イユキアがロゼナギースをつれていったのは、頭上に石のアーチが交差した狭くくねる径を抜けた先にある、何かの工事跡だった。
港からさほど遠くない、つくりの大きな建物が建ち並ぶ倉庫街の裏手。前面がやや急な斜面となった高台からは、倉庫の屋根をかすめて鈍色の海が見える。
測量の杭が地面に打込まれ、麻縄が渡してあるが、縄の一部がちぎれて地面に落ち、埃にまみれていた。礎石が放置された地面を見やって、ロゼナギースが目をほそめる。
「こんなとこに建物か?」
「新しい物見台を造る予定だったらしいですよ」
「何で途中になってるんだ?」
「骨が出たそうです」
イユキアが灰色のローブの下からのばした腕で指したのは、短い草群れからのぞく、飾りのついた細長い金属の棒だった。よく見ると、刃を深々と地に埋めた剣の柄であるとわかる。地面を貫きとおした刃で何かを封じているのだと悟って、ロゼナギースは用心深い足取りで歩み寄った。
イユキアが一歩後ろで説明する。
「その骨を、王城で調べているとのことで、場合によっては祓えが必要になるでしょう。それまでこの場所も、手をふれることなくとどめ置かれることになっています」
「古い骨一個で何をそんなに? 人の骨じゃなかったのか?」
「人の頭蓋でしたが」
イユキアは、昨冬に王城へ招かれ、その骨を検分したことがある。つづけた。
「額に、小さな穴が開けられていました。生前にうがたれた穴だと思われます」
「‥‥“遠見の一族”?」
「おそらくは」
静かな声で、うなずいた。
100年近くも前、このあたりの地には“遠見”と呼ばれる一族がいた。時を見る者や空間を見る者、人の心を見る者などその能力は多岐にわたったらしいが、一族が姿を消した今、あまりくわしいことはわかっていない。
彼らは、子供のころから額に穴をうがち、宝石をはめこんで「第三の目」としていたと云う。
あたりには、かげろうのような夕闇がしのびより、港から合図の鐘と声が鳴る。ロープのきしみが風にのってこの場所まで届いた。人の多い街区だと言うのにあたりに目立つ人影はなく、打ち捨てられた基礎の間に影がくろぐろとわだかまって、ロゼナギースは薄気味悪そうにあたりを見回した。
「──大丈夫なのか、そんなもん掘っちまって」
「おそらく、海を見張るために一族が埋めたものだと思いますけどね。場所にも骨にも、今は何の力も残っていませんよ」
「あんたが言うなら、そうなんだろうなぁ‥‥」
まだあまりゾッとしない様子だったが、ロゼナギースはくずれた煉瓦をまたいで、斜面が落ちる手前まで歩み出た。眼下には海へ平行に斜面留めの石壁がめぐらされ、その向こうに倉庫がたちならぶ。傾斜のゆるい屋根の向こうに、海が見えた。
鏡のようにないだ海はくらく、おちてゆく太陽の最後の光が水平線をするどく照らしている。刃で横に裂いたようなかがやきだった。
鈍い海の色を眺めていたが、ロゼナギースは肩ごしにイユキアへつぶやいた。
「この海には、俺の母親が沈んでいる」
「‥‥‥」
「22年前のことだ。俺の母親は、黒館の主に毒をつくらせ、前王を弑そうと謀った。母は、王の愛人でな。‥‥俺の母親が、俺の父親を殺そうとしたわけだ」
低く笑った。イユキアも、ロゼナギースと同じ海を眺めて動かない。フードをのけて白い顔と銀の髪があらわになっていたが、いつもと同じ静かな表情はほとんど感情らしい感情を見せていなかった。
「母はとらえられ、自分が盛ろうとした毒を飲まされて死んだ。墓はゆるされず、その身は柱にくくられて焼かれ‥‥骨は、この海の底に沈んでいる」
「あなたは生きのびた」
しんと闇を含んだような声で、イユキアはつぶやいた。ロゼナギースがちらっとその顔を見る。
「ああ、そうだ。自由と引き換えに、な。‥‥16年だ、イユキア。俺は16年間の大半を、王城の奥にとらわれてすごした‥‥」
ロゼナギースはかるく身をそらせ、喉の奥からかわいた笑い声をたてた。
