気がする。
首を振ってそれを振り払い、エースは島から脱出するべく歩き出した。