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【8】

 あたりには塀に囲まれたつくりの大きな家が建ち並ぶ。その中ではやや小さな家の門をレイヴァートがくぐると、イユキアはけげんそうにたずねた。
「ここは?」
「俺の家だ。いつもは王城にいるから、使うことはあまりないが」
「‥‥‥」
 イユキアは足をとめかかったが、レイヴァートに手をつかまれていてはそれもできない。門から敷石を踏んで三階建ての家へと近づく。その間、レイヴァートが説明した。
「サーエが、ごくたまに、クーホリアへ遊びに出るのだ。もともとあれはこの街の育ちでな、楽しいらしい。体の調子がよい時だけだが。そのたびに手配をつけるのが面倒なので、ここを借りている」
 サーエシアは、レイヴァートの妹の名だ。
 イユキアがあまり意味のある返事をかえせないでいるうちに、玄関前の段石をのぼったレイヴァートは、懐から取り出した鍵で扉を開けた。イユキアを中へ招じ入れる。玄関脇から油燭を取り上げて、灯りをともした。
「明日、陽がのぼったらお前を街門までおくる。すまんが、黒館までは送っていけん」
「‥‥何を心配しているのです?」
 イユキアは、示されるままマントを取り、客を待たせるための一室を横切って壁の突起へマントをかけた。ふりむいて、レイヴァートを見る。炎をうつして目はかすかな琥珀に光っていた。
「黒館の主は、王城にもアシュトス・キナースにも属さぬ異形の民。あなたも言った、黒館の主は王城の裁きの外にあると。‥‥私は、そういう存在だ。責めるにも値しないが、守るにも値しない‥‥」
「俺は、黒館の主を心配しているわけではない。お前を心配している」
 レイヴァートはことさら言い返すふうでもなく、おだやかに答えた。買い求めた果物とワインの袋を下げ、奥の廊下へ通じる扉を開けると、肩ごしに手招きした。
「とにかく、茶でも飲もう。疲れただろう。すまないが、もう少ししたら客が来る」
「‥‥‥」
 口をひらきかけて、イユキアはまたとじた。言えば後悔するようなことばが、口をついて出そうな気がした。自分が何を言おうとしているのか、さっぱりわからない。そもそも何を言いたいのか、レイヴァートにどう思ってほしいのかもわからなかった。彼は黙ったまま、レイヴァートについてゆく。
 奥の、細長い客間らしき場所へイユキアを通すと、レイヴァートは厨房に入って炉に火をおこし、湯をわかした。今朝方、ロゼナギースを追ってクーホリアへ来た段階でもう伝使をおくって家の中をととのえさせたので、水も薪も用意されている。特にここを使う用があったわけではないが、いざという時に使える場所があれば重宝すると見込んでのことだった。
 手早く茶を入れ、客間へ戻る。
 向き合ったソファのどちらにもイユキアの姿はなく、レイヴァートは一瞬どきりとしたが、イユキアは引き出しのついた飾り台の前に立って、そこに立ててある小さな額を眺めていた。
 テーブルへ茶を置いて、レイヴァートはイユキアの横へ歩み寄った。額は、白い貝を継ぎあわせてつくられた瀟洒な楕円形の額で、紙に銀線で描かれた胸から上の男女の肖像が入っていた。線だけで描かれ、斜線で影がついた素描だったが、充分に人のぬくもりが感じられる絵であった。
 絵の中の男女ともに、まじめな顔をして正面を見つめ、飾りは質素だが形の美しい正装をまとっていた。男性は細作りだが肩のあたりはしっかりとして、結んだ口元に強い意志が感じとれる。まなざしには鋭い気品があった。女性は胸元へ扇をあて、ふくらんだ袖につつまれた左肩をわずかに体の前へかたむけているが、仕種に上品な可愛らしさがある。まっすぐな髪を胸元へ垂らしていた。
 レイヴァートがうなずいた。
「両親だ。肖像画を描こうとしていたらしくてな。絵が完成する前に二人とも亡くなったが、画家が素描を数枚くれた」
 イユキアが、レイヴァートへ静かなまなざしを向ける。
