数度、離れてみたが、やはりそのたびにノイズが戻ってくる。はじめにアーロンにふれた時のような激しい共鳴の反応は一度もなく、ただ互いに身を寄せればそこには平和な静寂があった。
 それにしても困った状況だった。ソファに隣同士に座りながら、オーガストはすぐ横に座るアーロンの様子をうかがったが、緊張しているのか肩に固い力が残っていた。
「別に何もしないぞ」
 冗談めかして言ってみるが、アーロンの視線はうろたえたように室内を回っただけだった。二人が座っている青いゴブラン地の貝殻型のソファが一脚。テーブルは美しく磨かれた寄せ木で、ゆったりした部屋の壁はあたたかな薄朱のまじった煉瓦調だった。照明は互いの表情をはっきり見るには少しだけ暗い。
「いいところに泊まってるんだな」
「ここに住んでるんだ」
 一瞬言葉を失ったオーガストの顔を見て、アーロンはつけくわえた。
「長期滞在のプランだと、ヘタにどっかに部屋を借りるより安いんだよ。掃除もクリーニングもしてもらえるし。俺、掃除と洗濯、すごく苦手なんだ」
「‥‥あんた、金持ちなんじゃないか?」
「そう‥‥でもないと、思うけど。あまりほかに金を使わない生活をしてるし」
 住んでいると言うにしては、ひどく生活感にとぼしい部屋だった。マルチディスプレイがダイニングボードの上に置いてあるほかに、アーロンの持ち物に見えるものはほとんどない。それは、アーロン自身の存在感の薄さとどこか通じるものがあって、どうしてかオーガストは胸の奥がしんとした。
「何か飲むもの頼もうか」
 そうつぶやいて立ち上がりかけたアーロンの腕を、オーガストが引きとめた。アーロンは困った顔をしたが、引かれるとそれ以上は逆らわず、ソファに戻ってオーガストによりかかり、絨毯を見つめた。
 オーガストはその顔を見つめながら、おだやかに聞いた。
「アーロン。事故の日、俺のすぐそばにいたんじゃないのか?」
「‥‥‥」
「俺、あの時の記憶がほとんどないんだ。こんなことを聞くのはおかしいかもしれないが‥‥」
 灰色の目がまばたきもせずにオーガストの視線を受けとめる。そのまなざしは確かにオーガストの記憶の奥の何かを揺り動かす。ないはずの記憶を。
 オーガストはゆっくりとたずねた。
「君が、俺の記憶を持っているんじゃないか?」
「‥‥‥」
「この間、君にふれた時に事故の‥‥瞬間を見た。あれは、俺の記憶なんじゃないか?」
 一週間以上考えて、オーガストにはそれしか思いつかなかった。アーロンにふれた時に感じた記憶が「自分のものだ」という確信がどこから出たのか、自分自身でもよくわからないが、たとえば電脳を通じて他人の「視覚」を借りて見た風景はどこか身にしっくりとなじまなず、自分の目で見たものとは空気の色が異って見える。それと逆に、その事故の記憶がまとう空気の色はオーガストが見る世界と同じ色をしていた。オーガストの肌になじむ記憶だった。
 アーロンはひどく暗い顔をして、色の薄い唇を噛んで絨毯を見つめている。青ざめて、苦しそうだった。オーガストは右腕を彼の細い体に回し、片腕だけで軽く抱きしめた。
「アーロン。俺はただ、何があったか知りたいだけなんだ。それがわかれば、俺のノイズと君の夢をとめる方法がわかるかもしれない。あの日、俺の隣にいた?」
「‥‥‥」
 大きな溜息をついて、アーロンの肩が落ちた。
「オーガスト。ほんとに‥‥大丈夫だよ。一月待てば、ノイズはとまる」
「何で」
「手術をする」
 それだけですべての説明がつくように言葉を切ったが、オーガストがじっと顔を見ていると、アーロンはもう一度溜息をついた。
「頭蓋内に神経膿疱が生じてて‥‥電脳を取る」
「君は──電脳を取っても平気なのか? 身体制御を──」
 電脳にゆだねていると、アーロンは言った。なら電脳を取ることは彼の肉体へのコントロールを失うことに等しくはないのだろうか。
 声を途切らせてその先の言葉を探し、どうにかこの場にふさわしいことを言おうとするオーガストに、アーロンは薄い笑みを見せた。
