act.2

 ベルベットのようにつややかな夜の闇。星の海のきらびやかさは、安いガラス玉の美しさ。ほとんどの星が、夜空をスクリーンがわりに投影されたまやかしのミルキーウェイ。残りのわずかな星は、宇宙できらめく「氷の眼」と呼ばれる小衛星と、まだ輝きを残したまま漂う宇宙ゴミ。
 見下ろせば、眼下は砕いたような光の夜景。ビルをかけのぼってくる強い風に金の髪を散らして、サーペントは喉をそらせた。淡く色づいた唇から澄んだ笑い声をたてる。
「ダイヴには最っ高の夜、素敵なお膳立て! うらやましい! ほーら」
「ひぃっ」
 ポンと肩を叩かれ、泣きだしそうな声を上げた男は、ビル外殻にはしる細いチューブにしがみついた。黒いタキシードの上着がはがされてタイもとうに失せている。その姿で、彼はわずかに壁からせりだしたトラスのでっぱりに立っていた。
 足の下は遠く遠く高度300メートルの夜景。空架のチューブロードが虹のような円弧を描いて交錯し、半透明の壁を通して車のライトが流れていく。血管を血が流れてゆくように。
 この高みから見下ろすと、光る生物が無数にうごめきながら、都市のあちこちを這い回って愛撫しているかのようだった。
 サーペントも男と同じ、10センチもない張り出し部に立って、平然と壁に背をもたせかけている。上に着ていたロングジャケットを捨てたばかりなので、シンプルな白いシャツ姿。淡くかすむようなラベンダーの色の瞳はかすかに細められ、白く華奢な貌に少女のような脆い微笑をうかべ、彼はまた夜空を見た。
 左側にガタガタふるえる男を立たせ、右手は今こじあけてきた窓の手すりにのっている。が、つかむほどの力は入っていない。長い金の髪はひと括りに首の後ろで結んだだけで、その先は夜風に散り乱れていた。
「実にロマンティック。夜風に吹かれて夜景を見下ろして、上には満天の星。ねェ、ちょっといい気分にもなろうってもんさダーリン」
 左手、ほそくしなやかな指が中に踊って、男の首すじをからみつくように弄った。男ははっきりと身をすくめたが、逆らって落とされるのが恐ろしく、何も抵抗できない。肌の上を蜘蛛が這うような感触に耐えながら、呻いた。
「私は‥‥トレーサーを飲んでいる。誘拐しても無駄だ‥‥」
「うん」
 緊張してこわばった肌へおもしろがって指をはしらせながら、サーペントはふとどこかで聞いたピアノのメロディを指に重ね合わせてみる。悪くない。不協和音を叩いて、笑った。
「知ってるよ。血に融けて24時間もつやつだろ。そーゆーの、何とかする手があるの、知ってる?」
「何──」
 サーペントが右手を手すりから離し、男の首にからませた左手に力をこめてとらえると、しなやかな身を寄せた。顔を近づける。高度300メートルの夜風が激しく髪を乱し、頬と唇にからんでいる。美しい貌にただ優しいだけの微笑を浮かべて、彼は男の眸を間近にのぞきこんだ。息がふれるほど近く。
 恐怖と──欲望を、男の目と荒い息にかぎとる。その二つはないまぜに、どろどろと融けあって身の内へ熱をたぎらせる。暗い熱だ。体の芯をあやしく揺さぶりあげるような。
 ふふ、と笑った。他者の欲望と恐怖を、サーペントはこの上なく甘美に味わいながら、笑ったままの唇を男へ重ねた。男が目を見開く。しのびいれた舌先でなぶると、すぐに男は屈服したように口をひらき、サーペントの舌は貪欲に男の口腔をなぶった。
 恐怖と欲望はどちらも人を高揚させ、自分が知らぬ顔を引きずり出し、打ちのめし、もてあそぶ。すべてを受け入れれば新しい地平が見えるのに、人は大抵ためらって、立ちすくむ。
 恐怖と、欲望と──
(絶望と)
 口内をねぶって舌をからめると、男はふいに思いもかけぬ強さで応じてきた。こたえて強く口を吸いながら、サーペントは奥歯で円筒形のジェルケースを割り、同時にそれを男の口の中へ押し入れる。すばやく口を離し、割れたケースから滴る液を夜の闇へ吐き捨てた。左手は男の口を覆うようにふさぎ、わけもわからず凍りついている男の首元へからむような舌を這わせる。