「まだお若いようですが‥‥いつ、お亡くなりに?」
「俺が7つの時だから、そうだな、18年ほど前のことになるか」
「‥‥それは」
「俺は、4つの時からエピルガの学舎にいたからな。あまり、親の記憶はない」
 おだやかに微笑してから、ふとレイヴァートは気付いたように、
「そうか。話したことがなかったな」
 彼らが知り合ってからもう1年半ほどになるが、そう言えば家の話をしたことはなかった。イユキアは自分の話をしようとしないし、聞かれたがらない様子なので、レイヴァートもあまりその手の話題を持ち出さないのだ。
 少しばかり呑みこめない顔をしているイユキアをうながして、レイヴァートはソファへ座らせた。イユキアに果物と茶をすすめて、手に取るのを見ていたが、自分も熱い茶を一口飲むと、間を置いて話し出した。
「エピルガは西の平原を越えて、大きな河を十日ほど遡った所にある、学びの宮だ。領土的にはカイ=ゼールの中にあるが、エピルガそのものは独立している。税も多くが免除されているし、エピルガの中でおこった物事については裁罪権もある。俺がエピルガへ行ったのは、4つの時だ」
「何を学びにいらしたのです?」
「何だっただろうな」
 レイヴァートは苦笑した。
「もともとは、学者になるか、星読みをするかということだと思ったが‥‥俺にはどうもそちらの才はなかったようでな。師もとれずにいるうちに両親が亡くなって、家へ戻った。その時はじめてサーエに会い、サーエの病のことを知った。あれが、一生治らぬものだということも。それでエピルガへ戻り、そこにいた賞金稼ぎの剣士に弟子入りした」
「‥‥賞金稼ぎを、学舎で教えていたわけではないのでしょう」
「勿論、ちがう。エピルガの守備隊に、一時だけ身を寄せていた剣士だった。俺は彼についてエピルガを出、13の年まで6年ばかり、賞金稼ぎをして家に金をおくった。今となってみれば、なかなかおもしろい旅だったな」
 明るい目をイユキアへ向け、レイヴァートはカップを置いた。
「あまり、いい育ちとは言えんがな。だから王城では、13の歳までエピルガにいたことになっている。書記が勝手に書き換えた」
 少し、不満そうだった。王城の騎士として記録をととのえられたのだろうが、レイヴァートの本意ではないらしい。
 イユキアは黙ったまま、うなずいた。レイヴァートは妹を養い、施癒師に見せる金を稼ぐために、秩序の外で育つ道をえらんだのだ。どう考えても楽なことではなかっただろうが、それを語るレイヴァートの声にも表情にもかげりはなく、それがイユキアにはふしぎだった。決してきれいなだけの生き方ではなかっただろうに。
 沈黙があたりをつつむ。イユキアは、小さな果実を一つ食べたが、さめた茶にわずかしか手をつけず、何か考えこんでいる。自分の内側へ漂うような目をした彼を、レイヴァートは心配そうに見やったが、何も言わなかった。沈黙そのものは居心地のわるいものではない。
 ただ時ばかりがおだやかに流れた。
 ふとイユキアがまなざしを上げる。白い顔に緊張がはしった瞬間、ノッカーを扉に打ちつける音がひびいて、レイヴァートは来客を迎えに立ち上がった。


 扉をあけると、闇に溶けるような黒ずくめの人影が立っていた。
 全身が黒い。つやのある黒布のマントで体を覆い、黒髪が背へ流れおち、耳のふちにはぐるりと黒真珠をつらねた飾りを留めている。顔には、くちばしのある黒ずんだ仮面をつけていた。金属とも木ともつかない、いぶしたような質感の仮面だった。
 仮面の奥から、きしむような声が、
「‥‥レイヴァート」
「ああ。あなたがナルーヤ殿か? コウモリの長の?」
「そう。ご招待、お受けしてこちらへ参った」
「ご足労、感謝する」
「その人を家へ入れてはいけませんよ」
 レイヴァートの背後にイユキアが立っていた。きびしい目で闇に立つ漆黒の影を見つめる。
 ナルーヤが喉の奥で、金属をこすりあわせたような笑い声をたてた。
「招かれて参った者に、余りな言葉よな。なにゆえ?」
