それは奇妙におだやかな時間だった。
 シャワーの湯で上気したアーロンの体をさらりとした感触のシーツに横たえ、肌から滴をなめとりながら愛撫すると、アーロンは無言のまま口をひらいて喘いだ。
 物慣れていないからもっと恥ずかしがるかと思ったが、アーロンは意外と素直に体を開き、たまに頭を持ち上げてオーガストのすることを見ている。
「おもしろい?」
 そう聞くと、困った顔で目をそらした。オーガストは笑って、アーロンの乳首に唇をあてた。硬くなったそれを舌腹で執拗にねぶる。色の薄い肌は簡単に愛撫の痕を残し、強く吸うのはためらわれた。
 肌から滴をなめていくと、かわりにしっとりと汗が浮いてくる。牡の匂いがたちのぼってくる体を愛撫しながら、オーガストは自分からも同じ匂いがするのを感じた。互いの肌が吸いつくようになじんで、一つの熱を共有しはじめる。硬く昂ぶったオーガストのペニスがアーロンの脚にふれ、つい熱を求めるように体を押し付けると、アーロンがまた頭をあげた。
「やっぱり‥‥する?」
「したいのか?」
「俺だけって、何か、悪くない?」
 ためらいがちに言う顔を見て、オーガストは少し考えていたが、アーロンを抱き起こして座らせた。自分はその横に並んで座り、アーロンの唇に小刻みなキスをおとしながら、彼の右手に自分の右手を重ねて股間に導いた。
 オーガストのペニスにふれた指はおずおずとしていたが、キスをくりかえしていると、指をからめて先端を擦りはじめた。いくら奥手だろうとそれなりに自分のもので手慣れているはずで、口でするよりは当人の抵抗もない。次第に手は大胆になってオーガストのものを手のひらに包み、はっきりと意志をもって上下に動きはじめた。
 オーガストが喉の奥で呻きをこぼすと、手の動きが熱っぽくなる。繊細な見かけの指にふさわしく、繊細な愛撫だった。快感を受けてさらに硬さを増したペニスに長い五指がからみ、濡れた音をたててしごきあげた。くびれを指先でなぞり、裏をつっと指の腹ですべらせて、全体を包むように愛撫する。
 短い声を数度こぼして、オーガストはアーロンの手の中にのぼりつめた快感を放った。
 荒い息をつき、アーロンの体に腕を回すとシーツに倒す。自分の熱をうつすようにアーロンの体を抱きしめ、首すじに唇を這わせて重ねた肌の熱をむさぼった。アーロンもオーガストの体に指を這わせて求めながら、愛撫のひとつひとつに呻きをあげた。
 熱のこもった体が相手を求める。それでもそこに切羽詰まった性急さはなく、ただ互いを求め、熱を味わうやわらかな快感だけがあった。抱きあった体を返してアーロンを自分の上にのせ、また硬さをおびた彼のペニスを指で弄びながら、オーガストは彼の唇をおだやかに吸った。アーロンがこたえてオーガストの舌をもとめ、目をとじて肌の熱に溺れる。
 つながっているのがわかった。それを共鳴というのかどうか、オーガストにはよくわからない。ただアーロンが感じる熱と自分の感じる熱が区別をなくし、ノイズのない静寂の中で互いの息づかいだけがすべてになる。あたたかな水が体のすみずみに沁みていくようだった。
 アーロンは甘い呻きをこぼしてもう一度オーガストの手の中に達した。それからしきりに「やってみる」と言い張って、オーガストのペニスを口にくわえたが、どうしていいのかよくわからないまま、ただ単調に舐めていた。オーガストはじれったさの一方で、そうしている彼が何とも可愛くて、目の前にうずくまったアーロンの背中をなでた。
 結局、口ではいけずに、またアーロンの手を借りて放つ。
 強い絶頂感とともに、感じたことのないおだやかな快感がオーガストの体を潤した。アーロンが光をおびた目でオーガストを見つめ、唇をよせてキスで吐息を呑んだ。熱に酔う互いの体を抱いて、二人はそのまま動かなかった。


 シャワーで体を流した後、少しの間またベッドで体を寄せ合わせ、何をアーロンの手が怠惰にオーガストの頬をなでる。指先がそっと額をかすめた。
「ああ‥‥傷が残っちゃったんだね」
 オーガストはうなずく。
  「ん。消えるまで手術してもいいとか言われたが、どうでもいいし」
