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【1】

 クーホリアの街は、東へ向いたルキ湾の弧の内側やや北寄りに位置する。帆船が停泊する港を中心に、赤茶けた煉瓦の建物がひしめいて、港の近くへ行けば荒くれた船乗りが怒鳴りながら帆を上げたり、一杯きこしめした酔いどれの喧嘩がきこえてくる。荷を山のように積んだ荷獣や異装の旅人が大通りを行き交い、商人がそれを呼び留めては当人いわくの「いい取引」を持ちかける、それも常の風景だった。
 街は大きな円形の街壁にかこまれ、街門からのびる街道は点々と茂みのちらばる赤い粘土質の大地を抜け、森に覆われた低い山へと消えていく。その山を越え、道は王城都市アシュトス・キナースへと続いていた。
 王の座す地へ。


 煉瓦の敷かれた街路に踵を鳴らし、騎士が早足に道を抜けていく。艶のある上衣の胸元は双頭の鳥の縫い取りが金にかがやき、あざやかな青地のマントが背にひるがえった。全員がアシュトス・キナースの紋章を身につけ、腰の後ろに直剣の鞘を帯びている。
 人々は、彼らの行く手から波のように引き、道の左右に寄って彼らを通した。それには目もくれずに通りすぎ、騎士は港への道を曲がって消えた。王城の騎士が港町へ来るのは珍しくはなかったが、10人近くの騎士装の者たちが隊列を組んでゆくのはやはり日常滅多にないことで、見送る人々はたちまちに顔を見合わせて噂話に花を咲かせはじめた。
「港についた船から罪人が逃げ出したんだって──」
「海にとびこんで沈んだんじゃないの?」
「いや、切れた縄だけが浮かんできたらしい。本人はきっとどこかに‥‥」
「どうかなあ、もう秋も終わるもの、海は結構つめたいよ?」
「何した人なの」
「‥‥さあ‥‥わざわざ王城に運ぼうとするくらいだから、重罪人じゃないの?」
「やあねえ、怖いわ」
 不安げと言うよりは、むしろ喜ぶような声がかわされている。大体の者がこの騒ぎをおもしろがっていた。クーホリアの人間は全体に派手好みで、おもしろいことや奇妙なことを好む。
「あのくらい目立てばいいだろう」
 道に面したパン屋から魚のパイを買いながら、若い男がつぶやいた。鼻梁が高く涼しげな顔立ちで、くせのある黒髪を洒落た色の組み紐で一つにたばねている。背がすらりと高く、平織りのマントにくたびれた革の胴着をまとっていた。黒い目は細いがはっとするような切れ長で、時おりこの男は、人の心を読むような目つきで人を見る。
 王城騎士団の一員、二刀使いのヒルザス。今は旅人のなりで、無邪気な顔でパイをほおばっている。大口あけてかぶりついたそれをもぐもぐと飲み下し、横にいる男へくぐもった相づちを求めた。
「なあ、レイ」
「‥‥そううまくいくか?」
 隣で同じように腹ごしらえをしている男が、低い声で答えた。背丈はヒルザスにわずかに足りない。体つきはすっきりとして細身とすら見えるが、そうして立つ姿にもしなやかな力を秘めた男であった。革の腰帯に短剣をさしこみ、左腰には長剣をおさめた革鞘を吊っている。強靱な線を見せる顔にあまり表情と言えるものは浮かんでいなかったが、深緑色の目には人を引きこむ静かな意志が満ちていた。くせの少ない黒髪は短めに切っているが、近ごろのびたそれを、うるさげな左手で額から払った。
 ヒルザスと同じ王城騎士団員、レイヴァート。王の近衛でもある。
 彼は大きな一口でパイの残りを食べ終えると、指についたかすを払い落とした。
 ヒルザスがニヤッと口のはじを上げる。
「騎士団があれだけ派手にうろついてちゃ、ジャクィンもそうそう街には出られんだろ。どこかにじっとしてるさ。おとなしくマキアを頼ってくれば、それはそれでこっちのもんだしな」
「あのお人は、それほどわかりやすい人ではないと思うが。‥‥マキアを落とすほうが早い」
 つぶやいて、レイヴァートは一歩動いた。今いた場所を子供がいきおいよく駆け抜けていく。背中に革の袋を背負った、港と商館をつなぐ伝使の子供だ。当人は前を見ているつもりでも、慣れないうちはあちこちかまわずに走りこんで人にぶつかるのだった。
 子供を見おくるレイヴァートの顔を、ヒルザスがちらっと見やった。