「あなたは──黒魔呪の使い手だ」
「おぬしもそうであろう、黒館の? 施癒師と名乗ろうが、そなたの得た力は人を傷つけねじまげるための技であろう?」
 イユキアの両の目が、蒼白な貌のなかでキラリと光った。一歩出かかる彼へレイヴァートが静かに、
「大丈夫だイユキア。俺が招いた、俺の客人だ。お入りを、ナルーヤ殿」
 一歩引いて道をあけた。ナルーヤは両の肩を左右に小さく揺らす。笑ったらしい。そうして、すべるように前へ出ると、家の敷居をまたいで中へ入った。
 玄関を入ってすぐ廊下が十字に交差し、一つの部屋ほどの大きさがある。客を待たせたり相手をするためにしつらえられている待ち廊下で、壁際に小さなテーブルと椅子が置かれている。レイヴァートはその椅子を相手へ示した。
 テーブルをはさんで二人は向かいへ座る。レイヴァートはとなりへ椅子を据え、イユキアにも座るよう示したが、イユキアは首をふって下がったところに立った。目をナルーヤから離そうとしない。
 レイヴァートは小さく息をつき、黒衣の相手の顔を見つめた。正確には、顔を覆う仮面を。
 仮面は獣と鳥をまぜたような造形で、鼻のあたりから口元へ巨大なカラスのくちばしのような突起がある。ゴツゴツした陰影が目元と口元に落ち、目の部分には小さな穴が開いているようだったが、見つめても、ほとんどそれとわからなかった。
 レイヴァートは穏やかに話し出した。
「今日、黒館の主が使い魔に襲われた。二度にわたってだ。コウモリの通りの者のうち、誰かがしたことだが、誰がしたかを問題にするつもりはない」
「コウモリのしわざとは限らんぞ‥‥」
「黒館の主の居所を、通りの誰かに売った人間がいる。しらべれば、相手はすぐに知れることだ。つまらん誤魔化しは互いのためにならん、コウモリの宗主」
「‥‥それで?」
 是とも非とも言わず、ナルーヤがかるく頭をゆらすと、肩から黒髪がすべりおちた。まるで、濡れた絹糸のようなつややかな黒髪だ。
「黒館も、コウモリも、おぬしら王権の手の届かぬところであろう、王城の騎士。我らに何を求める? あるいは、黒館に?」
 カカカカ、と木を打ち鳴らすような笑い声をたてた。イユキアは、仮面の下から自分を刺すようなまなざしを感じたが、沈黙を保って身じろぎもしなかった。
 レイヴァートは仮面へじっと目を据えたまま、重く揺らがない声で、
「だが王城と同じくこのクーホリアの街も無法地帯ではない。おぬしらと黒館の主と、互いに街なかで力を放てば人をまきこむこともあろう。現に今日、ひとりその影響を受けた者がいる」
 ロゼナギースのことである。名にはふれずに続けた。
「そのようなことを、俺は看過するわけにはいかん。だから貴方に来てもらった、魔呪ギルドの宗主、ナルーヤ」
「ほ、ほ。成程? それで、何を求める?」
「和解を」
 レイヴァートはそう言って、言葉を切った。ナルーヤもイユキアも身じろぎせずレイヴァートを凝視している。部屋の温度がふいに下がったかのように、あたりをつつむ空気はつめたかった。
「魔呪の者には魔呪の者の論理があろうが、私欲のために人を巻きこみ技を仕掛ける者を求道の徒とは言えまい。王城がそなたらコウモリを王権の外においたのは、そなたらの道をきわめようとする思いに応じてのことだ。それは、初代のコウモリが王とかわした誓約による。欲におぼれ、黒い力をふるう者を野放しにするために交わされた誓約ではない」
「‥‥ほ、ほ」
 レイヴァートがはっきりと言いきってから一瞬の沈黙ののち、仮面の下でくぐもった笑いがおこり、ナルーヤの両肩がこまかくふるえた。笑い声は段々大きくなり、きしむのような声が部屋に反響して、耳が不快なこだまに満たされる。さすがにレイヴァートが顔をしかめたが、イユキアは影のようにそこに立ったまま身じろぎもしなかった。
「ほ、ほ、ほっ! 言いも言ったなァ、王城の騎士! コウモリを脅かすかや、ただのヒトが?」
「脅しではない。おぬしらの誇りを問うている」
