扉がしまると、あたりは暗がりにつつまれた。窓の外はまだぼんやりと夕暮れの明るみが残っているが、室内は暗い。ゼンがすばやく動く気配があって、油燭に炎がともる。油皿に丸いほろをかぶせて、ゼンは二人の先へ立った。
そこは小さな続き部屋で、窓辺に大きな鳥の模型が吊るされている。床には、どうやらつくろいかけらしい帆布が盛大に波打っていた。レイヴァートは布を踏まないようよけながら、続き部屋の扉をあけるゼンの背中を追う。イユキアも吐息まじりに追った。
続きの部屋は、がらんとしてほとんど何もなく、床のすみに、たたんだ毛布が膝の高さほどまで積んである。壁に打ちつけられた厚みの薄い棚には、小さな壺や木箱がいくつか並べられ、乾いた、独特の匂いが漂っていた。
ゼンが毛布を一枚とって床へひろげる。短く礼を言って、レイヴァートはかついできたロゼナギースの体を毛布へ横たえた。イユキアをふりむく。
「要るものは? ここには、多少の薬草もある」
すでにイユキアはあたりへ漂う香りに気付いていた。見回した目が、壁のくらがりに吊るされた草木の束を見やる。簡単に手持ちのものですませようと思っていた予定を変えて、一瞬考えた。
「石鉢と水を。あと、オキナグサとニガヨモギ、少しいただいていいですか」
言葉を聞いたゼンがぱっと動いて、準備を手際よくととのえる。イユキアは自分のマントの内袋から取りだした布の筒をくるくるとひろげた。縫いつけた仕切りに、丸薬の包みや、気付けの枝、毒抜きの鉱物などがおさめられている。その中から二枚貝を合わせた器に入った軟膏を取りだし、小指で軽くすくうと、ロゼナギースの鎖骨のくぼみへ塗り付けた。先刻、使い魔の影を吸いだした場所だ。わずかに痕が影になって残っている。そのままでも心配はないが、一度そうして魔呪を通した場所から、思わぬものが入りこむこともある。魔除けでふさいでおくにこしたことはなかった。
作業を見ていたレイヴァートがふっと顔を上げ、静かに部屋を出ていく。すぐに隣室からヒルザスの声がきこえた。追いついてきたのだ。
となりの声は気にとめず、イユキアは作業に集中して治療をつづけた。手元を油燭の灯りで照らしながら、すばやい手つきで薬草を合わせていく。その間、ロゼナギースの呼吸の深さとリズムを感じ取りながら、自分の気配をそれに重ねて、あたりの空気の流れを少しずつ変えた。より深く、より清浄に。
入ってきたヒルザスとかるい挨拶を交わし、あたりにひろがっていた帆布を片付け終わって、ゼンは外へ出ていく。また石を彫るのだろう。狭い前庭には、ゼンが奇妙な形を彫りつけた石が無数にちらばっている。たまに、船乗りがおもしろがって護符がわりに買っていくこともあるらしい。
ヒルザスが隣室へあごをしゃくった。
「どうなってる」
「施療中だ」
「黒館の主が毒を盛るってことはないのか?」
レイヴァートは、友人が冗談を言っているのかと見つめたが、ヒルザスは存外真面目な顔をしていた。重ねて言う。
「だって、そうだろう。ローゼ殿は黒館にうらみがある。しかも、短剣つきつけてつれ回したんだぜ。この際、先手を打って殺っちまおうって考えたり、するぞ、俺は」
「お前はな」
「てめぇはしないのかよ──」
「今の黒館の主は、毒は商わん」
水掛け論になりそうだったので、レイヴァートは面倒そうにさえぎった。ヒルザスは「ふぅん」とうなずいて、それ以上こだわりは見せなかった。じっさい、ここで毒を盛るような真似は、たとえイユキアがしたくともできないだろう。あまりにあからさまだし、馬鹿馬鹿しすぎる。
二人は、人の手配と段取りについて会話をかわした。ヒルザスはすでに、詰め所に人をやってこの家へ担架を運ばせている。ロゼナギースが回復し次第、騎士の詰め所に運び、王城からの指示を仰ぐ。すでに王城へは伝使をやったと言う。
