港の鐘が三つ鳴った。午後も半ばをすぎている。音の余韻が消えてからしばしの後、窓辺から見張っていたベルンがするどく囁いた。
「一人、出かけます、レイヴァート」
すばやく立ち上がり、レイヴァートはカーテンの影からマキアの店の階段を凝視する。女が一人、階段を早足に降りるのが見えた。肩から茶色のケープをはおり、青いヴェールを頭から垂らしていて顔はわからない。
「追うぞ」
短く言って、レイヴァートは一階へ降り、タイミングをはかって扉をあけた。道へ出ると、茶色いケープの後ろ姿が数歩先を歩いてゆくところだった。
うなずきを向けると、ベルンが早足に彼女を追っていく。レイヴァートは仕立屋の男へ頭を下げてから、距離を取って少年を追った。扉についた鈴が小さく鳴った。
昼下がりの陽光が狭い間口からななめにさしいってくる。淡く店をいろどる影の中で、初老の仕立屋は小さな息をついて、縫い終わった服を丁寧にたたんだ。
立ち上がり、イユキアは椅子の背から灰色のマントを取り上げて体にまとった。寝台に腰をおろした男が、その動きに顔を上げ、気だるそうに言った。
「‥‥もういいのか?」
「結構ですよ。ごくろうさま」
静かな声で言いおいて、イユキアはフードをかぶり、部屋を出た。きしむ階段をおりていくと、一階のざわめきが近づいてきた。
15人ほどが入れる酒場に、今は6人の客がいた。いや、7人。フードの下のイユキアのまなざしが奥のテーブルをかすめる。窓の光もとどかない壁際の柱の影で、焼けた銅色の髪を首の後ろでくくった男が、頬杖をななめに崩し、杯をなめるように飲んでいた。
残る6人の5人までが男、1人が女。肌もあらわな女は見るからに裏町の商売女で、椅子に座った男にまたがり、スカートは脚をまさぐる男の手で太腿までずりあげられていた。髪留めにくくられた黄色の組み紐は、娼婦のしるしだ。ここ、クーホリアでは娼婦は首より上に黄色い飾りをつけるようさだめられている。
イユキアはカウンターへ寄ると、銅貨を二枚のせた。カウンターの中に立つ酒場の親父が無言で受け取る。二階の部屋代は、上がる前に払っているが、これはいわば口止め用の余分な支払いだった。たとえ、余計なことに気付いたとしても、何も言うな、との。
男の一人が大声で下卑た冗談を言い、6人がどっと笑った。派手な仕種で身をよじらせた女の手が、テーブルから空杯を叩きおとす。それはいきおいよく跳ねて、奥に座る男の足元へころがった。男が自分の酒から顔もあげずに、足で蹴り返した。
木杯ははずんで、イユキアの足元へところがってくる。イユキアはマントの下で眉をひそめたが、身をかがめると酒に濡れた杯を拾い上げた。男たちのテーブルにそれを置く。
イユキアの顔を、男の一人がチラッと見上げた。目深にかぶったフードから、白い肌と細いあごがかいま見えている。ニヤッと笑って、彼は歩きすぎようとするイユキアの手をつかんだ。
「なんだ、お前、女か──」
「ちがいますよ」
イユキアはおだやかに、その手を払う。静かな声はたしかに女のものではない。だが男は気にもかけない様子で立ち上がり、イユキアの前へ回りこんだ。
「どっちでもいいや。ちょいと楽しく飲まねえか?」
のばした手でイユキアのマントを引く。イユキアがよけた動きと重なって、フードが顔から背中へ引きおろされた。灰色の布の下から銀の髪がこぼれおちる。ゆるやかな癖のついた細い髪は、数本に細く結い分けられて首の後ろでまとめあげられていた。ほつれた銀髪が耳元からかたむいたマントの首すじへ、かすかな光の筋をおとしていた。ほの暗いほどの酒場で、その髪は遠い灯りの色を含んでうっすらと輝いた。