「‥‥‥」
 ふいにナルーヤの笑いがとまった。レイヴァートは変わらぬ口調で、
「コウモリにはコウモリの誇りがあるだろう。ただ黒館の主だという理由で人を殺しにかかり、他者をまきこむなど、魔呪師のすることとは俺には思えん。ただの盗人だ。そこに何の誇りがある?」
「‥‥言うなァ‥‥」
「今日の企みは失敗した。だが、この先、どうなる? コウモリは黒館の主を狙い、黒館の主はそれを防ぐために力を使う。相手を殺すこともあるかもしれん」
 ちらっとレイヴァートは肩ごしにイユキアを見た。事実、今日、イユキアが技を返して相手を殺しにかかったことを、彼は気付いている。レイヴァートがとめなければ、イユキアは相手をしとめたはずだった。
「そなたらはどうする? それをまた報復するか?」
 ナルーヤは答えない。だが、おそらく、するだろう。コウモリの小路に棲む者たちは互いに仲が良いわけではないが、コウモリ同士は独特のつめたい仲間意識でつながれている。コウモリの一人がイユキアに殺されれば、次の誰かが残した術を引きつぐ筈だった。
「そんなことを続けて、どうする。どうなる」
 その問いに、くくっとナルーヤが肩を揺らした。
「我らは前の黒館の主とも、近いことをした。おそらくは、その前とも。‥‥黒館の力は、異形だ。欲しがる者がいくらあってもふしぎはない。なあ、黒館の?」
 イユキアは無言だった。目だけが金の光を帯びてナルーヤを凝視している。
「なァ、王城の騎士、そなたの望みは我らが和解と言うがな。魔呪を使う者たちの間には和解などない。我らは闇に生まれついているのさ。‥‥我らを縛るには、限られた方法しかないぞ。誓約か、取引だ。王城の、そなたが応じた代価を支払うというなら、我らはのぞみどおり黒館の者を不可侵としよう。さて、何をさしだす?」
 イユキアの全身に緊張がはしった。目がギラリと殺気のようなするどさを帯びる。だが彼が何か言いかかるより先に、レイヴァートがためらわずに言った。
「取引はしない。ナルーヤ。誇りは人と取引するものではない」
「誇り、ねェ‥‥」
「俺はクーホリアでの争乱を望まない。しかも、このように終わりの見えない争いはな。いずれどこに飛び火するかもわからん。だから、コウモリの宗主と黒館の主にたのみたい。ただ力を求めるだけ、ただ傷つけるための無用な争いは、出来うるかぎりさけてほしい。そなたらの誇りにかけて、たのむ」
 静かに言い終えると、レイヴァートは頭を深く下げた。そのまま、上げようとしない。
 ふう、と長い息が仮面の下から洩れた。ナルーヤがイユキアへ顔を向ける。
「我らに意見する騎士がいるとはなァ。当代の王も、おもしろい男をかかえたものだ。さて、どうしやる、黒館の? そなたは和解とやらに応じる気があるか?」
 イユキアは頭を下げたレイヴァートを見やってから、ナルーヤを見て、つめたいほど静かな声でこたえた。
「私に人を傷つける意志はない。あなたがどう言おうと、思おうと、私は‥‥施癒師だ。あなたとも誰とも、争いは望まない」
「成、程。‥‥よかろう、レイヴァート」
 呼ばれてレイヴァートは顔を上げる。シュッと風が切れるような音がして、レイヴァートの喉元へナルーヤの指がつきつけられた。手もまた濡れたような黒布の手袋につつまれていたが、手袋から黒くのびた爪がするどくレイヴァートの血脈をおさえた。わずかな動きで、喉が裂ける。
 ナルーヤは笑いを含んだ声で言った。
「我らにはなァ、人の命など大したことではない。それが王城の騎士であろうと、黒館の主であろうとな。‥‥同じように、誇りなど、何の意味も持たぬよ、レイヴァート。取引するがいい。それですべて望む通りにしてやろう」
「取引はしない」
 喉にゆっくりと爪がくいいる。レイヴァートは動かなかった。
 見つめるイユキアの全身に危険な緊張が満ちたが、ナルーヤはそちらを見もしなかった。
「子供の約束だな。私がここで、そなたの言う和解とやらに応じたとして、そんな言葉に価値などないぞ。取引しろ、レイヴァート。私に応じろ。望みをかなえてやるぞ」