大体の話が一段落すると、ヒルザスが例のマント留めを取り出した。
「これは、どうする」
「王城には伝えたのか?」
「いや」
たしかに、口頭でつたえられるようなことではない。レイヴァートは考えていたが、小さな吐息をついた。
「次の王城への伝使に、手紙をつけてこれを持たせよう。陛下がご判断なさることだ。‥‥王城には、あの方の息子がいる。我々に素性を知られた今、あの方もそうは愚かなことはなさるまい」
「そうだな」
ヒルザスは顔をしかめたが、うなずいた。二人は一瞬だまる。
少しためらってから、ヒルザスが言った。
「なあ、レイ。‥‥マキアをつれてきてもいいか? ローゼ殿に会わせてやりたい。6年前も、顔を合わせることはできなかったそうだ。これをのがせば‥‥二人は、二度と会えないかもしれん」
レイヴァートの口元に小さな笑みがうかんだ。
「行ってこい」
ニヤッと笑みを返し、ヒルザスはマントを翻して夕闇の中へ小走りに出ていった。
ロゼナギースの頭を腕にかかえ、回した手であごを巧みに開け、イユキアはゆっくりと薬の入った皿をかたむける。ロゼナギースの喉がうごいて嚥下したのを見とどけると、また少し口に含ませ、慎重に、丁寧な手つきですべての薬を飲ませていく。
レイヴァートは、扉の脇に肩をもたせかけて、イユキアの作業を眺めていた。
部屋には、しんとした空気が満ちている。肌がやわらかな水にふれているような、ふしぎな感覚があった。イユキアが人に施療を行う時にあたりがこんな空気に変わるのを、レイヴァートは前に感じたことがある。魔呪か、と聞いたこともあるが、そうでもないらしい。治癒の技の一環らしいが、イユキアにもうまく説明できないようだった。
薬を飲ませおわると、ロゼナギースの頭を横たえ、首の後ろへ丸めた毛布を入れて頭を固定し、唇を布で拭いてやる。すでに左肩の傷口は水で洗い、ヒレハリソウの軟膏で覆って布で巻いてあった。
しばらく、右手をロゼナギースの口元へ、左手指を首の血脈に当てて、呼吸と脈をはかりながら体内の流れをととのえていたが、やがてイユキアは静かに手を引いた。レイヴァートを見上げる。
「起こしますか?」
「いや」
レイヴァートは首を振った。マキアが来てからの方がいいだろう。イユキアがほっとしたようにうなずいて、ひろげてある薬草を片付けはじめた。その様子をながめていたが、レイヴァートが呼ぶ。
「イユキア」
「‥‥‥」
水にくぐらせた指先を拭って、イユキアはレイヴァートを見やった。
イユキアの白い顔に、点々と血の跡が散っている。使い魔をとらえようとした時、舞った血がついた跡だ。レイヴァートは膝をつくとイユキアの手から布をとり、水で濡らして、イユキアの肌に乾いた血を拭いはじめた。
一つ一つ、丁寧に朱の汚れを拭いとってゆく。たずねた。
「あんなふうに、術をやぶって、お前は何ともないか? 本当に大丈夫か?」
「‥‥レイヴァート」
「何だ」
額から頬へ、拭いおわった布を置き、レイヴァートはイユキアの頬へ手をあてた。伏せようとする顔を上げさせ、まなざしを合わせた。今日のイユキアが自分をまっすぐ見ようとしないことに、彼はとうに気づいている。
「どうした?」
「知って──いるのでしょう。私が、あの店で何をしていたのか」
レイヴァートはまばたきする。イユキアは、とりつくろったような無表情で彼を見ていた。その下に揺らぐものを押しかくすように、声は低かった。
「気付いたのでしょう?」
「ああ」
レイヴァートはうなずいた。
