連絡がほしい、と暗号で送ると、すぐにピアスから携帯の呼出音がかすかにひびいた。
エースが骨導イヤホンをはめて通話をオンにした瞬間、罵詈雑言が響いてきた。
「てっめェまた騙したな! 嘘つきは泥棒のはじまりだって言ってただろうが!」
そんなこと言ったっけ、と思いながら、エースは片手でビールの栓を抜いた。
「何を騙したって?」
「セイン・ワートブルに会ったことがないって言ったろ!」
エリギデル・ミステリーのネタを追いかけている記者の名に、エースは眉をひそめた。手にした瓶からビールを一口飲んで、
「いや。会ったことはない筈だ」
「‥‥」
「サーペント?」
沈黙が何となし不気味になって呼ぶと、相手は短いため息をついた。
「ああ、そう」
「何だ。奴が俺に会ったと言っているのか?」
「どうでもいいよ、そんなこと。それより何の用。五秒で切るよ」
自分で喧嘩を売っておいて、無茶を言う。エースは端末を操作して、子供の足の裏にあった二次元コードの映像を送った。ギリギリ五秒に間に合ったようで通信は切れず、不機嫌な声がした。
「で?」
このタイプの図形コードが人の肌に刻まれていることの意味は、サーペントもよくわかっているはずだ。エースは静かに言った。
「すまんが、少し面倒を見てほしい」
「はァ!? 何で俺がお前がどっかで拾ったオモチャの相手しなきゃいけないわけ!?」
打てば響くようにわめかれて、エースはイヤホンの出力を少し下げた。どうやら相棒は虫の居所が悪いらしい。そんな時の彼がどんなふうなのかはよく知っている。そばにいなくてよかったとホッとする一方、彼にふれて抱きしめられないことにあらためて苛立った。どんなに面と向かってわめかれようと罵られようと、今この瞬間のサーペントを腕に抱いてたしかめたかった。五割増しの悪態をつきながら、それでもきっと熱病のようなキスで応えてくれるだろう、と思う。
一瞬の間があって、サーペントがけげんそうにたずねた。
「何考えてる」
エースは微笑した。
「お前を抱きたい」
「‥‥馬鹿──」
「うん、まあ、そうだ。サーペント、眠れてるか?」
「やかましい。だからそうじゃない、何だ一体どういうつもりでオモチャなんか道で拾ったんだてめェ」
「ののしるのを一分ほどやめてくれたら説明する」
それに答えはなく、どうやら「一分」がはじまったらしいと判断して、エースはすばやく経緯を説明した。キリング・ムーンのイルヴェンでの一つ目の殺害現場からボロボロにいためつけられた子供をつれ帰ってきたのは五日前のことだ。
「そんで」
あらかた経緯を聞き終わったところで、サーペントがやはり不機嫌そうに言った。
「俺が何でガキの面倒を見るわけ? その間お前は何、ワルツでも踊りにお出かけか?」
「イルヴェンを離れる。その間、お前にたのみたい」
淡々と、エースは言った。脅しもなだめすかしもサーペントには逆効果だ。泣き落としときては、なおさら。
サーペントは一瞬沈黙した。
「──何だって?」
「もう一度言うか」
「ぬかせ、そういう意味じゃない、エース、尻尾巻いて逃げ出すならガキつれてけよ」
「3日で戻る。少し野暮用が出来てな。その間だけたのむ。代謝が悪くてドラッグが抜けきれなくて、中和剤飲ませたんだがたまにひどく暴れるんだ。人がついていないと窒息する可能性がある」
「シェルターに放りこめ。イルヴェンにだってあるだろう、人身売買の被害者を支援するシェルターが──」
「サーペント」
エースはおだやかにさえぎった。
「ただの人身売買じゃない。コードODだ」
「だから? シェルターにつっこめよ。臓器用のクローンだってシェルターは引きとって餌を食わせるさ。明日、肉屋にならぶってわけじゃねェだろ」
「コードODはシェルターでの "立ち直り期間" がすぎれば病院に引き取られる。臓器として使えるかどうか検査をした後は、ファクトリーに回されるか、廃棄だ」
「だーから、何だってんだ」
サーペントの声はナイフのように鋭かった。
「またお得意の偽善か? そのガキいくつだ? 人間の言葉しゃべれんのか?」
「データからすると、多分14。話せない」
「そんなもんを拾ったところで何になる? 動物以下だよ。ファクトリーに返すのが嫌なら殺せ。どうせ生きてたって死んでたって同じだ。この先そのガキがどうやって生きてく? 何だ、親ドリよろしくてめェがせっせと餌でも運んで育ててやる気か?」
「あのな──」
「俺を巻き込むな、てめェ一人でやれ!」
「情報と引き換えだ」
切られるより前に、とエースはすばやく口をはさんだ。
