act.14

 幽霊の話をしようか、とサーペントは言った。


 幽霊の話をしようか、フェリカ。
 生きたまま幽霊になった男の話だ。生きたまま実体を失う──お前の逆だな。お前は体を失うことが出来ずにしがみついて、心をなくしていっている。お前が死んだら幽霊になるか? 幽霊になっても、お前は記憶を失いつづけるのだろうかね。
 この男は、この街に来て幽霊になった。でもそのずっと前から、彼は顔を失っていた。今の彼の顔は自分の顔ではない。お前の体が、自分の体ではないように。


 バルデウス・ケージを知ってるか?
 海上のメガフロートにつくられた重罪犯専用の刑務所だ。13年前につくられて、去年、廃止された。あの刑務所の責任者は今、人権法廷で裁かれようとしている。通り一遍の罪状の向こうにある犯罪があかるみになることは、決してないだろうが。
 あそこはただの刑務所ではなく、矯正用の実験施設でもあった。お前ならわかるだろう、フェリカ。バルデウスは〈実験場〉だったのさ。人がお前の体と心を使って実験したように、バルデウスでは誰かがウジ虫をいじりまわすように犯罪者をもてあそんでいた。ほとんどが、二度とバルデウスから解放されることのない永久懲役犯だ。いいモルモットさ。
 「リセット」と「再刷込」。効率の良い洗脳。集団をより冷酷に扱うための実験。犯罪者からいかにアイデンティティを奪うか。そんなことをバルデウスでは研究していた。そのために、バルデウスでは人から「顔」を奪った。
 看守は全員顔を覆うマスクを装着し、声もボイスチェンジャーで同じ声にした。次の段階では、ある一棟の囚人全員から「名前」と「顔」を奪った。囚人はその日限りのIDが毎日与えられ、その番号で呼んだ。毎日、呼び名が変わる。囚人同士でも、ID以外の呼び名で互いを区別することを禁止した。そうやって「名前」が表すアイデンティティを奪う。
 次に奪われたのは、「顔」だ。マスク? そんなものではない。文字通り、「奪った」。人の頭部から顔をはがし、プロトタイプとして同じ型から作った別の「顔」を一律にかぶせた。基礎となる骨格は一人ずつ固有のものであるから、同じ顔をかぶせられても同じ顔にはならないが、あれは他者にとってのアイデンティティを失わせるのだけが目的ではなかった。
 囚人の房と通路に、彼らは大きな鏡を据えた。「顔」を常に見せるために。鏡に写る姿は他人の相似形であって、己のあるべき姿ではない。似通った顔だけが存在する小さな空間に、こうして名前と顔を奪われた人間だけが押し込められた。
 そうやって、人に、自分が誰であったのか忘れさせていく。日々、罪だけを教えこみ、罪を悔やむことだけを強いる。
 バルデウスでは、そんなことが日々行われていたんだよ。
 「幽霊」は、たぶん、そこで生まれた──


 煙草の煙。かすかに甘い。吸いこむと喉にかかる。
 そう、サーペントは多分、銘柄を変えた。くちづけに違う香りをかぐのが、煙草のせいなのかどうかはわからないが。
 彼が時おりにしか語らない、あの男のせいだろうか? ただ一人、サーペントが彼のことを語る時は無防備な表情を見せる、あの奇妙な男──
 その名前も今は、あいまいになる。思い出せない。もがく。もがけない。手足が押さえつけられている。