「おかしいだろ? 俺はその間ずっと、この国から逃げ出すことだけを考えていた。遠くへ行く夢をずっと見てた。自由にさえなれれば、後はどうでもよかった。何を引き換えにしてでも自由になれれば‥‥。なのに──なのに、だ。この国を六年前に離れてから、ずっと、帰ってくることしか考えてなかった」
「‥‥‥」
「お前は、イユキア? お前は帰るところがないと言った。だが、だからこそ──帰りたくなることはないのか? お前が捨てた、あるいはお前を捨てた国へ?」
ロゼナギースの目は海と同じ暗い色をして、挑みかかるようにイユキアを見ている。イユキアの銀の髪があるかなしかの風に揺れた。
イユキアの唇に、風と同じかすかな微笑が浮く。それはひどく寂しげに見えた。
「私とあなたはちがう。あなたはこの地に心を置いていった。‥‥会いたい人がいるのでしょう?」
問いの形をしていたが、それは問いではない。事実を言っただけだった。
「‥‥‥」
ロゼナギースはイユキアを見ていたが、ふいに右手を腰へ回して短剣を鞘から引き抜いた。抜き身の刃が夕暮れにうっすらと光る。
「ここにいろ」
言い捨てて歩き出した彼の前へ、人影が五つ、姿をあらわした。手に手に長剣やカトラスを下げた男たちがロゼナギースを取り囲む。港あたりをうろついている水夫か、海兵くずれだ。全員、荒事に慣れてすさんだ雰囲気をまとっていた。
ロゼナギースの口元が笑みの形に歪んだ。
「へェ。そんなに俺を殺したいのか‥‥」
からかうような言葉に答えるものはなく、男たちは得物を構えると不気味な殺気をみなぎらせ、一斉にロゼナギースへ襲いかかった。
夕ぐれに、蝶の羽根は小さな星のようだった。その羽根がはじめ思っていたような白ではなく、青みをおびた銀色なのだと、レイヴァートは追いながら気付く。イユキアの髪の色だ。
自分を引く力を感じる。強いものではないが、たしかにそれは、イユキアの気配を内にはらんで、彼を呼ぶ。
追うことにためらいはなかった。雑踏を抜け、時に人にぶつかるようにしながら狭い路を抜けていく。
(イユキア──)
胸の内で名を呼んで、倉庫街へつづく角を曲がった。人影がぐんと減る。背後でヒルザスが何か言っているのを聞き流して走るレイヴァートの目前に、黒い影がひるがえった。
「!」
瞬間、考えるより早く右手が短剣を抜き放つ。黒いものを薙いだ一閃に手ごたえはなく、レイヴァートは膝を軽くおとして足をとめた。その眼前に、ちぎれた銀の羽根が粉雪のように舞った。
蝶の残骸が散る向こう側、黒犬が炎のような真紅の眸でレイヴァートを見据え、爪にかかった羽根のかけらを前脚の一振りで払った。刹那、後脚をのばして軽やかに宙をかけのぼり、獣の姿は霧のように消えた。
立ちすくむレイヴァートの背後で、ヒルザスの荒い息がひびく。
「レイ、あの犬の方角を追え!」
「!」
真紅の眸の呪縛にとらわれていたレイヴァートは、ヒルザスの叱咤にはっと我に返った。犬が飛び越えて消えた壁を見上げ、方角をはかって走り出す。壁の切れ目を左へ曲がると、石の階段を駆けのぼった。
荒々しい舞いのようにロゼナギースの体はしなやかに動き、肘や拳で相手の喉やみぞおちを的確にとらえた。手にした短剣はもっぱら相手の刃を受け流すために用いられ、ほとんど斬り付けようとしてはいない。防御と攻撃が一体となった、美しい動きだった。
さしてたたないうちに、三人が地に伏せていた。力の差は歴然としている。だが、一人、海兵くずれだろう、体格のよい壮年の男はロゼナギースを間合いに入れようとしなかった。長剣を用いてたくみに距離を保ち、彼が隙を見せるのを待っている。ロゼナギースとその男が向きあった横を、残った一人が駆け抜けた。イユキアめがけて。
イユキアは興味のなさそうな表情のまま、動かない。その喉元へカトラスをつきつけ、男はロゼナギースへ怒鳴った。
「動くな! 動けばこいつを──」