イユキアがはっきりと身を固くするのが、ふれた手につたわる。暗い色の瞳を見つめたまま、レイヴァートは淡々と言った。
「人の血を、買っていたのだろう」
「‥‥けがらわしいと、お思いでしょう」
目を伏せたイユキアの頬にふれる手を離さず、レイヴァートはじっと見ていたが、ふいに言った。
「飲むのか?」
「まさか! そんなことは──」
あわてたイユキアは、レイヴァートの笑みにあって、からかわれたのだと気付く。頬をさっと赤みがはしって、彼は顔を伏せた。
レイヴァートは笑みを浮かべたまま、
「なら、それほど恐ろしいことではない。どんな術に使うにせよ、‥‥お前は、理由もなく人の血を要したりはしない」
「‥‥‥」
「それに、俺は知っていたぞ。ずっと前からな」
イユキアがはっと目をみひらいてレイヴァートを見上げた。レイヴァートはうなずく。左手で、イユキアの髪をなでた。
「お前にはじめて会いにゆく前に、俺は、お前のことをしらべたからな。その時に耳にした話の中にあった。黒館の主は、たまにクーホリアで人の血を買い、血の技を行うと」
「‥‥あなたは‥‥」
全身から力が流れ出す気がして、イユキアは長い溜息をついた。凍るように身の内がつめたくなっているのに、今さら気がつく。小さな震えが体を抜けた。
「忌まわしいとは、思わなかったのですか‥‥」
「思った。その時はな」
正直に言うレイヴァートに、イユキアはかすかに苦笑した。その肩へ腕を回し、レイヴァートはイユキアの体を強い力で抱き寄せ、抱きしめた。こわばったイユキアの体にぬくもりをうつすように無言のままきつく抱く。マントの上から背中の線をたしかめるように手のひらを這わせると、イユキアが小さな吐息を洩らした。つめたく冷えた体の芯が、ぼんやりと熱をおびる。やがて、ほそい体はゆっくりとレイヴァートへ体重をあずけた。
レイヴァートが囁いた。
「そんなことを怖がっていたのか?」
「‥‥少し」
「お前は、本当に‥‥」
小さく笑って、レイヴァートはイユキアの顔をのぞきこむ。とまどったような表情をうかべたままのイユキアを見ていたが、身を傾けて口を重ねた。ゆっくりと味わうように、唇を愛撫する。
長いくちづけに、めまいすらおぼえてイユキアはその熱に身をゆだねかかる。レイヴァートの腕も唇も、ただ熱く、心地よい。体が飢えたようにその熱を飲み干し、大きく揺らぐ。まるで酔ったように感じながら、彼は頭を振った。
「‥‥レイ」
「ん‥‥」
答えるレイヴァートの声も、同じ熱に酔ったようで。イユキアを抱きしめて離そうとしない。イユキアは前より強くあらがった。
「レイヴァート──」
「‥‥ああ」
小さな息をついて、レイヴァートは腕を解いた。まっすぐな眸でイユキアを見つめて、言う。
「会いたかった」
「‥‥‥」
イユキアは言葉もなくレイヴァートを見つめ返していたが、やがて、目をおとすと、余った水を石鉢へ注いで指先で鉱粉や薬草をこそげおとしはじめた。呟くように、
「あなたのそういうところが、私にはおそろしい」
「‥‥何が?」
ふしぎそうな顔をしたレイヴァートの前で、イユキアは水差しと石鉢を手に立ち上がった。歩き出す彼を先回りして、レイヴァートが扉を開けてやる。イユキアは隣室の窓へ歩み寄り、外へ水を捨てた。窓はいくつかの家で囲んだ小さな裏庭に面し、窓の下には、よくあるように物を捨てるための穴が掘られていた。
水気を払って、イユキアは鉢と水差しをテーブルへ置く。扉を目でさした。
「あの人は、表に?」
「ああ。石を彫っているんだろう。ちょっと変わり者だが、いい奴でな。一度は神学科の学舎へ入って、ベルシュカの都で神官の修業をしていたそうだ」
「‥‥‥」
イユキアはレイヴァートを見ている。無言の問いにうなずいて、レイヴァートはつづけた。
