‥‥眠っているとも目ざめているともつかないまどろみの中で、何か言われた気がする。どう答えたのかはわからない。レイヴァートは、少し笑ったようだった。
とろとろとまどろんでいると、レイヴァートの唇を額に感じる。イユキアは、目をあけて、レイヴァートを見上げた。油燭の黄色っぽい炎がぼんやりと部屋を照らしている。
「眠っていろ」
囁いて、レイヴァートの指が乱れた前髪をかきあげた。濡れた布で首すじを拭われて、イユキアはかすかに笑う。イユキアの目は、完全に元の色を取り戻し、炎をうつして妖しい金色に光っていた。
「‥‥くすぐったい‥‥」
レイヴァートも微笑して、布でイユキアの全身を拭った。うつ伏せにして、背中もきれいに拭いてやる。
「明日の朝は、早いからな。眠ったほうがいいぞ」
「‥‥あなたもでしょう、それは‥‥」
茫洋とつぶやいて、イユキアは寝台に起き上がる。思ったよりは長い間、眠っていたようだ。体から気怠さが水のように引いてゆく。快感の名残りとかすかな痛みが体の深くにあったが、心地よいものだった。
油燭がともされた部屋はぼんやりと明るい。飾り気のない簡素な部屋には、衣装掛けと小物の入った低い棚しか調度品らしいものがない。壁に古いタペストリーがかけてあったが、色あせていて絵柄はわからなかった。
レイヴァートは寝台のはじに腰掛けて自分の体をざっと拭うと、水盤に布を放りこんで、かるくのびをした。騎士にしては細作りだが、しっかりと筋肉のついて引きしまった背中を見つめて、イユキアは小さな吐息を洩らす。
朝になれば、また離れる。今日、こうしてそばにいることだけでも偶然のことなのに、離れがたい自分が少しばかりいとわしい。
(求めることには、際限がない──)
レイヴァートがふりむいた。
「安物だが、ワイン、飲むか?」
「‥‥眠らなくていいんですか」
「眠くないのだろう」
のばした手でイユキアの髪をかき回して、レイヴァートは衣装掛けから膝丈の部屋着を取って羽織った。イユキアにも一つ投げてやる。待ってろ、と言い残して出ていくと、しばらくしてワインの革袋を下げ、脚付の琺瑯グラスを二つ持って戻ってきた。
「スパイスは?」
たずねながら、イユキアへグラスを二つ渡す。イユキアが首を振ると、レイヴァートはうなずいて、イユキアの横へ腰をおろした。革袋の口をほどき、イユキアが持つグラスへワインを注ぐと、革袋を壁の釘に架ける。グラスを受けとり、イユキアへ微笑して、一口飲んだ。
イユキアは、ゆっくりとワインを口へ含む。レイヴァートが「安物」と言った通り、酸い味だったが、かわいた喉には心地よかった。半ばほどまで飲んで、一つ息をつく。
レイヴァートは部屋の壁によりかかって座り、イユキアを眺めながらゆっくりとワインを飲んでいた。イユキアが目を向けると、ちょいちょいと手招きして、かたわらに寄ったイユキアを抱きよせた。
抱きよせられるまま、イユキアはレイヴァートの肩によりかかり、だまってワインを飲んだ。レイヴァートも何も言わず、イユキアの肩に回した左手の先で、もつれた銀髪をもてあそんでいる。
互いの体温と息づかいだけを心地よく感じていたが、イユキアがふとたずねた。
「さっき、何か、言いましたか?」
「‥‥ん?」
何か考えていたのか、一拍おいてレイヴァートがイユキアを見やる。
「さっき?」
「私が、起きる前に。何か言われた気がするのですが」
さらに、それに返事を返した気もしている。むしろ、イユキアが気になっているのは、自分の発言の方なのだが、言わずともレイヴァートはそれを察したようで、おもしろそうに笑った。
「やっぱり寝惚けていたのか。変だと思った」
「‥‥何を言ったんです?」
「愛していると言ったんだ」
さらりと言って、レイヴァートはワインを一口飲んだ。
イユキアが金色の目を虚空へさまよわせた。
沈黙がつづく。
イユキアは、言いづらそうに口を開いた。
「あの、それで私は──何か、言いました?」
グラスを口にあてたまま、レイヴァートがちらっとイユキアを見る。その目は笑っていたが、イユキアはあてどなくどこかを見ているままだ。
「ああ。言った」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥あの」
「ん?」
「一体、何を」
