act.16

 夜空には昂然たるフルムーン。血の色の甘いうるみさえ帯びて、濡れた銀にかがやいている。
 月齢29の夜。月はほとんど地球の影に入って見えない。それなのに。
 あるはずのない、月。


 エースは夜空を見上げて口元に苦い笑みを刻む。成程。
 月のない夜にキリング・ムーンが殺人を行うのならば、月をつくりだせばいい、か。イルヴェンの都治班もまた下らないことを考えたものだ。ムーンストラッカーは突如あらわれた月に余計に喜ぶことだろう。神の啓示のごとく受け取って。
 きっと、キリング・ムーンは、歯牙にもかけない。
「なあ‥‥あの夜、戦場から見上げた空には、月がなかった。あの空を、俺は今でも思い出すよ。‥‥キリング・ムーン」
 囁くように呟いて。青い目は、偽物の月を見上げる。


 サーペントは夜空を見上げてクスクスと喉の奥で笑った。これが笑わずにいられるか?
「チャチい‥‥」
 誰があんなフェイクの月にだまされる? 誰がフェイクの月に惹かれる?
「ああ、でも俺たちには似合いかもねえ、フェリカ。安っぽくて、見かけだけで、誰からも愛されたり必要とされたりしない。あの月が消えてしまっても、誰も悲しんだりしない」
 ルーフを取り去った車の座席に足をかけ、背もたれの上に腰をかけて煙草をくわえて、サーペントは気怠げに夜空を見ている。煙がたちまちに風に運び去られた。頭上には不自然に大きなフェイク・ムーン、眼下にはちらばる光のつぶ。地上150メートルのビジネスタワーの屋上から見下ろす街は、光る血の流れる血管のよせあつめのように見えた。月齢は29。だからと言って都市はその動きをとめたりしない。
「フェリカ」
 甘ったるい声で呼びながら、手にしたボトルのキャップをひねる。
「愛しも必要もしない──そんな存在になりたかったか? 心など邪魔でしかなかったか」
 ボトルを逆さまにして、中の液体を車内へぶちまけた。後部座席で眠るように目をとじたフェリカの体をとろりとした液体がたちまちに濡らしていく。
「そうかもしれんな。フェリカ。お前にとってこの世界が地獄だったのは、知ってる。俺にとっても、ずっとそうだった‥‥」
 喉をそらして笑う。吹き乱れる風が顔を覆うように髪を流した。エアフロートの駆動音が遠く聞こえる。街のサイレンが鳴った。警告。今宵は殺戮の夜だと。
 ──それでも眼下に街は美しく、華やかな光に息づいて。それは脈うち、活動をとめようとはしないまま。
(キリング・ムーンを、待っているか‥‥)
「物のようになりたかったと、お前は、言った」
 足を回して車外へふわりととびおりて、サーペントは床を蹴って車から離れる。唇から取った煙草が指ではじかれ、煙を散らしながら弧を描いて落下していく。
「せめて最後は、物のように消えるといいさ」
 金の髪が光のすじのように夜闇へ流れた。
 ゆっくりと、煙草は回転しながら車の座席へとおちてゆく。一瞬のかすかな光の軌跡。それがフェリカのしぼんだ体にふれた瞬間、青白いフレアが走って爆発的な炎が噴き上がり、車体をつつんだ。
 その時にはもうサーペントは手元の遠隔キィで車を発進させている。屋上はぐるりとカーボンのセーフネットで囲まれているが、車はサーペントが切り裂いておいた空間をくぐりぬけ、エッジの小さな段差を一気にのりこえて宙へ走り出した。
 夜空に浮き上がる紅蓮の色を、サーペントは凝視するまなざしのうちに灼きつける。車は、偽物の満月の下に炎の尾を引いた。まるで飛翔するかのように。1200度のクリムゾン・フレア。後部に横たわるはずの男の姿はまばゆく呑みこまれて見えなかった。
 夜の街へ落下してゆく炎の塊を見ずに、サーペントは身を翻した。落下を検知したセンサーが人の耳には聞こえない警報を鳴らし、落下予測地点を空けるよう車の制動信号を放つ。車は次々と強制停止させられ、ほとんどぶつかりあうように路上に停まった。
 路上にぽっかり開いた空間へ、炎の塊が轟音をたてて落下した。完全に前半分がひしゃげてつぶれ、炎の中でパーツがバリバリと音を立て踊るように歪んでいく。苦悶のようなきしみがあがった。
 数秒して、5メートルほど離れた路上に黒っぽい塊が落ち、衝撃でちぎれて飛び散った。黒くくすぶるそれが何であったのか、名残りはない。
(物のように──)
 サーペントはCOMに口元を寄せ、かろやかに笑う。お前がいなくなっても世界はつづいてゆく、フェリカ。俺がいなくなっても。
「さあパーティをはじめようか、ユイ」
 声は澄んで明るかった。