「理由は知らんが、今は破門されて、クーホリアでこんな小さな祈りの館を持っている。どうも、破門の時に舌の前半分を失ったらしい。すまないが──」
一瞬ためらったレイヴァートへ、イユキアは微笑する。
「いいですよ。できることがあるかどうか、見ましょう。あの人が、私の施療をよしとするのなら」
「すまんな」
ホッとした様子で、レイヴァートは早速扉の外へ出ていくと、ゼンをともなって戻ってきた。イユキアとゼンは、床に置かれた厚い織り地へ向かい合わせに座る。
ゼンの呼吸をはかりながら、イユキアは静かに若者の顔を見つめた。この若さで一度は東の都で修業をしたと言うことは、子供のころから神童と言われるほどの存在だったのではないだろうか。遠い山脈にかかる青霧のような色の目は、静謐で、深い意志を感じさせた。
レイヴァートがかたわらに座りこみ、互いを紹介する。
「イユキア、ゼンだ。手先が器用で、飾り物をつくらせるとうまい。ゼン、イユキアだ。施癒師であり、黒館の主だ」
ゼンがニコッと笑うと、右手を出した。手首をたて、手のひらをイユキアの方へ向ける。イユキアは、一瞬ためらったが、ゼンの真似をして右手のひらを出した。手のひら同士がかるくふれる。そこから、ヒリリとしたものがはしった。ゼンが何かの力を流しこんできたのだ。攻撃的なものではない。好奇心に満ちた、ためすような波だった。
イユキアは首をふった。
「ごめんなさい。私は‥‥そういう力を受けつけないのですよ」
「‥‥‥」
ニコッと笑ったまま、ゼンは手を引き、うなずいた。たどたどしい舌で、
「あなたは、何かに護られている」
「黒館との契約魔呪でしょう」
「それだけでは、ないね」
首を振った。イユキアは少し首をかしげたが、話をかえる。
「あなたが嫌でなければ、舌の傷を見せてもらってもいいでしょうか?」
ゼンは、うれしそうに二回、うなずいた。
イユキアは油燭を片手にゼンの口をあけさせ、口腔内をのぞきこんだ。舌先が途中から切りとられている。舌全体がやや黒ずんで、色の濃い斑点が散り、何かの毒を思わせた。傷には壊疽の気配はないし、腐臭もない。
傷口は、白っぽく濁った色で、ひきつれてふさがっている。ぬいあわせた跡はない。おそらく炎で焼いて傷をふさいだのではないかと、イユキアは検分して、ゼンのあごから手をはなし、身をおこした。
修行者の中には、沈黙の行を行うために舌の腱を切る者もいる。だがゼンの傷はそういうものではないようだった。何かの罪を問われて切りとられたものか。
イユキアはおだやかにたずねた。
「まだ痛みますね?」
「ん」
ゼンがうなずく。
「毒抜きをしましょう。亜麻の種を水で浸出した液にこれを落として、毎日、うがいをしてください。呑みこまないで」
油紙にくるんだ練り物をとりだし、薄い竹のヘラで一部を取ると新しい油紙へつつんだ。ゼンへ、一回にどれくらいの量溶かせばいいのか示す。わずかなものだ。一月ほどは持つだろう。
カデ油で練った黒ずんだかたまりは、イユキアが採取した薬草と鉱物を練り上げてねかせたものだ。肌や粘膜には刺激になる。その刺激で傷の回復をうながし、早め、代謝をうながす。だが、多く用いれば毒になる。ゼンは、自分が薬草を用いる以上、そういったことは心得ている筈で、イユキアが与えるこまかな注意をうなずきながら聞いていた。
「一月で、痛みはだいぶとれると思います。しびれは少し残るでしょうが、半月ほどで戻ります。うがいはしばらく続けて下さい」
「ありがとう」
「いいえ」
ぎこちないが本心からの礼に微笑して、イユキアは薬をふところへしまった。一つ、残した包みをレイヴァートへ渡そうとする。