「──飲んで」
「‥‥」
 ごくり、と喉が鳴った音がきこえた。欲望と恐怖にくらんで正常な判断ができていない。サーペントの顔に笑みが浮かぶ。教えてやりたい。そして味わいたい。今、この男は自分の手で──いや舌で、自分の死神を招き入れたのだと。その絶望を味わってみたいと心が熱をおびたが、それは契約で禁じられていた。
 仕方ない、仕事だ。その禁忌を破って味わいたいほどの快楽でもない。
(快楽はいくらでも別の方法がある‥‥)
 笑いながら右手を宙へさしあげ、ひらめくように一回ふる。待つほどもなく耳のピアスがかすかな振動をつたえた。
 はっ、さすが。
 こみあげてくる笑いに体を揺らした時、頭上で荒々しい気配がわいた。ガードがやっと、パーティ会場から消えたガード対象へ追いついてきたのだ。
 無音の衝撃が体を打った。サーペントは身を投げ出すように虚空へ倒れる。体を支えるものもなく、高層ビルを巻いた夜風が猛烈な勢いで全身を叩いた。石のように落下しながら、彼は甲高い笑いを上げる。まなざしの先は、遠くうすっぺらいフェイクのミルキーウェイ。何て安っぽい銀河。なのに美しい──
 何かにとらえられた感触が身を包み、次の瞬間、彼の体は硬いシートへ落下してはずんだ。
「痛っ、へたくそ!」
「言ってろよ」
 低い声が前から返す。サーペントは狭い後部座席にひっくりかえったまま、くすくす笑った。
「怒ってるね、エース?」
 少しだけろれつがあやしい。今、あびた対人衝撃波のせいだ。身につけていた対ショックフィールドが発動して相殺したとは言え、余波をくらっている。
「あきれてるんだ!」
 撃たれて──いや「撃たれたふりで」虚空を落ちていくサーペントの体を猛スピードのエアウィングにすくいあげた男は、操縦桿を握りながら押し殺した声で怒鳴った。ヘッドセットをつけているため、濃い金の髪ときびしい口元以外に顔は見えない。手をのばして力場発生装置を切り、操縦桿をひねると機体はビルの壁をこするようにかすめた。追ってくるエアポリスの空域機動隊が減速して距離が一瞬ひらく。
「すぐ離脱するって言ったろうが! お前、それを長々と──」
「あんまり星が綺麗だからさ」
 副操縦のヘッドセットを取って、サーペントは頭にすっぽりとかぶった。もっともエースにナビゲーションが必要ないことはわかっている。かつて20歳にして連邦空隊遊撃軍で撃墜レコードを叩き出した男は、他者のナビなど必要としない。知っていてヘッドセットをかぶったのは、ゴーグルの内側に相手が見ているのと同じ、多重投影の景色を見たかったからだった。
 幾多の情報が重ね合わせに映し出される、三次元ディスプレイ。焦点を合わせればそれぞれのレベルの情報がくっきりと浮かんでくるが、無数の数字とベクトルの重ね合わせが刻々とうつりかわってゆくそれは、まるで知らぬ世界の言語のようにも見える。それが愉しい。そして、そのすべてをいともたやすく制覇するエース。こんな解析前のレベルの多層情報をゴーグルに投影させるのは、彼だけだ。その方が早いと彼は言う。
 図かただの線かもわからない連なりめがけて下降し、エースはエアブレーキをかけた。機体をビルの谷間の上昇気流で回して、狭いエアチューブの切れ目へほとんど縦に突入させる。同時に逆噴射で機体を水平に戻して、機体はエアチューブの中を猛スピードですべりだした。
 エアウィングのコクピットの上半分がチューブ突入時に砕け散ってふりそそいだが、エースもサーペントも平然として声一つ上げない。なだれこむ風が息をさらう中、エースは固定ベルトを体から外し、サーペントはヘッドセットを投げ捨てた。エースはまだ大きめのゴーグルをかけたまま、彼はサーペントをふりむいて手をのばした。
 サーペントの手がそれをつかむ。もう麻痺はあとかたもなく体から引いている。エースの指に力がこもり、二人はそれを合図に時速120マイルですべるエアウィングから体を躍らせた。