「そうか、お前はあのお人の扉付きだったことがあるか。俺は顔しか知らん。それも七年前だ。一度だけ、練兵場でお手合わせいただいてな。音師の修業をされていたそうだが、剣も巧みな方であったな」
「‥‥‥」
 レイヴァートは無言で高くそびえる塔を見やった。港に面して立つ塔の屋根から、赤い旗が長くたなびいている。数は二つ。時とともに増える刻の旗で、あれが五本になると港は閉ざされ、船は入港を禁じられる。まだ夕刻までには大分間がありそうだった。
 その目がふっと動いた。二人は、十字路に面した広場の隅の屋台で食事を取っていたが、広場の向こう側にある何かが彼の目を引いた。レイヴァートの鋭いまなざしが噂話に花を咲かせる群衆をかすめ、建物をつなぐ空橋の下にたむろする子供たちに一瞬留まって、横へ流れる。二階が大きく張り出した店の下、歩道のすみの暗がりに、ひっそりと歩く人影があった。
 全身を灰色のフードとマントに覆っている。それは珍しくはない。人里をきらう森の民が街に出る時も、同じような色のフードをすっぽりとまとう。森の民にしては少し背が高いように見えたが、異国の人間が近いなりをすることもあるだろう。
 何が気になるのか、と目を凝らした瞬間、人影はあっというまに細い路地を曲がって消えてしまった。
 そちらを向いたままのレイヴァートの背中を、ヒルザスがつついた。
「どうした、まさか、見つけたか?」
「いや‥‥何でもない」
「そうか。とりあえず、マキアのとこに行こうぜ。昼間なのが残念だがな」
 ニヤッとしてヒルザスは歩きだし、レイヴァートは気持ちを切り替えて友の後ろ姿を追った。何かが心にかかっているのだが、それを見きわめる時間はない。とにかく今は王命を果たさねばならなかった。


 クーホリアの港町をつらぬく大通りの左右には、二階部分を大きく宙に押しだした店がたちならび、けばけばしいほどの色とりどりの看板が人目を呼んでいた。
 ヒルザスとレイヴァートは大通りをそれ、水路にかかる橋を渡った。あたりには船のさまざまな部材を作る職人の工舎がたちならび、男たちが忙しく仕事に精を出している。木くずがとびかう間を、子供らが水や濡れふきんを持ってとびかい、男たちの汗を拭いたり道具を運んだりしていた。
 道に向かって大きく口を開け放した工舎の中では、男たちが五人がかりで太いロープを撚っている。ロープのはじは大きな鉤にくくられて機械に通され、二人の男がレバーを回すたびにぐいとロープがねじられた。逆のはじを三人の男が力いっぱい引き、撚りあわせるための繊維をぴんと張っている。ロープは船にはかかせないものだ。
 リズミカルな掛け声に重ねて、あちこちから木を削ったり釘を打ち込んだりする音がひびき、焼いた鉄ゴテが材木に押しあてられると焦げた煙がたちのぼった。
 道端に座りこんで休憩している数人の男が、歩きすぎていく二人へ推し量るような目を向ける。ヒルザスとレイヴァートの風体はよくある剣士の装いだが、特にヒルザスの早足できびきびとした身ごなしが人目を引くらしい。ヒルザスを注意しようとして、レイヴァートは口をつぐんだ。もともとヒルザスは立ち居振舞いが派手な男である。今さら言ってもはじまるまい。無言のまま、歩き続けた。


 職人街の中途から道は細くなり、くねる街路の左右には、間口の狭い建物がかぶさるように建ちならぶ。食事や飲み物を売る声が雑踏に響き、道に面した大きな店の窓から香ばしい匂いが強くたちのぼった。魚、パン、鴨、豚。このあたりは、職人や船乗りが食事と酒にありつくための一画だ。
 細い路地を歩く二人の頭上に、大きな帆布が垂れ下がっていた。マキアの店へはこの路地から袋小路に入り、道からのぼれる狭い外階段を上がる。黄身がかった漆喰で覆われた飾り気のない建物であった。
 二階の外廊下を一度折れ、建物の壁の切れ目に入って道からは見えないくぐり戸を押すと、あざやかな緋色に彩られた店内が二人を迎えた。
 深緋に金の唐草を織り出した絨毯が敷きつめられ、背もたれのない長椅子が二つずつ二列に並べられている。壁のあちこちに架かった金の額に飾られている絵も、全体に色調が赤い。窓は顔も出せないほど小さなものが二つあるきりで、室内は天井から吊られた油燭の炎にぼんやりと照らされていた。赤みをおびた空気と、黄昏を思わせるにごった光の中に、肌もあらわな五人の娘たちが座っていた。