「‥‥‥」
 身をのりだしたナルーヤの仮面を、レイヴァートはまばたきもせず凝視した。これだけ近づくと、目の部分に開いた二つの穴が見分けられたが、その向こうに見える小さな瞳は闇を落としたしずくのようで、表情はまったく読めなかった。
 ふいに、レイヴァートの口元に笑みが浮かぶ。
 ナルーヤがおどろいたような声を出した。
「何を笑う」
「‥‥いや。すまなかった。代償もなしに約束できぬのが、そなたらの道なのだな。それは、無理を言って悪かった」
 まだ微笑したまま、レイヴァートはナルーヤの手首をつかんで喉からひょいと外した。いともたやすく爪を外されてナルーヤがたじろいだ気配を見せる。レイヴァートは立ち上がり、かるく一礼した。
「俺の流儀をそなたらに押し付けるべきでないが、一度、話をしてみたかった。話さなければわからぬものがあるからな。ありがとう。引き取ってくれてかまわん」
「‥‥‥」
 とまどったような沈黙のまま、レイヴァートの姿を眺めていたが、ナルーヤはマントの肩を揺らして立ち上がった。イユキアはするどい眸でナルーヤの一挙手一投足を見つめている。
 表へ向かって歩き出しかけ、足をとめると、ナルーヤの溜息がレイヴァートの耳へ聞こえた。ナルーヤが顔に手をかける。
 黒い手袋の指で仮面を外し、彼はレイヴァートをふり向いた。
 くちばしの下からあらわれたのは、まるで少年のような、得体のしれない稚さをたたえた貌だった。黒い、大きな目は、深い淵のように底しれず、ほとんど光がない。その目でレイヴァートを見つめ、ナルーヤは低い声で言った。
「‥‥王城の者が私を家へ招待したことなど、かつて覚えのないことだ。その礼節にだけは、むくいよう、レイヴァート。今日、黒館の主を襲った者は二度とあんなあさましいことはさせん。今日のことでは、我らは黒館の主にうらみはもたぬ。‥‥これ以上は何も約定できぬ」
 ナルーヤの瞳の闇を見つめ返して、レイヴァートはうなずいた。
「感謝する」
「‥‥言葉だけで信じるか。思ったとおり、とんだお人好しだ」
 からからっと笑って仮面をつけ、ナルーヤはつっ立ったままのイユキアへおどけたように一礼すると、一陣の風のようななめらかさで家を出ていった。


 扉をしめようとするレイヴァートをイユキアがのばした手でとめ、かわりにノブをつかむ。自分の手で扉をしめると、しばらくノブをつかんだまま目をとじて扉に額をつけていたが、何かつぶやいてから身を起こした。くるりと戻っていく。
 扉の閂をおろしてから、レイヴァートはイユキアを追った。
 足音を立てない彼にしては珍しく、やたらはりつめた音を鳴らして客間へもどると、イユキアはさめた紅茶を流しこむように飲んだ。それから、長い溜息をつく。
 レイヴァートを一動作でふりむいた。激しいものを抑えるような目をしていた。
「何を考えているのです? あれは──」
「この街の、魔呪ギルドの長だ」
 レイヴァートはうなずいた。イユキアが、苛立たしそうに額をこすって、
「そして、黒魔呪を扱う者ですよ。この世の論理に従う者ではない。あれは、手に入れたいものがあるから招きに応じたのです。うっかり取引などに応じれば、どんなふうにつけこまれるかわからないのですよ? それを、家の内に自ら招いて‥‥!」
「取引は、してないぞ」
「させませんよ」
 イユキアはぴしりと言い切った。レイヴァートは腕組みしてテーブルにかるくもたれ、イユキアを眺めやる。
「あれも、人には変わりあるまい。己なりの誇りもあれば、感情もある。話し合ってみるのも悪いことではなかろうと思ってな。禍根を残すのは、街にとっても王城にとってもいいことではない。半分は仕事だ」
 残り半分が何なのかは言わなかったが、どちらもよくわかっていた。イユキアは唇を噛む。
「‥‥彼の言葉を信じると言うなら、あなたは本当にお人好しだ」
「俺は、誰も彼でも信じるわけではないが」