 透明な風防が車体の前半分を低く覆った流線形のバイクを壁際によせて停め、エースはゴーグルの下で目を細める。二重の薄膜をアクリルではさんだゴーグルの内側は、様々なデータディスプレイの役目を果たす。現実世界の光景とデータを、二重写し──時には三重写しで表示させながらデータを視認することができるのだ。
 アマチュアハンターが情報集積に使っているクローズボードの情報が流れてゆく。キリング・ムーンに関して多くのハンターが共同戦線を張り、その情報を集積させるためにこのコミュニティボードが何者かによって提供された。エースはこの一週間に他人のハンター登録を買い取って、ログインの権利を持っている。
 アマチュアが集積する情報の多くは、定期的にリロードされる自分の位置情報発信のみで、ターゲットをとらえるのにさしたる益はない。仮にターゲットを目撃したところで、そんな価値のある情報を無償で書き込む馬鹿はめったにいない。実際、エースが探しているのは、価値のある単体の情報ではなかった。
 無価値の、大量の情報。有象無象のハンターたちの位置情報を解析して座標を把握し、全体の動きを見る。
 彼らがどこにいるのか。どこに集まるのか。どこに移動しているのか。
 通常、彼らはここまで大がかりであからさまな情報集積を行うことなどない。数人の仲間と組むことはあるが、今日のネットワークは150人を超えている。キリング・ムーンのために、その情報収集のために、イルヴェンにいるアマチュアハンターの半数以上がログインしていた。
 これほど大がかりな共同戦線が張られたのは、一人のハンターが、キリング・ムーンに対する狩りの手法としてこれを提案したからだ。こうして数の情報をあつめることで、街に大がかりな網を張ろう、と。それを罠と為そう、と。
(──牙を持たない者の仕掛けた罠に何の意味がある?)
 エースは位置情報の座標解析をゴーグルの内側へ流しながら、きつく奥歯を噛んだ。この話を聞いた時に何かが不穏だと感じたが、その理由はわからなかった。気になるままログインの権利を買い、統率役を探り出そうとしたが、正体を割ることはできないままだ。ただ、煽った人間がいるのは確かだった。この一夜を壮大なゲームと位置づけ、パーティに参加させるかのように煽りたて、システムを組んでその有用性を証明してみせ、協力者をつのった。
 イルヴェンで、こんなふうに共同の狩りが行われたことはない。ハンターは獲物を奪いあうものであって、協力するものではない。当然だ。だが、キリング・ムーンへの執着がすべてを狂わせた。いや、否──とエースは皮肉に考える。キリング・ムーンへのハンティングに参加していたいという、愚かな連帯感。娯楽を逃がしたくないというあさましい欲求。「遊び」に対する人間の執着は、時に常軌を平気で逸する。
 その集団的熱狂をたくみに煽って、ネットワークへつないでしまった人間がいる。無防備なハンターたちに名札を付けた。その人物の目的がハンターたちの目的と同じものなのかどうか、エースは疑っていた。
 近づいてくる熱源を感知し、ゴーグルの内側へ警告が点滅した。エースは吐息を口の中で殺す。このネットワークにログインすると、自動的に自分の位置情報を送信しつづけることになっている。事前にためしてみたが、よくできたもので、簡単にはフェイクをかけられないようになっていた。イルヴェン内のクローズドなネットワーク機能を利用して多重認証を行っているせいで、位置情報にフェイクをかけるのが面倒臭い。できないことはなかったが、フェイクを見抜かれるとその場で強制ログアウトにされる。それも面倒で、エースは自分の位置情報が発信されるのを放っておいた。「面倒」だけが理由ではなかったが。
 近づく熱源は、人体のものだ。三人。
(──やはり)
 背すじにぴりりと緊張がはしる。自分の内側から出たものではない。近づいてくる人間の殺気を、エースのとぎすました心が鏡のように反射したのだ。口元に、彼は鋭すぎる笑みを浮かべたが、ゴーグルの内側を凝視する目はひどく暗かった。
(お前か‥‥)
 小さな熱が放物線を描いたのが、ゴーグル内に白くうつった。こちら目がけてのものではなく、やけに軌跡が高い──爆発物ではない。エースがバイクから飛び降りた瞬間、ゴーグルの内でフレアが散ってすべてが塗りつぶされた。
 電磁ジャミングと放熱体の二重仕掛けだ。これで電磁的なスキャンも熱源捜査も封じられる。通り魔にしては大した装備と戦略だった。
 エースは、勘が当たっていたことを悟る。彼らは「ハンター」を計画的に狩りに来たのだ。
(ムーンストラッカーたちが、キリング・ムーン目当てのハンターを狩ろうと‥‥)
 路地に走りこんで銃を構えた三人は、空のバイクしかないのを見てたじろいだ。たしかに二秒前までそこに黒ずくめの男がいたのを視認している。だがバイクに人影はなく、その先は長い一本道だ。
 あわてて走査しようにも、走査手段は自ら封じていた。うろたえてあちこち見回そうとした時、三人のうち二人がドサッと地面に崩れた。銃をあらぬほうへ構えかかった三人目の手首に砕けるような衝撃がはしり、銃が地に落ちる。
 悲鳴をあげて膝をついた目の前へ、エースが上からとびおりた。ゴーグルは外している。銃身の短いずんぐりとした銃を左手に下げて、しげしげと三人目の顔をのぞきこんだ。まだ子供のような、だが少し薄汚れた顔をした、派手な格好の少年だ。頭を剃り上げて顔にピエロまがいの化粧をし、左目の下一列にずらりとピアスをならべていた。
「ムーンストラッカーか」
 ふてくされたように答えないので、横から腰を蹴って地面に倒し、顔面を踏みつけた。大したダメージではないが、一瞬で荒々しい扱いを受けた少年はパニックに陥って、声もなくエースを凝視する。エースはもう一度、軽い調子でたずねた。
「ムーンストラッカー?」
「‥‥」
 もう少し踏みつけると、少年はうなずいた。エースはつづける。
「司令塔は誰だ?」
「知らねェ──」
「お前たちのリーダーは?」
「リーダーなんていねぇよ」
 恐怖と怒りにかすれた声で、少年は呻くように言った。嘘ではないだろう。ムーンストラッカーにその手の「リーダー」がいるという話は聞いていない。エースが見下ろしていると、少年はその沈黙に何かを嗅ぎ取ったのか、あわてたように言った。
「言い出しっぺはユイだよ!」
 ユイ。エースはふいに笑い出しそうになった。それは、サーペントが「子猫」と題してあの子供をオークションに出した時の、落札者のハンドルネームだ。サーペントの取引相手。
 これは偶然か?
 ──まさか。
 エースは少年の首に手刀を打ちおろして気を失わせ、三人の肘をまとめて後ろ手に縛り上げ、転がす。その頃までには周囲にばらまかれたノイズパウダーもおさまって、エースはゴーグルを戻してハンターの位置情報を再度呼びだした。
「‥‥減ってるな」
 小さく笑う。やはりそうだったのだ。このシステムは、キリング・ムーンを狩るためのものではない。
 これは、ハンターを狩るための、「獲物」をマッピングするための、システムだ。
 追う者と追われる者を、逆転させるための。


