叩きつけるような夜風が全身を抜けていく。
心の中に快哉を叫び、昂揚に血が沸き立つままサーペントは宙で一転し、マーキュリーの上で体を丸める。重心を右にかけ、まだ宙にあるボードの向きを変えた。動くことよりも、動き出した体をとめることの方が難しい。ぐいと全身の力を足にこめた。
外郭レールにマーキュリーを着地させた瞬間、右手のハンドル内にしこまれたレバーを押した。ボードの裏、タイヤの内側に小さなサブタイヤがはじきだされ、レールをはさみこむ。衝撃にはねあがった体をふたたびボードへ伏せ、チューブロードの外郭レールをそのまま一気にすべりおちた。ゴムが溶ける臭いがたちのぼる。
メンテナンスロボットが使用するためのレールだ。サーペントの前をエースが同じように身を低くして滑降していく、それを追いながらタイミングをはかった。
1、2、3──
エースがチャフ弾を打ち上げる。地上30メートルに一瞬咲く銀の花火。宙ではじけとぶ銀のかけらが、雨のようにふりそそぐ。電磁障害をおこす金属片。7秒でもう一度。あたり一帯へ電磁的な幕を張った。この規模ではほんの十数秒しかかせげないが、それで充分。
マーキュリーはチューブロードの外郭をすべりおち、誘導タイヤを切り離すと同時に、エースは熱量を持ったデコイを放った。小さなネズミのような形の、メカニカルな囮が四方へ散っていく。二人のマーキュリーもめくらましを追い、スピードを落としながら無人の路面をすべり、口の開いた点検路から路面の下へすべりこんだ。あらかじめ開けてあったものだ。デコイの一部は内側へ入り、一部は路面をそのまま四方へ散った。
地下は闇がひろがっていた。その闇のなか、強化カーボンの支柱が迷路のようにからみあっている。頭上の巨大な建築群を支え、都市の大量の荷重を分散させるための、入り組んだメッシュフレーム。その内側を、二人はボードに伏せて駆け抜け、闇の中、支柱をつなぐトラスからトラスへ飛び移りながら走り続けた。
都市地下の巨大支持構造は数層に分かれているが、そのうち最も上の部分はアンダーウェイと俗称される。アンダーウェイのメッシュフレーム内側には、さまざまな配管や輸送路が通っていた。その間をすり抜けながら、二人はほとんど光のない地下構造の内側を駆け抜ける。メットに内蔵されたナイトビジョンで視界を確保していた。
エースの耳の中にサーペントの声がする。骨導イヤフォンで、ダイレクトに頬骨を振動させ、耳の奥に音を再生させているのだ。
「ついてこないねぇ。つまんないなぁ」
「先回りして叩くぞ」
エースは素っ気無く答える。デコイのうち一つだけが、熱量を高めに設定してある。そのデコイから、トレースされていることを知らせる警告波が送られてきていた。あっちに引き付けられたということだ。予測はしていた。デコイに先回りして、追手を返り討ちにしようとするエースの耳に、サーペントの笑い声がした。
「そっちでたのむわ。俺、用ができたみたいで」
「おいっ──」
「マインドトレースされてる。んじゃ気をつけて、今夜はキリング・ムーンだ」
言うなりサーペントがマーキュリーのエンジンを逆回転させ、急制動の反動を使ってボードを宙にはねあげた。一段高い支柱にボードをのせ、斜めにフレームを駆け登って消える。通信も切られ、エースは口の中で吐息を殺してそのまま自分のルートを保った。追うのは無駄だ。
──マインドトレース。
(能力者が‥‥?)
一番気になるのは、サーペントの口調だった。相手を知っている、しかも予期しているように聞こえた。
今夜のわざとらしいほど陽気な態度。仕事に時間をかけながら──
いったい何を待っていた? 釣り針を垂らして?
何を狩る気だ?