「あの方に、あとでこれを。口に含ませれば、目が醒めます」
「‥‥お前は、どうする」
受けとろうとはせず、レイヴァートは眉をひそめた。
「帰りますよ」
「どこに。黒館にか? もう、夜だぞ。また狙われでもしたらどうする」
「ご心配なく」
立ち上がったイユキアの前へレイヴァートが立ちふさがり、肩をつかんだ。のぞきこむ。
「いいから。‥‥今日は、黒館へは戻るな。少し待て」
「‥‥‥」
つよいまなざしをたたえた深緑の瞳から目をそらして、イユキアは無言でうなずいた。レイヴァートが彼を心配しているのだということはわかったが、どうにも制御できない苛立ちが胸を刺す。何と言って説明すればいいのか、わからない。レイヴァートのそばにいると感情が波立って、心を張っていないと後悔するようなことを言ってしまいそうだった。
──自分のことなど心配しなくていいと。己のことは己で、己だけでどうにかするし、その結果がどうなろうとかまわないのだと、それだけのことをレイヴァートに対してどう言えばいいのか、イユキアにはまったくわからなかった。彼を心配させたくもないし、傷つけたくもない。ただ、放っておいてもらいたい。
そんなささいなことを伝えきれずに混乱する己が厭わしい。今すぐこの場から消えてしまえたら、どんなにかほっとするだろう。
そんなことを思いながら、イユキアは、レイヴァートに引きとめられたことに安堵もおぼえていた。肩に置かれた手からつたわる力を手ばなしたくはないと、心のどこかがきしむ。彼の腕にくずおれてしまいたいと。肩におかれたレイヴァートの手のぬくもりに、体がまださっきのくちづけの熱をおぼえているのがわかった。
イユキアは、レイヴァートの手を肩からだまって外した。レイヴァートは「うん」と小さくうなずいて、道具を片付けているゼンへ歩み寄った。ベルトの隠しからコインを取り出して渡す。
「後だと忘れそうなのでな。油代と、迷惑料だ」
「んんん」
少し迷ってから、ゼンが受け取った。二人が近ごろの街と王城の噂を交換しはじめたのをきっかけに、イユキアは彼らに背を向けて、ロゼナギースが眠る続き部屋へ入ると、壁にもたれて座りこんだ。
仕立屋の入り口が開き、扉の小さなベルが鳴る。仕立屋の男は、作業台にひろげていた絹布から顔を上げた。
入ってきたヒルザスが頭をさげる。
「どうも。こっちは一応、片づいた。そんで‥‥マキア」
呼ばれて、奥の椅子に座っていたマキアが立ち上がった。彼女の身の安全のため、ヒルザスは元騎士の仕立屋に面倒をたのんだのだ。
マキアは、言葉が出ない様子で、息をつめるようにヒルザスを見つめる。ヒルザスはうなずいた。
「ローゼ殿に会いたくないか」
「‥‥‥」
つき動かされるように、一歩、前へ出た。
仕立屋の男が立ち上がり、椅子の背から女物のマントを取ってマキアの肩へかけてやると、ポンと肩を叩いた。
マキアをつれて店を出ながら、ヒルザスはふっと背後をふりかえった。
「‥‥あなたは? ローゼ殿に──」
かすかに微笑して、初老の男は首をふる。だまったまま、ふたたび針を手に布へ向かった。
小さなベルの音を鳴らして、扉がしまった。
静かな足音とともに、レイヴァートがイユキアのそばへ歩みより、横へ腰をおろした。イユキアは、瞑想するように足を組み、目をとじて壁にもたれている。
ロゼナギースはおだやかな呼吸で眠っていた。しばらく、その姿を見つめていたが、レイヴァートがつぶやくように言った。
「22年前のことだ。この方の母上が、謀って、王に毒を盛ろうとしたが、事が明るみになって一族はほとんどが処刑された」
「その毒をつくったのは、黒館の主だそうですね」
