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【12】

 硝子を砕いたような砂が月光をはね返している。白く、青く、冷ややかで、硬質に。一点の濁りもない。
 イユキアは素足で砂を踏みながら、円形の空き地の中央にまで歩み出る。砂は、見た目とちがって奇妙にあたたかく、くるぶしまで沈む足をやわらかにくすぐる。ほとんど音はたたなかった。
 黒くからみあった闇色の森は、砂のふちでふっつりと途切れ、イユキアの頭上にはぽっかりと夜空が開いている。星を薄く散らし、しんと蒼い闇空であった。己をかこむ森の気配がひしひしとせまってきて、イユキアは目をとじた。砂はただすべてを呑みこんだような静謐。
 その向こうに、あふれんばかりの森の生気と息づかい、生と死が入りまじって流れる抗いがたい渦の力を感じる。渦の一つを追ってみようとしたが、呑まれそうになってすぐさまあきらめた。あまりに優雅で、あまりにも生々しい。死すらも独自の熱をもったまま森へ融けこみ、脈うって声なき叫びをたぎらせながら、奇妙な調和を保った巨大な混沌の内に息づいていた。
 ──その背後には、気が遠くなるほど巨大な「時間」の堆積がある。
 この森がどれほど古いのか、イユキアには見当もつかなかったが、それらの「時間」に呑みこまれないようにしながら森とつながっているのは、イユキアにも難しいことだった。死者が残した意識にふれるほうが、彼にははるかにたやすい。「森」は意識のはしばしをからめとり、そこを足がかりに這いのぼって彼を引きずりこみ、容赦なく同化しようとする。
 これほど激しい「森」というものを、イユキアはほかに知らない。巨大で深遠な時間の中で育み育まれながら、生命への「飢え」というものをまるで失っていない。そして、その奥に喰い尽くした「死」というものの記憶を、生々しくたたえつづけている。
 かつてこの森は王城の周囲をかこみ、王城を守ったと伝説に云う。今より幾代も前の、別の王朝があった頃。森の民すらおぼろげな死者の追憶として語る物語。森は王城と王を守った。その頃、王は常に森の民の娘と契り、森へ王の血をもたらしていたと、伝説にはある。
 その後、王城の王と森の主とが力をあわせて森と王城を分けた、と。
 ──チリリ、と澄んだ音が鳴った。
 イユキアは、意識を引き戻されたように、目をあける。森は、内側にはらむ狂熱のような奔流が嘘のように、闇色にそびえたっていた。
 木と木の間に、わずかな息吹の気配がある。森の民だ。彼らの気配は、森そのものの気配とよく似ていた。あからさまなほどの生命の息吹と死の気配に満たされている。
 風はない。イユキアは、金色の目で脇に垂らした右手を見おろした。その先で、チリ、と鈴の音が鳴る。
 鈴は、森へ入る旅人がよく持つ、護呪の鈴だ。旅人の頭に巻かれた細い鎖から額に垂れ下がっていた。森の民が面白半分に、あるいは皮肉をこめて首から取って飾ったのだろう。彼を護る役には立たなかった鈴を。
白濁した死者の眼が、イユキアを見上げた。死んだ旅人のまぶたは切り取られていた。森の民が切ったのだ。闇から目をそむけるようなことがないようにと。死者の首を斬り落とし、舌を切り、まぶたを切った。
 円形の空き地の中心へ立ち、透明な砂で満たされた地面へ淡い影をおとして、イユキアはしばらく無言だった。肌には青白いほどに血の気がなく、まとった白い長衣とほどきおろした銀の髪がほのかに光って、彼は闇にうかぶ幻のようだった。金の眸だけが妖々と闇をうつして、時とともに魔呪の気配を強めてゆく。
 梢がざわざわと、まるで人が会話するように揺れた。
