act.9

 遠い月はほっそりと、銀の光をまとって夜空に浮いている。
 キリング・ムーンまであと18日。空から月が消えるまで。
(あの日の月齢──29‥‥)
 エリギデル・フィールドに降り立ったあの時、夜空を見たかどうか、エースには記憶がなかった。奪われたのではない。ただ、覚えていない。眼前にひろがる荒涼とした光景に、身が凍るような思いで息を殺した。あの瞬間。
(過去の犯罪を立証し、有罪を明らかにするのに、一番いい方法を知ってるか)
 そう、エリギデルの戦争犯罪は、あまりにも立証が困難だ。関わった多くの者が記憶処理を受け、記録はあちこちに分散された。エリギデル・ミステリーの存在自体、きわめてひっそりと語られているにすぎない。表向きには、エリギデルで起こったことはある種の細菌兵器の暴走ということで処理されていた。
 風化するには早すぎる、が。風化は時間でおきるものではない。人の心をそこからそらすことで、記憶は風化していく。小さな内乱からはじまったあの戦争は世界の人々の興味をほとんど引くことなく、今では連邦による暫定統治がうまくいきはじめているという話だった。その情報を額面通り受け取るほどエースは無邪気ではなかったが、それが世界的な「見解」なのはたしかだ。着々と、エリギデルの一件は風化されつつあるのだった。
(‥‥古い犯罪を立証できないのなら──)
 エースは首すじにうすら寒いものを感じる。そう。古い犯罪を立証できないのなら──新しい犯罪を犯させればいい。それが、相手を有罪にするもっとも簡単な方法だ。
(つまり)
 夜の風は、都市の熱を吸ってなまぬるかった。涼しげな月光をちらっと見上げ、エースは歩き続ける。このイルヴェンでの、キリング・ムーンのひとつめの殺人現場。4人の体が100メートルに渡ってちらばっていたと言う。
 巨大な浄化プラントが十数、墓標のようにたちならぶ足元の、遊歩道。そのさらに下のアンダーウェイへの入り口が、殺戮の現場だった。青い夜光燈に照らされた無人の遊歩道を歩きながら、エースは煙草をくわえた。プラントの上部には放熱ユニットが据えつけられ、夜空へのびる梯子のようだ。火をつけて、煙を吐き出し、遊歩道の柵に肘をかけると、拭われた血をさがすように下の道を見下ろす。煙が奇妙なほど苦かった。
 人を殺すために作られた、その記憶だけが、あのレプリカントの中に残っているのだろうか‥‥
 それはあの哀れな存在に与えられた、たった一つの本能。
 本能とすら言えるのかどうか。そもそもレプリカントは「生体」ではあっても「生物」としては認められていない。異様にねじれた理論の中で、あれはあくまでも「物」でありつづけている。
 表情はおだやかに、エースはまだらに光の落ちた暗闇を見つめていた。浄化プラントが稼働する低いうなりが定期的に聞こえてくる。
 キリング・ムーンがこの街に居続けるのは何故だろう? ずっと移動しつづけてきた、その移動ラインがイルヴェンに入ってからはまったく見られない。二度目までなら偶然だろうが、三度目の犯行までも。
(キリング・ムーンを引きとめるものがこの街にある‥‥?)