 レイヴァートは首をかしげた。イユキアは崩れるようにソファに座りこみ、うなだれた頭を両手で支える。自分がレイヴァートを巻きこんだのだ。‥‥わかっていた。
 全身が揺らぐような、大きな息をついた。
「‥‥あなたは、どうして‥‥」
「──イユキア」
「‥‥私は、自分の身は自分で守る。あなたに‥‥心配されるいわれはない」
 ちがう、と思う。こんなことを言いたいわけではない。だが気持ちと裏腹に、口を勝手にするどい拒否の言葉がついた。その言葉は、自分で予期した以上にはげしくひびいた。
「わざわざあなたにこんなことをしてもらうほど私は無力ではない、レイヴァート」
 沈黙がおちた。
 イユキアは額を組んだ手にあてたまま、次の言葉をめまぐるしく探したが、何も言うことができなかった。たえきれない静寂の中、言ってしまった言葉だけがどんどん重さを増していくような気がする。すべてが凝固したように静かだった。
 レイヴァートは何も言おうとしない。一言も。彼にしてはひどく奇妙なことだった。
 イユキアは、全身から血が引いていく思いだった。顔が上げられない。だが、沈黙が続く分だけ息がつまりそうだった。それ以上は耐えられない。息を呑みこんで、レイヴァートの方を見た。
 レイヴァートの、まるでおもしろがっているような目と視線が合う。彼は微笑をうかべていた。
 拍子抜けしたイユキアは、レイヴァートをただ見つめた。何が何だかわからない。口を開いたが、まだ言葉を見つけられず、口をとじた。
 レイヴァートは、それでも何も言わずに微笑していたが、イユキアがうろたえて言葉が出ないことにようやく気付いたらしく、口を開いた。
「お前が、自分のために怒るのをはじめて見たな」
「‥‥‥」
 イユキアは目を伏せる。レイヴァートが静かにつづけた。
「すまない。お前の誇りを傷つけることになったのは悪かった」
 ひどく優しい声だった。イユキアは、突然ここにいることが耐えがたくなる。消えるように逃げ出したかった。また、手に額をうずめて、大きく息をつく。
 レイヴァートは同じ口調のまま、
「だが、次があっても俺は同じことをするぞ。斬ってすむものならあいつであれ誰であれ、斬るかもしれん。それでお前が守れるならな」
「‥‥言ったはずです。あなたに守られるほど、黒館の主は弱くはない──」
「俺が心配しているのは、黒館の主ではなく、お前だ、イユキア」
「同じでしょう‥‥」
「そうか?」
 レイヴァートがゆっくりと近づいてくる気配があった。イユキアは動かない。肘に膝をついて、顔を伏せている。
 その髪を、レイヴァートの手がなでた。細い銀髪の中に飾りのように編まれた十数本の髪が揺れる。その中へ指をさしいれ、ゆっくりと抱きよせる。迷いのない動作で、うつむいたままのイユキアを腕の中へかかえこんだ。
「俺にとっては、同じではない。お前が弱いと言うつもりはないが、お前は‥‥自分をないがしろにするところがある。それが心配だ」
「‥‥‥」
「あの時、本当は、うれしかった。お前が今日、術を打ち返して人と戦おうとするのを見て。お前に、あんなふうに激しい顔があるのだとわかって、俺は少し、安心した。本当に‥‥」
 抱きしめられた腕の中で、イユキアがのろのろと顔を上げた。レイヴァートを見つめる。あの時、大地に人の血をふりまいてあたりを赤く染め、魔呪でもって人を殺そうとした彼を、たしかにレイヴァートは見た筈だ。施癒師としてレイヴァートへ見せるだけの顔ではなく、黒館の主としての彼の顔を。
 イユキアの睫毛がかすかに震えた。どこか苦しげに、彼は呟く。
「あなたは‥‥私を混乱させる、レイ」
「そうか?」
 レイヴァートが微笑した。指がゆっくりとイユキアの髪をなで、首筋をかすめると、イユキアの肌が小さくふるえた。
「どんなふうに」
「‥‥‥」
 レイヴァートを見つめ、イユキアは長いあいだ言葉を探していたが、やがて身をのばし、顔をよせて、唇を重ねた。
