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書面にて届けられたそのメッセージを、幾度もくりかえして読む。文字が紙ににじむようにぼやけ、虫が這ったような意味のない形に見えてくるまで。だが目を凝らせば凝らすだけ、何度見ても同じ、何度読んでも同じことを文字はオーガストへ告げてくる。
それは軍からの、オーガストとの契約の終了を告げる書類だった。覚悟はしていた。チャンスを得ても、そのチャンスが自分に扉をひらいてくれるとは限らない。それは充分わかっている。
だが、オーガストが見ているのはその「理由」だった。軍からの通達らしく、それはひどくそっけなく。しかし簡潔に。
──健康上の懸念につき。
「カルテを渡したでしょう!」
声を荒げてつめよるオーガストに、医師は顔をしかめて両手を肘から上げた。
「私は、渡していない──」
「そんな筈はない!」
「私は、と言った、オーガスト」
ぴしりと鋭く張った声が戻ってきて、オーガストは立ちすくんだ。いつもおだやかな対応を取ってきた医師がそんな声を出すのも、彼をファーストネームで呼ぶのもはじめてのことだった。
頭から少し血が引きはじめると自分がどこにいるのかはっきり自覚して、ひどくきまりが悪くなる。病院の中央廊下、真ん中に植物が植えられ、ひろびろとして「廊下」と言うのもおかしいほどの空間。そこを歩く人々が足をとめてオーガストと医師を見ている。
言葉もテンションも途切れたオーガストを、医師が下から二本指で手招いた。
「説明するから、こちらへどうぞ」
「‥‥すみません」
歩き出す後ろ姿を追いながら、顔から火が出そうな思いであやまる。医師は先を見たままクスッと笑った。
「あれだけ大きな声を出しておいて、すぐあやまる人は珍しい」
「‥‥すみません」
「ほめたんですよ」
そうは思えないが、二人の間で緊張していた空気はほぐれた。医師の対応に感謝しながら、オーガストは小さなブリーフィングルームへと入った。患者や家族が説明を受けるための部屋で、室内にはゆっくりとしたクラシックが流れている。医師は壁際に並んだコーヒーメーカーの中からエスプレッソマシンを選んで白いデミタスカップに手際よくエスプレッソを作ると、オーガストの前に片方を置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
礼を言って、熱いコーヒーを吹く。こわごわ飲んでいると、医師が楕円のテーブルをはさんだ向かいに腰をおろした。
「カルテの話でしたね」
「‥‥はい」
オーガストはうなずく。不採用の原因となった「健康上の問題」に、電脳ノイズしか心当たりがない。研修採用の時に事故の診断書も出したし、メディカルチェックも受けた。その中に何一つ問題が見つからなかったから、働くことができたのだ。健康上の条件はすべてクリアしたはずだった。
今になっていきなり出てくる「健康上の問題」と言えば、思い当たるものはノイズだけだ。
医師はオーガストの説明を聞きながら軽く顔をしかめていたが、うなずいた。
「病院側が患者に非通知のまま、法的根拠なくカルテを引き渡すことはありません。この場合、軍が要請してきてもあなたのサインがなければカルテは渡さない」
「じゃあ、どうして──」
オーガストは医師の顔を見つめる。医師は肩をすくめた。
「保険会社ですよ。あなたの医療費のために保険を請求した。保険請求のデータベースは、公的機関には開示されているんです。軍はアクセスの権限がありますね」
「‥‥‥」
大きな溜息が出て、オーガストはテーブルに肘をつき、手で頭を支えた。
「‥‥どうにかなりませんか。健康上、働くのに問題はないと、病院から診断書を出してもらうとか」
「我々は、個人的な判断で所感をつけることはできません」
冷酷なことを言う相手をにらみつけたくなったが、オーガストはこらえてテーブルの板の表面を見つめた。波紋のようにゆらいだ木目の中心から、目玉のような模様の節がこちらを見ている。それと視線をあわせながら、彼は声を押し出した。
「医療的な問題ではないはずです」
「だったら医療保険はおりなかったでしょうね」
オーガストはテーブルの上にのせた拳を握りしめた。医師は淡々とつづける。
「あなたは、継続治療を行っている。そのことは事実でしょう。それに、軍は電脳上のトラブルは体のトラブルより重要視する傾向があります。情報洩れを恐れているんだと思いますが」
「‥‥電脳上のトラブルじゃ、ない筈だ。アウトプットモニタに出ない」
「原因がわからない以上、言い切ることはできないんですよ。お気の毒ですが」
本当にそう思っているような声だった。オーガストは大きな溜め息をつき、手の中にすっぽり収まるほどの小さなカップから苦いコーヒーを飲んだ。ほんの数口でカップは空になったが、つんと酸味を帯びた苦味が気分を少し落ち着かせた。捨て鉢になっていても仕方ない。どうにか治す方法があれば、もう一度チャンスをつかめるかもしれないのだ。だが、どうやって?