 ──幽霊。
(あの幽霊は‥‥)
 青い瞳をほそめて考えこんでいたが、エースはふと何かの気配を感じた。危険なものではない。木の枝が目のすみでそよいだような、かすかな感覚。人の気配か? それにしても薄い。
 キリング・ムーンの殺害現場は、野次馬にとって格好の観光名所となり、ある種のカルト連中にとっては「聖地」のようにもあがめられていたが、夜明けも近いこの時間に人影はない。遊歩道は下の道から3メートル間隔の柱で中空に支えられ、眼下には夜光燈と暗がりが重なり合って、アンダーウェイの点検口を吊るためのワイヤーが上下に張られていた。点検口はとじられて、ワイヤーを覆う外被は濡れたようにうっすら光っている。
「‥‥‥」
 エースは煙草を消し、遊歩道の手すりに手をかけ、胸の高さの手すりをこえて向こう側へ飛び降りた。落下の衝撃を膝で殺し、点検口の上を歩きだす。細かな格子に組まれた金属の蓋は10メートル四方ほどの巨大なもので、その向こうには暗い闇がひろがって、エースのかすかな足音を遠く呑みこんでいくように闇は深かった。
 蓋の一辺に沿って歩き、エースは蓋のはじで立ち止まる。膝をつき、格子の間から奥を見下ろした。
 真下から、大きな二つの目が彼を見上げていた。


 調べてみると、セキュリティのラインは誰かが切った後だった。エースは人間が通るための小さな入り口を見つけ出したが、上に大きな清掃機材が置かれている。
 吐息をついて、エースはその機材をどかそうとしたが、下の溝に機械の足がはまってうまくいかない。一瞬、緊急レスキューをコールしようかと思った。が、何となく思い直す。サーペントがいたら馬鹿にして笑うだろう。「レスキューにお電話?」と。
 この場にいない相棒に、意地を張っても仕方はないが。長い溜息をついて、エースは身をかがめ、引っ掛かっている場所を確認すると、しばらく場所とバランスを検分した。いけそうだと判断し、下から機材のくぼみに肩をあて、両手でさぐって左右の突起をつかんだ。強く全身を締め、無言の気合いとともに全身の力を一点にこめる。
 一瞬動かなかったが、ギイッと擦れる音とともに部品が溝から外れ、機材は横に大きく倒れた。思いのほかけたたましい音が鳴り響いて、エースは眉をしかめる。肩をかるく回してから、足をよけて足下の扉を引き上げた。重い。右腕で押し上げて支え、蓋止めをセットした。
 細いパイプ梯子に足をかけ、下へ降りていく。頭上の格子に明かりがさえぎられ、暗くなると、小さなハンドライトを取りだし、梯子にとりついたままライトの光を回した。
 いる。
 大きなレールのくぼみに身をちぢめて、エースの動きをじっと目で追っている。子供だということはわかったが、薄汚れた姿のほとんどは影にかくれて、男か女かはまるでわからなかった。汚れた髪が顔にはりついている。
「大丈夫か? こっちにこれるか?」
 たずねたが、目を大きくみひらいているだけで、反応らしい反応はない。まぶしいだろうに、光をさけようとする気配がないのが異常だった。見えていないのではないかと、エースは疑う。光を追っているか、音を追っているだけで。
 ライトを口にくわえ、梯子から手をのばして、レールにとりついた。両手でぶらさがって、体を振ってレールの上に身を引き上げる。ライトを取り、膝で這って子供が隠れた場所へ近づいた。
「大丈夫だ。動いちゃだめだぞ」
 聞こえているのかどうかもわからないが、低い声をかけて安心させながら、ゆっくりと近づいていく。子供はコの字型になったレールの側面に入っていて、レールの上幅が狭いとは言えエースの位置から完全には見えない。動く様子はないのにほっとして、エースは子供のそばにたどりついた。とにかく手を伸ばし、上腕をつかむ。
 ぐにゃりとした奇妙な感覚がかえってきた。エースは一瞬動きをとめたが、小さく息をついて、体を大きく傾け、腕で子供の腰を抱え直して一気に上へ引き上げた。子供が「ぎゃっ」と鳥のような声を上げたが、エースは無視してかかえあげ、肩にかつぐと引き返しはじめた。