イユキアは、うつむいて、自分が手にしたカップをのぞきこむようにしている。ややあって、レイヴァートが、彼には珍しくクスクス笑い出した。
イユキアの頬にさっと赤みがはしり、彼は、口元を強情そうに結んで怒ったように押し黙る。レイヴァートが笑いながらイユキアへよりかかるようにして、回した腕に力をこめた。かるく揺らす。
「すまん。お前は、わかっている、と言ったんだよ」
「‥‥‥」
「おぼえてないな」
相変わらず、おもしろそうに言う。イユキアの髪にくちづけをおとして、レイヴァートはイユキアの肩を抱きしめた。
イユキアは、何を言ったらいいのかわからないまま、グラスに残ったワインをのぞきこんでいる。レイヴァートは、嘘をつかないし、確かにそんなことを言った気もする。するが、もう、どうするべきか、思いつかない。そう、わかっている。レイヴァートの想いは、もうイユキアの中へ根を張っている。わかっているが、それと、言葉を返すこととはまるで別のことだった。
愛していると、レイヴァートはごく自然なことのようにそう言う。だがその言葉に言葉を返してはならないのだ。王城と黒館と、彼らの住む世界はちがいすぎる。約束のようなことは絶対に言えなかった。それはレイヴァートも知っていて、彼は決してイユキアに答えを求めようとはしない。
言葉は与えられない、その一線は越してはならない。それはイユキアの決意だった。いつかは終わることなのだ。一夜の快楽をむさぼることはまだしも、先の日々への夢を見るわけにはいかなかった。
黙りこんだイユキアを見やって、レイヴァートが話をかえた。
「俺もききたいことがあった、イユキア」
「‥‥何です」
「ゼンに、何かもらったろう。何をもらった? 言いたくなければかまわないが」
「ああ‥‥あの人が彫っていた、白い石を、くれました」
「お前に、護符を?」
レイヴァートは少しおどろいたようだった。ゼンの「力」をイユキアが受け付けなかったように、ゼンが祈りをこめて彫った護符の力がイユキアに受け入れられるとは思えない。
イユキアは、首を振った。
「私にくれたものには、詩が彫ってある」
「詩?」
「ええ。後で、見てみます?」
「詩ねぇ‥‥」
「興味がないのでしょう」
イユキアが微笑する。うーん、とどっちつかずの声を洩らしてレイヴァートはいささか難しい顔をしていたが、たずねた。
「書くならともかく、あんな小さな石に、どうやって詩なんか彫るんだ?」
そっちを悩んでいたらしい。イユキアは、少し黙った。
自分の肩を抱くレイヴァートの左腕をほどき、立てた膝にのせると、手のひらに指で模様のようなものをなぞる。曲線の多い、複雑な模様を書き上げて、レイヴァートを見やった。
「わかります?」
「‥‥少し、あたたかい」
レイヴァートは手をかるく握ってみる。イユキアが指でなぞっただけの模様は、まったく手のひらに跡も残さなかったが、肌がぼんやりとぬくもりを増した気はする。イユキアがうなずいた。
「キル=ヴァン=ニェス。高位文字の原形です。いくつか流派があるのですが‥‥文字の一つ一つではなく、言葉全体を一つのかたまりとして書き記す文字です」
「それは、魔呪か?」
「〈形〉の魔呪の、非常に原始的なものですね。あなたが感じているのも、その力です。この文字自体に何かを為す力があるわけではありませんが。音楽と同じです。ふつうの旋律は誰でも唄えるし、それが魔呪などとは誰も思いませんが、卓越した唄い手にかかれば〈音〉は強い魔呪の力をもちます。音の魔呪も、形の魔呪も、人は気付かぬまま唄ったり文字を記したりしているけれど」
「ふむ‥‥」
「すべての文字は、魔呪ですよ、レイヴァート。名前も、言葉も」
「え?」
イユキアは微笑して、つづけた。
「何かに名前をつけるというのが、すべての魔呪の根源です。名前には力がある。それが言葉というものです。それを紙に記し、目に見える形にあらわしたものが、文字。どちらも、魔呪です。使う者によっては大きな力を持つ」
「俺の名前も?」
「あなたの名前も」
うなずいた。
「名前を呼ばれれば、振り向くでしょう? それが、名前のもつ魔呪の力ですよ」
「‥‥‥」
わかったようなわからないような顔をしている。ふりむくのは自分の意志であって、何かの魔呪にかかっているせいではないと、考えこんでいるらしい。