「聞いたか? そう。黒館の主は罪には問われなかったがな。黒館は、王城の裁きの範囲ではない」
イユキアは、ゆっくりと瞳をあけ、ロゼナギースを見やった。
「この方は、何故命をゆるされたのです? ‥‥王の血を引いているからですか?」
「いや。俺も、人に聞いただけなのだがな。まず裁罪が為され、ローゼ殿は二つの道をせまられた。家の名と自由を捨てて孤独に生きるか、さもなくば母と同じ死か」
ふっと小さな息をついた。
「‥‥ローゼ殿は名も自由も捨てて生きることを選択され、後に、音師がローゼ殿の身柄を引き受けたそうだ。元々、ローゼ殿は弟子としてその音師へつかえ、将来はサリューカを継ぐだろうとも言われていた」
「サリューカ‥‥」
つぶやいたイユキアへ、レイヴァートがうなずいた。
「サリューカについて、俺はほとんど知らん。11年に一度、王城の奥でとりおこなわれる秘義であり、音師がつたえる技によってのみ開く扉があるということしか。‥‥それ以上のことを知る者は少ない。王城には、そういうものが多いのだ。お前と黒館のように、王と王城は古い魔呪で結ばれ、それを保つために存在する輪の一つがサリューカなのだろうと、俺は思う」
レイヴァートは言葉を切って、ロゼナギースを見た。
「王城つきの音師にのみ、サリューカの技がつたえられる。サリューカを継いだ音師がいなくては、儀式そのものが成り立たん。‥‥ローゼ殿は6年前に王城から姿を消し、その2年後、王城の音師が冬の病で亡くなられた」
「‥‥‥」
「ローゼ殿は、音師の弟子の一人だった。音師が弟子のうちの誰にサリューカを伝えるのか、伝える気だったのか、俺は知らん。知っておられたとすれば陛下だけだが、陛下もご存知だったかどうか‥‥6年前、ローゼ殿が幽閉されていた塔から姿を消した時、陛下は追手を出されなかった」
イユキアは、ロゼナギースと剣を交わしたヴィラハンの会話を思いだす。
(無理だ、ヴィラハン。オルジカでは次のサリューカはおこせん──)
(貴様は‥‥貴様は、二度と帰らぬと言った‥‥)
やりとりの内容をレイヴァートへつたえると、レイヴァートは物憂げにうなずいた。
「そう。あのお人の息子、オルジカも、音師の弟子だ。年若だが、次のサリューカでは音師として王城に仕えるものだろうと、俺たちは思っていた。だが‥‥そうではなかったのかもしれんな」
吐息をつく。王は、何も言わず、音師亡き後の名跡を誰にも渡さず、次のサリューカの儀に誰を用いるか明言することもなかった。ただ沈黙を守り、口をとざした。
(待っておられたのだろうか──)
「‥‥ローゼ殿は、そのために帰ってこられたのかもしれん‥‥」
イユキアが、レイヴァートの横顔を静かな目で見つめた。
「この方は。自分の係累を殺し、自分を16年間とじこめて自由を奪った故郷を、それでも愛しておられるのですよ。あなたが、この国と陛下へ心を捧げたように、この方の心も、この地にある」
「‥‥‥」
レイヴァートがゆっくりとイユキアを見た。何か、言いかかる。
その時、扉が開き、ヒルザスの声がした。
苦味のある丸薬を下唇の裏に含ませると、ややあって、ロゼナギースはゆっくりと目をあけた。
ぼんやりとしていた目が焦点を結び、自分をのぞきこむ人々の顔を順に渡ってゆく。イユキア、レイヴァート、ヒルザス、マキア。マキアに少しの間まなざしをとめていたが、レイヴァートを見上げて笑った。
「よお。‥‥手間、かけたみたいだな。すまん」
言いながら、起き上がろうとする。イユキアが手伝い、水を手渡した。まだロゼナギースにはめまいが残っていたが、左肩はほとんど痛まないようだった。めまいも、一晩休めば快復するだろう。
ロゼナギースは水を飲み干すと、マキアを見上げて、笑った。