 異様な臭気が鼻を刺す。子供は、おどろくほど軽い。体にボロ布のような服の残りがまつわりついていたが、ほとんど全裸のようだった。全身、乾いた汚れに覆われている。吐き気がこみあげるような血と精液の臭いを、エースは嗅ぎ分けた。どれくらいあそこにいたのか、糞尿の臭いもする。
 ぎゃっ、とまた鳴いた。だが逆らう様子はない。もう体力が残っていないのかもしれない。骨ばかりの体をかかえて、エースは地上に戻ると、蓋を戻した。上着を脱いで子供の肩にかけてやる。
 大きな目でエースを見上げたまま、子供は半開きの口からまた「ぎゃっ」と言う音のようなものをたてた。鳥のような声だ。エースは眉をしかめたが、身をかがめ、臭気を放つ子供の体をかかえあげた。


 子供の肩の関節は抜けていた。前腕の骨も折れている。全身は擦り傷だらけで、背中には大きな×の傷がナイフでつけられていた。
 エースは当座のねぐらにしているレンタルルームに子供をつれていくと、肩の関節を入れて、子供を風呂で洗った。ほとんど痛がる様子がないのが異様だったが、何かのドラッグで神経が麻痺しているのだろう。口をあけさせて中を見ると、舌が丸めたまま針でとめられていた。
 抜いても支障ないかどうか調べて、抜き取る。針ではなく、するどくとがらせた何かの骨だった。幸い返しはなく、するりと抜ける。エースはいったんそれを置いて、口の中を消毒し、シャワーで子供の体を洗いはじめた。
 少年だった。おおよそ12歳くらいかと思うが、栄養不良のやせた体を見ると、本当はもっと年齢がいっているのかもしれない。ざっと汚れを流してから、バスタブにぬるま湯を溜め、少年を湯に入れた。肌にこびりついた汚れをゆるめている間、もつれて固まった髪を洗った。目に泡が入ると困るのでまぶたを指でおろしてやると、そのままじっと目をとじていた。幾度もぐんにゃりと前に倒れる体を、そのたびに起こしてやる。
 髪の汚れを5回流してから、湯を抜いて、泡立てたボディソープで体を洗いはじめた。古い傷もいくつかあるが、背中の傷以外に目立つほどの傷はない。全身に浴びた血は、少年のものではないようだった。
 精液は体中にこびりついている。顔まで。洗ってやりながら、エースは溜息を口の中で殺した。少年の肛門は悲惨な状態で、強いられただろう凄惨な性行為が想像できる。とにかく全身をきれいにして、バスタオルでくるんでベッドに運んだ。
 いつのまにか寝息をたてている少年をうつぶせに寝かせ、背中の傷を消毒する。血はとまっているが、傷からはかすかな腐臭がした。傷の状態からして五日程度前、と見当をつける。抗生物質を打ち、前腕に添え木をして固定し、ほかの細かな傷を消毒して、エースはひとまず自分の服を着替えた。少年の汚れがついた上に、風呂での作業ですっかり濡れていた。
 新しいシャツを着て、エースは冷蔵庫からビールを取りだす。冷えたビールを一口飲んで、頭を軽く振った。
 缶を持ったまま少年に近づき、足の裏を見る。右土踏まずの上側に、図形化されたコードがプリントされている。その画像を端末に取り込んで、エースはソファへ戻った。ノート型端末を取りだす。
 ウェブで調べるとすぐに出てきた。五日前、あの場所──キリング・ムーンの第一の殺害現場で、ムーンストラッカーの集会がおこなわれている。ムーンストラッカーは「月をあがめる」カルト集団の総称で、世界各地に大量の集団がある。その一部はキリング・ムーンを「月からの最後の使い」としてあがめ、街のあちこちで「集会」を行っていた。そのほとんどが乱痴気騒ぎだ。「いけにえ」と称して動物を殺したりもして、先月は動物愛護団体と争いになり、三人が死んだ。
 回線にスクランブルをかけてから、メビウスを呼んだ。
「何だ」
 呼び出し音も鳴らさずにすぐ声が戻ってくる。エースは少年の足の裏のコード画像を送った。
「これ、たのむ。どこかの人身売買のコードだと思うが。買った人間が知りたい」
「へぇ、何か拾ったのか。暇なのか、寂しいのか?」
