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【終章】

 窓辺でイユキアは目をとじ、木の桟に頭をもたせかけてうごかない。
 おだやかな面を淡い陽ざしが白く照らしている。時おり、何かつぶやいたが、声はなかった。
 黒館の一室は静寂に満ちて、何の気配も音もない。館の外の音も何一つきこえてこない。凍りついたような無音に身を浸し、館の主は長いことそうしていた。


 レイヴァートが塔の部屋へ入っていくと、ロゼナギースは敷物の上で足を組んで、左腕にもたせかけた六弦の竪琴に指をはしらせていた。
 レイヴァートを見上げて小さく笑う。
「指先がなまった‥‥」
「ずっと弾いておられたと聞いていますが」
 レイヴァートは、長剣の鞘を両手に持ってロゼナギースへ近づいた。ロゼナギースが、この地を逃亡してから後、吟唱詩人として身を立てていたことは聞いている。
 ロゼナギースが聞きなれない和音を鳴らしながら肩をすくめた。
「そういうのとはまたちがうのさ。‥‥それより、そのしゃべり方、どうにかしろ。俺はもう不可触の人間ではないし、労役に仕えるものだ。近衛三座のお前に丁寧に扱われちゃ、おかしかろう。名前もな」
「‥‥承知した、ローゼ」
 一瞬、考えこんでから、レイヴァートはうなずいた。ロゼナギースがふふっと笑みの息を洩らす。その前へ、レイヴァートは革鞘におさめられた細身の長剣を横たえた。
 黒革の鞘には赤い古文字が一文字染め抜かれていた。王の象徴。
 王から下賜された証。
 竪琴を横へ置き、ロゼナギースはその文字へ指先をすべらせた。レイヴァートは塔の室内を見回す。王は他の場所を用意すると言ったが、ロゼナギースは16年間己が封じられてきた塔へ戻った。虜囚としてではなく、王へ仕えるものとして。
「‥‥俺はいつか、オルジカに殺されるかもしれんな」
 呟き、ロゼナギースは膝近くへ長剣を引き寄せた。
 レイヴァートは無言。ロゼナギースは柄に巻きついている留め鎖を外し、刃を少し引き抜く。冷ややかな金属の表は、彼の顔をうつすほどに美しく磨き上げられていた。
「あいつは‥‥陛下は、昔から容赦なく優しい」
 溜息をついた。
「俺が6才の時に裁罪の場に立たされた時、あの方は左の証人に立っていた。‥‥俺はな、レイヴァート。生きるとマキアに誓って生の天秤をえらびはしたが、13の時にどうしようもなくなって死のうとしたことがある。はっきりそうと決めたわけではないが、物が食えなくなった。その5日目に、あの方がたずねて来られた」
 指先が刃の艶をすべる。
「‥‥あの方は、俺に言ったのだ。約束しよう、と。自分は王になる。だから俺に、音師になってサリューカを奏せと。二人で王城を支えようと‥‥だから生きろと、俺に言った」
 剣の柄を右手でつかみ、鞘へ押しこんだ。剣を横へ置くロゼナギースを見やって、レイヴァートは静かに言った。
「あなたには会いたい人がいるのだと、黒館の主が言っていた。だから帰ってきたのだと」
「イユキアか。‥‥あれも、少しおかしな奴だな。黒館で、施癒師をやってるだって? どこから来たんだ」
「さあ」
 レイヴァートは首をひねる。実際、知らない。言葉に不自由している様子はないから、おおよそ同じ大陸か、その周囲の島国の生まれなのではないかと思うが、それはあまりに広く、知らぬ国の数はそれこそ無数。
 ふぅん、と呟いて、ロゼナギースは竪琴をふたたび膝にのせ、レイヴァートの聞いたことのない旋律をかなでた。レイヴァートは立ち上がって一歩下がる。
「久々に、後で手合わせをしよう。夕方に下の練兵場で待っている」
「そうだな。そろそろ勝てなくなってるだろうな。一つ、叩きのめされるとしよう」
 いたずらっぽく笑って、ロゼナギースはうなずいた。
 出ていこうとして、背後にやさしい音を聞き、ふとレイヴァートは足をとめた。歌のようなふしまわしが脳裏をかすめた。
「ローゼ。‥‥古い唄を知っているか? セリグリュスト、アルヴァルカ──」
「エルナーセギルナ」
 唄を引きとって、ロゼナギースの指先が弦に踊った。もうひとつ、ふたつ、ふしまわしを呟いて、レイヴァートを見上げる。
「随分と、古い唄だな。今はもう使う者のない言葉でできていると聞いた。俺も古い音の譜でしか知らん唄だが、どこで耳にした?」
 その問いに小さく首を振って、レイヴァートは一瞬ためらったが、たずねた。
「唄の意味を知っているか」
「言葉の正確な意味は知らん。だが、恋唄だ。遠くに離れた相手を呼ぶ」
 指先がやわらかい旋律を鳴らした。レイヴァートはかすかに目を細めたが、表情をほとんど変えずにうなずいた。
「そうか。‥‥ありがとう」
 頭をかるく下げ、ほとんど足音を立てずに部屋を出た。後ろ手に扉をしめる。鍵はかけない。もう、ロゼナギースは捕らわれの身ではない。
 ゆっくりとした足取りで、レイヴァートは塔の階段をおりてゆく。途中、足をとめ、左の手のひらを見下ろした。数度、かるく握るようにして、イユキアの指が見えない図像を描き上げた感覚を思い出す。
 目の奥の表情が揺らいだ。彼は、手のひらへ静かにくちづける。
 短い吐息をついて、頭をふり、レイヴァートは元の静かな表情に戻ってふたたび石段を降りはじめた。背後に旋律が遠くきこえてくる。
 それは、遠い風の音のようだった。

--END--