イユキアの左手がすっと上がった。風をなでるように五指をひらめかせる。その動きに男の視線が吸い寄せられ、カトラスの先が突然重みを増したかのように地面へと下がった。だらりと刃を下げ、男は魅入られたようにイユキアの指を見ている。イユキアは男のふところへ一歩踏みこみ、指さきを男の首すじへさしのべた。優雅な動きであった。
指が一瞬にして血脈をさぐりあてる。そこから冷たいものが一気になだれこみ、男はどっと地面に崩れた。
ロゼナギースがすばやく腕を振り、最後の一人へ短剣を投げつける。剣ではじきとばしたが、予測しなかった動きに相手は大きく体勢を崩した。その脇へ身を丸めてとびこみ、胴を前からかかえながら、相手の足を裏からすくう。もろともに地面へ倒れたが、途中で相手の喉元へ左の肘をのせた。
倒れる衝撃で、喉へ肘の一撃をくわえる。体重はのらない位置だったが、つぶれたような声を洩らして男は体をのけぞらせた。
「これ以上やるか?」
ロゼナギースは相手の目をのぞきこむ。声もなく、男が首をかすかに振ると、うなずいて立ち上がった。短剣を拾う。
意識のある男たちがよろよろと逃げていくのを見向きもせず、イユキアと足元に倒れた男の体を見た。小さな笑みを浮かべる。
「俺も、いつでも殺せたんだろ?」
「心の強い人に、めくらましは効きませんよ」
イユキアは静かにこたえる。それに、倒れた男は死んでいるわけではない。夜中までには目を覚ます。
ふん、とロゼナギースが鼻を鳴らした。
「いくらでも方法はあるだろう。──何でわざわざついてきた、イユキア? 俺はお前を殺すかもしれなかったんだぜ」
「でも、あなたは私を助けてくれたでしょう。あの店で」
イユキアは淡い微笑をかえした。ロゼナギースは眉をよせる。彼にはわからないのだろう。黒館の主をわざわざ助けようとする者も、こうまで親しげに話しかける者も、胸に秘めた憎しみをあからさまにして平然としている者も、ほとんどいないのだと言うことが。
あの酒場で、イユキアを襲った黒犬の形をした使い魔──あれを撃退したのは、ロゼナギースの指笛だった。イユキアの興味のひとつはそこにもある。
音色というのは、それ自体が魔呪の力を多少含むが、ロゼナギースが鳴らしたものほどの「力」は珍しい。あれほどの技は一朝一夕に身に付くものではない。好奇心、と言えるほど強いものではないが、ロゼナギースが何者か、それが何の技なのか、少しばかり気には掛かっていた。
もっとも、実際に自分がロゼナギースに従って店を出た「理由」は、よくわかっている。レイヴァートのそばにいることに耐えられなかったからだ。彼のまなざしから逃れるためなら、何でもよかった。
ロゼナギースにそこまで説明できるわけでもないし、する気もない。イユキアは小さな吐息をもらした。レイヴァートに心配や厄介をかけるのは本意ではない。ロゼナギースの場所を知らせて、自分はさっさとどこかへ去るべきだったのかもしれない。あの蝶は、己につないでしまったが。
ふっとイユキアの目が動いた。あたりはかなり暗くなってきている。まなざしに気付いて、その先を振り返ったロゼナギースは口元に苦い笑みをきざんだ。
「待ち人来たる。──六年ぶりか?」
「‥‥何故、貴様が、この国に戻ってきたのだ‥‥」
大柄な男が夕闇の中に立っていた。右手には抜き身の長剣。仕立てのいい服をまとって、丈高のブーツを履いている。肩あてのついたマントをまとっている以上、騎士だろう。
先刻、ヒルザスと剣を交わした男だが、顔にあの仮面はなく、厳しい面ざしがあらわになっていた。年は40がらみというところか、全身にどこか歪んだ気魄がただよっていた。
ロゼナギースは彼の前へ歩み出る。男をにらむ目には苦痛と怒りがみなぎっていた。
「どうしてマキアに剣を向けた?」
「どうして戻ってきた!」
二人は憎しみをぶつけてにらみあった。ほとんど目に見えるほどの感情の渦を、イユキアは伏せた睫毛の下からながめる。ほとばしった人の思いが、見えない渦となって二人もろともに巻きこむ。双方の憎しみや怒りが、坩堝に溶けた鉄のように分かちがたい熱となって彼らの周囲に煮えたぎっていた。
