act.15

 ビジネス用の個室は狭く、左右はテーブルの幅しかない。目の前の味気ない白のテーブルには通信用の端末が据えられている。椅子を引けば後ろのドアにぶつかるだろう。大柄な体を固い椅子におさめて、ホドランド・ヴァルザナールは目の前の薄膜ディスプレイをにらんだ。休暇中のふりをしている連邦軍人は今日は襟の高いチャコールグレイのコートをまとっている。だらしなくボタンが開き、艶のあるダークレッドのシャツがのぞいていた。
「あんた、そんなこと俺に言えた義理か、エース?」
「遠回しに断っているということか、それは」
 画面の中には、同じようなグレイの背景の前に座ったエースの姿があった。アッシュブルーのシャツにインディゴのジャケットを羽織り、耳にクロスのピアスをつけている。十字の中央には小さなサファイアがはめこまれていた。襟元はややくずれて、肘掛けに頬杖をついた姿勢にあわせて斜めに歪んでいた。
 サファイアよりも青いブルーアイズ。まるで悪魔のような。凝視されて、ホドランドは吐息をついた。エースは淡々として詰問する調子はなかったが、骨の髄まで叩きこまれたかつての習慣で、問答無用で従ってしまいそうになる。
 その気配を察したのか、エースが吐息をついた。
「昔の立場につけこむつもりはない。すまなかったな」
「待て──」
 シャットダウンされそうになる寸前、ホドランドはあわててとめた。
「いいのかよ!?」
「お前が嫌ならそれ以上たのむつもりはないんだ」
「嫌だとは言ってねェだろ。ただ──」
「ホドランド」
 おだやかな声だったが、それはたしかに鉄のひびきを帯びていた。心臓が一瞬にして冷える。たかが昔の上官──しかも今では犯罪者。そう思いはしても、ホドランドは反射的に身構える。エースはちらっと苦い笑みをはしらせた。
「イエスか、ノーかだ。中間はない」
「‥‥イエス」
 答えを聞いた瞬間、エースはおどろいたようだった。何をおどろく? とは思ったが、答えたホドランド自身もおどろいていた。すぐにその感情をとりつくろって肩をすくめる。
「あんたには山ほど借りがあるからな、隊長。幽霊相手に借りを返すってのもおかしな話だが」
 エースがかすかに首をかたむけ、左の肩を揺らした。口元には苦笑に近い表情が浮かんでいる。己の死を偽装して姿をくらましたエースは、今やホドランドにとってたしかに「幽霊」だった。いや、「亡霊」と言ったほうが近いだろうか。
「お前に貸しなんかあったっけ?」
 亡霊は、そんなことを真面目な顔で言う。自分がどんなふうに他人を救ったのか、彼はまったくわかっていない。ホドランドは口元を歪め、無精ひげがうっすら浮いたあごを指でかいた。話を戻す。
「しかし、臓器用に育てられたガキだろ。引き取って育てるシェルターなんかあるか? どこもたいがい肉屋に回しちまうだろ」
「見つけてきた。対応してくれる民間運営の施設がある。仮入居の押さえはしてきた。金が少しかかるが、それはこっちで用意する。匿名の寄付金という形で入れることになってるから、お前は気にしないでいい」
「‥‥面倒見のいいこったな。拾った子供の面倒イチイチ見てたら破産するぞ」
「だろうな」
 素っ気無くうなずいて、エースはあっさり言った。
「いちいち拾って歩いたりはしないからな。今回はたまたまだ。仕方なかろうj
「あんたは昔っから、ちょっとアタマがおかしい」
 冗談だと思ったのか、亡霊は口のはじを上げてするどい笑顔を見せた。意外と本気なんだがな、と思って、ホドランドは指先でつまんだ不ぞろいなヒゲを一本抜いた。痛みに顔をしかめる。
「そんなに人の面倒見る余裕があるんなら、ディンカースを見舞ってやってくれねェか」
 青い目はまばたきしたが、ほとんど反応はない。
(くそったれ──)
「強制入院させられたんだ。ブレインクラックでアタマ半分ふっとばした。あんたがいなくなって、アイツ、また中毒に戻った」
「それだけが理由じゃあるまい」
 別に何とも思っていないようにエースは言った。ホドランドは注意深く相手の表情を見るが、読み取れるようなものは何もなかった。冷酷な男ではない。むしろ、優しい性格で、それはホドランドもよく知っている。だがエースには、不気味なほどドライな一面があった。物事を選び、切り捨てる。
 今の言葉も、言い訳ではなかろう。単に事実を指摘しただけだ。
「‥‥まぁな。でもあんたがいりゃ──」