 名と顔を奪う。
 人はね、フェリカ。それだけで己が誰であったのか不確かになるんだよ。人間というのは、意外と、「名前」で出来ているものなのかもしれないね。
 ‥‥幽霊は、誰にもその名を呼ばれずにただ在るだけで、どうやって「己」を確認するのだろうね? そこに「在る」という、ただそれだけでは、人は人として存在することはできない。人間というのはね、フェリカ。他人がいないと、誰かが名を呼んでくれないと、そこに存在することはできない生き物だ。愛でもいい、憎しみでもいい。誰かが心を向けてくれないと、その人間は存在していないのと同じだ。他者にとっても、自分にとっても。
 そんな人間から、名を奪い、顔を奪うのは、個体として他人から認識されるすべを奪うという目的があった。互いに互いを人として認識させない。個体の識別を不可能にして、人を人から切り離す。自分自身からも。
 そうやって、バルデウス・ケージは「人間」を破壊した。
 バルデウスは今はもうない。その存在を暴かれ、行われていたおぞましい実験を──その一部だけだが──明るみに出されて、解体された。8ヶ月前のことだ。
 だがバルデウスが陥ちた時、「幽霊」はそこにはいなかった。幽霊は、ここイルヴェンにいた。
 イルヴェンがゾアルによって経営されているのは知ってるね? 都市経営を母体とする巨大な特殊企業だ。あまり知られていないことだが、バルデウスの出資者の一人はゾアルだったのさ。勿論、ゾアルだけではない。都市の多くはとらえた犯罪者の処理をもてあましている。バルデウスはどれほど凶悪な犯罪者であっても、それを受け入れて処理してくれる、ありがたい「ゴミ箱」だったのさ。
 ゾアルとバルデウスの関係はそれだけではなかった。ゾアルが経営するこのイルヴェンでは、「人狩り」が公然と行われている。ハンティングにはライセンスが必要だが、ライセンスさえあれば人は娯楽のために人を殺してもかまわない。ライセンス料でいくらイルヴェンがもうけていることかね。金を払ってまで人を殺すというのも、奇妙な話だ。
 ああ‥‥幽霊の話か。
 デス・チェイスは、誰を狩ってもかまわないというわけではない。獲物は指定されている。報酬に惹かれ、己をターゲットとして自ら獲物となる者もいるが、多くはないからね。もっとも高額の獲物はイルヴェンが提供する。犯罪者、特に死刑囚を調達し、その体内にトレーサーとタイマーをセットした毒薬を埋めこみ、都市へ放すんだ。
 ──わかっただろう。その「調達」の元が、バルデウス・ケージだったのさ。囚人をターゲットとして放し、ゲームとしてそれを狩る。一定時間生きのびれば、囚人には何らかの見返りが与えられる、ことになっている。実際はわかったものじゃないが。囚人には選択の余地はないからね。
 イルヴェンにとってバルデウス・ケージは、罪人を受け入れるケージであると同時に、罪人を商品として売っている店のようなものでもあった。恥知らずな話さ。
 ある時、そうやって街に放した男は、ついに戻ってこなかった。ハンターも彼を狩ることはできなかった。トレーサーの信号も失われ、タイムリミットがすぎて、体内で毒のカプセルがはじけた。その筈だった。死亡を宣告し、都市は彼をそれ以上追わなかった。
 だが、彼は死んではいなかった。顔を失い、名を失って。この街で、その男は、幽霊になった‥‥


(アリア──)


 アリア。お前も聞いたろう、フェリカ? あの子供がただ一つ、言える言葉だ。それは、幽霊が呼ぶ名前。
 バルデウス・ケージに、いたんだよ。「アリア」に関る罪人がね。
 アリア=ファスキス。ランダファルという小さな町からさらわれた、13の子供。誘拐され、売りとばされ、臓器を抜かれ、オモチャにされていた。その犯罪にかかわり、彼女をもてあそんだ者たちを、一人ずつ殺していった男がいる。
 アリアの親ではない──直接の親ではね。彼は、アリアへの精子提供者だった。本来ドナーは子の情報を知ることができないが、彼は軍関係の仕事をしていたところから情報を入手し、誰にもそれを告げぬまま、自分の「娘」を遠くから見ていた。DNAのつながりしかない相手が育ってゆくのを、ずっと見ていた。
 彼が復讐の中で殺した人間は、10人近くにのぼった。
 一人ずつたどって、彼がついに「娘」を探し出した時、娘がどんな状態だったのかはわからない。生きてはいたが、それこそが不幸だったのかもしれない。彼がバルデウス・ケージへ送りこまれることとなった大罪は、娘によってもたらされたのだから──彼は、最後にアリアを探しだし、自分の手で娘を殺した。


(アリア)


 バルデウスは人を壊す。人の名を奪い、記憶を奪い、罪だけを残す。
 彼はもう、自分の名などおぼえていないのかもしれない。アリアが自分にとって何であったのかさえ。殺したことはおぼえているのかな? 名を呼んで、アリアを探しているのかもしれない。それともただ、人であった時の悪夢のかけらを大切にかかえているだけなのかもしれないね。
 奪われて、削がれて、そうやって彼はこの街で幽霊となった。