 ムーンストラッカーが動き出したとホドランドに聞いた時から、エースは相棒が一枚噛んでいるという疑惑を持っていた。ホドランドは、そのムーンストラッカーの動きを「陽動作戦」と思っていたようだが、エースの見解は少し異なる。それにしては、警察の武器庫を襲うなどの立ち回りが派手だし、組織化されていないムーンストラッカーを動員したところで、キリング・ムーンを狩るためのさしたる陽動になるとは思えない。むしろ、エースには邪魔でしかない。
 単なる陽動なら、イルヴェンにぞろぞろ溜まっているハンター連中に大量の偽情報でも流して踊らせればいいことだ。その方がずっと簡単にすむし、細かく操りやすい。それをせず、わざわざムーンストラッカーをあつめてハンターを襲わせる。徹底した派手好みのサーペントらしいやり口だった。
 そのために、ハンターの位置情報が必要だったのだ──エースは、そう確信する。このシステムをつくりあげ、ハンター達を煽った。彼らの位置をマッピングし、ムーンストラッカーに狩りの獲物がどこにいるか知らせるために。
 その情報を元に、ムーンストラッカーはハンターを襲い、狩る。この三人がエースを襲ったように。
 狩人を用意し、獲物を用意する。
 狩りははじまったのだ。エースは頭上を仰ぐ。のしかかるように高い壁の向こう、切り取られた夜空に君臨するフェイクの満月が見えた。うすっぺらく、そしてそれゆえに美しい。
 月と二重写しにゴーグルへ投影された街の座標図の中で、一つ、また一つと点が消えはじめた。──バイタルサインが消えていく。ハンターの、生体反応が、街のそこかしこで、一つずつ。
 消えてゆく‥‥

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