 風はない。
 イユキアの、とじた口の中で舌がかすかに動いた。声にする寸前で、語りの言葉をかたちづくる。はじめてしまえば引きずっていかれるのがわかっていた。その前にきちんと自分の位置と逃げる手順をつくっておかないと、巻きこまれる可能性もある。
 まだ音にもしていない魔呪の律動に惹かれて、夜闇の奥がざわつく。彼を求めている。生命を。よこせと闇の奥で何かが無音の咆哮を上げるのを感じた。古い──おそらくは、森と同じほどに古い、強大な飢え。
 イユキアの金の瞳が強い光をはらんだ。彼は、素足で砂をゆっくりと踏みながら、しばらく呼吸をはかっていたが、大きく息を吸って、唄うようなふしまわしの魔呪をとなえはじめる。
 きっとそれは、そもそもは「唄」だったのだ。くりかえし儀式に用いられた結果、余分な言葉や音が削り落とされ、魔呪としての呼びかけの根だけが残って、森との関わりの中で大いなる力を持つに至った。
 その「力」がイユキアの内側で暴れ回り、舌は迷うことなく勝手に魔呪をつむいでいく。魔呪が炎のような力を放ち、闇の奥で待ちかまえるものとつながりあって、勝手に自分自身をかたちどろうとする。引きずられまいと冷たい意志をふるって抗いながら、イユキアは早くなりかかる詠唱を自分がさだめた速度に抑えた。知らぬ名や言葉を唱えさせられないよう。さだめられた以上の絆を結んではならない。なにしろこの魔呪は、術者自身を喰いたがっているのだ。
 時おり両足をそろえる、特殊な歩き方で砂を踏みながら、イユキアは右手に下げた旅人の首がまた鈴を鳴らすのを感じていた。この旅人は、こんなたよりない音色に守られていると信じて、森の深みへ入ってきたのだろうか。空き地の中央へ向き直り、死者の髪をつかんだ手にかるい力をこめて、砂の上へ首を放る。首は、まるで砂から生えるように落ちた。
 イユキアは左手に下げていた皮袋を首の上へかかげて、右手の爪を袋の腹へすべらせる。魔呪の詠唱とともに、やぶれた袋から血がしたたり、首を濡らして砂地へひろがった。
 血の沁みた砂がいっせいにうごめきはじめる。そこここで眠っていた無数の虫が目覚めたかのようだった。
 深紅の砂がイユキアの詠唱にあわせて動き、首を中心に据えて異様に複雑な紋様をほとんどまばたきの間につくりあげる。イユキアは最後の言葉をとなえながら、大きく背後へとびすさった。
 砂がうねった。いや、その内側にひそむものが。生々しく砂地全体が蠕動し、死者の首と血を一気に呑みこむ。イユキアは宙で左手の皮袋を振った。残っていた血が宙へしずくとなって散る。
 同時に、最後の言葉をとなえおわった。魔呪の律を建て終える。術から自分を引きはがす瞬間、ほとんど肉体的な苦痛をおぼえ、呻きながら全力をふりしぼった。古い術は手ごわい。術自体があまりに時を経ているために独自の意志をそなえているし、伝わってくる間にも多くの人間の思念が術に入りこんでいる。複雑すぎるのだ、つまり。複雑さのあまり、つけこまれる隙がどこかに生じてしまう。
 ──何か、言い終わっていないことがあるような気がした。
 舌が勝手に言葉を放とうとする。ぐいと歯を噛んでそれを押さえつけた瞬間、イユキアの体は砂地の外へ落ちていた。夜気のつめたさが疲弊した体に流れこみ、土と草の匂いがたちのぼって、イユキアは自分がどこにいるのかわからなくなる。耳元に低い声がささやいた。
「俺だよ、イユキア」
「‥‥セグリタ‥‥」
 森の民の少年の名を呟いて、イユキアは身をおこした。