次の瞬間、男の剣がロゼナギースの胴を横薙ぎにしていた。風を裂く音さえきこえそうな轟剣の一閃を、ロゼナギースは一転して避ける。地面に落ちていたカトラスを拾い上げ、湾曲した分厚い刃で次の一撃をとめた。刃を合わせ、彼はくいしばった歯の下から切れ切れの言葉を吐き出す。
「サリューカのためだ‥‥!」
「お前にサリューカは渡さん!」
一合、打ちあって二人は体を入れ替えた。打ちあわせた刃の音が甲高く散る。男の目にもロゼナギースの目にも互いにゆずらぬ炎があった。
サリューカと聞いて、イユキアがふと表情をうごかした。その言葉におぼえがあった。11年に一度、王城で行われると云う秘儀の名だ。神々と王城の王との交わりと浄めの儀式だと言われているが、その内容は秘されており、ただ、特別な音楽が奏されるということだけを聞き及んでいた。
(‥‥音楽)
その言葉と、ロゼナギースが使い魔を撃退した指笛が、イユキアの中で重なる。あれが、ロゼナギースの持つ音色の技なのだろうか。単一の音でさえ、あれほどの力を一瞬にして放つ。サリューカに必要とされるほどの音色とは、その力とは、一体どれほどのものなのか。イユキアはロゼナギースを見やった。
二人はふたたび刃を交わし、ロゼナギースは大きくとびすさった。肩で息をつきながら、
「無理だ、ヴィラハン。オルジカでは次のサリューカはおこせん。師が亡くなった今、誰かがサリューカをおこさねばならん!」
「貴様は‥‥貴様は、二度と帰らぬと誓った‥‥!」
「たしかに誓った。誓約を破ったあがないはする」
「ならば命で!」
打ちこまれた刃を流し、ロゼナギースはさらに下がる。
「二年待て、ヴィラハン! サリューカが終われば、俺は死ぬ。六年前、あんたが俺を逃がしてくれたことは、誰にも明かさん──」
「それで切り抜けられるほど、陛下が甘い方だと思うか」
「‥‥‥」
「お前に死んでもらうよりほかに、俺には手だてがないのだよ。たとえ、二年後のサリューカを損じようともな。いや‥‥オルジカならばやりとげてくれよう‥‥」
爛としたものを目に宿し、ヴィラハンと呼ばれた男はロゼナギースを見据えた。
「ひとたびでも国を捨て、王を裏切ったお前などよりな。お前に、王城のための音を奏する資格はない」
「そうかもしれん」
ロゼナギースは苦い笑みを浮かべたが、全身にみなぎった闘気にゆらぎは生じなかった。ゆっくりとカトラスを胸の前に引き付けるようにかまえ、右足を引く。
「だが、俺には守らねばならんものがある‥‥」
「あの娼婦か? 家を裏切り、誇りを捨てた女だぞ」
あざけるような言葉とともに、再び轟剣が振りおろされた。ロゼナギースは半身にしていた体をくるりと回し、のびきった男の右腕へぴたりと身を寄せるとカトラスの柄を脇腹へ叩きこんだ。ぐっ、と呻いたが、ヴィラハンの体勢はゆらがず、右肘がロゼナギースのこめかみめがけて走った。
その一撃をよけ、ロゼナギースはとびすさる。肩で息をついてヴィラハンをにらみつけた。
「あんたにはわからん」
まなざしの熱さを裏切って、それは氷のような声だった。
(生きて──)
「マキアがどれほど誇り高い女か。あれは、俺のために死をあきらめたんだ。俺を生かすために、何もかもを捨てたんだよ!」
イユキアは細めた目で二人を眺めていた。
血を吐くようなロゼナギースの叫びにも、男の殺気はたじろがない。互いの、剥き出しの感情が互いを喰らおうとして、二人の周囲にはげしく渦巻いている。意志の力が引き絞られていく、〈待呪〉の状態だ。負の感情が鎖のようにお互いにからみあって、そこから動けなくなっている。
目に見える剣技の勝負以上に、そこではどろどろとした感情の戦いがくりひろげられていた。当人同士は自覚はないだろうが、彼らは剣で戦うと同時に情の力でも戦っているのだ。ロゼナギースは、剣においてはやや遅れを取っている。だがこの感情の戦いに勝てれば、勝算は充分にあった。
