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【3】

 男はジャクィンと名乗ったが、イユキアは名乗らなかった。黒館の主の名を聞きたがる者はそうはいない。このアシュトス=キナースの国において、黒館は100年以上にわたる畏怖と恐怖の対象である。およそ二年前に黒館の主となったばかりのイユキアではあったが、人々にとっては「黒館の主」の名を継ぐ者であるという一事がすべてのようだった。黒館の主、それ以外の名はないと言わんばかりに。
 イユキアは他人に名乗らないことに慣れていたし、ジャクィンもたずねなかった。
 白い指で錫の杯の脚をつまみ、イユキアは水でうすめたワインを一口飲む。その様子をジャクィンが眺め、低く笑った。
 イユキアがちらっと瞳を向けると、
「黒館の主は人の食うものは食わんという噂があったがな。‥‥酒は飲むらしいな」
「食事もとりますよ」
 イユキアは静かな声で返した。ジャクィンが頬杖をつく。その手首には、イユキアが傷薬の軟膏で簡単な手当てを施してあった。
「あんた、いつ黒館の主になった? 前の主はどうした?」
「私が黒館に来てから、二年近くになります。前の主は亡くなられていますが、ほとんど存じ上げません。──あなたは、ご存知で?」
「まあ、存じよりと言えねぇこともなかろうが。あの頃は言われてたもんさ。黒館の主は、人ではない──とな」
 囁くような低い声。ジャクィンの顔は笑みをうかべていたが、声も、灰色がかった青の目も、笑ってなどいなかった。殺気のようなとがったものを含んだ視線が、イユキアの肌をひりひりと這う。首すじにじかに刃があてられたようだったが、イユキアはおだやかな表情を変えず、小さくまばたきして、答えた。
「そういう噂は、今もあると思いますよ」
「あんた、人かい?」
「どうでしょう」
 冗談を言う風でもなく、イユキアは首をかしげた。金色にかがやく「獣の目」を持って生まれた自分が「人」なのか、もし人でないなら「何」なのか、その疑問はイユキアのうちにも根を張っている。そして今、この土地に仕掛けられた古い魔呪の焦点である「黒館」の主となって、ますます境界があいまいになってゆくのを感じていたが、正直、今や己の存在にほとんど興味は失っていた。
 ジャクィンの、猛禽類のような眸がするどくイユキアを見据える。
「自分がわからないのか」
「‥‥ええ」
「そうか」
 ふっと男のまなざしがゆらいで、彼は手の中の杯をのぞきこんだ。つぶやくように、
「あんたも、自分が何者か知らないのか──」
「‥‥‥」
 イユキアは睫毛を上げ、暗い色の瞳でジャクィンを見たが、何も言わなかった。ジャクィンは柱の影に身をもたせかけ、動かない。やがて、つぶやいた。
「帰るところはあるのか?」
「いいえ」
 イユキアは首を振る。故郷と呼べるものは、すべて捨てていた。帰れもしないし帰りたいと思ったこともない。あの地には悪夢だけが残る。ふいに遠く、ぼんやりとした痛みが胸を刺し、その記憶を払うように彼はジャクィンへたずねた。
「あなたには?」
「俺は、この国の生まれさ‥‥帰ってきたところだよ。六年ぶりに」
 くくっと喉の奥で笑うような声を洩らし、ジャクィンは歌のようなものをつぶやいた。
「帰るべき地のある者は幸いだ。心の内にふるさとを持つ者は‥‥」
 歌はすぐに途切れ、彼は酒杯を一気にあおる。口のはじからこぼれた酒を手の甲で拭いている時、頭を青いヴェールにつつみ、茶色いケープをまとった娘が店へ入ってきた。娼婦のようだ。カウンターへ歩み寄り、店主と言葉を交わしていたが、ケープの内側から革袋と何かをとりだして置くと娘は早足で店を出ていった。二人にちらっと目を向けたようだったが、ヴェールをかぶっているのでよくわからない。ジャクィンは杯へ顔を向けたまま、するどい目のはじで娘と店主の一挙一動をうかがっていた。
 店主は、渡された袋を手にカウンターの中から出ると、ついでのようにワインの瓶を一本ぶらさげて、ジャクィンのテーブルへ歩みよる。それらをどすんとテーブルへ置き、低く言った。
「マキアからだ」
「‥‥待ち人が来るより早く、話が回っちまったか。すまんな、もう行く」