肌に視線を感じて顔を上げる。医師が腕組みをして、じっとオーガストの顔を見つめていた。
「今も聞こえていますか?」
「‥‥ええ」
「いつもより強く、ということはありませんか。たとえば、さっき病院に入ってきた時、強く聞こえたとか」
「いいえ」
オーガストはまばたきする。
「何でです?」
軽く首を振って答えない医師の顔を見つめていたが、オーガストははっとして身をのりだした。
「ほかにもノイズを残している患者がいるんですか? その人がさっき病院にいたんですか?」
「‥‥‥」
「あなたは、ノイズを残した患者の "ほとんど全員" が完治したと言っていた。答えて下さい。治ってないのは俺だけじゃない。ちがいますか?」
溜息をつくと、医師はテーブルのはじに置かれたフラットパネルを叩き、表面に浮かんだキィを押して何かを命じた。オーガストへ向き直る。
「ここから先の会話は記録されません。私の、きわめて個人的な見解です。医師としての意見表明ではない。それでも聞きますか?」
「話して下さい」
オーガストは背すじをのばして医師に正対し、身をのりだした。医師はうなずいた。
「私は、あなたは誰かとまだ共鳴しているのだと思う。それがノイズとなって脳に聞こえてくる。精神的な共鳴──感情共鳴、と言ってもいいかもしれない」
オーガストはほとんどきょとんとして医師を見つめた。
「俺は‥‥テレパスじゃない。それに、電脳は空間をつたわらない」
今回の事故の時に大勢を巻き込む電脳共鳴は起こったが、あれは、強烈な感情と狭い空間が生んだ一時的な現象だ。離れた個人が共鳴するという話は、聞いたことがない。無線じゃあるまいしと思う。
医師は少し考え込みながら、唇にはこんだカップからエスプレッソを一口飲んだ。
「昔の話ですがね。歯の治療をしたら、ラジオが聞こえるようになった人がいたそうですよ」
「ラジオ?」
「今のようにデジタル波ではなく、振幅変調されたアナログ電波に情報をのせていた頃の話です。受信側はアンテナの周波数を電波の周波数に合わせ、音を取り出す。その人は、治療で金属をかぶせた奥歯がどこかの周波数と合ってしまい、頭の中で常時、音が聞こえるようになった。あなたのノイズのようにね」
オーガストは腕組みする。
「俺の頭の中で聞こえてるのはどこかのディスクジョッキーがとばしてるジョークってことですか?」
「共鳴、の話ですよ。その人は奥歯が電波と共鳴し、音を聞くようになった。つまり、共鳴はESPではありません。これは一つの現象であって、特殊な能力ではない。何かが原因で周波数が合えば、充分に可能性のあることです」
「‥‥‥」
「事故の後遺症をかかえた患者の一人に、夢を見続けている人がいるんです。事故の記憶がねじれたように焼き付いてしまって、起きている時も眠っている時もそれを脳が再生している。催眠療法を施していますが、あまり好転しているとは言い難い」
「俺が‥‥その人の夢を受信していると?」
「受信、と言うのはおもしろい言い方ですね」
医師はかすかに口元をほころばせる。そもそもあんたがラジオの話をしたんじゃないかと思いながら、オーガストはさらに身を乗りだした。
「会わせて下さい」
「彼は、事故被害者の会合にも出たがらない。事故の記憶を誰かと共有したくないと言っています。関係者と会いたがらない。彼の保護者も、事故関係者に近づけないよう病院に配慮を求めています」
「じゃあ、何でこの話をしたんです」
医師は肩をすくめた。オーガストはその顔をにらむ。
「状況が好転しないから、俺と会わせれば何か起こるんじゃないかと思ってのことでしょう?」
「いいことが起こるとは限りませんけどね」
「だから、オフレコで俺に話した。病院の責任問題にならないように」
吐き捨てて、オーガストは立ち上がった。
「次は俺はどうすればいいんです? あなたが "うっかり" おっことした書類から相手の連絡先でものぞき見しますか?」
「君はおもしろいなぁ」
本心から楽しそうに呟かれて、オーガストの怒りがくじけた。拍子抜けして、同時にうんざりと頭を振ると、医師がにっこり笑った。どうもうまいことのせられている気がする。
「来週の火曜。午後四時。カウンセリング」
それが相手のスケジュールだとわかった。医師が、首をかしげてたずねる。
「空いてますか?」
「‥‥なんとか」
「よければ一階のコーヒールームで本でも読んでいてもらえませんか。私は彼に聞いてみます。コーヒーを飲む気分になるか、どうか」
オフレコでオーガストのことを話してみる、ということだろう。後は相手の判断にゆだねる気だ。二人が顔をあわせたとして、それはあくまで「偶然」であって、それ以上のものではない。
オーガストは顔をしかめた。やり方は気に入らなかったが、相手には会ってみたいと思う。迷っていると、医師が立ち上がって使い終わったカップを部屋のすみのトレイにのせ、ドアを開いた。
オーガストを振り向く。彼は真摯な表情をしていた。
「あなたにも、彼にも、治ってほしいんですよ。私はね」
「‥‥‥」
「もし、何か起こったら、ここに連絡して下さい」
薄いカードを手渡される。名前の下に個人のCOMの直通番号が入っていた。受け取って、オーガストは頭をさげ、医師が手で押さえたままのドアを抜けて廊下へ出た。