もう少し説明しようかと迷ったが、イユキアはレイヴァートの手のひらを指でさして、話を戻した。
「この文字は、言葉を一つ一つつらねるのではなく、全体から記していきます。ゼンが私にくれた白い石に刻んであったのも、同じ形式の文字です。船乗りの唄のようでしたよ」
「ふうん‥‥」
何回か、握ったり開いたりして自分の手のひらを確かめるようにしていたが、レイヴァートはイユキアを見た。
「これは? 何と書いた」
「セリグリュスト アルヴァルカ エルナーセギルナ‥‥リエトムタ パルサ フィルノゥム」
低いふしまわしでゆっくり唄うように囁いて、イユキアは、微笑した。
「古い言葉の、唄です。‥‥意味は、よく知りません」
レイヴァートは手のひらを見おろし、かるく拳を握った。ぬくもりが、少しずつ失せていく。
「お前の、故郷の唄か」
「‥‥ええ」
そうか、とつぶやいて、レイヴァートはイユキアをもう一度抱きよせた。肩から回した手であごをすくうようにして、額へくちづける。静かな声で呼んだ。
「イユキア」
(名前も、言葉も──)
イユキアは、とじていたまぶたを上げてレイヴァートを見上げた。その声の一つ一つが、イユキアを呼び、からめとる魔呪なのだと、レイヴァートが気付くことはないのだろう。イユキアの心をとらえ、振り向かせる、あらがいがたい力。
「何です?」
「一度、少し黒館を離れてみるか? 冬に、サーエをつれて荘園へ行く。サーエの具合を診に、いっしょに来てくれないか?」
イユキアの目がふっと焦点を失ったように見えた。そのまま、ぼんやりとレイヴァートを見ていたが、やがて目を伏せて、微笑する。
「そういうわけにもいかないでしょう。私は、黒館の主です」
「2、3日だけでもいい。冬至がすぎてから‥‥どうだ? サーエもよろこぶ。あれは、お前と話すのが好きなのだ」
「‥‥‥」
「考えておいてくれないか」
ゆっくりと言って、レイヴァートはワインを飲み干した。イユキアの手から、とうに空になっているグラスを取り上げる。飲むか、とかるくグラスを振ると、イユキアが無言でうなずき、レイヴァートはワインの革袋を取りに立ち上がった。
二杯目を注いで、イユキアへ渡す。イユキアは受け取って、だまってワインをすすっていたが、微笑を浮かべたまま、呟いた。
「そうですね。考えておきましょう」
影をたたえた淋しげな微笑を、レイヴァートは静かに見つめたが、何も言わなかった。
眠るレイヴァートを見おろして、イユキアは宙をなぞるように指をうごかす。
(セリグリュスト アルヴァルカ‥‥)
レイヴァートの手のひらに書いた形をくりかえす。指先がふっととまった。何故あれを書いたのか、わからない。いや、本当はわかっていた。
(エルナーセギルナ‥‥)
吊るされた天秤の上で、永遠に貴方を唄おう──
(‥‥リエトムタ パルサ フィルノゥム‥‥)
皿が砕けて、時の外側へ落ちるとも‥‥
心の中で唄を呟いて、イユキアは旋律を遠く思い返したが、同時ににぶい痛みが胸にひろがった。故郷──と呼んでもいいのだろうか、彼に痛みしかもたらさなかった、あの地を。あそこには、喪失と憎悪だけしかなかったような気がする。
あの地を逃げて、ただ逃げて、まろぶようにここへたどりついてしまった‥‥
手をのばし、指先でレイヴァートの頬にふれた。
「レイ」
「‥‥ん?」
目をあけはしたが、レイヴァートはまだ夢を見ているような返事をする。イユキアは、頬骨を強くなぞった。
「そろそろ、夜が明けますよ‥‥」
体を支えていた腕をレイヴァートが引いて、ふいをつかれたイユキアはレイヴァートの胸へ倒れこむ。非難の声を上げたが、レイヴァートは意にも介さず、イユキアへ腕を回した。
「冬、いっしょに来るか?」
「‥‥考えておくと言ったでしょう──」
「断る口実をか」
レイヴァートの微笑を見おろして、イユキアは無言だった。
レイヴァートは笑みをたたえたまま、
「サーエに言っておくぞ。お前が来ると。うまい口実を考えだしたら、お前からサーエを説得してくれ」
「それは──卑怯だ──」
「ああ、そうだ」
レイヴァートはイユキアへ軽くくちづけ、ゆっくりと起き上がった。
身支度をすませ、かるい朝食代わりに果物を食べる間、二人ともに口数が少なかった。互いにあまり不要な時に口をきくたちでもなく、沈黙も静寂もなじんだものでしかない。