 エースの右手からとんだワイヤーの先端が、背後から走ってきた無人操縦の車の座席へまきついた。それを宙でぐいと引き、二人の体は車内へあざやかに落ちる。次の瞬間、ルーフがとじて彼らを隠した。
 すでにルートを登録してあるエアウィングは速度をあげて飛び去り、車内にはサーペントのクスクス笑いがひびいた。
「チューブの中まで追っかける根性のあるエアポリスはいないかぁ。ざーんねん」
「奴らのユニットは翼の全長がこのチューブの幅より広い」
 エースは素っ気無く答えた。そのためにエアウィングを改造したのだ。安いものではないが、もともと人のものを「借りて」──もちろん無断で──いるので、使い捨てでも一向にかまわない。
 胸元から薄い通信パネルを取り出し、手のひらへつつみこめそうに小さい三つ折りのそれをひらくと通信文をおくった。
 ──終了。キィを渡す。
 続けて、十五桁の数字とアルファベットを流す。これがキィ。あらかじめ渡してあるアルゴリズムでこれを変換した波長とIDが、「爆弾」を発動させる鍵だった。
 サーペントがあの男へ呑ませた液状爆弾。あとは、依頼主が、24時間以内に好きな時を見計らってこの波長を流せば、あの男は周囲10メートルを粉々に破砕する人間爆弾と化す。あるいはそれをネタにして金をゆするか。どちらにせよ、結果には興味がなかった。
「ふふっ」
 と、サーペントが笑う。ちらっと視線をながし、通信を終えてすべてを消去した通信パネルを車の外へ放り出して、エースはレバーを握った。車を操ってチューブの分岐へ入り、ふたたび同じ手段で車を乗り移る。計画通りなら、これが最後の移動。後は、このまま街を抜ける。おそらくチューブの出口には検問があるだろうが、どうでもよかった。
 あのエアウィングは、検問の停止電波を受けると爆発するようにセットしてある。死体がないことを確認するには少しばかりかかるだろう。
 小さく息をつき、エースはやっとゴーグルを外した。深海のようにするどく青い瞳が下からあらわれる。強靱な意志のやどる、厳しいほどに勁い輪郭の顔でまっすぐにサーペントを見つめた。
 二人乗り用の車だ。どちらが運転席というわけでもない──たいていはオートで走るし、その気になればどちらでも運転はできる。オートで走る静かな車内で、サーペントは小さく何かを口ずさみながら、ピアノを弾くように右手指をゆらしていた。
 その眸が、ちらっとエースを見る。また無言で、白い喉をそらせるように笑い、髪をくくっていたバンドをはずした。淡い金髪がゆっくりと肩から背へながれおちる。
 エースも無言のまま身をかたむけ、サーペントの肩をつかむと引き寄せた華奢な体を強く抱きしめた。激しく唇を重ねる。
 強く、飢えたキスに、だがサーペントは冷たいほど穏やかに応じた。かすかに開いた口からエースの舌を受け入れ、むさぼろうとする舌をゆるやかにはぐらかす。そのくせエースの首すじにからんだ指先はひどく淫靡だった。
 長いくちづけのすえに、唇がはなれる。自分をのぞきこんで離さない、青い目。強く、骨までもからめとろうとするかのようなまなざし。エースの目を見上げながら、サーペントは嘲笑うように囁いた。
「俺が欲しい、エース?」
 首すじを、細くしなやかな指がはい、エースの金髪のうちへ忍び入ってやわらかにまさぐった。
 エースは笑みをかえした。囁く。
「愛してるよ」
「そんなこと、聞いてない」
「ああ、そうだな‥‥」
 ゆっくりとサーペントの体へ回した手を抱き直し、白い襟からのぞく首すじへ顔をうずめた。細い躰、細い頸。あれほどに凶暴な意思が宿っているとは信じられないほどに。ボタンを外し、鎖骨から耳までのラインへ舌と歯をはわせると、サーペントの体がはっきりとゆらいだ。執拗な動きを幾度かくりかえし、耳朶を熱い舌でもてあそびながら、エースは低く囁いた。
「欲しいよ。お前が欲しくなかったことなんか、ないね」
「‥‥妬いた?」
「あの男に? つまらんことを考えるな、お前も‥‥ふざけるにしても時と相手を選べよ」