 言いかけて、馬鹿みたいなことを言っているのに気付き、ホドランドは言葉をとめた。母親をなくした子供じゃあるまいし、ディンカースがふたたびドラッグに手を出したのは軍の上官が死んだせいだ、などと当の上官(の、幽霊?)相手に泣き言を言っている。これが馬鹿でなくて何だ? 荒々しいため息をつき、彼はアッシュブロンドをぐしゃっとかきまわすと、モニターの向こうのエースを見つめた。
「あいつの中毒を抜いたのはあんただ。何ヶ月もかかって。‥‥何か思ったりはしないのか?」
「悲しいよ」
 エースはそっと答えた。
「だが悲しいことは世の中にはたくさんあるからな」
「‥‥だな。悪かった」
「あやまる必要はないさ」
「ん」
 ホドランドは椅子の中で背すじをのばした。
「身元引受人の件は、了解した」
「感謝する」
 まっすぐにホドランドを見つめたままうなずき、エースは通信を切ろうとする。それを呼びとめ、ホドランドがつづけた。
「新月の夜に、ムーンストラッカーたちが大々的な祭りをしようとしているらしい。当局は外出抑制令を出すつもりだが、強制力はないから大してきかんだろうな。馬鹿どもが暴れ騒ぐ夜になるだろうよ」
「祭り?」
「噂じゃ奴ら、キリング・ムーン目当ての賞金ハンターを逆に狩るつもりらしい」
 エースが鋭く目をほそめた。
 ムーンストラッカーは「月」そのものをあがめる色々なカルトの総称だが、このイルヴェンにおいて、そして特に今は、その呼び名はキリング・ムーンに傾倒している者の集団をさす。多いものでは50人近い集団だという話はあったが、奇妙な集会やら儀式やらを行うほかは目立った動きを見せたこともなく、統率されたグループだという情報も出ていない。
「中核が誰かいるんじゃないのか。わかってるのか?」
「いや。昨日から公安が取り締まろうとしてるんだが、奴ら、地下に潜りやがった」
「成程」
 エースはうなずいた。ホドランドは用心深く表情を見ていたが、きりりとするどい顔はいつものように感情を読ませなかった。
(──彼は関係ないのか)
 たしかに、無作為に多数を扇動するやり方は、エースの好む手法ではない。だが、都市戦において少数が多数をしのぐため、無関係な人間を大量に動かして混乱をつくりだすのはよくある手段であり、常套でもあった。彼らは事実、エースに命じられてそれをやったこともあるのだ。
 だがエースの声はおだやかだった。
「わかった。用心しておく」
「‥‥あんた、まだキリング・ムーンを追うつもりなのか」
「お互い、それは言わないほうがいい。──すまなかったな。ありがとう」
 今度は呼びとめる隙はなく、コンタクトは切れた。隙があったとしても、ホドランドは呼びとめる言葉を持たなかったが。
 薄膜ディスプレイに投影されていた映像も消える。それをにらみつけるようにしながら、ホドランドは髪の中に指をつっこんでがしがし頭をかいた。何が気に入らないと言って、エースが消えてから2年半以上もたってまだ、彼の前に出ると取るに足らない新兵のような気持ちになる自分が一番気に入らなかった。
「ったく。年上は、こっちだぜ」
 呻くように呟いて、立ち上がる。子供を託すとは、エースはホドランドを信用しているのか。彼が連邦に自分を売らないと。
 ──ちがうな。
 ホドランドは考えをあらためる。そんなわけはない。ただ彼は自信があるのだ。子供をホドランドの手に渡し、それを連邦がかぎつけたところで己にたどりつくことはできないと。
 優しいのか、無情なのか。平然と他人を守り、他人を切り捨てる。底の読めない男だった。
 さて。奴に出し抜かれずに、どうやってキリング・ムーンを回収する?


 通信を切ったエースは少しの間考えこんでいたが、ジャケットの襟を直すとボックスを出た。今、ホドランドがエースをとらえに手を回すとは思えない──彼の任務はイルヴェンの治安隊には秘密にされている筈で、エースをとらえさせればその内容が明るみに出かねない──が、ここで立ちどまっているのはいい考えではなかろう。
 そうか、と思う。ホドランドの言葉でディンカースのことを思い出していた。ディンカースがどこからブレインクラックを手に入れていたのか、エースは探し出すことが出来なかった。ディンカース自身が覚えていなかったからだ。エースが会った時にはもうディンカースは後戻りできないところにいた。
(あいつも──弱性テレパスだった‥‥)
 フェリカと同じように、テレパスとして扱われるほど強力ではなかったが、適応にやはり苦しんで、ディンカースはどこかのラボに定期的に出かけていたはずだ。そこでブレインクラックを手に入れていたのだろうか。
 ──研究所では、テレパスにブレインクラックを投与していた‥‥?