暗い色の瞳をかすかに細めるようにして、イユキアは無言で男を見つめかえす。硬質にととのった、あやうい脆さの漂う貌を見おろし、男は口笛を吹いた。
「こりゃ、とんだ拾いもんだ。こんなところをウロついてちゃ危ない目にあうぜ?」
仲間が声を合わせてどっと笑い、下卑た言葉も含めてはやしたてたが、イユキアの表情は奇妙に気だるげなまま、ほとんど感情を見せていない。その体に男が身をよせようとする。
その時、階段の方から声がした。
「よしな。その人は、黒館の主だぜ」
その一言で、男たちの顔を緊張と──あからさまな恐怖がはしった。
イユキアはおだやかな仕種でマントを男の手から引き戻し、一歩下がった。階段口には、先刻までイユキアとともに上の部屋にいた男が立っている。男の両手首から肘近くにかけて、新しい包帯がまかれていた。
奥のテーブルで飲んでいた金髪の男が無言のまま顔を上げ、イユキアの白い顔をじっと見つめた。
五人の男たちは互いに目を見交わし、かすかに青ざめた顔でイユキアをちらちらとうかがっている。「黒館の主」についての様々な噂が頭の中をかけめぐっているのは明らかだった。
イユキアは無言のまま歩き出そうとする。だがその先へ、はじめに声をかけた男が立ちふさがった。緊張がはりつめた顔に余裕はなく、唇を幾度か舌でなめているが、イユキアを見据える両目にはギラリと暗い興奮がやどっていた。怯えの裏返しだ。
「へェ──。黒館の、ねェ‥‥こんなところに何をしにきたんだ? 噂じゃ、人を喰うんだって?」
「そんなことはしませんよ」
静謐な声と表情で、イユキアが返す。その周囲を男たちがぐるりと囲んだ。
「じゃ、何をするんだい? 折角だ、教えてもらおうか。俺たちも、あいつみたいに二階でじっくりとな──」
視線が動いて、両手に包帯を巻いた男を見やった。イユキアと二階にいた男は顔をしかめ、階段から動かない。どうしようか迷っているようだった。
それにはまなざしもくれず、イユキアは「教えてもらおうか」と言った男の顔をじっと見つめていたが、色の薄い唇にふっと微笑のような影がゆらいだ。温度のない表情。かこんだ男たちの背すじを冷たいものがはしった。何か危険なものがイユキアの周囲にたちのぼるのをはっきり感じ取りはしたが、今さら引くことができない。男の一人が暴力的な動作でイユキアの肩をつかんだ。
「どうせ噂だけだろ──」
はげしい緊張と興奮がどの男の顔にも渦巻き、肌かは饐えた汗の匂いがたちのぼる。はりつめた空気のまま、周囲をとりまく熱だけが一気に上がった。「黒館」の名への怯えと、それを押し隠そうとする裏腹の意地が彼らの強情を煽り、イユキアのとりすましたような冷たい表情がさらに油を注いだ。衝動は、自分たちでもとまどうほどの強さで彼らを呑みこもうとする。
何かがはじけかかった瞬間、宙を飛んだ杯が男のこめかみを直撃した。小気味のいい音がして、男はイユキアの肩から手をはなし、うずくまる。頭をおさえた。
全員がはっと奥のテーブルを見つめた。
銅色の髪の男が、するどい目で彼らをにらんでいた。右手をもう一度ふる。猛烈ないきおいで飛来したフォークが、顔面すれすれをかすめ、被害をうけた男が焦った悲鳴を洩らした。
「てめっ──」
男は無言のまま、今度は短剣を抜いてかまえた。ふりかぶる。
「待てッ、やめろッ!」
一瞬、かまえがゆるんだ。だが短剣はおろさず、猛禽のような眼で男たちを見つめている。彼らが動かないでいると、もう一度短剣の狙いをさだめた。
「やめろ!」
口々に声を上げながら、男たちは先を争って店から逃げ出した。取り残された娼婦は一瞬ためらったが、すぐに彼らを追う。包帯を巻いていた男も、あわてたような早足で階段の残りを駆けおり、店を出ていった。