「死んでくヤツとするのって、ちょっとゾクゾクするよね」
「ボランティアの気があるなんて、知らなかったな」
 からかうように言いながら逆の首すじへ唇を押しあて、夜風に冷えた白い肌へくちづけの熱をうつす。エースのキスはいつも熱い。その熱が肌へしみこみ、体の芯に強い愉悦の波が立った。
 狭い座席で引かれるまま、サーペントはエースへぴたりと重なるように身をあずけた。左脚がエースの足の間へ入りこんでかすかに足先をからめる。エースの手は服の上からゆっくりと背をなであげ、背骨のラインを優しくなぞった。のぼってゆく軽い刺激に熱っぽいため息を洩らし、サーペントはエースの髪の内へ唇をおとす。首を愛撫する男の頭を左腕でかかえこんだ。
 カリ、と鎖骨の上を噛まれた。
「あ‥‥」
 小さな呻きが唇からこぼれる。熱いくせに、じれったいほど優しくて緩慢な愛撫に、肌はひどく敏感になっている。一瞬の強い刺激が身の内を甘くはしった。
 だがその唇は、もうやわらかにほかのところを愛している。濡れた舌が肩口を這い、指先が髪を乱して首すじをなぞりあげる。かすかに爪を立てた。指を裏に返し、爪のひややかな感触がゆっくりとサーペントの膚を擦ってゆく。
「ふっ‥‥」
 ぞくりとのぼってきた息をつめ、サーペントはゆるく頭を振って、左手を男のうなじへおとした。しなやかな指を強い首すじにからませて、膚をまさぐりながらあごの下へすべりこませる。指先に血の脈をさぐりあてた。コトコトと脈打つリズム。常より乱れて、早い。欲望が血を乱している。その熱さを感じ取って口の中が乾いた。
 この肌を引き裂いて、熱い血にじかにふれてみたい──そんな欲望に強くかられた瞬間、手首がぐいとつかまれて指先はエースの肌をすべり、エースの青い目が笑うように彼をのぞきこんでいた。
 何も言わず、二人は唇を寄せる。はじめは甘く、味わうように。やがてからめた舌が互いの口元を濡らすと、むさぼるように激しく求めた。挑みかかるようなサーペントの唇と舌を受けとめて、エースの舌は巧みにサーペントの口腔へしのびこみ、舌先でサーペントの歯裏を強くなぞりあげた。
 背に回された手がシャツの上から肌をつよく乱す。サーペントは睫毛を伏せてエースのくちづけに身をゆだねた。甘く、激しい。唇からひろがってゆく熱をもっと味わおうと口をあける。応えてもたらされた強いキスは長く甘美で、全身がとろけるようにしびれた。
「んっ‥‥」
 快感に流された呻きを洩らしながら、右手を腰のベルトへ回した。
 唇がはなれ、エースは腕の中で陶然とあおのいたサーペントを見下ろした。白い肌がうっすらと紅みをおび、乱れたクリームブロンドが濡れた口元へひとすじもつれている。その髪を指先で払ってやると、金の睫毛が上がり、ぼんやりと熱に浮かされた淡いラベンダーの瞳がエースを見上げた。
 端麗というにも脆い、かげりを漂わせた美しい貌がそうして愉悦に漂っているさまはとてつもなく淫靡で、エースは心臓をじかにつかまれたような気がする。
 それを見透かしたように、サーペントは目をほそめ、あやしい微笑をうかべた。
「後にする? それとも素早くしちゃう? 俺は両方でもいいけど」
 左手がそろりとエースの太腿をなであげる。エースは苦笑して、指の腹でサーペントの濡れた唇をぬぐった。
「相手が待ってくれるとは限らんぞ」
「そこがいいんじゃないか。刺激的ぃ」
 だが、そう言いながらもベルトの後ろから細いワイヤーの束を引きだし、サーペントは狭い車内で器用に身を回して自分の席へ戻る。エースが手をのばし、肩まではだけたシャツの襟元を直してやった。逆の手は車のコンソールにはしり、行く先を変更する。
 サーペントが薄いゴム状の手袋を左手にはめ、指に一つ一つリングを通した。リングはそれぞれワイヤーにつながっている。黒く塗られた超鋼のワイヤーを見ながら、たのしそうに呟いた。
「チューブの中で仕掛けてくるかな?」
「ふつうに考えりゃ、降りる時だろうがな」