「マキアか。22年ぶりだなぁ。昔のまんま、ビックリするほどきれいだぞ」
「‥‥ローゼ様‥‥」
小太りの娼館の女主人は、両目にいっぱいの涙をため、ロゼナギースのかたわらへぺたりと膝をつく。イユキアが入れかわるように静かに立ち上がって部屋から出ていった。レイヴァートはちらりと目をやったが、腕組みしたまま、追わなかった。
ロゼナギースが手をのばし、マキアのぽっちゃりとした手を両手にはさんだ。
「すまんな、マキア。苦労をかけた末にこんなことになっちまって‥‥お前が育てようとしたガキは、とんだ悪ガキだったみてェだ」
「‥‥‥」
「お前は、俺の最後の家族だってのに。俺は、お前まで悲しませて‥‥」
微笑して、マキアは首をふった。泣くまいとこらえるように歪んだ顔を、大粒の涙が何粒もころがりおちた。そのまま二人は言葉もない。
ヒルザスが、申し訳なさそうに声をかけた。
「ローゼ殿。迎えが来ておりますので‥‥」
「ああ。王城に行くのか?」
「それは明日以降、陛下のおぼしめし次第ということになります。ひとまずは‥‥」
と、言葉を切った。マキアがいる前で、その場所を明らかにするのは職務上まずい。
ロゼナギースは闊達な表情でうなずき、ヒルザスの手を借りて立ち上がる。ゆっくりと部屋から出ていこうとしたが、ふと意を決したように真顔でマキアをふりかえった。
「マキア。ありがとうな。俺は‥‥お前のおかげで、今日まで生きのびた。お前がいなけりゃ、22年前に俺は死んでた」
ニッコリ笑った。
「たぶん俺は、サリューカが終わったら、死ぬ。いくつも誓約を破ったからな。だが、サリューカを通して、俺は王城の礎になる。少しでいい‥‥俺を、誇りに思ってくれ」
マキアは涙に濡れた微笑を返した。
「あなたは、お小さい時からずっと、かわらず、私の誇りでございますよ」
ロゼナギースはマキアを見つめ、うなずいた。
「お前も俺の誇りだ、マキア‥‥」
ゆっくりと、ヒルザスの肩を借りて部屋を出ていく。足音が隣の部屋を横切り、外へと出ていく音がした。
部屋にはマキアのすすり泣きが低く流れ、レイヴァートは女を見つめたが、丸く落ちた肩にかける言葉もなく、数秒して彼も部屋を出た。
イユキアが、窓際の壁にもたれてぼんやりと目をとじている。灰色のフードをかぶった全身は影のようで、表情はよくわからない。伏せたまぶたの下でこちらを見たような気もした。そこにいろと手で合図して、レイヴァートは庭へ出た。
ヒルザスが手配した迎えの騎士が4人、前庭へ出たロゼナギースを囲んでいる。一人が肩にかけた折り畳みの担架を示したが、ロゼナギースは面倒そうに手を振って歩き出した。4人があわてるように彼を追っていく。彼らはロゼナギースが「誰」であるのかは知らされていないが、「丁重に扱うべき罪人」とヒルザスに言われている筈だった。
列の最後尾につきながら、ヒルザスがぽつりと取り残される少年の肩を叩く。
「マキアを頼む。少し休ませてから、店まで送ってってくれ、ベルン。今日はよくやった」
「はい!」
仕立屋の二階で見張り役をしていた少年は、いきおいこんで答える。ヒルザスは、レイヴァートへひらりと手を振った。
「じゃな。こいつは貸しにしとく。コウモリ相手にムキになんなよ」
レイヴァートは無言でうなずき、いささかものものしい雰囲気の一隊が、足音をそろえるように暮れていく夜の向こうへ消えるのを見おくった。
ふ、と息をつく。
ふりむくと、扉の脇でしゃがみこんで石を彫っているゼンと目が合った。
「‥‥すまんな、騒がせて」
「ん」