 ふいに疑惑がぞくりと背骨をつかんで、エースは一瞬立ち止まっていた。ブレインクラックは亜種も多いが、主に脳の視床下部に入り込む微細なウィルスで、入り込んだ細胞内で細胞の分裂能力を使ってヒドロキシトリプタミンの変種を合成させる。その合成がはじまると摂取者の脳活動は沈静化し、深い瞑想状態に入り込む。仮想的な脳の「死」とも言われる。そこから戻ってくる時に味わう快楽は、「神が自分をつくりあげていく創造の瞬間」とまでいわれ、通常のアッパードラッグでも味わえないほどの昂揚と幸福感があると言う。
 あるいはそうやって脳に作用するドラッグを用いて、テレパスの脳をさぐっていたのか?
(そこから、中毒になったとしたら? ディンカースも、フェリカも‥‥)
 青い目にひどく鋭い光が宿ったが、エースはすぐに歩き出し、平静な足取りとともに意識を切り替えた。ディンカースのことはそれほど昔のことではないが、捨ててきた「過去」のことだ。今はそれに足を取られている時ではなかった。ホドランドとの会話の内容に注意を戻す。
 ムーンストラッカーが何かをたくらんでいるらしい。少なくとも、ホドランドはその情報をエースへ意味ありげに示そうとした。
 あの子供をいたぶっていたのもムーンストラッカーたちだったと、エースは思い出す。馬鹿な儀式の一環だろう。月狂い。ハンターを狩るとはまた大胆なことを考えたものだが、ホドランドがこうして言うからにはかなり問題視されている動きなのだろうか。
 ホドランドがその情報をエースにぶつけた目的の一つが、カマかけであったことは見当がついている。彼らの新たな活動についてエースが何か知っているのではないかと。もっと言うなら、エース自身がからんでいるのではないかと、ホドランドは疑っている。彼らを使い、扇動して、イルヴェンに混乱を演出しようとしているのではないかと。
 たしかに、そんなことをしたこともある。やわらかなライトが照らす建物の中を歩き、巨大な観葉植物が形作るゲートを抜けながら、エースはサングラスをかけた。ホドランドが疑うのも無理はない、が。
 口元で吐息を殺した。今回のことは彼ではない。
 ──サーペントの顔がちらっとかすめた。すぐに消える。会えなくなって、26日。お前のことなんか忘れちまうぞ、と無音でつぶやいたが、それが無理なことはよくわかっていた。
(あいつか?)
 エレベータで五階のロビーへ降り、人が行き交うホールを抜けて表のクロスブリッジへ歩み出そうとする。ゲートの上部に投影された速報ニュースの文字に、足取りが一瞬にぶった。
 そのままエースは建物の外へ出ていく。路上パフォーマーが飛び跳ねたり投影アートを宙に架けている間を歩きながら、左手に端末を手にしてニュースの詳細を確認した。
 セギスブロックの警察署にて火災発生。ムーンストラッカーによる放火と見られる。死者あり。立ち入り規制発動。火事はすでに鎮火。
 端末をとじてポケットに戻し、エースは足取りを早めた。セギスの警察署には重火器までそろった武器倉庫がある。ムーンストラッカーたちがどういうつもりで何をはじめたにせよ、三日後はひどく血なまぐさい夜になりそうだった。


 サーペントは目を細めて空を見上げる。セブンタワーの屋上庭園で音楽を聴きながらカクテル片手に見上げた夜空には、折れそうな月がかすかに見えるだけだった。明日にはこれも消える。
「目的は果たしたのだろう? もう、帰れ」
「君に指図されるいわれはないね」
 不機嫌そうに、セイン・ワートブルは返す。噴水のそばのベンチに腰をかけた彼は、サーペントの横で居心地が悪そうだった。
 サーペントは微笑する。喉元に垂れる三日月のチョーカーヘッドが揺れた。
「何で、ウェン。正義とやらのため? それなのにあなたは、キリング・ムーンが何人殺そうが良心の呵責すら感じてないようだ。ねえ。あなたがアレを放す片棒をかついだくせに」
(過去の犯罪を立証し、有罪を明らかにするのに、一番いい方法を知ってるか?)