 顔の傷はぱっと見ではわからなくなる程度には治ってきたが、時おり浮き上がるように見えるらしい。だがオーガストはもう他人に体をいじくりまわされるのは御免だった。ただでさえ、ノイズのせいで電脳のメディカルチェックと称して他人にハックのようなことまでさせている。それは仕方がないとしても、必要のない治療まで受けるつもりはなかった。
「意外と、似合ってるよ」
 そう、アーロンは微笑む。オーガストも少し笑って、まだどこかに酔いの残る頭を起こし、左で低い頬杖をついた。右腕をアーロンの体に回し、肌からつたわってくる熱を愉しむ。
「医者もそう言ってたな。そう言えば、あの医者、俺たちの話をラジオにたとえてた」
「ラジオ?」
 腕の中のアーロンがくすっと笑って、オーガストの顔を見る。洗い髪を指でととのえてやりながら、オーガストも笑って医師の言葉を話した。
「ラジオが奥歯で聞こえてるようなもんだって、俺に説明してた。たぶん、お前がDJだな。俺がイカれた受信機。ノイズしか聞こえない」
「ふーん‥‥」
 まだ喉の奥で笑いながら、猫のようにオーガストの胸元に頭をすりよせた。また金髪がシーツで乱れて癖がつく。間近でオーガストの目を見上げ、彼の胸に腕を回した。
「ラジオねぇ」
「でも、お前が鳴らして俺が聞いてるってわけじゃないしな。俺たちはどっちも相手を聞いているんだと思う。だからちょっと、的外れだよな」
 少しの間アーロンは無言で考え込んでいたが、ベッドに肘をついて上体をおこし、オーガストの顔をのぞきこんだ。
「クジラが歌うのは知ってる?」
「ん、話には聞いたことある。ザトウクジラ?」
「だけじゃない。有名だけどね、ザトウ。ハクジラもヒゲクジラも歌うよ。色々種類があるから、今度聞いてみるといい。あの歌が何のためのものなのか、まだよくわかってないけど」
 胸に軽くもたれかかったアーロンの体重が心地いい。この時間の終わりが近づいていることはわかっていたが、オーガストはそれを表情に出さずにアーロンを見上げた。まばたきでうながすと、アーロンがつづける。
「一部のクジラの歌は、何千キロ、時に何万キロという距離を越えてつたわる。海の中に、音をとどける音の道があるんだ。水圧と水温の関係で、音波が反射しながら遠くまではしるトンネルのようなものが水の中にできてる。サウンドチャンネルって言うんだよ。サウンドチャンネルにのった音は地球を半周もするんだって」
「お前はクジラか」
 笑って、オーガストはアーロンの頬を撫でる。アーロンも微笑してかぶりを振った。
「俺たちはどっちもクジラなんだ。同じサウンドチャンネルの中で、互いの歌を聞いてる。‥‥ラジオより、よくない?」
 静かな感情をこめて言うアーロンを見上げていたが、オーガストはアーロンの背中を抱いたままベッドに座り込み、華奢な体に両腕を回して抱いた。ゆっくりとキスをして、グレーの目をのぞきこむ。
「お前は音痴だな。音程がない」
「君は、ちょっとにぎやかだね」
 二人は微笑をかわして、もう一度キスをする。それはかわいたキスで、このおだやかな時間の終わりをどちらにも告げるものだった。
 アーロンはオーガストの肩に額をあて、低い声でつぶやいた。
「ありがとう、オーガスト。ほんとに‥‥ありがとう」
「アーロン」
 胸の奥に苦い切なさが凝結する。言葉を探しながら、オーガストは彼の顔をのぞきこんだ。
「手術が終わったら──」
「俺はきっとちがう人間になってる」
 あっさりとアーロンはそう言って、膝を使って少し身を離し、ベッドにぺたりと座り込んでオーガストを見つめた。その顔はおだやかで、はじめて彼に会った時の脆さや怯えは影をひそめていた。
「今日の思い出も失われてしまうかもしれない。記憶が完全に保たれる可能性はすごく低いんだ」
「それでも、いいよ」
 後先考えずに、ただ目の前にいる彼を失いがたい思いにかられて、オーガストはそう口走った。アーロンが微笑する。
「優しいね。ありがとう。こんな形だったけど会えてよかった。会いたかった」
「‥‥俺も、会えて、うれしい」
 これは、恋ではない。それをどちらもわかっていて、最後のキスはひどく優しい。