 やわらかで扇情的なまなざしが、歩み入った二人へからみつく。娘たちの笑顔にはとりあわず、二人は部屋の奥のテーブルへ向かった。壁ぎわの低い書き物机の前に座りこんでいる太った女が、彼らを見上げ、目尻を下げてニヤッと笑った。
「おや、お久しぶり。二人で何か、おもしろい遊びでもお探しかえ?」
「それはまた今度」
 ヒルザスが笑みをかえし、廊下の奥へあごをしゃくった。その仕種に肩をすくめて立ち上がり、マキアは長椅子の女の一人を呼ぶ。
「シャルース! ここ、見てな」
「はぁい」
 気だるい声を返し、襞をたっぷりとった黒布で豊満な肢体を斜めに覆った女が、ゆったりと立ちあがった。足元に置かれた硝子の香炉をよけ、マキアが座っていた場所を替わる。
 マキアは二人を手招くと、廊下のカーテンをからげて奥の仕事部屋へ案内した。やや手狭なつくりの部屋は、四方をやわらかな薄緋の布で覆われている。棚には酒瓶と帳面がならべられ、黒檀の円卓の両側に低い椅子が置かれていた。二人へすすめもせずに自分だけ向こう側の椅子へさっさと腰をかけ、マキアは足を組んだ。
「何かあったのかえ?」
 浮彫りがほどこされた銀の長煙管を手にし、油燭にかざして先端に火をともす。二人を煙管ごしに眺めやった。
 太ってはいるが、もとの美しさは決してそこなわれてはいない。肉厚の唇に紅をさし、褐色の髪を頭上でまとめあげ、毛皮の襟回りのついた長いガウンをまとっている。胸元にゆったりとした黄色い絹の襞が揺れていた。
 耳には黄水晶のピアス。──娼婦のあかしだ。
 この店は、マキアが切り回す娼館であった。王の認可を受けた公娼の館で、馬鹿にならない値段を取り、それなりに客を選ぶ。マキア自身も今は客を取らないが、かつて娼婦だったことがある。
 そして彼女は、二人の素性を知っていた。二人ともに王城付きの騎士であり、王の近衛であると。だが二人を立たせたまま、自らは椅子に座って眺めやる態度に怯えや畏怖はなく、手つきや視線には投げやりな横柄さが感じられた。
「二人そろって御用とは。客じゃないなら、なんとな?」
「ロゼナギースが罪人として国へ戻された」
 低い声で、レイヴァートが言った。マキアが目を見張り、けたたましい声をあげて笑いだす。
「悪い冗談じゃ──」
「マキア」
 ヒルザスが伝法な口調で彼女の名前を呼んだ。
「冗談じゃねえんだ」
「ふうん‥‥」
 マキアは、すぼめた唇から細い煙を吐く。にやっとした。
「そんな古い名前、持ちだされても困るの。何だと言うのじゃ? 馬鹿馬鹿しい、おとといおいで。あのお人をどうしようと、今さら私にかかわりがあるとでも?」
「彼は、船から逃げた」
 レイヴァートが淡々と言った。
「夜の海へとびこんでな。二日前の夜、湾の外での話だ。夜漁の漁師の小舟まで泳ぎ着いて、朝方に港へ入った。そこまではわかっている」
 漁師を脅して、早朝の港へ船を戻させたのだ。漁師がとどけを出し、そのことはすぐさま王城へ知らされた。ロゼナギースが帆船から逃げた段階でクーホリアの街門に見張りを立て、出る者を徹底して調べているので、まだ彼は街の外へ出ていない筈だった。
 知らせが王城に届いてすぐ、王はレイヴァートとヒルザスを呼び、王城騎士団を率いてクーホリアへ行くよう命じた。どんな手段を用いても、ロゼナギースを探しだせと。短く厳しい命令であったが、その王の心にあるものが冷酷だとは、レイヴァートには断じられない。王は、彼らが騎乗獣フィンカに乗って走り出すのを王塔の露台でじっと見つめていた。
 マキアは丸いあごをそらせ、ふっと煙をふきあげた。ゆらりと踊る白いもやを見つめながら、
「なるほどの。あの方がここに来るとでも? 今さら私をたよるとお思いかね。あなた方もたいがい愚かしいとしか言い様のないことを考えるものだの」
「悪いが、店に見張りを置きたい」
 マキアの言葉にも表情ひとすじ動かさずに、レイヴァートが言った。ヒルザスはあからさまに顔をしかめ、あさっての方を向いて舌打ちしている。マキアは喉の奥で笑った。