「幽霊の正体。それで手を打たないか?」
「安い。ナメるな」
「何がほしい」
サーペントはすぐには答えず、間を置いた。エースの弱みと自分の状況を秤にかけている。少し愉しみだした気配を感じ取って、エースは天井へ目をやりながらビールを喉に流しこんだ。サーペントが、あまり退屈していないといいのだが。
苦く冷たい感触が喉をすべりおちた時、サーペントが言った。
「キリング・ムーンに何がある」
「‥‥質問の意味がわからん」
エースは眉をしかめた。
「何がってどういうことだ?」
「お前だよ。どうしてキリング・ムーンに執着する、エース」
「執着しているのはそっちだろう──」
「キリング・ムーンのことを俺に言わない。はじめから隠そうとしてたし、今になっても隠そうとしている。何故? それともその記憶も奪われている? お前にとってキリング・ムーンは何、A. A?」
久々にイニシャルで、やわらかく喉の奥にかかるような声で、サーペントはエースを呼んだ。反射的に、エースの奥底で呼び醒まされる欲望がある。心臓を丁寧になでられたような、優しいが致命的な感覚に、エースは一瞬目をとじた。耳元で恋人の声が囁く。
「言って御覧。キリング・ムーンはお前にとって何? エース、お前の中にいったい何がある──」
「‥‥よせ」
ビールの瓶を握りしめ、痛むほどに太腿へ押し付け、エースは呻いた。油断した。距離が離れても、サーペントは一瞬のうちに彼の心をとらえる。大きな感情のうねりが嵐のようにわきおこる、そのどこからがサーペントの持つ "共鳴" の力でどこからが惹かれてしまう自分の気持ちなのかわからない。サーペントにもわからないだろう。"共鳴" は彼にとって無自覚で制御不能な力だ。他者を自分の感情の内へ引きずりこむ力。
渇くほどの欲望をおぼえていた。
その欲望の強さがまた次の欲望を煽る。サーペントが自分に劣らず飢えているのを感じて、エースは視界が丸ごとくらむような気がした。息を小さく荒げ、一瞬強く歯を噛んだ。かすれた声で囁く。
「お前、何かキメてるのか?」
「ん? いや今は何も‥‥何で? 俺マトモにしゃべってるような気がするけど」
「流されそうになった、今」
エースは汗ばんだ額を手の甲でぬぐった。磁力のような感覚は消えていた。
「へェ」
ヒュッと短い口笛。驚いたようだった。
「何、通話ごしに? 凄えや。テレパスみてェだな」
「お前はただの竜巻みたいなもんだ。役には立たん」
エースは素っ気なく返した。調子にのられてはたまらない。それにしても迷惑だし、実に強烈だった。強烈に、欲しくなる。どうしても会いたいと心が強くうずいたが、どうにもならないことはわかっていた。サーペントの中にはまだ沸騰するような激しい怒りがある。それをも、エースは味わっていた。純粋な怒りと純粋な欲望、そんなものが、サーペントの中ではためらいもなく両立している。異様な感覚だった。
溜息をついた。
「まだ怒ってるんだな、お前」
「ふふん。そうさ。また腹立ってきたな。俺に会おうとするなよ、ただ殴るだけじゃすまないからな」
あながち冗談でもなさそうに、しかしどこか上機嫌に、サーペントは言った。エースに自分の怒りを──いささか偶発的にだったが──知らしめたのが、うれしいらしい。可愛いといえば可愛らしい、と思いかかって、エースは気を引き締めた。そんなところにくらっとしている場合ではない。いつもこれで痛い目を見る。
「サーペント。取引の話だが」
「ん?」
「やはり、まだ言えない。だが、言えない理由を教える。それでどうだ?」
「ばぁか。理由なんかわかってんだよ。お前、キリング・ムーンを殺す気だろう。俺がわかんないのは、何でお前が殺すほどアレに執着するのかってことさ」
エースは金属ののメッシュ構造が重なり合った天井へ目をやった。重い金属のレールの影が天井でクロスしている。
「いつ、わかった」
「何が?」
「‥‥いや‥‥」
ソファによりかかっていた姿勢をおこし、金髪をぐるりと指でかき回してから、エースは相棒へたずねた。
「フェリカは、わかってるのか? あれは彼のボディにはならんぞ。人を入れるようにはできていない。そもそも、人とは言えないしろものだ。遺伝子のレベルから非常に特殊にチューニングしてある。いかにフェリカの移植寛容が高いと言っても、人でないものに入れるほどではないだろう」
「移植する気はないみたいさ。たぶんもう脳が耐えられないんじゃねェ? なぁ、お前俺の取引に応じんの、応じないの?」
苛立たしい棘がサーペントの声にはえてきたのを感じる。エースは吐息を口の中で殺した。