 恋ではない。それはわかっている。なら胸全体にひろがって息をとめるこの痛みが何なのか、オーガストにはそれがわからなかった。


 ノイズが吸いこまれるように消えたのは、それから27日後のことだった。大学の研究室で位相差顕微鏡をのぞいていたオーガストは、いきなり訪れた静けさに、頭を殴られたように息をつめた。
「何か見つかった?」
 ロディスが隣りの机からけげんそうな顔を上げる。オーガストは無言のまま首を振って、数度深呼吸をしてから、もう一度顕微鏡にかがみこんだ。
 静かだった。慣れてノイズの存在は感じなくなっていたが、無意識のうちに神経を苛立たせ続けていた音が消えてみれば、とてつもない解放感がある。だが、あの日アーロンとともに感じたような完全な静寂でもなければ満たされた安寧でもなく、その静けさは、奇妙にうつろで身に冷たかった。


 ノイズが消えたとの報告を聞いても、うなずいた医師は大してうれしそうではなさそうだった。治ってほしいんじゃなかったのかよ、と思いながら、オーガストは斜めに足を組む。膨大な患者をかかえる医師にとって、オーガストもアーロンも所詮通りすぎていく患者にすぎないのだろう。それはわかっていたが、他の誰にもアーロンの存在を告げてないオーガストにとって、アーロンの存在を分け合えるのはこの医師だけだった。それが自分で不本意でもある。
 アーロンとの間に何があったのか、医師は聞こうとしなかった。ただ、話をした、というオーガストの言葉にうなずいただけだ。彼は椅子の肘置きに半端な頬杖をついてオーガストを眺めていた。過去の患者には用がないのだろう。立場からすれば、それも仕方がない。
 オーガストは背すじをのばし、乾いた喉に唾を呑みこんでから、医師にたずねた。
「彼の手術は?」
「成功したそうだよ」
 拍子抜けするほどおだやかに、医師は答える。
「それ以上のことは答えられないが、離れた場所にうつってリハビリしている」
 その言葉にオーガストは肩から大きな溜息をついた。最悪を予期していただけに、それをアーロンがくぐりぬけたとわかっただけでほっとした。オーガストのことは忘れたのかもしれないし、そうではないかもしれない。いつかまた会うかもしれないが、きっと二度と会うことはないだろうという思いの方が強かった。彼らを結びつけていた共鳴はもうない。それを失ってしまえば、何の絆もないふたりであり、出会ったところで何かを共有できないふたりなのかもしれなかった。アーロンはきっとそれをわかっていた。
 医師が机の上から小さな袋を取り上げた。半透明のそれは病院で薬を入れる袋だが、中に小さなメモリーカードが入っている。袋ごとオーガストへ差し出した。
「手術の前、君が来たら渡してくれと頼まれた」
「?」
 薄いカードを袋から取り出し、オーガストは目で医師に了解を取るとCOMの端末を手にして、カードをセットした。ラベルがディスプレイに出る。種類はどうやら何かの音源ファイルだ。ラベルの文字を目で追って、彼は息を呑んだ。
 ──Whale song.
 クジラの歌と。──そう、記されただけのタイトル。ほかには何のメッセージもついていなかった。きっと中にもメッセージはあるまい。このタイトルと、中の音こそが言葉のないメッセージそのものだ。それこそ、遠く離れたところに声だけで歌いかけるクジラの歌のように。
 黙ったまま端末をしまうオーガストに、医師は何もたずねなかった。だが立ち上がろうとするオーガストをとめて、彼は机下部の引き出しを引くと、小さなグラスをテーブルに置いた。ウィスキーの瓶を取り出し、指二本分注いだグラスをオーガストへ押し出す。
「一杯、飲んでいきなさい。私は水でしかつきあえませんが」
 水のボトルを乾杯のような仕種で持ち上げる医師を見つめて、オーガストは苦笑した。
「患者に酒をすすめるのか」
「医者ですからね。患者の痛みを軽減するのが仕事なんですよ」
 医師はあたたかな微笑を見せる。
「せめて、わずかだけでもね」
「‥‥‥」
 オーガストは苦笑いのまま首を振り、グラスに手をのばした。声が喉につまって言葉を口に出すことができないまま、飲み干す酒の味は、やけに苦い。

-END-