扉がしまると、イユキアは床に落ちたフォークをゆっくりとした動作で拾い上げ、静かな表情を奥の男へ向けた。
「ありがとうございます」
「‥‥黒館の、か」
短剣をおろし、男はイユキアへどことなく獰猛な笑みを向ける。するどい険をはらんだ顔は、やせて頬骨の高さが目立った。褪せた色の髪は額の後ろへかきあげられ、あらわな額に一本ななめに残った古傷が白くはしっていた。
洗いざらした長袖を一枚着たきりで、幅広のゆったりしたズボンを腰のベルトでとめている。漁師のようないでたちだが、短剣を一動作で鞘へ叩きこむ仕種はすばやく、手慣れたものだった。
声はざらついて低い。
「あんた、ホントに黒館の主かい?」
イユキアは、拾ったフォークを手に男のテーブルへ歩み寄る。フォークを男の手元へ置き、うなずいた。
「ええ。今は」
「‥‥ふうん‥‥」
考えこむようにして、まるで独り言のようにつぶやいたが、男は不意に喉の奥で笑った。イユキアが引こうとした手首をつかむ。
「丁度いい。一人で退屈だったんだ、ちっとばかり酒の相手をしてくれねェか?」
「‥‥‥」
イユキアは、自分の手をつかむ男の手を見おろした。やせてはいるが強靱な筋肉がついた腕は擦り傷だらけで、手首の内側には赤黒いあざが浮いている。施癒師としてのイユキアの目でなくとも、その傷もあざも新しいものであるのは一目で明らかだった。
「いいですよ。治療をさせていただけるなら」
「金はねえぞ」
「助けていただきましたからね。お返しです」
イユキアが男の目を見つめると、男はニヤッと笑って手をはなし、椅子を足で押しやった。
ヒルザスは前をゆくマキアの後ろ姿を見ながら、油断なく人ごみを抜けた。夕刻前のにぎわいには足りないが、港近くの魚市場あたりを行き交う人々で広場には活気があった。
マキアは知り合いの顔を見つけたらしく、立ち止まって会話をかわしている。ヒルザスは建物の影から目を細めて女の様子を見やった。女はのんびりとして、互いに無駄口を叩いては笑いあっているように見えた。
やはり囮かな、と思う。レイヴァートとヒルザスがたずねていったからと言って、これほど露骨に動き出すほど単純な女ではない。見張りがついていることを承知の上で、街をうろつき回っているとしか思えなかった。
遠く、鐘が三つ鳴る。マキアは魚の積まれた木箱の横をのろのろと歩いていたが、チラッと空を見上げてから、市場の外へ歩き出した。バラバラに分解して積みあげられた荷車の横を抜け、海へ流れこむ河にわたした浮橋を渡って、左右に低い石垣のある道を抜ける。途中で海と逆方向へ折れ、石造りの家が並ぶ道を歩き出した。ヒルザスも、ゆったりとした何気ない足取りでそれを追った。
「‥‥‥」
ふ、と首すじが冷える。ヒルザスは周囲をうかがったが、己が感じたものの正体は知れなかった。わからないまま、かたわらの少年へあごをしゃくる。カルジックがすばやく呑みこんで、早足に彼の前へ出た。人通りの少ないこの道で、顔の知られたヒルザスがあまり近づくわけにはいかない。カルジックは軽い足取りでマキアと距離をつめ、ヒルザスは少年の後ろ姿を追った。
どっちにしても、マキアは彼らが追っていることに気がついているだろうが──と、ヒルザスはななめの笑みをうかべる──そこはそれ、「つきあい」というものだ。こっちも本気でつきあうべきだろう。
(‥‥レイの方は、うまくやるかな)
そう思いながら角を曲がった瞬間、刃物の鋭い音が耳にひびいて、ヒルザスはためらわず走り出した。右手が腰の剣柄にかかる。
目の前に、尻もちをついて道にしゃがみこんでいるマキアと、彼女へ襲いかかる男の姿があった。騎士のように見える。道に倒れたカルジックの体を一気にとびこえ、ヒルザスは剣を抜きざまマキアの前へとびこんだ。