 杯を置き、小さく息をついてジャクィンはテーブルへ手をのばす。明らかに硬貨がつまった革袋が一つと、古びた銀の鞘におさまった短剣。袋をベルトに吊り、短剣を腰の後ろへぐいとおさめた時、また一人、剣士姿の男が店内へ歩み入ってきた。


 茶色いケープの娘が、店から出てきた。見るからにほっとした様子で道の左右をみやり、元来た方角へ歩いて行く。
 隣りの店の影から、レイヴァートが少年の肩を押した。
「店へ戻ったら、この場所をヒルザスへつたえろ。それ以外の場合も、ヒルザスへつなぎを取れ」
 ベルンは無言でうなずいて、茶色いケープの後ろ姿を追っていく。細い路地の向こうへ消えていく人影を見送って、レイヴァートは小さな酒場を見やった。間口は狭く、かたむいた扉がかすかに開いているが、中の様子は見てとれない。扉の上にうちつけられた薄汚れた看板に、カササギの絵が消えかかっていた。
 少しの間だけ考えていたが、レイヴァートは小さな息をつき、扉を押しあけて暗い店内へ足を踏み入れた。


 入ってきたレイヴァートの姿を見て、イユキアの唇がかすかに開いた。まさかここで、レイヴァートの姿を見るなどと思いもしなかった。
 何かを言おうとして──自分でも何を言おうとしたのかわからないまま、呆然と口をとざす。もともと華美な装いはしないが、今日のレイヴァートはいつもに輪をかけて質素な装いだった。厚地のシャツに平織りの茶色いマントをまとっている。
 レイヴァートはまだこちらを見ていない。
 彼がどうしてこんな裏町にいるのか。そして、どうしてこの店に。混乱して、その場から逃げ出したい衝動にかられた時、店内をぐるりと見たレイヴァートと目があった。
「‥‥‥」
 カチッと歯車が噛むように視線があわさって、動けなくなる。レイヴァートの表情はほとんど変わらなかったが、少し目を細めてイユキアを見つめ、彼はふしぎそうに呟いた。
「イユキア?」
「‥‥‥」
 名を呼ばれて、全身が大きく脈を打った気がした。どうしようもない。表情をうごかさないのがやっとだった。イユキアは酒杯を手にしたまま、物も言えずにレイヴァートを凝視している。
 ふっとレイヴァートの口元に笑みが浮いた。イユキアが肩からまとった灰色のマントに、思い当たるものがあったのだ。
「成程」
 小さく、うなずいた。今日、二度に渡って見たのが誰だか、やっとわかった。よもや黒館のイユキアを港町クーホリアで見かけるとは考えもしなかったので、思いいたらなかったのだ。黒館は、この港から半日の先にある王城から、さらに西の丘陵にある。そしてイユキアは滅多に人のいる場所へ姿をあらわさない。
 イユキアはまだ、何を言ったらいいのかわからない。こんな場所で、こんな日に、レイヴァートに会いたくはなかった。いたたまれなさが体の内を駆け巡り、全身から血が引いていくような気がする。
 レイヴァートはイユキアの隣りのジャクィンへ目をうつし、落ちついた仕種で頭を下げた。
「お久しぶりです。──よく、お戻りになられました、ロゼナギース殿」
「レイヴァートか」
 男は笑みをうかべてレイヴァートを見やっていたが、イユキアの手から杯を取ると、半ばまでを飲み干した。
「そんなこと、本気で言うのはてめェくらいだろうな‥‥」
「陛下もお待ちです。私と一緒に王城へ戻ってはいただけませんか」
「あいつに言われて来たのか?」
 ジャクィン──ロゼナギースの言う「あいつ」が王のことだとわかったが、レイヴァートは表情一つ変えず、ゆっくりとテーブルへ歩み寄った。イユキアはレイヴァートの視線をさけるように、テーブルの上でからめた指を見つめている。いまだ、一言も発していない。ちらっとそれを見たが、レイヴァートは落ちついた顔をロゼナギースへ向けた。騎士として王城から命を授かっているからには、まず王命を果たさねばならない。
「そうです。どうか、お願いできませんか」
「‥‥待ち人を、してるんだがな。嫌だと言ったら? その剣を抜くか?」
「場合によっては、お相手いたします」
 いともおだやかに、レイヴァートはうなずいた。瞬間、ロゼナギースが空の杯を宙へ放り投げる。その動きにまぎれて左手が短剣を抜き放ち、レイヴァートめがけて放った。