「一時的には、コントロールを失う。その後、非接触端子を使った外部電脳で制御する方法でリハビリしていく予定だ。こんなふうに身一つで出歩けなくはなるかもしれないけど、生活には困らない」
「‥‥膿疱の原因は?」
「アレルギー。二十年以上も電脳を入れてて、今さらおかしいけど。後から発症することもあるんだそうだ」
 明るい声は作ったものだとわかる。肩がこわばり、顔色はかわいたように白い。アーロンが見せかけようとしているほど簡単な手術ではないのだと、オーガストは悟った。
 アーロンが空虚な明るさをとりつくろった声で続けている。
「だから、いいんだ。悪いけど、もう少し我慢してくれれば。治るから。こんなことになっちゃって、ほんとに悪いとは思ってるけど──」
「悪い? 何で、君が?」
「だって‥‥」
 たじろぎをあらわにして、ひどく暗いものが目の奥をよぎった。
「オーガストは俺と共鳴して、そのノイズを聞いてる」
「別に君のせいじゃないだろ」
「‥‥俺のせいだよ」
「何で」
 動揺が尾を引いていたせいでぶっきらぼうな問いかけになって、オーガストの語尾はきつかった。アーロンは目を伏せる。表情を殺していたが、オーガストが顔を近づけてのぞきこんだ眸は少し泣きそうだった。
「あの日‥‥俺が、オーガストの隣にいたのは、偶然じゃない。多分、共鳴してしまったのも」
「‥‥‥」
 目をほそめてオーガストが見つめていると、アーロンがうつむいた。うろたえ、感情を押し込めた様子の彼を見つめていたが、オーガストは体を傾け、左手でアーロンの顔をあげさせると、唇を重ねた。
 軽いキス。唇にほんの少しの愛撫を残してから顔を離すと、アーロンは目を大きくみひらいたまま呆然とオーガストを凝視していた。オーガストは喉の奥で笑う。
「先にキスしたのは、君だ」
「‥‥いや、あれは‥‥その──」
 しどろもどろに何かを言おうとする顔にさっと赤みがはしり、アーロンは唇を噛んで下を向こうとしたが、オーガストは指であごを上げさせた。目をあわせる。
「俺を知ってた? 前から?」
「‥‥‥」
 あきらめたように、アーロンは小さくうなずいた。目をそらそうとするのだが、さまよった視線はちらちらとオーガストに戻ってくる。
「それで隣にいた?」
「‥‥わかってるだろ」
 かすれた声だった。オーガストの指先がふれたアーロンの肌は熱く、その下で早い鼓動が脈打っていた。オーガストは顔を寄せると額をあわせ、アーロンの肩に両肘をのせて頭をかるく抱いた。ノイズの失せた世界はひどく静かで、アーロンの鼓動の音が肌から聞こえてくるような気がする。
「どこかで会ったことがあったっけ」
「やっぱり覚えてない」
 クスッと笑って、アーロンは少し明るい声になった。
「君、友達につきそってサルヴァーニの会に来たことがあっただろ」
「ああ」
 少し驚いて、オーガストは顔をあげた。ジョシュにそんなような名前のセラピーにつきあわされた記憶はあった。セラピーと言ってもほとんど雑談のような会合で、肉体制御のために電脳を入れている人々が顔を合わせ、情報交換や交流をする場だ。
 あまり興味があるとは言い難かったし、そういうところに部外者が入り込むことにためらいはあったのだが、そこに来る友人にオーガストを紹介したいとジョシュが言い張るものだからついていく羽目になった。会自体はなごやかなもので、数人と世間話をした程度の記憶しかない。
「もう半年以上前だ」
「うん。あそこに俺もいて‥‥運営の手伝いをしてたんだけど。君の、その‥‥恋人と、話をした。君が、彼と‥‥ちょっと、特殊な‥‥」
 言いづらそうに言葉を途切らせた、その頬の朱がますます濃くなって、オーガストは話の流れに少しばかり面食らいながらも消えかかった語尾をすくった。
「特殊なセックスをしてるって?」
「‥‥うん」
 身をちぢめるようにして、うなずいた。頬だけでなく顔全体が赤くなっている。
「俺、すごく感心したんだ。君が彼と──きちんと、向きあってるってことにね。なかなかそういうふうに、優しくしてくれる恋人はいない。彼だって、ずっと、自分の感覚にはポルノをつないで人とセックスしてたと言ってた。毎回、ちゃんと向きあってくれるのは君だけだって」