「キリング・ムーンは何故イルヴェンにとどまったのか‥‥それはね、この街に幽霊がいたからさ」
 サーペントは短くなった煙草を灰皿ですりつぶす。
「空虚だけをかかえた存在に出会って、立ち止まってしまった。幽霊とレプリカント。おもしろい〈対〉だ。どちらも生きているようで、生きていない。フェリカ、もしキリング・ムーンがお前に出会っていれば、あれはお前の〈対〉になったかもしれないね」
 小さく笑った。
「お前には、余分がありすぎるから駄目かぁ。幽霊になるには、執着がありすぎる」
「‥‥あの夜」
 声はかすれている。口元にかぶせられたマスクの中でくぐもって、自分でも聞き取れないほどだったが、サーペントは聞こえたようだった。顔に落ちる前髪を指先で耳のうしろへ回し、彼はフェリカの上へ身をかぶせるようにすると、上半身を抱きおこした。壁にもたせかけ、フェリカの口にテープでとめてあった酸素の吸入マスクをはがした。
「やあ。もう目が覚めないかと思ったよ、フェリカ。お前は人に同調するのはもうやめたほうがいい。次はきっと戻ってこれない。自分の体に同調を戻せなくなったら、今度こそ、お前が幽霊になる」
 まるで本気で同情しているような声だった。フェリカは口元を曲げて笑みのようなものをつくる。うまくいったかどうかわからない。筋肉がふるえて小さな痙攣をおこした。体の感覚が少しずつ失われてゆく。どこまで「自分」でいつづけられるのか、彼にはわからない。どこまで削りおとされ、どこまで失っても、人は人でいられるのだろう?
 サーペントにはわからないだろう。彼は失うことを恐れたりはしない。手に入れることを恐れたりもしない。なにかを天秤にかけたりもしない。奪うことにもためらいはないし、失ったものを追ったりもしない。
「‥‥俺が、死んでも‥‥」
 お前は嘆かないのだろうな。
 呟きかけて、声を途切らせた。当たり前だ。誰かが死んでサーペントが嘆いているところなど見たことがない。だが自分が死んだ時、わずかでもサーペントの中に波紋が立つのかどうか、それがわからなかった。
 サーペントが微笑する。ととのった唇がゆるい弧を描き、澄んだラベンダーの瞳でまっすぐに彼をのぞきこみながら、優しい声で囁いた。
「お前が死んだら、泣いてやるよ」
(嘘つきめ‥‥)
 フェリカは体を揺らした。笑おうとしたが、笑えない。視界は半分以上くもっている。車の天井がかすかに見えた。揺れは感じない。どこかに停まっているのか、それとも感じ取れないだけなのか。それ以上は見えなかった。神経から脳へうまく情報を渡すことができない。精神と体が決定的にずれているのがわかった。その感覚はフェリカにとって決して新しいものではなかった
 生まれてからずっと、肉体になじむことができなかった。生きるために、必死に体と心を同調させてきた。同調能力は、彼が肉体と精神を乖離させずに生きていくための最低限の能力であって、他者への同調は単なる余分だった。
 能力が失われつつあるから自分が死ぬのか、死に瀕しているから能力が失われていくのか。どうでもいいことだ。今はただ疲れ切っていて、ただ、ぽっかりと体の内側に空虚を感じた。ああ、ずっとそうだった。ずっと、自分の体に無数の穴があいていて、風も、温度も、外界のすべてが彼にふれることなく通りすぎていくような思いを抱いていた‥‥
 耳にとどく自分の声はしわがれていた。喉が切り裂かれるように痛む。その痛み自体より、痛みを直接感じ取れない自分の心がおそろしい。
「あの夜‥‥なにが、あった‥‥?」
 サーペントが身じろぐ。遠すぎて、表情が見えない。フェリカの視線からそれに気付いたか、サーペントは体を倒すと、顔に顔を近づけてはっきりとフェリカを見つめた。
「知らないんだ」
 と、彼は淡々とした声で言った。
「お前を見つけただけだ。血まみれのお前と、子供の死体を。何があったのかお前は覚えていないようだった」
「‥‥」
 フェリカはじっとサーペントの目の奥をさぐる。澄んだ淡い瞳の奥には、ただ遠いものを見るまなざしがあるだけで、ほかには何もなかった。感情のかけらもない。冷たさも温かさもそこにはなかった。ただサーペントはフェリカを見つめていた。
「お前は、泣いていた」
 そっと、サーペントは言った。その声にも読み取れるような感情はなかった。
「泣いて俺に、殺してくれとたのんだ。だから俺はお前をそこに置き去りにしたんだよ。ほかには何も知らない。何かに誓ってもいい。そんなことに意味があるならだけど」
「‥‥」
「はじめから、俺は何も知らなかったんだよ、フェリカ」
「‥‥君は、最低だ、サーペント」
「うん」
 温度のない微笑をうかべて、サーペントはフェリカの唇にかすかなキスをする。ほとんどその感触すら感じることができなかった。フェリカは目をとじる。いつも他人にふれられると沸き上がる嫌悪も、今はどこか遠く自分とへだてられていた。今なら他人の肉体にふれることができるかもしれない。だがふれたとして、ほとんど感じ取ることはできないのだろう。自分の体も、他人の体も。
 サーペントがフェリカの背中へ手を回し、フェリカを腕の中へ抱き寄せる。その温度もほとんど感じない。頬を拭われて、フェリカははじめて自分が泣いていることに気付いたが、涙の感触も感じ取れないまま意識は混濁に呑まれた。

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