二人のさまに気をとられていたイユキアは、ふいに刺すような痛みを肌に感じた。これは殺意。彼へとまっすぐに向けられた血の魔呪──
見回した視界には何もない。耳を風鳴りのような音がかすめ、振り仰いだイユキアの頭上に、黒い獣の影があった。それは一線に、殺意を凝らせてイユキアめがけ落ちてくる。
地にころがるようにして爪の一閃をさけた。数度、かわしてイユキアはどうにか起き上がろうとしたが、ロゼナギースの声にその動きをとめた。
「伏せてろ、イユキア!」
叫びざま、ロゼナギースは左手で腰から短剣を抜いて放つ。その瞬間、男がロゼナギースを斜めに斬り下ろした。
ロゼナギースは下がろうとしたが、一瞬遅れる。左肩の服が裂け、血がしぶいた。浅手だが、思わず呻く。右手のカトラスで次の斬撃をはじき返した。よろめく。
放たれた短剣は、使い魔の実体のない「体」を貫いた。瞬間、獣が凄まじい苦悶の呻きをあげた。あたりの空気が凍りつく。剣を交錯させた体勢のまま、二人の動きがとまった。
犬の形を崩しながら、影はイユキアの横へ落ちる。イユキアは、のばした手でロゼナギースの短剣を握った。瞬間、手に熱いしびれに似たものが流れ出す。それは、マキアが酒場へとどけさせた、古びた銀の短剣だった。由緒のあるものだ。そこにこめられていた古い魔呪が使い魔を傷つけている。イユキアは地面からすばやく身を立て、左手をマントの内側へすべりこませた。
獣は、咆哮をほとばしらせている。耳に聞こえる「音」はないが、たしかにあたりの空気をふるわせる「声」の凄まじさ。苦痛に狂った咆哮とともに、犬の形をどうにかとどめた影は、勁い後脚で地面を蹴った。狙いであった筈のイユキアではなく、ロゼナギースの方へ。
──血に呼ばれた‥‥
痛みのせいで術者とのつながりが薄れ、獣である本能が勝ったのだ。血の甘い香りを求めて。暴走する。魔呪でつくりあげられた、影の獣が。
イユキアはマントの内側から皮袋を引き抜いた。羊の腸で裏打ちした、水や液体を入れるための袋だ。それを宙へ投げ上げるや、右手の短剣を横へなぎはらった。袋が切り裂かれ、内側から真紅のしぶきがあたりへ飛び散る。同時に、イユキアの足が二度、三度と地を強く踏んだ。
赤いかすみが、まるで網を投げたようにひろがった。
宙にあった獣を、血の投網がとらえた。地を踏んでおこした魔呪の波動が、血を通じて獣を灼きつくそうとする。黒い体がたちまちに溶けてゆく。獣が自分の首へ鉤爪を一閃させ、溶解する胴から首を切り離した。血の網をのがれた首から先だけが宙へ飛ぶ。残りの体は血にとらえられ、形を失なって地面へびしゃりと叩きつけられた。
黒い首がロゼナギースめがけて飛びかかった。ロゼナギースは、体が痺れてほとんど動けない。だがその目に恐怖はなく、獣をにらみつけながらその唇がひらいた。喉から複雑な「音」がほとばしる。
叫びとも唄の一部ともつかない音が、獣の体を容赦なくつらぬきとおった。黒い影は千々に砕けて宙へ溶ける。だが、最後に残った牙のかけらがロゼナギースの胸元へ飛びこみ、彼はばたりと倒れた。
イユキアは、目をみひらいて立ちつくす。呪縛を解き放たれてよろめくように逃げていくヴィラハンの姿に一顧だにくれず、彼は倒れたロゼナギースを見つめていた。イユキアの足元には、赤い血のしぶきが彼を中心とした三重の円を地面へ描いている。たちのぼる血の香りの中、イユキアの、暗い色をした眸の奥が金色に光った。唇をとがらせる。血の上へ唾を吐き、ゆっくりと右足を持ち上げると、地面をドンと打つように踏んだ。
イユキアの唇が何かの言葉をとなえ、足がまた地を踏む。赤くしみた地面から、影がむくりと起き上がった。夕闇に溶けそうなそれは、消えたばかりの犬と同じ形をしていた。