「‥‥‥」
 そのことは、知らなかった。知らなくてよかったとオーガストは思う。自分を追ってきたジョシュの瞳の色がちらりと頭のすみをかすめた。心を刺す痛みは遠かったが、するどいものだった。
「それで、君の顔を覚えていた。ずっと、話がしてみたいと思ってたんだ。Gスパイラルに乗っている君を見つけたのが、事故の20日くらい前」
 表情に驚きを出したオーガストに、アーロンは小さくうなずいて身を離そうとしたが、オーガストが腕をほどかない。あきらめた様子でその体勢のまま続けた。
「あの日が三度目。話をしてみたいと思ったけど、君とは挨拶した程度だったから俺を覚えていないだろうと思ったし、車内で話しかけるには変な話題だし。それで‥‥君を、見てた」
 まるで一世一代の告白のように切羽つまった顔で、アーロンがつぶやく。オーガストは細い息を長く吐き出した。
 話題が話題でなくとも、神経質で脆いところのあるアーロンが、自分を覚えていない相手にいきなり話しかけられるとは思えない。それでも勇気をふりしぼって、事故の時、もしかしたらアーロンは声をかけようとしてオーガストのそばに来ていたのではないかと思った。
「事故がおこった時、パニックで車内に強い共鳴が生じて、俺もそれに巻き込まれたんだ。その時に君とリンクしたのを感じた。君は事故のショックでひどく混乱してたから、落ち着かせようと思って、いつも子供の電脳ノイズを吸い上げていたのと同じ感覚で、君のその感情を吸い上げた。でもそれがあんまり強烈で、俺は意識をなくして‥‥気が付いたら病院だった。それからずっと、記憶がとまらない」
「‥‥‥」
「君と俺の共鳴が続いてるのも、君に事故の瞬間の記憶がないのも、多分あのせいだよ」
「なる、ほど」
 つぶやいて、オーガストは情報と感情がもつれた頭の中を整理しながら、少し顔をしかめた。その表情を誤解したのか、アーロンがひどくうろたえたまなざしを揺らし、離れようとした。それを抱き戻しながら、耳元に囁く。
「いい。離れないで」
「だって、オーガスト‥‥」
「少し黙ってろ」
 腕の中でなおもがく体を抱きしめ、今度は強引に唇を重ねた。かすかに開いた歯の間に舌をねじりこむように、アーロンの舌をとらえる。熱い舌を絡められた瞬間に、アーロンの全身が硬直した。慣れていない。男と寝たことがあるタイプには見えなかったが、それを抜きにしても彼の反応はひどく初々しく、オーガストはくらりと頭の芯が揺れるのを感じた。動きのない舌を弄んでから、熱く潤った口の中をすみずみまで舌でなぶる。互いの唾液が粘い音をたてるほどにキスを深めると、アーロンの体が骨を失ったように崩れてオーガストに全身を預けた。両腕がオーガストの背にすがりつく。
 アーロンの背骨をシャツの上からなぞりあげると、体にびくりと反応があった。濡れた唇にもう一度キスを与えてから、オーガストはアーロンの首すじに息を這わせる。
「オーガスト。だめだ、君は、恋人が──」
「別れた」
「何で!」
 仰天した声を出したアーロンがおかしくて、オーガストは小さな笑い声をたてた。
「他人なんだから、つきあうこともあれば、別れることもある」
「そんな‥‥だって‥‥」
 もう一度唇をふさぐ。たじろいだが、舌で誘うとアーロンはたどたどしく口を開き、オーガストのキスを求めた。オーガストの左手がアーロンの体のラインをたしかめるように下り、腰骨をさすってコーデュロイパンツの前へ回った。服の上からまさぐると、アーロンの股間は確かな固さを帯びていて、喉の奥から呻きがこぼれた。
 ふれると共鳴がとまるのは何故だろう、とオーガストは思う。いびつなノイズが鎮まって、二人でこうしてふれあっていることがひどく自然なことに思える。それともまだ彼らを共鳴が結びつけているのだろうか。正しい音の重なりが美しい和音を出すように、この静寂そのものが、美しくバランスを保たれた共鳴なのだろうか。