「言えない。言いたくないんだよ」
「てめェ──」
「ほかの条件をつけてくれ」
通話が切れた。
何故言えないのか、エースは天井を見上げて一瞬ぼんやりした。その理由が、自分でわかるようでよくわからない。彼にしては珍しいことだった。
わかっているのは、自分の手でカタをつけたいということだけだ。はじめたのは彼ではないが、その片棒をかついだ。あの日、大量に戦場投入されたレプリカントと直接交信し、命令を与えていたのはエースだった。軍に奪われた記憶の一部はまだ空白だが、あれから三年、少しずつよせあつめたかけらの中には、鮮烈ないくつかの光景がある。
サーペントは、エースが言った嘘をどこまで見抜いているのだろう。そう思ったが、エースは首をふった。立ち上がり、低い天井の部屋のすみに歩み寄る。一見硬質なフロアクッションはやわらかく沈んで足音を殺した。壁も同じ材質でできていて、ぶつかったり倒れたりしてもさしたる怪我はしない。
壁ぞいにうずくまっている毛布のかたまりへ、話しかけた。
「仕方ない。いっしょに行くか?」
「‥‥」
光のない目は、彼を見なかった。やせた体を毛布にくるんで床に丸くなり、少年はほとんどエースの言葉に反応しなかった。時おり絶叫をあげて暴れ回り、押えつけると嘔吐したが、時間がすぎればまたパタリとおさまって静かになった。日に五度近かった発作も少し回数が減り、今では10分ほどでおさまることが多い。よくなっているのかどうか、エースには楽観できなかった。
少年の命に関わると思えば、エースは鎮静のための薬を投与したが、眠らせるにはかなりきわどい量が必要だったので、いつも与えるわけにはいかなかった。幸いなのは彼がメタンフェタミン系の中毒にはなっていないことだ。
しゃがみこみ、エースは手をのばして少年の頭をなでる。少年は何の反応もしなかったが、拒否もしなかった。随分ましになった。意識のない時に垂れ流しの下を洗い、嘔吐にまみれた体を洗って、毛布を新しいものに取り替える。なかなかそれだけで一日が忙しい。
サーペントがいやだと言う以上、つれていくのが一番なのかもしれない。金で使える人間を探すのはたやすいが、エースはあまりイルヴェン全体にいい雰囲気をおぼえていなかった。首に賞金をかけたり、ゲームのターゲットにしたり。この都市には狩りが多すぎる。
少年の光のない目を見ながら、エースはつぶやく。
「外もお前にとっては地獄かもしれんが。行くか?‥‥と言っても、わからんか」
反応はない。コードOD──移植臓器用のクローンとして、少年はいつまでファクトリーの中にいたのだろうとエースは思う。彼の足に刻まれたコードは、10年前に廃棄された個体のものだったが、一部のファクトリーでは廃棄届けを出しておいて、その個体を裏取引に回すことがある。
そのルートのどこからか、彼は玩具用に売られたのだろう。そこからまたムーン・ストラッカーたちの手に落ちた経緯まではわからないが、問題は彼がここにこうして「生きて」いることだった。
サーペントが「偽善者」とののしったのは正しいのだろうな、とエースは口はじを引く。エース自身に善や救済をしているつもりはなかった。ただ、見つけてしまっただけだ。それ以上深い気持ちはなかったし、今でもそれだけのことだった。だが、サーペントに「それだけのこと」を説明するのは難しい。理解するのをきっぱりと拒否した以上、サーペントは聞く耳持たないだろう。
煙草をさぐる手をおさえ、やせた人形のような子供を見ながら、エースは少しの間そこに立っていた。
ピアスが小さな音を鳴らす。子供を見ながら数歩下がって、エースは端末を耳にあてた。口元に小さな笑みをうかべてたずねる。
「条件は?」
「丸坊主にするか」
「わかった」
吹き出しそうになりながらエースが答えると、サーペントが何か毒づいた。ひとしきりエースを早口にののしっているようだが、早すぎてよくわからない。エースはとにかく笑いをこらえていた。
気が済んだのか、それとも途中で切り上げたのか、ふいにサーペントがたずねた。
「それで。いつ、どこに行けばいい」
「2時間後、サリ・エル通りのバディハーズ。地下205。スペシャルルーム」
「調教部屋かよ」
「防音が行き届いててね」
かろやかな笑い声がきこえて、通話はまた向こうから切られた。エースは子供へ目を向ける。
「子守がくるそうだ。取って食いやしないから、怖がるなよ」
当然、返事はなかった。
2時間後、サーペントはカウンターで電子キィを受け取り、うすぐらい廊下を通って地下の部屋へ入った。