 身じろぎもしないレイヴァートの顔すれすれを短剣がかすめ、カウンターの柱へ突き立った。落下した杯が床を叩き、カランと音が跳ねる。
 ロゼナギースは苦笑を浮かべた。レイヴァートの目は、放り上げた杯も落下した音にも惑わされず、ロゼナギースをひたと凝視しつづけていたのだ。
「腕を上げたか?」
「六年前よりは」
「そうかァ‥‥ま、一杯やらんか? 見知った者同士みてェだしな」
 イユキアとレイヴァートの顔を見やってから、ロゼナギースはカウンター内の店主へ片手をあげた。むっつりとしたまま、店主が棚から杯をとりだす。レイヴァートがカウンターへ歩み寄り、柱に刺さった短剣を左手で引き抜きながら右手で酒杯を受け取った。それから短く言葉を交わし、店主は外へ出ていくと、看板を下げて扉をしめた。無言のまま、店の裏口へ姿を消す。
 ロゼナギースがレイヴァートへ声をかけた。
「あいつは、マキアの友達なだけで、俺のことは何も知らねえんだ。キツいこと言ってやるなよ」
「承知」
 うなずいて、レイヴァートはテーブルへ歩み寄ると、短剣の柄をロゼナギースへさし出した。それをつかんで、ロゼナギースが短剣を鞘に戻す。それから三つ杯をならべ、ワインを注いで、それぞれイユキアとレイヴァートの方へ押しやった。
 テーブルをはさんで向いに引き寄せた丸椅子へ腰をおろし、レイヴァートは杯を手に取る。イユキアも黙ったまま杯を手にした。彼は一連のやりとりの間に落ちつきを取り戻したようで、いつもの静かな表情で酒杯を見つめていた。
 かるく杯をかかげて見せてから、ロゼナギースはぐいと酒杯をかたむける。
「あいつ、元気にしてるか?」
「ご健勝です。この春、翡翠の扉をひらかれました」
「おお、やるなぁ」
 王城内にあるいくつかの「扉」は、王たる者をためすためにあり、王以外の者はふれることもできない。扉に古い魔呪が織りこまれていて、力の足る王だけがそれを解くことができると云う。前王は、ついに翡翠の扉を開くことができぬままに死んだ。
 現王はまだ若い。100年ぶりに、次の紅晶の扉を開くのではないかと囁かれていた。
 その話を聞いて、ロゼナギースはニコッと子供のような笑みを浮かべた。心底、うれしそうな顔をする。
 レイヴァートがおだやかにたずねた。
「どなたかをお待ちだそうですが、護送船から逃亡したのはその待ち人に会うためですか? どなたです」
「船からは、逃げたんじゃない。落っことされたんだ。俺を殺そうとしたんだろうな」
 レイヴァートは眉をよせた。
「相手を見ましたか?」
「‥‥‥」
 ロゼナギースが溜息をついて、杯を置く。
「お前は、どうしてそうなんだ。俺が嘘を言ってたらどうする?」
「嘘ですか?」
「いや‥‥」
 あきれたような困ったような顔をして、ロゼナギースは首を振った。うつむいたままのイユキアがかすかに笑う。ロゼナギースはそれをチラッと見て、
「黒館のと、知り合いか?」
 レイヴァートはうなずいた。
「ええ。妹の治療をしてもらっています」
「ああ、今は黒館で治癒の技も売るらしいな。まったく、変わったもんだ──」
 イユキアは端麗な顔を伏せたまま、どちらとも目を合わせようとしていなかったが、その時ふいに扉を向いた。酒杯からはなれた右手が灰色のマントの下へすべりこむ。
 勢いよく開いた扉から、ヒルザスが、くくった黒髪とマントをなびかせるように大股で入ってきた。
「レイ!」
「騒々しいぞ」
 レイヴァートは眉をひそめて友人を見る。ヒルザスは何か言い返しかけたが、ロゼナギースを見つけてはっと目を見はり、即座に口調をあらためた。
「失礼ですが──ロゼナギース殿で?」
「ああ」
 ロゼナギースが笑みをうかべてヒルザスを見上げる。ヒルザスはつられて人なつっこい笑みを返すと、姿勢を正した。一礼する。
「失礼しました。王城騎士団のヒルザスと申します」
「お前も一杯飲むか?」
 ロゼナギースが酒杯をかかげ、酒に目のないヒルザスはうれしそうにそれを取りに行こうとしたが、レイヴァートが左手をのばして友をとめた。イユキアへ視線をはしらせる。イユキアはまだ右手をマントの中に入れて、何かをつかんだまま、奇妙に緊張した目を扉へ向けていた。
「どうした?」
 それは、半ばイユキアへ向けた問いだったが、ヒルザスが思い出したような顔をしてレイヴァートを見た。
