帰るべき地のある者は幸いだ。
心の内にふるさとを持つ者は‥‥
くちびるにかかった歌を途切らせ、彼は頭をふる。帰るべき地、帰るべき地? ばかばかしい。そんなもの、ない方が幸せにきまっている。なければこんな思いはしない。これほどに心を迷わされることもない。
──あの地は、彼を待ちはしない。
彼のすべてを奪い尽くした、あの地は‥‥
だが心はそうは思っても、魂に刻まれたように消えないものがある。忘れ去ったと、あきらめたと思っていても。
(──約束を)
夜の空を見上げる。あと内海を一つ渡れば、クーホリアの港町へゆきつく。そこから王城アシュトス・キナースまではわずかな距離だ。あっけないほどに近い。ここまで帰るのに、二年かかった。
(果たしに帰ろうか‥‥)
遠い誓約を裏切り、捨てたと思ってなお忘れられない。あの約束が果たされることなどもうないと思っていた。あの約束を、相手はとうに忘れ去っているだろうと思っていた。だからあの地を捨て、なにもかもを裏切ったのだ。
よろめくように暗い路地を抜けていると、バタバタと軽い足音が近づいてきて、ぼんやりしていた彼の腰へドンとぶつかった。倒れかかる小さな体を抱きとめて、間近にのぞきこむ。涙に濡れて彼を見上げたのは、まだ幼い子供の顔だった。誰かに殴られたのか、両頬が赤く腫れ上がっている。唇のはじが乾いたかさぶたに膨れ、青黒くなっていた。
「!」
虚を突かれた彼の腕から、子供はするりと逃げていく。一瞬にして闇へ消え、焦げたような臭いだけがうしろに残った。足音の中に煮つめたような恐慌を聞きとって、あの小さな影を追おうかと思う。何ができると言うわけではないが。
その時、ふっと強い異臭を嗅いだ。子供が走ってきた方角だ。早足にそちらへ向かった。
狭い路地を抜け、やや大きめの通りへ出る。背の高い建物がゆったりした構えを見せる並びにひときわ大きな聖堂があるが、円形伽藍を持つ豪奢な建物の足元から、メラメラと黄色い炎がたちのぼっていた。
呆然として立ちすくむ。どうするべきかと考えをめぐらせた時、人が走り寄ってくる気配があって、後ろからぐいと腕をつかまれるや否応もなくねじ伏せられた。夜警だ。数人いる。火事だ、と叫ぶ声をききながら、彼は石畳へ押し付けられていた。容赦なく石が顔を擦り、呻く。
ぐいとゆすられ、怒鳴られた。
「貴様だな、火をつけたのは?」
「‥‥‥」
首を振ろうとして、さっきの子供の顔が脳裏にうかんだ。泣いていた。痩せた体からは奇妙に焦げくさい、炎の残り香がした。
どこから逃げてきたのだろう。何から逃げて、どこへ行くのだろう。
「聖堂に火をつけたな!」
溜息をつく。力を抜き、目をとじて、うなずいた。
「名前は?」
「ジャクィン‥‥」
つぶやく声は、自分の耳にもほとんど聞こえなかった。