(今夜はキリング・ムーン‥‥)
頭の裏、後頭部から少し内側へ入った部分がかすかに痺れる。熱はない。むしろ、小さなドライアイスが当てられているように、感覚のない冷たさがそこに巣喰っている。
マインドトレース。人の精神に「フック」をかけ、追いかける能力。さほど珍しくはないが、期待されるほど有用なものでもない。EPSチャフで容易にごまかされるし、距離が離れると使い物にならなくなることも多い。
相手に気付かれることも。
サーペントは笑みを浮かべ、マーキュリーをつめたい路面にすべらせる。マインドトレースを切るのは簡単だ。こちらの表層意識を封じてしまえばいい。だが、そうはしなかった。そもそもマインドトレースには、あのビルにいた時から気付いている。
──追ってこい。
膨大な発熱量を誇る多層ビルは、まるであちこちが燃えさかる山のようだった。それを背にし、辺縁の工場ベルトへ入ったところで、サーペントは周囲に手を振って8人の並走者とわかれた。
相手も陽気に手をふりかえし、それぞれ独自にカスタマイズしたマーキュリーに乗って走り去っていく。これからさらに走りを楽しむのだろう。そういう連中が、今ごろ街のあちこちを走っているはずだった。
ボードの上に立ちあがり、両足で方向を取りながら、ゆるやかなコーナーを曲がった。道を降り、黒々とたちならぶコンテナの中をのんびり走り抜ける。メットを外し、ボードの後ろへひっかけた。なびく髪を右手でかきあげる。左手にはまだ黒い手袋がはまり、細いワイヤーが糸のように垂れていた。
瞳を半分とじるようにして、サーペントは表層意識を凍りつかせる。ぷつん、とほとんど物理的な切断の感覚が後頭部にあった。トレースを断つ。
口笛を吹きながらくるりとボードを返し、輸送路のはじで停まると、サーペントはボードから飛びおりた。背後には、輸送用のコンテナが積み上げられている。あたりに強い明かりはなかったが、10メートルの高さにぶらさがった広範囲のライトからぼんやりとした光がおちて、曖昧な影を路面におとした。
「フェリカ。出てくる? それとも隠れんぼする? 10数えたらこっちから追いかける。12345──」
やたらと早口にとなえはじめた。その前へ、マーキュリーに乗った人影があらわれる。
サーペントは唇の両はじを上げて微笑した。その人影に見覚えがあった。マーキュリーランナーにまぎれこんでいたのは、サーペントだけではなかったのだ。
さっきまでのどかにボードを並べて走っていた相手は、無防備にボードに直立し、サーペントの手前で停まった。路面に降り立つ。ゴーグルを外した。
下からあらわれたのは、無表情な青年の顔だった。鋭角にととのっているが、その顔と黒い目は見るものに冷ややかな印象を与える。ほっそりとした体は黒いランナースーツにつつまれて、指の先まで黒い手袋に覆われていた。風に乱れた黒い髪が額におち、顔だけが白い。唇までも。色が失せたようなその唇がうごいた。
「‥‥サーペント」
聞き覚えのない声だった。見覚えもない顔に向けて、サーペントはとっておきの微笑を投げた。
「や。今は何て名乗ってんの? まだ同じ? また体替えたんだね。可愛いじゃないか。どう、しっくりくる?」
「‥‥」
「フェリカ、フェリカ。どうしたのさ」
サーペントはボードから降り、優雅な足取りで相手へ向かって歩き出した。
「会いたかったとか何とか、挨拶もなしかい。会いたいって言ってきて、それはちょっと失礼なんじゃないの、フェリカちゃん。それともまた記憶が欠損した? 俺のこと覚えてる? かわいいフェリカ。ご自分のお名前言える?」
距離はもう半歩もない。フェリカの背はサーペントよりわずかに低い。
その目を見つめて、サーペントは美しい貌にはりつけたような笑みを、さらに深くした。忘れたわけはない。でなければ、フェリカの方から連絡をよこすはずがない。その連絡からこの都市にフェリカがいると知り、サーペントは、自分が今日あの場所にいることをフェリカへ流した。フェリカがその情報を手に入れたのは、今夜、サーペントがビルに入った後のことのはずだ。メッセージには時間制限をかけてある。
「メッセージを拾ってから来たんだから、よっぽど会いたかったんだろ、俺に。どう。記憶、もどった? 自分が誰を殺したのか覚えてる? それとも、どうやって?」
フェリカは無表情にサーペントを見ていた。サーペントは右手をのばし、人さし指でフェリカの頬へふれる。
その瞬間、フェリカが半歩さがった。奥底に光を溜めた強い目でサーペントを見据え、するどく言った。
「サーペント。俺は誰も殺していない。あの時、あの子を殺したのはお前だ」
「‥‥」
サーペントが笑みを浮かべたまま、すっと眸を細めた。かるくあごをあげ、フェリカの顔中をなめ回すように見る。顔は笑ってはいたが、ラベンダーの眸に表情はなにひとつ浮かんでいなかった。