にこっとして、ゼンは首をふる。また石に何かを刻みつけはじめた。今度は手にすっぽりおさまるほどの小刀を使っている。刻んでは息で粉をとばし、時おり小刀の刃を膝にひっかけたボロ布にこすりつけ、この暗い中でよくぞという早さで彫っている。時おり右手指の腹で彫り跡をたしかめるところを見ると、目だけに頼っているわけではないのだろうが。
扉を開け、中へ入るとレイヴァートはイユキアを呼んだ。
「イユキア。‥‥行こう」
かすかに眉をひそめたようだったが、イユキアは窓際からマントにつつまれた身をおこし、レイヴァートについて家を出た。
歩き出したイユキアへ、ゼンが歩みよって、何かを手渡した。ニコッと笑いかける。イユキアは小さな声で何かつぶやいて、頭を下げた。
二人は、夜に沈む路を歩きはじめた。夕刻にくらべ、人通りはぐっとまばらで、道によってはまったく人影がない。
歩きながら、イユキアがかわいた声でたずねた。
「お役目は?」
「俺の仕事は終わった。後は、王城からの返答待ちでな。今夜の当直は、ヒルザスに適当に手配してもらった」
一瞬、イユキアの足がとまりかかった。
「‥‥ちょっと、それは‥‥無茶では?」
「いや、べつに」
レイヴァートは平然としている。実際、彼の任務は終わっているし、ヒルザスの当直をやりくりしてやることもあるし、彼にとっては何ら問題のあることではない。
「それにまだ一つ、やり残した仕事があるからな」
そう言いながら、店じまいの遅い川沿いの店へ寄って、果物とワインの袋、それに魚のガヌトーを買った。ガヌトーは、薄く焼いた小麦粉の生地に色々な具をはさんだもので、レイヴァートが買ったものはうすく衣を付けて揚げたタラが具になっている。
何か食べないか、と聞かれて、イユキアは少し考えてから、つぶしたレンズ豆を巻きこんだガヌトーを買った。緊張が少しとけたせいか、空腹がやけに実感をもって感じられる。
歩きながらレイヴァートはガヌトーをかじりはじめ、イユキアも少し口にした。食べ歩きなど、した覚えがほとんどないが、あまりにレイヴァートが美味しそうに食べるのにつられた。
さっさと先に食べ終わり、油のついた指をなめながら、レイヴァートがたずねる。
「イユキア。どうして、ローゼ殿についていった?」
「‥‥‥」
イユキアは、ゆっくりとガヌトーを噛みながら黙っている。レイヴァートが責めているわけでも言い訳を要求しているのでもなく、理由を知りたがっているだけなのはわかっていたが、自分の中にあるものをどう伝えればいいのかわからなかった。
あの店から一刻も早く逃げ出したかったのは、レイヴァートと顔を合わせているのが怖かったからだ。人の血を買い、その血をふところにしのばせたままで、暗い技をおこなう身を見抜かれてしまいそうな気がした。愚かで、今にして思えば滑稽ではあるが、どうしても知られたくなかった。
その衝動に、うごかされた。それは確かだが、それだけならすぐにロゼナギースと離れればいい。それをせずにロゼナギースとともにいたのが何故なのか、それがイユキアにはうまく言えなかった。
黙りこんだ彼の横で、レイヴァートも何も言わない。橋を二つ渡り、北側の住居区画へ通じる門をレイヴァートが身分を名乗って通り抜ける間、イユキアは黙っていたが、ゆるやかな坂をのぼりはじめたところで呟いた。
「‥‥あの人が、私と似ている気がした。あの人も何かを探して、何かから逃げている」
「探して──」
「でも、全然、似てはいない」
切るように、イユキアは語尾をかぶせる。自分の内側をのぞきこむような目をしていた。
「私には故郷もないし、会いたい人もいない‥‥」
レイヴァートは何も言わなかったが、左手をのばしてイユキアの手をつかんだ。夜闇の中、指をからめて引きながら、たしかなぬくもりと力を与える。そのまま、歩きつづけた。