 からかう声を、エースは聞き流した。否定したところでメビウスがおもしろがるだけだ。
「男か、女か?」
「男。‥‥子供だ」
「ま、大抵子供だよな。あんまり大きくなるまで生き延びてるヤツは珍しい。どうして拾ったんだ」
「暇で、寂しいからさ」
 メビウスの笑い声が聞こえた。一瞬で声の接触が切れ、画面にデータが送られてくる。暗号鍵で解読し、開くと、エースはメビウスからのデータを見ながらビールを飲んだ。
 ぎゃっ、とベッドから声があがった。少年がとびおき、部屋のすみへころげるように走っていく。身を丸める彼を見やって、エースは立ち上がると、ベッドから毛布を取って近づいた。ぎゃあっと声をたてる少年に毛布を投げて、ソファに戻る。
 しばらくしてから目を向けると、少年は頭から毛布をかぶって床にうずくまっていた。エースは煙草へのばした手をおさえ、足音をしのばせて二本目のビールを取りに立った。その足がふととまる。
 少年が毛布の下で、たどたどしく呻いた。獣の声のようだったが、くりかえすうちに言葉のようなものが聞き取れた。
「アリア‥‥アリア──」
 振り向いて、エースはしばらく眺めていたが、それきり毛布のかたまりは動かなかった。


 目ざめているのか。眠っているのか。そこが現実なのか夢なのか。区別はとうにつかなくなっている。
 くりかえし、くりかえし、くりかえし‥‥
 重い闇の奥で悲鳴がきこえる。
「アリア‥‥アリア──」
 苦痛に満ちた叫び声がきこえてくる。ボロきれのような塊の中から、白い骨がのぞいていた。あれも月のない夜。いや、あれは夜だっただろうか。あたりはあからさまな光に満ちていたような気もする。それともそれは、フラッシュのような暴力的な光の洪水か。
 あれは夢か?
 何が現実で、何が夢だ?
 アリア。
 ──それは誰だ?
 呻く彼の額にひやりとした手が置かれる。すがるようにその手をつかんだ。
「アリア‥‥」
 私が殺した、アリア。
 手は彼の手を、しっかりと握り返す。夢か、現実か。それを考えることもできずに、幻想に溺れる。


 あえいで、息をつまらせる。体を引きずりこむ何かを振りきるように飛び起き、フェリカは目の前にサーペントの姿を見た。ぎょっと顔をこわばらせる。
「お前──」
「あの子の夢かい?」
 サーペントはソファベッドの肘掛けに腰をのせて、何か書きながらフェリカを見ていたが、手を休めずに小さく微笑した。
「お前の夢ってどんな感じ? 他人の夢を同調して吸いとったりすんの?」
「‥‥お前は、どんな夢を見るんだ」
「俺は夢を見ることは滅多にないよ」
 サーペントの微笑を見ながら乾いた唇をなめ、フェリカはふと気がついた。
「──そもそもお前、眠ってるか?」
「たまにはね」
 いたずら書きのように、ノートの上に左手で持ったペンを走らせている。フェリカは起き上がって、水の入ったパックを手にすると、飲み口を折ってくわえた。冷たく保冷された水が喉に流れこんでくる。栄養剤のソフトカプセルも同時に飲みくだした。
「何をしてる、サーペント?」
「占い」
「‥‥‥」
「暇だから。この街でのキリング・ムーンの殺人現場を座標化して、数学的に収束してんの」
「地図上の平均値でも取るのか?」
 ペンをはしらせながらサーペントがくすくす笑った。ゆるく髪を結び、黒いタンクトップに麻のシャツジャケットを羽織った彼は、機嫌がよさそうに見える。
「とりあえず、ラプラスで場のポテンシャルを関数にしてみてる。空間と時間の重さを収束させていけば、安定点が出るだろ。それを色々な方程式につっこむわけ」
「何の意味が? 何で手でやってる?」
「意味なんかないよ。だから、占い。暇つぶし。趣味。酔狂。神だのみ。ついでに、次の殺害現場の予測もできる。確率マップ作ってまたオークションにかければ、何か釣れるかな」
 フェリカは、空になった水のパックを放り出した。サーペントを無表情に眺めやる。
「水晶玉でものぞいたらどうだ」