 もっと深く、アーロンがほしいと思う。ふれているだけよりはキス、キスだけよりは肌をふれあわせてみたい。そう思いながら、オーガストは答えを求めてアーロンの目をのぞきこんだ。これは恋ではない。それはわかっていたが、だからと言って単に自分の体の欲望をアーロンの体に求めているだけでもなかった。
「アーロン」
 名を囁くと、アーロンはびくりと体をふるわせ、無言のままオーガストを見上げた。ソファの背もたれにくずれた体は荒い息に揺らいでいる。唇はキスに赤らんで濡れていた。目には怯えと欲情の両方の光がともり、まなざしはオーガストの動きをすがるように追っていた。
 オーガストは身を傾け、彼の額にキスをする。頬を優しくなでるとアーロンは自分から顔をあげてオーガストの唇を求めた。
 オーガストは両手でアーロンのベルトを外し、引き抜いて床に落とした。ズボンの前をひらいて下着の上から存在感を持つものにふれると、アーロンがどうしたらいいかわからないような声をあげた。
「やっ、オーガスト──」
「いやなら、やめるけど」
 囁くとひどくうろたえた顔をする。その唇をもう一度深いキスでむさぼりながら、布ごしのペニスを指で擦りあげた。形をなぞるように撫でると、指にひくりとした震えがつたわる。下着の前をひきおろし、中に手を入れて熱い牡をじかに握った。
 アーロンの背中が反る。オーガストの一挙一動に反応するのが可愛らしい。勃起したペニスをしごき上げるとさらに硬さが増した。くびれに指を回し、ぬめりがにじみ出す先端をなぞる。長いキスからアーロンを解放すると、オーガストは荒い息をつく彼の前に膝をついた。考える余裕を与えずにぐいと足をひらかせて、アーロンの股間に顔を伏せ、熱いそれを口の中へ含んだ。
「ひゃっ!」
 うわずった驚きの声をこぼして、アーロンが足をとじようとしたが、オーガストが間にいては今さら無理だ。オーガストは舌でペニスの形をなぞり、唾液の音をからめながら深く呑んだ。アーロンのかすれた呼吸は全力疾走でもしたかのように早い。オーガストの口の中に苦みのある滴りがあふれ、ペニスが硬くはりつめた。
 先端を含んで強く吸うと、悲鳴のような声がこぼれ、オーガストの口の中に熱い吐精があふれ出した。勢いのあるそれを受けとめ、飲み下して、オーガストは顔をあげた。
 アーロンは口元を手で覆い、汗ばんだ顔で茫然と宙を見つめている。唇がふるえて荒い息を吐き出し、あられもなく足をひろげたまま、のろのろとオーガストを見た。
 下着を戻してズボンの前をひとまずとりつくろってやり、オーガストはソファに戻る。アーロンの額に落ちた髪を指先でゆっくりとかきあげ、熱をもった肌を感じながらたずねた。
「俺と話してみたかった? それとも、こんなことをしてみたかった?」
「‥‥わからないよ」
 頬を紅潮させて、アーロンは子供のように首を振る。意を決したようにオーガストの腰のあたりへこわばった視線をやった。
「俺もしたほうがいい?」
 オーガストが小さく笑う。体をかぶせて、アーロンを抱きしめ、汗の香りがする首のつけねへ唇を押し当てた。
「したことないだろ」
「‥‥ない。わかる?」
「そりゃわかる。男と寝たことないだろ?」
「どうして、わかる」
「キスすると、顔に書いてある。こんなことを男とするのははじめてでビックリしている、って」
「‥‥女の子としたこともないよ」
 低い、かすれた声でアーロンがつぶやく、その声の底にオーガストははっきりとした欲情を感じ取る。肌からたちのぼる汗の匂いのように、それはあからさまなサイン。首すじを舌の先でなぞった。
「また、どうして」
「だって‥‥人にさわるのって、怖い」
「俺も?」
 そうたずねると、首を振りながらオーガストの背中へ腕を回し、強く引き寄せた。二人の間で服が引きつれて布がこすれる音が耳障りだった。邪魔だな、と思いながらそれでも身を寄せているのが心地よく、オーガストは引かれるままにアーロンに体をかぶせ、互いの息と熱がまじりあうのを愉しんだ。ゆっくりとアーロンの全身から力が抜け、服の上からの優しい愛撫に体をひらきはじめる。熱に溶けるように、二人は長いキスをかわしつづけた。