 目の前に月光をあびる砂地があった。砂の上に立体的な呪陣の紋様が赤黒く浮かび上がっている。結晶のような美しさに目を奪われた瞬間、風もないのに木々がざわついた。暗く重い気配が闇からとびだして次々と血の呪陣へとびこんでゆく。10、20、あるいはもっと。「形」のないものたちではあるが、イユキアの金の目には、おぞましい尾がうねりながら血を求めて狭苦しい呪陣の内でのたくるのが見えた。
 互いに押しあいながら血の気配を喰い尽くそうと狂乱している。
 ‥‥自分たちこそ、餌だとも知らずに。
 ふ、とイユキアの唇に酷薄とも言える笑みがかすめた。一度とらえられれば、そこから脱出するすべはない。喰うつもりで、喰われるだけだ。同時に、ひどく切実な飢えが身の内を灼くのをおぼえた。灼けつくような。
 何もかもを喰い尽くしたい。苦痛のあまりに呻いた。
「イユキア!」
 ゆさぶられる。さわるな、と言いかかった瞬間、嵐のような轟風が息をさらった。目をとじる。全身を叩きつけて地面から引きはがしそうなほどの突風が森をさわがせ、すべて砂地へ流れこんだのが感覚でわかった。喰われる──いや、喰う。血の臭いによりあつまった邪気や妖物を、その轟風が残らず喰い尽くし、血もろともすべてを呑み干した。
 イユキアは、頭をふる。飢えと飽食の気配から自分を引き剥がすのに、少しかかった。呪はとじている。森には生々しいざわめきが満ちるだけで、痛むほどの飢えは跡形なく消えていた。
 巨大な森に生じる「飢え」を、森の民はこうして祓う。時に自分たちで、時に黒館の力を借り。血の魔呪で妖気を寄せ、その妖気を餌にさらに巨大なものをとらえて結界の向こうへ流す。死者の魂も、時経て闇へ堕ちた精霊も、有形無形の魑魅たちも。
「イユキア──」
「‥‥大丈夫」
 金の目をあけて、セグリタを見やる。森の民の少年は、心配そうにイユキアをのぞきこんで水筒を手渡した。
 冷たい水を喉へ流しこんで、イユキアは息をついた。
 いつのまにかそこに砂地は跡形もなく、月光が洩れてくる木立の間へ寝かされていた。砂地を囲む結界を、森の民が封じたのだろう。あそこは森の民の聖地であり、忌み地である。黒館の主にさえ、彼らはその正確な位置を明かそうとしない──もしくは、正確な「位置」などないのかもしれないが。あれがこの世のものなのかどうかさえ、イユキアにはよくわからない。
 全身が泥のように疲弊していた。セグリタの手を借りて、立ち上がる。その目の前へ、壮年の森の民があらわれた。背はイユキアより頭一つ以上低いが、がっしりした体と叡知をたたえた顔は威厳に満ちている。イユキアは、膝を曲げて一礼した。
「おわりました、長。‥‥しかし、邪気が多い。森で何かありましたか?」
「我らもそれを気にはしているのだ」
 森の長は眉をしかめた。
「何か‥‥感じませんでしたかな、黒館の主どのは?」
「わかりません。特に、何かにあやつられたものどもはいなかったと思いますが。森の気配にも、病んだところはない」
「ええ」
 イユキアの言葉にも、森長の表情のくもりは取れなかった。森の民がイユキアに語らぬことを何か知っているのか、それとも感じている不安を言葉にできぬのか。影のような不安がちらりと胸をかすめたが、イユキアはそれ以上問わなかった。森は森の民のものだ。黒館の主は、招かれた祭祀にすぎない。
 ──森に限らず。
 街や王城においては他所者であり、黒館においてすらイユキアはかりそめの祭祀者だ。
 黒館の主と、人はイユキアを呼ぶが、自分と館のどちらが「主」なのか、イユキアには疑問だった。館に支配されているのは主の方かもしれないと思う。