食事を終えると、イユキアは持ち歩いている粉を水に溶き、目の中に数滴ふりおとした。じっと目をとじ、次にまぶたを上げた時、金色だった瞳はおだやかな暗い琥珀色に変わっていた。太陽の光を受ければ、もっと暗く色づく。目にさした水薬にほとんど色らしい色がついているわけではないが、イユキアはこうして目の色を隠す。
レイヴァートは、紋様を打ちだされた革の胴着に肩飾りのついたマントをはおって、昨日の質素な姿とはがらりとちがう騎士のよそおいをまとっていた。銀箔をおした革鞘の長剣を腰の後ろへ吊るし、左手首に黒い飾り紐を巻いている。もともと華美なものは好まないから、至って地味ななりではあるが、その姿には凛とした強さがあった。
イユキアは灰色のマントで体をすっぽりと覆う。
「あの方を、王城へつれてゆくのですか?」
「ローゼ殿か? そうだな。陛下のお言葉次第だが、おそらくそうなるだろうな」
「あの方は、罪に問われますか」
レイヴァートはイユキアを見た。イユキアは、ぼんやりしたように浅いまなざしを漂わせている。
「ああ。6年前、逃亡した罪があるだろうと思う」
「死罪か、それとも‥‥前と同じく、自由を奪われて生き続けるのでしょうか」
イユキアはつぶやいた。それが問いなのかどうか、一瞬迷ったが、レイヴァートは静かに言った。
「ローゼ殿が6つの時、あの方は身の自由を代償にして生きる道をえらんだ。その時、誓約をたてておられる。王城と王を裏切るようなことがあれば、死をもってそれをあがなうと。俺にわかることは、それだけだ」
「‥‥そうですか」
うなずいて、イユキアは灰色のフードを目深にかぶり、襟元の紐を結びあわせた。
レイヴァートもうなずき、二人は黙って家を出た。
館の並ぶ丘の街区は、ぐるりとめぐらせた白い壁にかこまれている。門番が脇に立つ鉄門は、陽のあるうちは開かれていて、二人は門を抜けてゆるやかな坂をおりた。
イユキアが、半歩前をゆくレイヴァートへ声をかける。
「レイヴァート。水晶売りの角へ行く道を教えてくれませんか? 私はまだ、あそこに用があります」
レイヴァートの足どりがゆるむ。イユキアは、淡々とつづけた。
「コウモリもしばらくは動きますまい。ご心配には及びませんよ」
一拍おいて、前を向いたままレイヴァートが言った。
「俺の血を使うか?」
「‥‥‥」
フードの中で、イユキアはあるかなしかの微笑をうつろわせる。そう、レイヴァートをごまかせるとは思っていなかった。
「いいえ。‥‥レイヴァート。私には私の、黒館の主としての役割があります」
「ああ。わかっている」
おだやかに、うなずいた。手をのばし、レイヴァートはマントにつつまれたイユキアの肩へふれた。
「大丈夫だな? 無理はするな。‥‥約束してくれ」
「‥‥おぼえておきますよ」
小さな声でイユキアがつぶやいた。約束はしない。できなかった。
肩にのせた手に一瞬力をこめ、レイヴァートは歩みを戻した。
「広場まで行こう。そこからならわかるな」
「ええ」
石畳の道を抜け、荷車の音が走り抜ける太い通りへ出る。イユキアを歩道の側へ寄せ、広場へつながる道を歩いていたが、レイヴァートがふいにマントを引いた。
え、とイユキアが足をとめ、レイヴァートに押されて壁の方へ寄る。まだ開いていない洗濯屋の張りだした二階をささえる柱の影へ入ると、レイヴァートがフードの中へ顔をよせ、イユキアへくちづけた。
「‥‥‥」
イユキアが目をみはる。唇は一瞬かすめて、あたたかな感触だけを残し、レイヴァートは何事もなかったかのようにまた歩き出していた。
すぐに人々が忙しく行き交う広場へ出る。もう、あちこちで朝の食事を出す屋台が組み上げられはじめ、商人らしい風体の男たちが角にたまって何か互いに言いつのっていた。水場では子供たちが顔を洗う順番の列をつくっている。
「またな」
イユキアの背をポンと叩いて、レイヴァートは騎士詰所の方角へ歩き出す。どうあっても心が残るので、いつも別れは素気ない。
人をよけて遠ざかる後ろ姿から目をそらし、イユキアは小さな吐息をつく。指先で唇にふれると、きこえない声で呟いた。
「‥‥本当に、人を混乱させる‥‥」
フードを深くおろす。まなざしを足元に伏せ、目的の路地をめざして歩きはじめた。