「へぇ」
うなずいた。宙に持ち上げたままの右手をひらひらさせる。
「なーるほど、いいことを聞いた」
「お前が俺に何を思い込ませようとしても無駄だ──」
「そだね、どぉせ忘れちゃうもんねえきみは」
右手をまだ動かしながら、上体をつきだしてフェリカの顔をのぞきこんだ。囁くように、
「どんな感じ、脳が腐ってくのって? 怖い? それとも気持ちいい? おもしろい? 気が狂いそうにならない?」
「‥‥」
「そろそろ月がのぼる。キリング・ムーン。ねぇ、フェリカ」
顔が近づいた。息がかかるほど。
フェリカはサーペントの目を見つめたままうごかない。遠くサイレンの音は獣の遠吼えのようだった。風はない。センターシティから離れたここからはフェイクの銀河も見えず、薄くスモークのかかった夜空には月もなかった。月齢29.1。月がのぼるまでまだ少しある。
サーペントの目が、フェリカの内側をさぐるように見つめていた。ととのった顔には笑みがあるが、視線はするどく、人を直接切りつける冷たさに満ちていた。
撫でるような優しい声で、
「最近このへんで人殺ししてんの、あんた?」
「‥‥君じゃないのか」
フェリカは低く言った。その顔を見つめていたが、サーペントは喉のおくで笑って、フェリカの唇にかわいたキスをした。くるりと身をひるがえし、自分のマーキュリーへ歩き出す。後ろ姿から声がただよった。
「なんだ、ちがうんだ。てっきりあんたが殺してヤリまくってんのかと思った。そんならいっしょに遊ぼうと思ったのに。じゃーね」
「サーペント」
フェリカが呼んだが、サーペントは立ちどまらない。さっさと大股にボードのそばへ戻って、ひょいとマーキュリーへとびのった。エンジンをかけようとした彼へフェリカが気怠げに言った。
「話がある。お前の連れのことだ」
「5秒で」
サーペントは髪を首の後ろでくくりながら、顔も向けない。足でマーキュリーの位置を直す。
「あの男は、脱走兵だ」
「‥‥」
両手をおろし、サーペントは今までとはちがう目つきでフェリカを見た。フェリカは早口につづける。
「サヴァイアスの連邦軍属の軍人だった。空挺団の〈エアヴァーン〉の操縦士で、後に、特殊作戦の実行隊に組みこまれている。軍属を解かれた記録はないが、推定死亡扱いになっている。8年前のリーザ=グーズにおける〈神の槌〉作戦の英雄、エルギス・A・アルカラザディア。‥‥彼だな」
「へえ?」
サーペントは片足をボードにのせ、両手をだらりと体の横に垂らして物憂そうにフェリカを見た。ひどく剣呑な気配が、しなやかな全身に満ちはじめる。フェリカがふっと笑った。
「“英雄”がお前と何をしている?」
「Fuck」
サーペントはにこりともしなかった。フェリカを見つめる瞳の奥に、じわじわと強い光がわいてくる。
「人殺し同士、意外と馬が合うもんさ」
「軍はあの男が生きていると知ったら、探し回るだろうなあ?」
「その情報には値段がつかないよ、フェリカ」
声はやさしいほどだった。
「あんたには二つの選択肢しかない。黙ってるか、死ぬかだ」
「俺がそれを怖がると思うか? ‥‥どうせ、死んでいく身だ」
「話が早い」
言うなりサーペントがマーキュリーのボードを強く足を踏みつけ、エンジンがかかったボードは勢いよく前へ飛び出した。サーペントは横に大きく飛んでいる。一気に加速をかけてつっこんでくる無人のボードをよけ、フェリカも横にとびすさったが、その目前にはすでにサーペントの姿があった。まとめたクリームブロンドを残像のようになびかせ、一瞬のうちに距離をつめたサーペントが左手をふりあげる。宙を薙ぐ一閃とともに骨まで裂くワイヤーがとんだ。
フェリカは背後に一転してのがれる。武器へ手をのばそうとはしなかった。そんな余裕はないし、体勢を少しでも崩せばサーペントにとらえられる。それでもよけるのがやっとだった。闇を裂くワイヤーはまったく見えないが、フェリカの聴覚はかすかな風の音を聞く。
間合いをひらこうと大きく跳び、着地した瞬間、背後にせまるマーキュリーのエンジン音に体が凍りついた。サーペントのマーキュリーが逆回転をかけて戻ってくる。後ろへ跳ぼうとしていた足元が、行く手を封じられてくずれた。ワイヤーが飛んでくるのを避け、フェリカの体は横っ飛びに地面へ倒れた。
体があった場所をマーキュリーが駆け抜ける。その軌道をサーペントが大きく跳び越えるのを見つめながら、フェリカは早口に、
「買いたいものがあるんだ!」
サーペントがフェリカの脇へ着地し、その勢いで胸へ膝を落とした。フェリカの手足が大きくはねる。その喉へワイヤーが一瞬にしてからみついていた。
左手でワイヤーを引き、フェリカの喉へくいこませながら、サーペントは凍るような眸で青年を見おろす。フェリカの喉から血が流れ出したが、それには色がなかった。