 レイヴァートは、もしかしたら、そのことに気付いているのかもしれない。彼は時おり、館とイユキアの魔呪を区別したような発言をする。まるで、館からイユキアを守ろうというような意志すら見せたこともある。彼だけが、何か知っているように。
「‥‥‥」
 小さな吐息をついて、イユキアは頭をふった。あがなう血の円環をつくろった今は、レイヴァートのことを考えたくはなかった。何も。何一つ、思い出したくはない。クーホリアの街で彼に会って己がどれほど後ろめたく、同時にどれほど昂揚したか──どれほど彼をもとめたか、その矛盾した感覚がよみがえって、ひどく苦しくなる。叫び出してしまいそうな気がした。
「イユキア」
 聞きなれた声がすぐ背後で彼を呼んだ。イユキアはくるりと体を回してふりむく。
 眼前に、セグリタがいた。
 少年は、イユキアの勢いにわずかに肩を引いたが、平静な表情で、足元へあごをしゃくった。
「どうする。とむらう?」
「‥‥‥」
 足元に横たえられた首のない死体を見おろして、イユキアは、無言だった。
 森へ迷いこんだ旅人だろう。イユキアは生者から買った血を使うが、森の民は古くからのしきたりのまま、人を狩って捧げる。
 道を外れぬ旅人を、森の民が殺すことはない。それは王城との誓約で禁じられている。だが、森の民の力をもってすれば、心に迷いがあるものを森の奥へ惑わせるのはたやすいことだった。
 供物は、捧げる者と捧げられる者をつなぐ絆。代償なき理は存在しない。
 吐息をついて、イユキアはしなびたような旅人の体の横へ膝をついた。手をのばし、生気を感じない体に手のひらでふれたが、やがて首を振った。体の内には、生きていた時の名残りは何一つなかった。魂は、あの首に封じて供物として術に喰わせた。ここに残されたものは、物と変わらない。
「何も残っていない‥‥葬ってあげて下さい」
「骨で何か作ろうかと思ってんだけど、いい? 残りはちゃんと森に還すからさ」
「ご自由に」
 うなずきを返したセグリタはうれしそうだ。森の民にとって、森へ迷いこんだ人間は「獲物」であって、獣に対するのとあまり変わらない感覚しかない。むやみやたらと獣を狩らないのと同じで、理由なく人間を狩ったりはしないが。
 イユキアはゆっくりと、セグリタに手渡されたサンダルを履き、白い長衣の上になめし皮のマントをはおった。血にじかにふれた覚えはないが、自分が動くたび、遠い血臭がたちのぼるのに気づいていた。あるいは屍臭だろうか。沁みついているのかもしれない、と思う。この身には。
 一瞬、レイヴァートのことを考えそうになって、心をとじた。
 考えをそらしながら、森長へ向き直る。旅人の首のことをぼんやりと思った記憶のすみで、ふと別の死骸を思い出した。たずねる。
「森長。遠見の一族の頭蓋がクーホリアの丘にうめられていたのはご存知ですか?」
「‥‥うむ」
 わずかな間があったが、森長はうなずいた。イユキアを導いて、深い森を抜ける土の道を歩きはじめる。
 セグリタがついてくる気配。さらにその後ろで、森がざわざわとうごめき、道をとざしてゆくのがわかった。
 イユキアは疲労した体を引きずるように長に従いながら、聞いた。
「あれは、何を見張っていたのです?」
「‥‥遠見は、遠見にしか見えぬものを張っておった。遠見の死者ともなれば尚更、何を見、何を張っておったか、我らにはわからん」
「そうですか」
 森長が何か言わずに置いている気配はあったが、イユキアは深くは追わなかった。どうせ、人は誰でも嘘をつく。イユキアも嘘をついた。ロゼナギースに、遠見の骨が埋まっていた丘で。遠見の骨には何の力も残っていないと言った時に。
 あの骨は、それほど易しい骨ではない。
 人は誰でも嘘をつく‥‥