壁に埋め込まれた照明がやわらかく反射して、どこか黄色っぽい光が室内をおだやかに照らしている。天井にはレールが引かれ、壁際にはにぶく光る鎖が寄せられていた。壁のあちこちにも目につく突起がある。裏返せば鉤が出てくる仕掛けだった。ほかにも色々出てくるかもしれないが、サーペントはとりあえずためすつもりはない。
「一人でSMしてもねぇ」
口の中でつぶやいて、部屋のすみにうずくまる子供を見やった。エースがゆるい鎮静剤を与えたので、今はまた眠っている。彼が送ってきた傷のデータを見ながらサーペントは寝椅子がわりのソファへ歩み寄り、逆から背もたれに腰をのせた。ひょいと足を組む。
「背中の創傷、腕の骨折、大出血なし、内臓出血なし‥‥舌に刺傷あり」
眉をしかめ、頬におちてくる金の髪をかきあげた。
「トラウマあり、とは書かないか」
空中をにらむ。言い様もなくこの状態が気に入らないのだが、引き受けた以上は仕方ない。
「なんか最近ヒトのおもりばっかしてる気がすんなあ。‥‥向いてないんだよ」
ひとりごちて、エースがソファの上に置いていったパッケージを取り上げ、中をのぞいた。飲み水のボトル、食事のパッケージ、薬のアンプル、包帯、外傷用の薬剤セット。その中から小さなデータチップカプセルを拾い上げ、カプセルを割って中のチップを端末にセットした。外気にふれると一時間でデータが消えるチップだ。
手のひらサイズの端末を片手で操作しながら、水のボトルを口に当てる。
「幽霊か」
口のはじでつぶやいて、エースが残していったデータを見つめた。今回噂になっている「幽霊」の初出現と思われる時期を、エースは噂から絞り込んでいた。およそ七ヶ月前。そもそも幽霊話にはことかかない都市だが、その「幽霊」は人の名前を呼んでいた、と言う。それが何の名前なのかは噂が入り組んでいてわからない。「自分の名前を呼びながら追ってくる幽霊」の噂が、そのころイルヴェンのボード乗りの間で話題になっている。
どうやら、最初の噂は「幽霊」ではなく、「そういう男がいる」という噂話だったらしい。それが「幽霊」になったのは、単に「その方がおもしろい」という噂の変遷のようだった。誰かが「幽霊だったらおもしろい」と言い出し、それに賛同した人々が「幽霊狩り」をはじめたあたりで、あれは「幽霊だ」という話に決まったらしい。
「‥‥やっぱ、生きている人間なんだろうな」
ひとりごちる。サーペントもそうは思っていた。幽霊だったら何の意味もない。もし仮に幽霊だったら相手にできないし、相手にしたところでいいことがあるとは思えない。殺すことも出来ない相手というのは、サーペントの興味の範疇の外だった。
エースのメッセージに目をほそめる。
(──幽霊は、バルデウスで生まれた‥‥)
バルデウス。サーペントはほとんど聞こえない声でつぶやいた。
「バルデウス・ケージ。そうか、あれの閉鎖は去年か」
営利団体による刑務所、バルデウス・ケージ。囚人を対象にした様々な「実験場」だったという忌まわしい実態が暴露され、10ヶ月前、ついに閉鎖に追い込まれた。死刑か終身刑の凶悪犯のみを収容する施設だったが、今でも実に囚人の三分の一あまりの行方がしれない。
もっとも、バルデウスの実態など、多くの者が知っていた。サーペントも。現実に都市から犯罪者が生まれ、その罪人たちの数を都市はもてあましている。バルデウスはそれを引き取り処理する「ごみ捨て場」であって、関わる誰もがそのことを知っていたはずだった。
海上に浮かべられたメガフロート、バルデウス・ケージ。あそこで多くが死に、同時に様々なものが生まれた。幽霊もまた、あのケージから生み出されたとエースは言う。サーペントは口元を歪めるようなつめたい笑みをうかべた。
しばらくエースが残したレポートを読んでいたが、ふいに視線が流れてうずくまる子供を見た。うなりのような声があがり、少年は体をふるわせて呻く。人の声というより獣に近い声だったが、どうにか言葉が聞き取れた。
「アリア‥‥アリ‥‥ア‥‥」
「アリア=ファスキス?」
するどい眸のままつぶやいて、サーペントは立ち上がると少年のそばに寄った。
「そうか、お前は幽霊を見たのか。‥‥知ってるか? 生きているだけでは何の意味もない。幽霊も、フェリカも、キリング・ムーンも、お前も──」
ぎゃあっと子供が喉が裂けるような叫びをあげ、全身が激しく痙攣をはじめる。サーペントは小さく笑って身をかがめ、子供の首に手をかけた。
「‥‥何の意味もない」
つぶやいて、やすやすと引き寄せる。暴れ回る体を抱きとめ、その首すじを指で抑えて意識を失わせた。