 街の地下でサーペントとともに歩きながら、ワートブルはそう言った。
 サーペントは物憂げに、濡れたグラスのふちで唇をなぞる。
「過去の犯罪を立証する一番簡単な方法は、ふたたびその犯罪を冒させること。‥‥あんたが自分で言ったんだ、セイント・セイン」
 ワートブルは表情をかえず、どこか不機嫌そうにサーペントの顔を眺めている。サーペントが言葉を終えてニッコリしてみせると、ぶっきらぼうに言った。
「君には立証できない」
「必要、ないんだよ。連邦にちらっとネタを流しちゃえば、彼らが自分で立証するさ」
「脅しか」
「いや、まだ忠告。明日、あんたをイルヴェンで見たら、連邦にあんたがやったことを流す。消される前に消えてくれ。記事は十分書けるだろ」
「勝手に決めるな」
 眉をしかめた。その目の前にサーペントがずいと顔を近づけて、囁くようにたずねる。
「ねぇ。あんたホントに "正義" を追ってんの?」
 ラベンダーの瞳でまたたきもせずにのぞきこまれて、ワートブルは一瞬凍りついた。サーペントの目の奥にはただ冷えきった光があった。まるで人の目ではない。意志の満ちた強いまなざしだが、その奥に魂があるようにはまるで感じられなかった。温度がない。
 目がそらせない。視界のはじから世界が溶けていくような奇妙な感覚におそわれながら、ワートブルは唾を飲もうとしたが、喉も麻痺したように動かなかった。
 きしむような圧力がゆるみ、サーペントが体を戻して足を組んだ。当人に脅す意図はまるでなかったらしく、もう艶やかな微笑を唇にきざんでいる。まだ首すじの後ろが総毛立っているのを感じつつ、ワートブルはカクテルを一口飲んだ。手はふるえていなかったが、感触もなかった。
(何だ、今のは‥‥?)
 声もふるえていなかった。どこか体の遠いところが凍ったままのような感覚は消えない。
「キリング・ムーンの問題は‥‥現在だけではない。連邦が生命倫理をもてあそびはじめているということだ。‥‥邪悪な話だ。このままでは、破滅的なことになりかねない」
「さあ。俺は興味がない」
「なら何故ここにいる?」
「それは長い話になるんだ」
 面倒そうに、膝に頬杖をついた。髪がはらりと落ちかかり、長い前髪がサーペントの半顔を覆う。何か言いかかって、小さく息を吐き出した。
「‥‥ま、いいや。確かにね。あんたもここまで追ってきたんなら、明日も同じ街にいたいか」
「キリング・ムーンがまだイルヴェンにいるとは限らないぞ」
 あまり疑ってはいない口調で、ワートブルが言った。キリング・ムーンが明日出現すれば、これで四ヶ月目ということになる。それまで一つところにとどまらなかったキリング・ムーンが、イルヴェンに明日も現れることを、誰も疑問に思っていないようだった。
 サーペントも、確信に満ちた表情でうなずく。
「いるよ。幽霊がいる限り」
「幽霊──」
 ひょいと手首を返して、ギムレットをあおった。逆さにしたグラスを数回振って滴を振り落とし、グラスを指の間でくるくると回転させはじめる。サーペントは、少し子供っぽい顔で回るグラスを見つめていた。
「バルデウス・ケージで生まれた幽霊だ。‥‥悪夢が生んだ亡霊だよ」
「‥‥君もか?」
 そっとワートブルがたずねる。サーペントがちらっと視線をはしらせて何も言わないと、彼は低い声でつづけた。
「君は何者でもないと言った。‥‥君も亡霊なのか?」
「俺の取材?」
 自分でも意外なことに、ワートブルは小さく微笑していた。目の前の彼があまりにも拗ねたような口調でそれを言ったからかもしれない。
「させてはくれないだろ、Maj。君が何者かは気になるが」
「俺は何者でもないよ。セイン、あんたはそのへんにころがってる石ころに〈君は何者だ〉とかきいたりしないだろ?」
「石ころは俺にしゃべりかけてこないし、脅しもしないからな」
「だから石ころに聞いたほうがまだマシってことさ」
 グラスをトンとテーブルに置いて、サーペントは立ち上がった。ワートブルが飲んでいるダイキリにちらっと目をやる。妙な男だ、とサーペントは頭のすみで思った。サーペントには理解できない価値観をかかえているからか。
 もしかしたら彼は記者ではないのではないかと、かすかな疑念が胸のどこかに動いたが、よくわからなかった。「セイン・ワートブル」という記者はたしかに存在するが、目の前のこの男がそのセイン・ワートブルと同じ人間なのかどうか、はっきりと確かめるすべはない。記者の身体的プロフィールは手に入らなかったし、その手の情報にいくらフェイクがかかっていてもおかしくない。
 目の前に置かれたメモリチップに、ワートブルはすぐには手をのばさなかった。サーペントは微笑を向ける。
「幽霊の物語だ。どう使うかは、あんたにまかせる」
「‥‥何故俺にこれを渡す」
「あんたは、キリング・ムーンがこの街で何と出会ったのか、知るべきだと思ったからさ」
 手を振って、サーペントはワートブルへ背を向けた。フロートが屋上から飛び立っていくのを眺めながら、ゆっくりと足取りをすすめる。幽霊。
(‥‥君も亡霊なのか?)