「ふつーかどーか。──レイク・サムの差し金かな」
 今回の依頼人の名を言う声は笑っていたが、その底にぞっとするような冷たさが流れていた。エースは無言で肩をすくめる。サーペントは同じ声でくすくす笑った。
「口封じねェ。そんなに後金払うのがイヤなのかな?」
 そうは言ったが、あまり本気の口調ではない。金だけが問題ではないだろうとはエースも感じていたが、あまり深入りしたくない問題ではあった。最初からこの仕事は気のりではない。そもそもサーペントが「退屈しのぎ」と言って勝手にはじめた仕事である。
 ──勝手にやれよ、と言ってやりたいところではあるが。
 小さなため息を口の中で殺した。勝手にやれといえばサーペントは勝手にやるだろう。そんな無茶苦茶を放っておくことなどできるわけがなかった。
 チューブの中は薄膜に仕切られて、すれちがう対向車が淡く見える。半透明のチューブの隔壁は車の角度が変わるたび、遠い夜景の輝きをぼんやりと透かした。銀河は見えない。
「エース」
 呼ばれて横を向くと、サーペントがやわらかく唇にキスをした。熱はない、だが冷たくもない、やさしいだけのキス。一瞬で顔を離して、サーペントは囁いた。
「好きだよ」
「──」
 馬鹿、と言おうとしたが言えなかった。どうせ口に出す「気持ち」など嘘ばかりだとわかっていても、心の深奥がドキリと脈打つ。
 サーペントにとっては恋も快楽も「ゲーム」だ。彼はすべてをもてあそぼうとする。
 そうやって、心の奥にある何かをはぐらかす‥‥
 肌だけを重ねて。嘘ばかりつらねて。微笑だけを見せて。
 その奥を、人にも自分にもつかませまいとする。


 ピアスからつたわる電気信号のリズムが変わった。ロックオンされていたことを伝える微弱な雑音の、間隔がせばまりだしている。
 ‥‥近づいてくる。エースとサーペントは目を見交わした。
 サーペントは座席の後ろから黒い上着をひっぱりだした。白いシャツをすばやく脱ぎ捨てる。下には体にはりつくようなぴたりとしたフィルム状の衝撃吸収服をまとっていた。躰は華奢に見えるが、細く強靱な筋肉がしなやかな全身に無駄なくついている。
 サーペントが黒い上を着ている間、エースも後部のラゲッジスペースから取っ手のついた板を引きずり上げた。座席の背をたたんだスペースで、手際よくそれをひろげていく。折りたたまれていたボードがひろがると二つに分離し、それはゆるやかな半月状の〈マーキュリー〉になった。
 マーキュリーは、推進エンジンがボード内に格納されたフリーボードの一種で、先端にあるハンドルを持って前かがみになって操縦する。エンジンは蓄電池と自己発電のサイクルが組まれていて、タイヤが大きめなこのタイプだと時速70マイル近く出る。もっとも、改造してあるこの二つのマーキュリーは瞬間的には120マイルは出せるが、体重移動だけで操るこのボードをその速度で扱うのは困難。と言うより不可能に近かった。
「次のコネクターで」
 エースがサーペントの分のマーキュリーを渡す。サーペントがうなずいて、フルフェイスのメットをかぶった。髪はたくしあげてメットの中へおさめられ、左手からは凶悪なワイヤーが蜘蛛の糸のように垂れていた。
「殺す? 聞きだす?」
「相手による」
「じゃ、殺っちゃうよ」
 どうでもよさそうに言った。エースはうなずく。どうせ人の言うことなど聞かないし、こう言ったからかならず相手の命を取るとも限らない。遊びに夢中になるかどうかは、サーペントのその時の気分次第だ。
 それにエースも、相手の命のことなどどうでもよかった。「相手による」とは言ったが、おそらく大した相手でもないだろうし、とらえて詰問したところで情報が取れるとも思わない。兵隊に情報は持たせないのが戦いの基本だ。
 エースが気にしているのはサーペントのことだけだった。今日はどうも様子がおかしい。高揚しているのか何か隠しているのか、機嫌がねじれているだけなのか、よくわからなかった。目も息も脈にも、ラリっている気配はないから、しらふはしらふのはずだが。