「客以外の男にいられると迷惑じゃ。それとも居座るか? 王に御勝手状をいただいたこのマキアの店に? それは王がマキアに下された約定をたがえるとの覚悟と受け取ってよいのじゃな、近衛殿」
「早まるなよ」
 ヒルザスが目を細めてマキアを眺めやる。
「この店のやりかたにどうこうケチをつけにきたわけじゃねェ。お前さんがここでは一番偉い。だが、俺たちもローゼ殿を探さにゃならんのさ。あの人がたよれるとこったら、ここくらいしかねえと思うがな」
「お門違いじゃ。出ておゆき。さもなければ、気に入った娘を選ばれるがよろしかろ」
「俺たちはな、あの人を安全に王城へつれて帰りたいだけなんだ」
「知らぬよ。私が存じていることは、そなたら王城の者どもがあの方を16年間もとじこめていたこと。そして、私を男どもに売り渡したことだけじゃ」
 マキアの緑色の瞳の奥に、熱っぽいものがぎらりと光った。彼女は肉感的な唇をゆがめて笑みのようなものを浮かべ、彩った爪を煙管に添えて、男二人を睫毛の下から眺めやる。皮肉っぽい目で、
「連れ戻すくらいなら、いっそ殺しておやり。檻で飼い殺すよりよほど慈悲深かろう。なあ?」
 ヒルザスが何か言いかかろうとしたのを、レイヴァートが軽く左手をあげてとめた。まっすぐなまなざしをマキアへ向ける。
「ロゼナギースから連絡があったら、詰め所に知らせをくれ」
「あの人は私のことなぞ忘れておりましょうよ」
 煙管の口を叩きつけるようにして灰を落とし、マキアは奇妙に丁寧な口調で言った。
「命惜しさに家の誇りを裏切った淫売のことなぞね」
 かすかに肩をすくめ、レイヴァートはヒルザスへ合図をして扉へ向かった。ヒルザスが怒ったような顔で出ていくのへ続こうとして、レイヴァートはふと扉口でマキアをふりむいた。女が挑発的にあごを上げる。
「何か?」
「人は、生きていかねばならん、マキア。それは悪いことではない」
「──」
 頭を軽く下げ、レイヴァートは扉をくぐって姿を消す。マキアは一人残って煙管をくゆらせていたが、やがて首を左右に振り、低い声で笑いだした。


 ヒルザスは階段をおりながら忌々しげに、
「まったくよ、あんな恨み言、今さら聞かされちゃたまらんな」
「仕方がなかろう。そもそも、今ごろは貴族に嫁いでいてもおかしくないお人だ」
「陛下もどうして御勝手状なんぞ出したもんかねえ──」
 ぼやくような言葉に、レイヴァートは答えなかった。王の考えることに何か言えた立場でもないし、するべきでもない。ヒルザスもそのことは十分承知の上だろうし、単なる吐き捨ての言葉は、レイヴァートに同意を求めたものではなかった。
 秋が深まる街を抜けていく風は肌にすずしく、二人は数軒先の仕立屋へ入った。扉の鈴が小さく鳴る。狭い店がまえの一階部分が仕立ての店で、二階は住居になっている建物だ。一階には、ところせましと布地と服が吊るされている。小さなテーブルに向かって針仕事をしている初老の男が顔をあげ、無言で二人に頭を下げた。
 階段口から、ほっそりとした黒髪の少年が顔をのぞかせた。
「まだ動きはないですよ」
「目をはなすな」
「大丈夫、ベルンもいるから」
 注意したヒルザスへ笑みを見せたが、少年は素早く戻っていく。
 初老の男がふっと息を吐き、糸を結び切った針を針山に刺して、仕立て上がったジョーゼットの袖をかたわらの架け台へ丁寧にのせた。
「お茶でも如何です?」
「うん、ありがたい」
 ヒルザスがうなずくと、男は右足を軽く引きずりながら、扉の向こうにある小さな厨房らしき空間へ姿を消した。かたかたと音がきこえていたが、やがて木の丸盆に陶のカップを三つのせて戻ってくる。ヒルザスとレイヴァートはそれぞれ礼を言ってカップを受け取った。
 ぬるい水出しの茶は、かすかな花の香りで喉をうるおした。
 王は、8年前にマキアへ店を持つ赦しを与え、この通りに娼館をひらくことを認めたが、同時に王はマキアの店から四間ほど離れた店へこの男を入れたのだった。昔、脚に怪我を負う以前は騎士だったという噂の男だが、レイヴァートはそれ以上この男の正体を知らない。わかっているのは、彼が8年間ずっと、静かにマキアの動向を見ていたことだけだった。
(陛下は、この日あるを予期しておられたのだろうか?)