 そうかもしれない。いや──
 サーペントは喉の奥で小さく笑いながらエレベータを降り、駐車場の車に歩み寄った。電子錠を解除し、防犯システムを生体パルスで認証させて中へすべりこむ。ワートブルは一つ、大きなことを見落としている。
「亡霊になれるのは、一度は生きていたことのある者だけだ」
 小さくつぶやいてドアを閉め、細い煙草をシガレットケースからはじきだして唇にくわえた。火をつけながら目をとじる。車内は湿っぽく、異臭がした。
「そうは思わないか、フェリカ?」
 後部座席に横たえられた布が小さくうごめいた。首元まで毛布に覆われたフェリカをミラーで眺めながら、サーペントは車を出す。上機嫌な調子でつづけた。
「俺は彼が言うような意味では〈生きて〉いたことがない。生きてもないが、死んでるわけでもない。亡霊にはなれない。生き物というよりは、まるで物のようだね。なぁフェリカ、秘密を教えようか? 俺は物心付いた時からずっとね、生きているという実感がないんだよ。‥‥ずっとなかったんだ。だからお前が何を苦しんでいたのか、あの時、一番わかっていたのは俺だと思う。だからお前を苦しめたかった」
 くすくす笑った。
「何も感じないより、苦痛の方がマシだ。そうだろう? お前が俺に執着するのは、俺がお前に苦痛をもたらすからだろう?」
 フェリカが呻いた。この数日で、彼が目覚めていたことの方が少ない。代謝が極端に悪くなっているのか、ドラッグにもほとんど体が反応しなくなっていた。今日までは部屋に寝かせていたのだが、サーペントはもうあの部屋に戻るつもりはなかった。明日は月齢29。キリング・ムーンは動くだろう。
 かすれた声に、サーペントは運転をオートにして体ごと振り向いた。フェリカの目が開いている。ここのところ、まるで縮むように痩せた体の中で、そこだけにすべての生気が集まったようにギラついた光が目に宿っていた。
「‥‥物ならば、本当に何も感じないですむ‥‥」
「どうだろうね。俺は、物になったことがあるわけじゃあないからね」
「あれには‥‥心がないのだろうか?」
 聞き取りづらいほどにしわがれた声が、キリング・ムーンのことを指しているのだということはすぐにわかった。サーペントは座席の背もたれを折るようにたたみ、完全に後ろを向いて座る。膝に頬杖をついて、フェリカを眺めた。
「心、か。魂とか心とか、よくわからないよ。お前の方がわかるんじゃないの? 弱小だけど、テレパスなんだし」
「‥‥物のように、生きていく、すべが‥‥」
 フェリカが咳込んだ。白っぽい半透明の液体を吐き出す。サーペントは身をかがめてフェリカの口元を拭った。フェリカの血の色だ。その液体は腐敗したようなひどい臭いがした。彼の体の中で何がおこっているのかサーペントには何となく見当がついたが、病院につれていくつもりはまったくなかった。そのくらいならゴミ捨て場に捨てる。どうせ誰にも、フェリカは救えないのだ。
「そうか」
 サーペントはつぶやいて、水を含ませたタオルでフェリカの唇を湿した。すでに水分を分泌することができなくなっている肌には、細かい裂傷ができていた。車内の湿度を極端にあげてはいるが、フェリカには足りない。
「だからお前は、キリング・ムーンを探していたのか。あれの中に何があるのかではなく、何もないことをたしかめるために」
「俺は‥‥俺は、物のように生きていきたかった。物のように扱われるのだったら‥‥」
 フェリカはそれきり黙った。見上げたまま、まばたきもせず、眼球だけがゆるく振動する。サーペントは手をのばしてまぶたをおろしてやった。筋肉も分解されていっているのだろう。アポトーシス。細胞が次々と死んでいく。それがいつ致命的な何かをとめるのか、誰にもわからない。
 しばらく男の様子を見ていたが、サーペントは体を回して前の座席に戻ると、煙草の灰を灰皿に落とした。車内には甘く饐えた臭いと、サーペントの煙草の煙と、男の喘鳴だけが漂う。前を向き、サーペントは車のスピードを上げた。

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