 サーペントが機嫌のいい声でたずねた。
「チャフは?」
「3秒で5発、10秒で2発」
「7秒でいこうよ?」
「了解」
 手袋をはめた右手を上げ、エースはサーペントへ小型の卵形カプセルを放る。チャフ──電磁妨害の金属粒子をまきちらす破裂弾。受けとめたサーペントへ、彼はメットの下から強いまなざしを送った。
「深入りするな」
「俺にご命令?」
 首をのけぞらせて笑うと、サーペントは車のルーフを蹴上げた。はじける音とともに渦巻く風が車内へなだれこむ。メットの口元にしこまれた酸素チューブをくわえて息を確保し、二人は同時にマーキュリーを持ち上げてそれぞれルーフの左右から身をのりだした。車の側面へボードを押し付けてタイミングをはかると、三つ目の呼吸で車から身を躍らせる。
 宙でマーキュリーのエンジンを始動させた。着地の衝動ではねあがるマーキュリーの反動を巧みに流し、エースはのばした左手でボード先端のハンドルを握る。左膝をボードへ落とし、右手で足のそばのハンドルをつかんで伏せるようにボードへかぶさった。
 視界のすみで、サーペントが同じ体勢を取っているのが見えた。背なのラインが緊張にぴんとはりつめ、たぎる何かを押さえこんで疾走する。まるで優雅な肉食獣のように。
 二人はボードをほとんど並べ、車の後ろへ同じスピードでついた。車のラインをトレースして走るボードを激しい風が叩くように吹き抜ける。むきだしの身一つで時速100マイルを疾走する、ギリギリのエッジにいる感覚がエースの身をつつんだ。伏せた体の真下を路面が猛烈なスピードで流れていく。身の内がとぎすまされ、瞬間瞬間のすべてを感じとろうと、心がするどく静まりかえる。
 風の音やエンジンの音、靴裏からボードを通してつたわる路面の感触の一つ一つ、ピアスからつたわる振動。どこからか、彼らを見張る電子のまなざし。
 ‥‥サーペントがひらりと手を振った。ともに昂揚をわかちあい、冷ややかにといだ意識の下で熱く酔いながら、ナイフのような一瞬を二人は心の底から愉しむ。エースは小さく笑った。同類なのだ、所詮。
 ボード先端のハンドルを握った左手で体を安定させ、右手で腰の後ろをさぐった。ベルトに固定してあったハンドガンを引き抜く。車とボードはスピードを落とし、弧を描くゆるい右カーブへ突入していた。体が遠心力にふられそうになるのを身を低くして流し、右手をのばすとエースはほとんど狙いをつけずに引き金を絞った。反動を肘から肩へたくみに逃がす。立て続けに三発を撃ちこんだ。
 隔道の30メートル先、半透明の壁にしこまれた熱センサーの周囲へ弾丸は命中した。カプセルを硬化ゲルでつつんだ特殊弾は、衝撃に砕け、カプセル内の粘つく液体がとびちってセンサーを覆う。空気と反応して強い熱を出した。次の瞬間、二人のボードはセンサーのすぐ脇を駆け抜ける。
 甲高い非常ベルが彼らの背を叩いた。熱を検知したセンサーから緊急信号が発信され、チューブロード内の車のスピードが制限される。強制減速をはじめた車が目の前にせまった。あざやかにルートを変えて車体を避け、二人の乗ったマーキュリーボードは加速して次のコーナーへ突入した。マーキュリーは車用の誘導電波を受け付けない。
 コネクタポイントがせまってきた。三本のチューブロードがぐるりと円弧を描いて交錯し、乗り入れを行う空架ジャンクション。緊急避難用の退避スペースの上部隔壁が開き、風がなだれこんでいた。チューブ内の火災では、炎より熱や煙がこもる方が恐ろしい。そのため、あたりのすべての車の退避確認が取れるまで、一時的に隔壁を開ける。ここから消火剤を流しこむこともある。
 サーペントが身をかたむけ、マーキュリーはぐんと加速した。一時的に限界まで上げたスピードで、二人のボードはチューブロードの弧を描く壁をかけのぼる。その勢いのまま、マーキュリーは夜の闇へとびだした。

Nextボタン Backボタン Novelボタン