「あれは衣裳もそろえないとねぇ、雰囲気が出ないだろう。俺よりは、お前に水晶玉が必要に見えるよフェリカ。思い出した? 思い出せた? それとも忘れることができそう?」
「‥‥‥」
 サーペントは顔に落ちてきた前髪を、ペンの背でかきあげて耳にかけた。フェリカはのろのろと立ち上がり、サーペントに背を向けて部屋の隅で服を着替えはじめる。サーペントはからからっと喉の奥で笑って、
「何で、殺したことは覚えてるのに殺した理由は忘れちゃったんだろうねぇ。あの子の名前は? 思い出せた?」
「‥‥俺じゃない、お前が殺したんだろ‥‥」
「覚えてないくせに強がるなよ、フェリカ。どうせ俺がちゃんと説明したってまた忘れちゃうんじゃないの? 次の移植はいつさ」
「移植はしない」
 低い声で言って、フェリカは立ち上がった。サーペントが手をとめて、うっすらと光をはねかえす瞳でフェリカを見上げる。フェリカは背の低いドアの手前で立ち止まり、サーペントをにらむように振り向いた。
「サーペント。あの記者のデータは開けたのか」
「まぁだ。しょうがないじゃん、コピーが不完全だったんだから、今ちくちく修復してるよ。明日くらいにはマトモにアクセスできるようになってんじゃないかな。そしたら暗号を解く」
 のどかな調子で、サーペントは言った。昨日、ウェンと接触している間に、サーペントはウェンの手帳のデータを複製していた。ウェンを手すりから投げ落としてから二人で地下に潜るまでの間、手帳を拝借したのだ。鍵を解いてデータにアクセスする時間などなかったのでハードの磁気情報を丸ごと強引にコピーした結果、かなり支離滅裂なならびのデータになっていた。現在、修復プログラムを走らせている。
 フェリカは不機嫌そうに、
「現物を盗んでくればいい。ヤツをしめあげて口を割らせても」
「そういうやり方が好きならご自分でどうぞ。あの手帳はウェンのバイタルサインとつながってて、五分以上ウェンの生体情報が取れないと、データを破壊するようになっているよ。それにあの記者をしめあげたところで、キリング・ムーンの過去しかわからない。お前が用があるのは、キリング・ムーンの未来だろ」
「お前は?」
 切りつけるようなフェリカの声だったが、サーペントはまばたきもしなかった。
「俺がなに?」
「──お前、俺に協力する気はないだろう」
「そう思う? へぇえええ、冷たいことを言う。お前だけじゃどうにもならないくせにさ。どうやってキリング・ムーンを探す? あんたのお仲間は、あんたを助けてはくれないだろう。フェリカ。今、一人なんだろう?」
 ノートを放り出し、立ち上がったサーペントはゆったりした足取りでフェリカへ歩み寄る。まるでキスでもするように、フェリカの首に腕を巻いて目をのぞきこんだ。
 フェリカが不愉快そうに顔をそむける。
「組織は関係ない──」
「なあフェリカ、お前、記憶だけじゃなくってテレパスの能力もなくなってきてるんじゃないの」
 フェリカは何か言おうと口をひらきかけたが、サーペントはその隙を与えなかった。じっと目に視線を据えたまま、
「移植しないんじゃなくて、できないんだろ? 利用価値がなくなって組織から放り出されて、移植するだけの金もツテもなくなってる。能力のないお前なんて、まっさきにゴミ処理場行きのボロ人形だしなぁ。役立たずなの、自分でもわかるだろ?」
「‥‥能力がない? お前をマインドトレースしただろう」
 サーペントは子供のようにくすくす笑った。
「そうなんだよ。どうして? どうしてあんなにあからさまにフックかけた? 自分の能力がなくなってないってことを俺に誇示するため?」
「お前──」
「忘れてたよ。一度フックをかけたことのある相手には、よりたやすくフックがかかる。少なくとも、お前はそういうタイプのテレパスだ。俺の波長を知っている」
 フェリカはすっと息を吸う。その瞬間、首の後ろにとがった感触があたった。髪をかきわけて、とがったペンの先端が後頭部の頭皮をさぐる。首の付け根のくぼみに先をあてて、サーペントが耳元で囁いた。