 一瞬レイヴァートはおどろいたようだったが、すぐに深いくちづけでこたえる。熱い唇がイユキアの吐息を呑んだ。肩を抱いた腕に力がこもり、それ以上迷う間を与えずにイユキアをはげしく引き寄せた。イユキアは目をとじてレイヴァートのくちづけに溺れながら、全身をゆだねる。とじたまぶたの裏に水のような光がゆらいで、くちづけが深まるたびに頭がくらくらとしびれた。
 舌がやわらかにしのび入ってくる。いつのまにか、深く舌をからめて吸われていた。呻いて、イユキアは両手をレイヴァートの背に回し、肩へすがる。その呻きも吸いとられるように消え、濡れた唇の間からは息をつぐための浅い吐息ばかりがこぼれた。
 どちらも激しく求めるくちづけが、時おり角度を変えながら、長く続いた。
 唇をはなすと、レイヴァートはイユキアを見おろした。
 額にからむ銀の髪をかきあげ、頬の丸みをなでてやると、イユキアは瞳をあけた。うるんだ目の奥に、金砂を落としたようなひかりが揺れていた。‥‥人を惑わす、魔性の目だ。感情が高ぶると、イユキアの本当の目の色がうっすらとあらわれてくる。
 レイヴァートはつのるような吐息をついて、イユキアの首すじへふれる。囁くようにたずねた。
「イユキア。‥‥抱いてもいいか?」
 イユキアの白い頬に、ぱっと朱の色が浮きあがった。レイヴァートの背に回した手に力がこもり、息を乱す。レイヴァートの、灰色がかった深緑の瞳が彼をまっすぐ見つめていた。顔だけでなく、体が熱くほてるのを感じたが、イユキアは強いまなざしから目をそらすことができなかった。逃げ場がない気がする。だが、その行き場のなさが何故か心地よくもあって、イユキアは自分をもてあましそうになる。
 レイヴァートの指がゆっくりと首の肌をなぞった。イユキアがかすれた息をこぼし、名を呼んだ。
「レイヴァート‥‥」
 ゆっくりと、首すじを指が這い、うなじへすべりこんだ。イユキアはレイヴァートの瞳を見つめたまま、紅潮した頬にかすかな微笑をうかべる。求められている、そのレイヴァートの感情が体に沁みわたって、レイヴァートからつたわる熱が体の芯をとかしてゆくようだった。
 この前レイヴァートが黒館を訪れた逢瀬から一月以上たっている。抱擁もくちづけもなつかしく、体も心もかき乱される。どれほど迷いがあっても、どれほど恐れていても、踏みとどまれない。黒館の主と王城の近衛騎士。同性であるという以上に、許されていい関係ではない。それはわかっていても、自分を押し流す情動をとめようがなかった。
 レイヴァートも微笑して、乱したイユキアの襟元へ唇をつけた。
「あ‥‥」
 濡れた唇の感触がやわらかな快感となって身の内をはしりぬけ、イユキアは声を洩らす。レイヴァートの熱い舌が肌をなぞりあげる、その微妙な動きが体の奥の熱をたえがたいほどにかきたてた。軽く歯をたてられた肩骨から甘いしびれがひろがって、イユキアは思わず長い呻きを上げていた。
 ゆっくりと、首から大きく乱した襟口を愛撫し、イユキアの肌がしっとりと汗ばんで、いつもは冷たい肌が熱をおびるまで時間をかけてから、レイヴァートは身をおこす。イユキアが乱れる吐息をついて、まぶたをあげた。うるんだ目は先刻よりも金の色を強めていた。
 頬は色づいて、どこか酔ったようにレイヴァートを見上げている。その顔は、イユキアが常に人へ向ける底のない静かな顔ではなく、レイヴァートにしか見せない、乱れかかった甘い表情だった。
 声もまた、乱れた響きをおびて。
「レイ‥‥」
 レイヴァートは無言のまま、イユキアの背へ両手を回してきつく抱きしめた。イユキアが長い息をもらして彼の腕の中へ崩れ、体を預ける。欲望が身にたぎるようだった。イユキアの、甘い反応の一つ一つが愛しくて、抱きしめたまま、己が湿らせた首すじへ執拗に指を這わせた。
「‥‥‥」
 かすかに、泣くような呻きを、イユキアが上げる。その体をソファからおこして、もう一度抱きしめ、レイヴァートは寝台のある部屋へとイユキアを導いた。