ふりおろされた男の剣をはねかえす。斬撃に手が骨まで痺れた。角度が悪い。舌打ちし、ヒルザスはマキアの前へ両足を踏んばって剣をかまえ直した。相手をにらみつける。
「何が目当ての狼藉だ!」
「──」
男の顔は革の仮面で覆われていた。おしのびの人間がよく使うもので、この港町ではさして珍しくはない。ヒルザスに答えず一歩踏みこみ、一合、ヒルザスと剣を合わせた。強烈な打ちこみを、ヒルザスは粘りのある剣筋で流す。打ち返すより、マキアを守るための防御の剣だ。
だがたとえマキアがいなかったとして、まともにこの相手と打ち合う気は起こらなかっただろう。振り降ろされる剣には重い力がこもっており、真正面から叩き伏せるような力の剣だった。身に帯びやすいからか、相手の手にあるのが軽めの剣だったからまだいいが、本来ヒルザスはこういう相手が苦手だ。
(レイがいりゃあな──)
胸の内でぼやきつつも、踏みこむ相手に対しマキアを背にして、それ以上はさがれない。目のすみでカルジックが起き上がりかかるのを見て、ヒルザスは怒鳴った。少年が下手に動けば斬られる。
「立つな、寝てろ!」
相手の剣を流し、左手で腰の後ろから短剣を抜いた。彼の流儀は二刀流だ。本来なら短剣ではなく、軽めの直剣を用いるが、今日は目立たないように長剣一本しか帯剣していないので仕方ない。左手の短剣を一閃させると、相手は間合いの外へ飛びすさった。
ヒルザスは肩で息をして、相手をにらむ。仮面に覆われた表情は読めないが、大柄で、身なりのよい剣士だった。いや──よすぎる、とヒルザスは思う。鹿皮のブーツも裏を打った絹地のマントもそれを留める擦り銀の飾り留め針も、一介の剣士や騎士に手のとどく代物ではない。
(貴族か?)
疑問を持ちながら、数合さらに打ちあう。ヒルザスは段々と相手のリズムに慣れて、短剣で間合いを作りながら長剣で斬撃を流した。打ちかかりさえしなければ何とかなる。今しばらくは。
野次馬の声がした。膠着状態に陥りつつあるのを感じたか、男が剣を引くとくるりと身を翻し、背を向けて走り出した。追おうとした少年を、ヒルザスがするどい声でとめる。返り討ちにされるのがオチだ。
「よしとけ、カルジック。‥‥ケガしてないか?」
「大丈夫です」
少年はくやしそうにこたえた。体の左半分が埃にまみれて汚れている。地面に叩きつけられたのだろう。だが、彼がマキアへの最初の一撃を短剣でふせいだのは確かで、それがなければマキアは助からなかったにちがいない。ヒルザスは笑みを投げた。
「よくやった」
ぱっと少年の頬に赤みが散る。彼へうなずいて、ヒルザスはマキアへ向き直った。片手を差し出す。
「ケガは?」
「‥‥あのお人は‥‥」
マキアは呆然と、男が走り去った方向を見つめていたが、ヒルザスの手をつかんでよろよろと立ち上がった。傷は負っていない。ヒルザスは無遠慮に女の服の埃を払ってやりながら、
「あれは、あんたを狙ってたな。多分、店から追ってた。身分のいい男だ。心当たりがあるか?」
「‥‥‥」
マキアは青ざめた顔で地面を見つめて、こたえない。ヒルザスはカルジックへ向き直った。
「先に戻っててくれ。レイにツナギがとれたら、マキアが襲われたことを伝えろ。そっちも用心しろってな」
「はい」
元気よく答え、少年は軽い身のこなしで走り出した。ヒルザスは口元に笑みをたたえてそれを見送る。マキアへ戻した目は、やさしかった。
「すまんな。わかってただろうが、こっちもあんたをずっと追ってた。なあ、さっきのあいつ、ロゼナギースに関わりのある者か? それとも、こんな街なかで剣を抜かなきゃならんほど、あんたがあこぎな商売をしたのか?」
「‥‥‥」