「フェリカ。昨日のやりかたは、致命的だったよ。あの記者にくっついて来た公安を、巣に帰るまで目視で追っかけただろう。どうしてマインドトレースしなかった?」
「‥‥相手にテレパスがいた場合、逆トレースされる危険性があった」
「ああ、なるほど。30点。公安相手じゃ、目で尾行するほうが危険だろ。ほかに何かいい言い訳は?」
 にっこりしてみせる。
 フェリカは吐息を付いて、目をとじた。首の後ろに小さな、だが致命的な圧力を感じる。
「何だ。どうしたい。俺を殺すのか」
「一銭にもならないのに? フェリカ、フェリカ、よしてくれよ。俺はこれでも結構お前を気に入っているんだよ」
 サーペントの言葉に、フェリカは温度のない笑みを洩らした。その耳元に小さくキスを残して、サーペントが下がる。ペンを親指の上で回しながら、無言でフェリカを眺めていた。
 フェリカは、息をついて壁にもたれた。
「そうだ。能力は完全になくなっているわけではないが、もう、俺は不特定の人間にチューニングを合わせることができん。組織はもう俺に用はない。‥‥殺すほどの用もない。俺は勝手に死んでいくからな」
 サーペントは表情一つ動かさず静かな表情で聞いていたが、そっとたずねた。
「どこでエリギデルとレプリカントのことを聞いた? 組織はこのことを知らないんだな?」
「ああ。俺は‥‥ずっと、連邦の記録をしらべていた。連邦がレプリカントを開発しているという話は前からあった。一時期、技術者を引き抜いていたし、培養胎に必要な薬品を大量に買っていたからな。予算の流れを追っていけばわかる。だが、エリギデルを境にして、ほとんどすべての流れが変わった」
 フェリカの目がどんよりと曇った。息をついて、彼はポケットから取りだしたケースを開け、パッチフィルムを首すじに貼り付ける。
「‥‥エリギデルで何が起こったのか、そこに目が行きさえすれば、中味を察するのは難しいことではない。あの記者がたどりついたように──」
「セイン・ワートブル」
 ウェンの本名をサーペントが口にすると、フェリカはうつむいたままうなずいた。
「研究結果は破棄されたと思った。だが‥‥あの記者は、それを掘り起こしにかかった‥‥」
「お前、あいつを追ってきたのか。──なるほど、かわいそうに」
 つぶやいて、サーペントがうっすらと笑った。奇妙に陰惨な笑みだった。
 フェリカはまばたきしてサーペントを見つめたが、体がぐらりと揺れ、彼はずるずると床に座りこんだ。体がきかない。ここのところ、薬の効き方がまったくコントロールできなくなっている。呻いた口のはじから唾液がこぼれた。
 サーペントが新しい水のパックをあけ、首の後ろをささえて、フェリカの口へ水を流しこむ。すべて飲むのを確認して床へ横たえ、目をみひらいたままあえぐフェリカを眺めていた。
「‥‥フェリカ」
 呼びかける。
 フェリカの腕がのびた。サーペントは動かない。焦点のあわないフェリカの視線が宙をさまよい、彼はサーペントの髪を指先にからませるようにして、すがる手でサーペントの顔をたしかめた。頬に指をすべらせ、引き寄せる。サーペントは、さからうことなくフェリカの上へ体を倒した。
 唇が重なる。むさぼるようなフェリカのキスを、サーペントは口をひらいて受け入れた。不器用で情熱的な舌がサーペントの舌にからみ、強く求める。
 フェリカが喉の奥で呻き、すべての動きがとまった。
 がくりとフェリカの首が落ち、床に崩れたまま、男は目をとじた。
 サーペントは、ゆっくりと上体を起こすと、弱い息をたてるフェリカを見おろしていた。ラベンダーの瞳に笑いはなく、そこに読み取れるような表情は何もなかった。
 じっとフェリカを見つめていたが、サーペントはふいに喉をそらして笑い出した。澄んだ笑い声をたて、肩をふるわせながらフェリカの横にくずれる。体をふるわせ、金の髪を乱して笑いつづけた。

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