二度、三度。イユキアは地を踏んで、魔呪を呼び、術律を組み上げる。赤い霧が大地からたちのぼり、闇の獣を覆いつくす。またたくまに、獣の姿をしたたるような真紅に染めていた。
イユキアの右手が薄闇が漂う天をさす。怒りと痛みが焦点のあわない両目にたぎっていた。
魔呪をとじて獣に報復を命じようとした瞬間、
「やめろ!」
声がひびいた。イユキアの、うつろな眸がみひらかれる。表情がうごき、まなざしを絞った先に、駆けこんでくるレイヴァートの姿を見た。
「よせ、イユキア──」
獣の姿がするどく変化した。赤く染まった体が薄くのびて長くひろがる翼となり、大地をつたわる呪の力を吸い上げ、翼をのばして宙へ舞い上がった。それは、翼をもつ異形の獣であった。
レイヴァートが駆け寄りながら剣を抜く。抜き放った長剣を右手に地を蹴り、朱の獣けがけて宙をなぎあげた瞬間、獣の姿は霧散していた。
イユキアががくりと地へ膝を落とす。異様な吐き気とめまいが体をつきぬけた。体の中に見えない牙がつきたてられて、肉も骨も内臓も、すべてが容赦なく喰らわれていくようだった。何かがいる。彼の内側に。それを手放してしまいたい誘惑にかられたが、彼は力の焦点を握ったまま、放さなかった。術を暴走させるわけにはいかない。
とじかかった魔呪を無理矢理に壊した反動が全身をうちのめす。呼びだした力を体の内側にとどめ、意識をひたすらそこに集中させた。獣の力をすべて自分の内へ引き戻し、おさめる。意志をもちかかっていた獣が無音の咆哮をあげて逆らったが、イユキアは力ずくでそれをねじふせた。
嘔吐が体をつきあげる。膝をついて吐こうとしたが、何も吐けなかった。血の臭いがする。目の前がかたむいて、倒れかかった瞬間、レイヴァートがその体を支えた。
「イユキア。‥‥イユキア、大丈夫か?」
「‥‥ええ」
長い吐息をつき、イユキアはレイヴァートの腕にすがって立ち上がろうとした。体が震えて、力がまるで入らない。血のかわりに冷たい粘液が血管を流れているかのように感じられる。
呻くように言った。
「ロゼナギース殿のところへ──」
白い顔を点々と血の飛沫が汚し、あたりには夕闇を圧するような血臭と、肌を刺す魔呪の気配が漂っている。イユキアを見つめ、レイヴァートは細い体に手を回すと、一動作で抱え上げた。イユキアがうろたえたように身をすくめるが、かまわずその体を抱いたまま、ロゼナギースのそばへ運んだ。
ロゼナギースは、獣の牙の一撃を受けたまま、地に倒れて動かない。おろされたイユキアはかたわらへ膝をついて座り、男の顔をのぞきこんだ。ロゼナギースの目はひらいたままで、唇も最後の「音」を放ったままの形で凍りついている。
のばした指先には息づかいが感じられた。イユキアは、左手に持ったままだったロゼナギースの短剣を上げ、自分の右手の指先へすべらせる。刃がはしると、つうと赤い滴が盛り上がった。それを一滴、ロゼナギースの鎖骨のくぼみへふりおとした。一言二言、レイヴァートにはよく聞き取ることもできない言葉を呟く。
血は、たちまち黒くにごって震えた。イユキアは、自分の血を媒介にして、ロゼナギースの中に入りこんだ「影」を吸い出す。同時に、ロゼナギースの額へ手をのせると、ゆっくりとロゼナギースの体の緊張がとけ、彼は眠るように目をとじた。
左肩の傷もざっとあらためる。少し長いが、深手ではない。強く抑えて出血を止め、上からかるい血止めの技もかけた。
ロゼナギースの鎖骨におとした血が、肌の上で黒い粒のように凝っている。それを指先でつまんでつぶし、イユキアはレイヴァートを見上げた。
「心配はありませんが、かなり力を使われました。薬湯と、傷の手当てをしたいのですが、どこかよい場所をご存知ありませんか」
レイヴァートはうなずいた。
「近くに神館がある」
イユキアが、ためらった。
「‥‥それは」
黒館の主を中に招じ入れる斎主がいるとは思えない。だがレイヴァートは、イユキアの表情を見て首を振った。
「大丈夫だ。変わり者だからな、かえってよろこぶだろう。立てるか?」