「あいつは、あんたに何も言わなかった。ただ殺そうとしただけだ。ロゼナギースが国に戻ってきたことを聞いて、あんたの口をふさぐ必要が出たのかもしれんな」
そう言いながらマキアの表情をうかがったが、青ざめた女の顔からその心を読みとるのは難しかった。ヒルザスは抑えた声でつづけた。
「六年前にロゼナギースが王城から消えた時、王城の人間が手引きしたのではないかと言う疑いもあった。それが誰か、あんたは知ってるんじゃないのか?」
「‥‥あたしは──」
何か言おうとして、マキアは口ごもった。店での悠然とした態度が消え、肩を落とした姿はやけに小さい。いや、もともと小柄な女だ。店では気を張って、まなざしや仕種で大きく見せているだけで。
その顔を見ていたが、ヒルザスは左手をさしだした。けげんな表情をしたマキアの、ふっくらと肉のついた右手を取って、歩きはじめる。
「すまねぇが、ちょっとつきあってくれないか」
「‥‥‥」
引かれるままに、マキアは歩き出した。ヒルザスは元来た道を戻り、海の手前で方向を転じると高台へとのぼる道をえらぶ。あたりに人影はまばらだが、時おりすれちがう人々は、小太りの娼婦の手を引いて歩く剣士の姿を好奇の目で見送った。マキアは何度か手を離そうとしたが、ヒルザスは意に介した様子もなく歩き続け、最後の坂を上りきると、目の前には海が見える庭園がひらけていた。
膝ほどの高さの柵でかこまれた、小さな庭苑。芝生は丈が低く刈り込まれ、まるで色の粒を散らすように、ちぢれた花弁の黄色い花が散り乱れていた。数人の子供と母親がカエデの木の下を花壇ぞいにゆっくりと散歩している。その向こうに、傾きだした陽光にかがやく鏡のような海が見えた。
苑への入口に、蔦のからんだアーチ状の門が立っている。そこへ近づくと、マキアがかたい声を出した。
「私は‥‥入れませんよ」
「ああ」
ヒルザスはうなずいた。娼婦は、庭苑へ足を踏み入れることを禁じられている。一人で芝居を見に行くことも、黄色い飾りを外すことも、白い服をまとうことも、髪を結わずに垂らすことも。
柵の表へ立ち、ヒルザスはやっとマキアの手を離すと、彼女へ向き直った。
「そうさな。たぶん、22、3年前のことなんだろうな。あの事件は22年前のことだし、俺は26才だから」
「‥‥?」
「ここで、あんたとローゼ殿を見たことがある」
陽に照らされて白っぽいマキアの顔に、うつろな表情がうごいた。ヒルザスはかすかに首をかたむけて、やさしい口調でつづける。
「ローゼ殿は6つか7つ。あんたは17、8ってとこだったろう。あなたは白いドレスを着て、日傘をさして、ローゼ殿に花の名前を教えながら歩いていた。俺も親と一緒でね。母親があんたたちを指して教えてくれた。“あの方々は、王太子殿下の弟君と、その乳母の方よ”──とね」
「‥‥‥」
子供たちが木の周囲をぐるぐると回りながら、小さな歓声をあげて互いを追いはじめた。中の一人が根へつまずいてばたりと倒れ、あわてて駆け寄った母親がそれを抱き起こす。ヒルザスはその様子へちらっと目を投げた。
「あの時、あんなふうにローゼ殿も転んだ。石か何かで結構手ひどく膝をすりむいたようで、俺の母があわてて寄ったが、あなたはそれを断った。ローゼ殿のそばへしゃがみこんで、自分で立つよう、ずっと励ましていた。ローゼ殿が膝から血を流して立ち上がると、抱きしめてやっていた」
「‥‥‥」
ゆっくりとマキアの顔が上がり、彼女は唇を結んだままヒルザスを見やった。ヒルザスが微笑する。
「帰る途中で、母親に言われたよ。あなたは本当にローゼ殿を愛しているのだと。だから、ああして、強くあれと育てているのだとね。甘やかすことの方がずっと簡単なのだと言ってたが、こいつはつまみ食いをした俺の尻を蹴とばすための方便だったのかもしれんな」