 ふっと胸が波立つ。22年前、前王は、マキアへの裁罪において「天秤」を示した。命と誇りを両皿に架けた天秤を。毒を含んで命を断つか、娼婦としてその身を娼家に下げ渡されるか、どちらかを選べとマキアにせまった。マキアは実にその時、18才だったと言う。
 天秤は、罪を量るとともに、自らの心を量る天秤でもある。マキアがそこに何を量ったかはわからないが、彼女は身分も誇りも捨て、夜な夜な男たちに身を売る稼業へ身を落としたのだった。それから14年間、彼女は体をひさいで生きた。
 その前王も今は亡く、現王は8年前、マキアが店をひらくことを認めると同時に、仕立屋の店から彼女の様子をうかがわせてきた。8年間、ずっと。
 ──何故?
 レイヴァートの内側で問いがうごいた。王への不信はなかったが、王が何を思い、何を望んでマキアのそばへこの男を配したか、王がいったいその心に何を望んでいるのか、それを知りたいとは思う。
 仕立屋の男は、カップを口元へかたむけて静かに茶を飲みながら、明かり取りの窓の下によりかかっていた。カップの取手に回した指は剣士のものというより仕立屋のしなやかな指で、彼はいつ剣を捨てたのか、レイヴァートにはわからなかった。
 男の灰色の目がすっとレイヴァートを見つめ返す。レイヴァートがそのまなざしを受けると、仕立屋は丁寧な口調でたずねた。
「さしつかえなければ。ローゼ殿は、カデンシャでとらえられたと聞き申したが、何の罪状にて?」
「聖堂に、火を放ったそうだ」
 ヒルザスが空のカップを手の中でくるりと回して、答えた。
 男は何も言わずにうなずいて、小さな笑みをこぼした。ヒルザスがわずかに片目をすがめて、はかるように男を見やる。
「ローゼ殿のことを、ご存知か」
「昔、ごくわずかに」
 そう男が答えた時、階段の上からさっきの少年が顔を見せた。見習いの剣士で、名をカルジックと言う。昨日からこうして数人交替で、この店の二階からマキアの店の動きを見張っている。
「マキアが出かけるよ!」
 レイヴァートがうなずき、ヒルザスへあごをしゃくった。ヒルザスはうなずき、いきおいよく階段をおりたカルジックとともに店を出ていった。マキアを追うためだ。
 出ていく寸前、レイヴァートへちらっと手をふった。
「後でな」
「ああ」
 うなずき、レイヴァートはヒルザスを見送ると、二階へ続く狭い階段をのぼった。薄ぐらい部屋には粗末な寝台が一つ布に覆われ、つくりかけの服を架けた木の胴型が三つほど立てられている。カーテンが狭くあけられた窓際に、布の間から表を見張る少年の後ろ姿があった。さっきのカルジックより少し年長だが、それでも15才というところだろう。
 斜めにふりむいて、レイヴァートへ小さく頭を下げた。口をぐっと結んだ、利発そうな顔におぼえがあった。クーホリアの守備隊アラギスの息子、ベルン。来年、16の年になったら王城に上がって城塞騎士の見習いとなる少年だ。
 レイヴァートはうなずき返し、窓辺へ歩み寄って空いた椅子へ腰をおろした。木枠の窓からはマキアの店から道へ降りる階段が見える。街路をゆきかう人々の頭も見おろせた。
 ──灰色の‥‥
 狭いカーテンの隙間からチラッとかいま見た人影に、レイヴァートは眉をしかめる。何かに首のうしろをふれられたような気がした。
 ゆっくり立ち上がり、表から見えないよう壁に添って通りを見おろした。灰色のフードにすっぽり身を包んだ人影が、ゆるやかに遠ざかっていく。かたわらには日雇い人夫らしいよく陽に灼けた男がいた。何か親しげに話しかけている。
 レイヴァートはじっと灰色のマントを見つめたが、自分をとらえる感触の正体はわからなかった。
 二人の姿は視界から消えていく。見張りの少年がけげんそうにレイヴァートを見上げた。
 小さく首を振って、レイヴァートは椅子へ戻る。腕組みして壁によりかかった。だが、まだ心のどこかにかすかな引きつれが残っていた。あれは同じ人影だろうか? さっき、大通りで見かけた人物と‥‥
 クーホリアには、知人も多い。友もいる。そのうちの誰かだろうか。だが、誰だ?
(いったい‥‥)
 考えこんだが、一向に思い当たるものはなく、時間だけが奇妙にゆっくりとすぎていった。