「そうだ。マキアが襲われたぞ」
「誰に」
「腕の立つ、身なりのいい騎士だ。マキアは店に戻した」
 口元に酒杯をはこんでいたロゼナギースの目が、ヒルザスの言葉を聞いてギラリと光った。レイヴァートがロゼナギースへ向き直ろうとした時、イユキアがなめらかな身のこなしで立ち上がる。
 低く呼んだ。
「レイヴァート──」
 顔を合わせてからはじめて聞く、イユキアの声。この間この声が彼の名を呼んだのは、いつだっただろう。レイヴァートは一瞬息をつめ、まなざしを合わせた。
「どうした」
 イユキアははりつめた眸をレイヴァートへ向け、呟くように言った。
「何か、来ます」
 静かな声に含まれた緊張を、レイヴァートだけが聞きとった。かるく右肩と左膝をおとして剣を抜ける体勢をとり、レイヴァートは扉へ目を向ける。その時、とじた扉の前に何かがいるのに気がついた。
 全身が闇色の犬だ。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
 扉はヒルザスがしめた時のまま、それから開いていないはずだった。その前から犬が店内にいたかどうか、レイヴァートはその可能性を考えたが、犬の目を見た瞬間にその考えは吹きとんだ。
 赤い、熱した鉄のように内から光る目。見るものの心を射貫き、内側へ入りこんでねじふせようとするような〈力〉をもった瞳。
 これと同じ力を秘めた瞳を、レイヴァートは知っている。
 イユキアの目だ。いつもは色をつけて覆っているが、その下にある瞳は金にかがやく。「獣の目」と呼ばれる、力ある目──
 だが、この犬の目にあるのははるかに異様な力であった。灼けるような飢えと憎しみが、ギラついた剥き出しの光を放っている。人を支配し、従わせ、ひれふさせて魂までも喰い尽くそうというような、暗くたぎる力。
 レイヴァートの全身が強くふるえた。体がしびれてまったく反応しない。視界のすべてが赤い目のかがやきへ吸いこまれてゆくかのようだ。歯をくいしばったが、剣柄にかけた指一本動かなかった。
 逆らうのは無駄だと一瞬で悟り、レイヴァートは意識をとざす。自分の内側へ集中し、体の内を流れていく血の熱さを思い浮かべた。その熱が、体の中心を通り、指先まで流れこんでいく流れを克明に脳裏へ描きだす。熱は体をめぐり、もう一度体の中心へもどってくる。その輪がぐるりととじた瞬間、全身にあたたかいものが流れて、いましめがはじけたように麻痺がとけた。
 それは、ほんの一瞬のことだったにちがいない。レイヴァートの手が剣を引き抜いた時、犬はまだほとんど同じ場所にいた。レイヴァートは刃を振り上げながら床を蹴り、一気に距離をつめて剣を振りおろす。
 するどく空気を裂いた一閃に、手ごたえはなかった。
 黒い霧のようなものがひろがって視界を覆う。霧は左右にわかれてレイヴァートの剣を避け、彼の横を通り抜けた。ふれた肌からゾッとする冷気がレイヴァートの体に流れこんだが、体にみなぎらせた闘気がそれを溶かした。レイヴァートは剣を手に身を一転させる。もやは彼の背後で一つになり、ぼんやりした犬の形を引きずるように、宙へ跳んでいた。イユキアめがけて。
 黒館の主は目を細め、右手をマントの内へ入れたまま優美に立っていた。怯えもたじろぎもその姿にはない。影を見据えた瞳の奥に、金色の光がきらめいた。右手が動こうとした瞬間、
 ──鋭い音が耳を裂いて鳴った。
 黒い影は、見えない何かにはじかれ、もんどり打って床へ落ちる。その胴をふりおろされた二つの剣が断ち割った。レイヴァートとヒルザスの剣が同時に黒い影を切り裂いていた。
 水を切ったような奇妙な感覚があった。犬の形をしたものは、音のない声をほとばしらせて身をよじり、剣を抜けて跳ぶ。着地するや、床をすべるように這って、扉の向こうへ吸いこまれるように消えた。
 ヒルザスが剣を片手に扉へ走りより、表を見やる。通りの左右を見てからレイヴァートを振り向き、首を振った。レイヴァートは剣をおさめ、イユキアとロゼナギースへ体を向けた。動きがとまる。
 イユキアの喉に刃がつきつけられていた。ロゼナギースがイユキアの体に腕を回し、短剣を白い喉に押しあてて立っていた。