「‥‥お母上は、今‥‥?」
「幸い、健在だ。海から離れて、ファルキアの荘園に暮らしているがね」
「それはようございました」
丁寧な口調で言うと、マキアはやわらかなまなざしを子供らへおくり、ゆっくりと踵を返して道を戻りはじめた。かたわらを歩くヒルザスへ、
「覚えておりますよ、その折りのことは。‥‥母上様より、ハンカチをお貸しいただきました。お返しせねばと思っておりましたが、その一月ほど後に、あの事件がおこりましてね。不義理をいたしまして、申し訳なく思っております」
「んなことはいいんだがな、マキア。あんたとローゼ殿の間には、はたから見ててもうらやましい絆があったと思う。それは、年月で消えるようなもんじゃない」
「‥‥‥」
「あの事件で、ローゼ殿の母上もその係累も亡くなられた。‥‥残ったのは、あんただけだ。あの方にとって“家族”と呼べる者は唯一人、あんたしかいない、マキア。そうだろ?」
マキアの足がとまった。ヒルザスは一歩前へ回りこみ、うつむいた女の顔をのぞきこむ。ヒルザスの黒い瞳は真剣な光をたたえていた。
「あのな。マキア。陛下は口に出してはおっしゃらんが、ローゼ殿の身を案じておられるのは本当だ。何があるのか俺にはわからん。だが、さっきあんたを襲ったヤツは、物盗りでも通りすがりでもない。あんたを殺す気だった。‥‥六年前、ローゼ殿を逃がす手引きをしたのはあいつなんじゃないのか? あんたは、あれが誰だか知ってるんじゃないのか?」
「‥‥‥」
うっすらと、マキアの眸に光るものがあった。うつむく。
「‥‥六年前、あの方が乗る船の手配をしたのは、私でございます」
「ああ、陛下はご存知だ。あんたが船長にいくら払ったのかもな」
ヒルザスは肩をすくめて、相手の驚愕を流した。いつそれを知ったのか、王は言わなかったが。知っていて、とがめもせずに心の内ですべて握りつぶしたのだ。もしかしたら、六年前に王城を裏切ったのが誰なのか、王は知っているのではないかとヒルザスは疑っていた。
──罠を、仕掛けているのではないかと。
「あれは誰なんだ、マキア?」
マキアは何か言いかかったが、唇を噛んだ。低い声できっぱりと、
「私の一存では、口が裂けても申し上げられません」
「そうか、そいじゃ仕方ねェな」
固く青ざめたマキアの顔を見て、ヒルザスはあっさり引き下がった。女を問いつめるのは彼の趣味ではない。
「ローゼ殿の居場所に心当たりは?」
「‥‥ガルコの通りに、カササギと言う名の酒場がございます。六年前、そこへあのお方をかくまいました。‥‥あの方が街に戻ってこられたのであればそこへおいでになるかと思い、今、シャルースに金を持たせて向かわせております」
ヒルザスはうなずいた。長年、王城へ幽閉されていたロゼナギースは、このクーホリアの街のことをほとんど知らないはずだ。六年前の記憶をたぐって、その店をたよる確率は高い。
「そうか、そっちはレイがどうにかしてくれる。とにかく店に戻ろう」
歩き出そうとした彼の袖をマキアの手がつかんだ。ふりかえると、女はすがるような必死の眸でヒルザスを見つめ、かすれ声で祈るように言った。
「あの方を、助けて下さい──」
ヒルザスはマキアを見つめ返し、真顔でうなずく。
「大丈夫だ。そのために、陛下は俺たちをつかわしたんだからな」
嘘だった。王が何を考えているのか、半分血のつながった罪人であるロゼナギースをどうするつもりなのか、ヒルザスはまったく知らない。だが、今はそう言うことしかできなかった。
マキアがおずおずと、小さな微笑をうかべる。何か悪いことをしたような気がしたが、痛みを隠して、ヒルザスも笑みを返した。