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彼は床の模様でも見ているようにうつむいて歩いていた。人の視線を避けているのか、もっとちがうものを避けているのか。その足取りはひどく淋しげで、子供のようにたよりない。
オーガストは待合室前の壁によりかかって、その様子を見ていた。受付ホールの逆側にはコーヒールームがある。アーロンはコーヒールームの方へちらっと顔を向けたようだったが、そのまま外へ続く玄関の方へと歩いていった。
息をつき、身を起こして、オーガストは歩き出す。大股にアーロンに追いつくと、なるべく驚かせないようにそっと呼んだ。
「アーロン」
「‥‥‥」
一瞬だけ足取りがゆるんだが、アーロンはそのまま病院を出ていく。オーガストは同じ足取りでそれを追って気圧差のある二重ドアを抜けた。
「話がしたい。君の話を聞きたい」
「‥‥ノイズ」
前を向いて門までの道を歩きながら、アーロンが小さな声で言った。
「大丈夫だった?」
「ああ。君は大丈夫か?」
「慣れた」
ぼそりと呟く。まだオーガストを見ようとしない彼に肩をならべ、オーガストは不自然にこわばった横顔に視線を投げてたずねた。
「あれが、共鳴か?」
「‥‥俺にはわからない」
「いつもあんなものを見てるのか」
「‥‥‥」
物憂げにうなずき、足元を向くとアーロンは投げやりな動作で小石を蹴った。かすれた音が路面に鳴って、小さな石がころがる。彼は疲れているようだった。
「アーロン」
オーガストが数度呼ぶと、面倒そうに視線を向けた。はじめに会った時と随分調子がちがうじゃないかと思って、オーガストは内心おかしくなる。だが、くたびれきっている様子の彼が不憫でもあった。あんな悲鳴をずっと聞かされているのだろうか。人が追いつめられた瞬間のパニックの声には狂気の響きすらにじんで、聞く者の神経を削ぐ。自分だったら、数日も耐えられるとは思えなかった。
「電脳を切るわけにはいかないのか? そうすればアレはとまるんじゃないか?」
「俺は感覚器官から入る信号の40パーセントを電脳で解析してる。切ると、まともにまっすぐ歩くのも難しいよ」
「‥‥すまん」
「君のせいじゃない」
アーロンは力なく首を振った。
「今でも電脳仮想神経中枢系システムを入れている人間のうち3割は、病気の治療用だ。俺も、自分で見ている子供たちと同じように、小さな時から電脳手術をくりかえしてきたんだよ。だから子供のコーディネートの仕事ができるんだ」
肩を並べてほっそりした横顔を見ながら、オーガストは何か言おうとしたが、結局口をつぐんだ。同情の言葉など聞き慣れているだろうし、アーロンはそういうものを聞きたがっているようには思えなかった。ひ弱な外見と異り、彼の中に強いプライドの芯があるのを、オーガストは二度の顔合わせで感じとっていた。
病院の門を救急のバンが抜けてくる。サイレンを引きながら奥へ走っていく車を一段高い歩道で立ち止まって見送り、アーロンは黙っていたが、やがてオーガストの顔を見た。顔色が悪かった。何か聞こえているのだろうかと、オーガストは思う。事故の瞬間を彼は聞き続けているのだろうか。
「話は、ない。君には悪いと思う、オーガスト。でもきっとノイズはそのうち消える。ほかの人の後遺症と同じように」
硬い声でつぶやくアーロンを見ていたが、オーガストは一歩近づいて距離をつめ、細い体に腕を回して抱いた。腕の中の体が驚きのあまり硬直するのを、かまわず抱きしめる。
「‥‥やっぱり」
腕を回したまま、体だけを少し離し、オーガストはアーロンを見下ろした。彼は長身なので、頭半分以上アーロンを見下ろす状態になる。
「ノイズがとまる。静かだ。君は?」
「‥‥‥」
アーロンが力なくもがいたが、オーガストの腕は彼を離さなかった。見舞客らしい通行人が迷惑そうに二人を避けていくのもまったくかまわない。ノイズが消えている。常に頭の芯に居座って低くうなっていた音が消えてみると、世界はひどく安らかで静かだった。
「静かだろ?」
たずねる。アーロンの体は抵抗を失ってオーガストの腕に支えられるままに、それでも彼はまだ何か言おうとしていたが、やがてこっくりとうなずいた。目に光る涙をこらえて、彼はかすれた声を出す。
「静かだ‥‥」
「悲鳴も聞こえない?」
抱き寄せると素直にオーガストにもたれてくる、その体には力がなかった。疲れ切っているのがわかった。オーガストはアーロンの体に腕を回したまま、下を向いてこらえるようにじっと唇を結んでいるアーロンの顔を見ていた。
アーロンがもぞもぞと体を動かす。オーガストの腕をつかんで、離れようとしない。そんな自分自身に当惑しているようだった。
「何か、コレ‥‥変だよね?」
「そうだな」
オーガストはうなずく。
「どう、しよう‥‥」
「どうしようか」
「‥‥‥」
またもぞもぞと動く。道端で抱きあっている状況に気付いてきたアーロンはひどくばつが悪そうに、回りを見回した。
「あのさ。オーガスト‥‥」
「ん」
生返事をしながらオーガストは腕をほどき、だが身は離さず、アーロンの肩に腕を回してみた。体勢としてはまだ充分あやしいが、道端で抱きあっているよりは幾分かマシだ。
「これくらいだとまだ大丈夫だな。‥‥距離に反比例してるのかな」
まだ居心地悪そうに顔を伏せたアーロンは、それでもオーガストの手を振りほどこうとはしなかった。オーガストは軽く手のひらにこめた力を合図にして、いっしょに歩き出す。
「とにかく二人で話がしたい。俺の部屋でよければ、バスで30分くらいかかるけど」
アーロンはためらった。強引に聞こえたかと思ったが、彼の返答はオーガストの予期したものとはちがっていた。
「俺の泊まってるホテルの方が近い。そっちは?」
驚きを隠してオーガストがうなずくと、アーロンは口の中で何か一言二言呟き、少し足取りを早めた。