「ええ」
レイヴァートがロゼナギースの骨張った体を左肩へかつぎあげた。イユキアが、まだ全身をひきずりおとそされそうな虚脱感と嘔吐に耐えながら立ち上がると、レイヴァートが右手をのばしてフードを頭にかぶせてやった。その上から、かるくポンと叩く。
「すまなかったな。無理に、術をおさめさせた」
「‥‥‥」
何か言おうと思ってイユキアは口をひらきかかったが、何を言えばいいのかわからなかった。あやまるのは自分の方だと思う。一瞬の怒りに目がくらんで、するべきでないことをしようとした。あの術を返せば、相手の術者は命を失っただろう。イユキアは殺すつもりで、あの使い魔を打ち返そうとしたのだから。
──黒館の主が、クーホリアで人を殺せば、それはどんな波紋を呼ぶかわからない。これまで黒館とほかの魔呪師たちとの間にあった微妙な平衡が崩れ、危険な緊張が生じる可能性が高い。レイヴァートが、この国の王城騎士として、そんなことを看過できる筈はなかった。
狭い階段を下まで降りると、数人の野次馬が遠巻きにする中、ヒルザスが長剣を鞘へおさめた。レイヴァートの肩に担がれたロゼナギースと、背後のイユキアをチラッと見くらべ、低い声で、
「逃げられた。‥‥お前が相手しろ、ああいうのは」
ふてくされたように言うが、本気ではない。レイヴァートが小さく笑うと、ヒルザスも笑みをかえして、何かの飾りのようなものを宙へ投げ上げた。受けとめて、レイヴァートへ見せる。
マント留めの飾りの一部だ。紐が切断されている。
「こいつを切ってやった」
「お前、わざと逃がしたな?」
低く言って、レイヴァートはヒルザスの横を通り抜けた。ヒルザスが肩をならべる。飾りをもてあそびながら、逆にたずねた。
「顔を見たか」
「見た」
レイヴァートはうなずく。ヒルザスが息をついた。
「あのお人が、ねえ‥‥前王の、近衛だった」
手の内の飾りは、青く琺瑯を引かれた石に金線で複雑な鳥の紋様を焼きつけたもので、上等な飾りだ。おそらく裏には作った工舎か職人の名と、持ち主の印が記されているだろう。
──決定的な証拠。
すでに、当人もそれを奪われ、レイヴァートとヒルザスに顔を知られ、身分が割れたことを悟っている筈だ。
(あの人はどんな道をえらぶだろうか──)
狭い路地を抜ける。職人街から出る橋に、騎士装の男が立っていた。渡る人間をあらためているのだ。ヒルザスが彼に歩み寄り、騎章を見せて身分を明かし、人の手配をつける。そちらのことは彼にまかせ、レイヴァートは小さな店がたちならぶ道を抜けた。夕闇のなか、仕事を終えた人々が路地のあちこちへ座りこんで煙草をくゆらせている。
その一画に面して、小さな庭があった。奥行きはほんの二歩ばかりで、間口も狭いが、のしかかるような建物の中にぽっかりとあいた空間は、ふしぎに広く見える。雑草の中に猫が二匹ほど、丸めた体に首をうずめて眠っていた。その周囲に白い石がたくさんちらばっている。
庭のうしろは、二階建て半の幅の小さな建物だった。傾斜の高い屋根は、左右もわずかに傾いで見える。扉には、ほとんど闇に沈んで見えないが、神官文字が刻みこまれているはずだった。神の館のしるしだ。
扉の前の段石に腰かけ、手にした白い石へノミをあてている男がいた。ふっと息を吹きかけて削った粉を払い、石の表面へ刻んだものをたしかめるように指で拭って、顔を上げる。レイヴァートを見つけるとニヤッと笑った。小柄で丸顔の、愛嬌のある若者だった。
「よ、レイ」
「悪いが、部屋を借りたい、ゼン。治療をする」
「どぉぞ、どぞ」
体で反動をとって立ち上がる。どうにか聞き取れるが、舌足らずな言葉だ。扉をあけて、ロゼナギースをかついだレイヴァートを招じ入れた。イユキアは、扉の前で立ちどまる。
「私は──」
「イユキア」
中からレイヴァートが呼んだ。指二本で招く。まだためらっているイユキアの背を、ゼンと呼ばれた若者が押して中へ入った。