[NOVEL] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
白く濁った視界にぼんやりと染みが浮いた。それが次第に物の輪郭を取り、大きくなってくる。目をしばたたいた。焦点があわない。
「あなたの電脳は非接触状態にしてあります。断線はしていませんが一時的に接続ハブをオフにしてありますので、ご了承下さい」
おだやかな男の声。聞き覚えはない。
「なん‥‥で‥‥」
自分のものだと思った声は不自然にかすれて小さく、これも聞き覚えがない。
「共鳴をおこしたんですよ。何人かは電脳がオーバードライブして、生脳にまで損傷を受けてしまった。あなたは運がよかった」
少しずつ目の焦点がクリアになってくる。目の前にある影が男の姿であること、白衣をまとっていること、自分が見下ろされていることに気付いた。ベッドに横たわっているような感触がある。背中が自分の体重で布地に沈み込んでいるのを感じ、体の存在をあらためて感じた。
医師が話しかけてくるということは、自分の意識が覚醒している──少なくとも、センサーにはそう出ている──筈だったが、世界はまだとりとめなく遠い。
「おぼえていますか?」
「‥‥何を」
「事故ですよ。Gスパイラルが脱線した。車体が規定軌道を外れて暴走し、外殻に叩きつけられたんです。あなたは乗客の一人だった。ハルカンセンターへのチケットを買っていた。自分の名前はわかりますか?」
全身が重い。世界がまた遠ざかる。
「名前は? 名前を言ってください」
まぶたが下がってきて、視界をとざす。眠りが全身をとらえて引きずり込むのを感じながら、彼はつぶやいた。
「‥‥オーガスト‥‥」
遠い向こうから、ノイズが波の音のように寄せてくる。渦巻く音。声を聞こうとしても何も聞こえない。ノイズの中に意識が埋没した。
病院から出ると、車止めに停めた車の中からジョシュが手を振った。オーガストも手を振り返して、歩み寄る。ジョシュは車から降りてオーガストが左手に下げていたボストンバッグを受け取り、後部座席に放り込み、おどけた仕種で助手席のドアを開けた。
「どうぞお乗り下さい、旦那様」
助手席のシートにころがっている空のコーヒー容器を取り上げて、オーガストは眉を上げる。
「掃除をやりなおして出直してこい」
「その汚いケツをさっさと車につっこめって言ってんだよ、病み上がり」
二人は、顔を合わせて笑い出した。ジョシュはリサイクル容器をオーガストの手から受け取りながら、オーガストの唇に軽く唇をあわせる。
「退院おめでとう」
囁く。腰に手を回そうとするオーガストの手の甲をひっぱたいて車に押し込み、彼は陽気な足取りで運転席に回った。オーガストは車のシートを後ろに倒してもたれ、恋人が車を手際よく発進させる仕種をぼんやり見ていた。
「大学はどうした」
「休講」
「嘘をつけ。俺は、車はペイニーに頼んだ──」
「おかげで、俺は恋人の退院する日も知らない馬鹿ということになっちまった」
前を向いたまま唇をとがらせるジョシュを見て、オーガストはまばたきした。陽気さで覆われていたが、ジョシュの声には苦いものがあった。
「すまん。戻ってから連絡するつもりだった」
「いいさ。それに、本当に今日は行かなくてもいいんだ。後で講義内容が配布されるから接続して読める。最近、うちの大学もそういうの、はじめたんだよ」
左手で首の後ろをさして、ジョシュは微笑して見せた。オーガストはぐるりと目を回す。
「記憶は、アナログの刺激の方がより有効な形でたくわえられるんだぞ。電脳データは脳内の記憶を連想励起させる能力が低く、結果としてうまく脳内で連動して働かない」
「うん。だから、圧縮では入れない。講義を時間分再生するだけだよ。ホログラムで授業受けるのと同じさ。大学ではこれが有効なやりかたなのかどうか、サンプル取ってるんだ。俺もモニターの一人。だからこれは充分、学生としてのお仕事」
割り込みの信号が車載のパネルに光った。OKをクリックし、ジョシュは前に割り込む車を眺めていたが、自分の車が道路の誘導電波にのったのを確認するとハンドルレバーから手を離してオーガストに向き直った。
「大丈夫? 気分、悪くない?」
「‥‥どうして?」
オーガストは首をかしげてジョシュを見る。根元から軽く赤みをつけた金髪を額から払って、学生は肩をすくめた。
「何か、心ここにあらずって感じ」
「ま、久々の下界だからな」
軽口のように言ってみたが、二つ年下の恋人はユーモアに反応しなかった。ココア色の目でじっとオーガストを見る。出会った去年はもっと子供っぽい顔をしていたような気がすると、オーガストはぼんやり思った。溌剌として、口が悪くて。10才までほとんどサポートチェアに寝たままの生活を送っていたようには、とても見えない。子供のようだと、あの時は思った。
だが去年はおろか、入院していた一ヶ月で、ジョシュは随分と大人びたように見えた。
顔を近づけて、目をのぞかれた。キスでもするかと思ったが、そうではない。オーガストの顔にはられた皮膚と同じ色のテープに指先で軽くふれた。額にふたつ、頬にひとつ、顎にひとつ。深い傷に人工細胞を入れ、皮膚移植で覆った。完治にはまだかかる。
「痛くない?」
「最近はね」
「まだ‥‥事故の記憶、ないの?」
「ああ。医者も記憶回復目的のカウンセリングはこれ以上しないほうがいいだろうと言っていた。ストレス反応でもないらしいし、思い出せないならそれでいいそうだ」
「でも‥‥」
長い睫毛をふせるジョシュの頬にキスして、オーガストは彼の金髪をなでた。腕を回して引き寄せると、ジョシュは肩からオーガストの胸にもたれる。唇へのやわらかなキスに応えて口をひらいた。
唇の内側で互いの舌が絡みあう。いつもと同じ、深いがおだやかなキス。濡れた舌をゆっくりと絡ませ、互いの呼吸を呑んで、二人は静かに体を離した。
ジョシュが頬から髪を払い、少し赤らんだ顔で前を向いてハンドルレバーを握る。オーガストは微笑してその顔を見ていたが、ふいに強い眠気を感じて、あくびの口元を隠した。
「寝てていいよ」
前を向いたまま、ジョシュが言う。オーガストはゆっくりと頭を揺らした。
「すまん。アギーナのショッピングモールに寄って、起こしてくれ」
「何かいるなら買ってくるよ?」
「スーツ。スリーサイズを教えるから買ってきてくれるか?」
嘘でからかわれてると思ったか、さっとジョシュがオーガストの顔を見た。オーガストはヘッドレストに頭を沈めながら口のはじをあげる。
「面接」
「軍の? 嘘、書類通ったの? あの論文で?」
「嘘とは何だ、失礼な」
オーガストが眉をしかめると、ジョシュは満面の笑顔を見せた。
「おめでと」
「‥‥まだ面接だっつの」
そうは言ったが、満更でもない。事故には遭うわ、記憶はとぶわ、大事故の被害者ということでわけのわからない取材から当局の事情聴取まで受けさせられたこの一ヶ月。軍のプロジェクトのスタッフ採用面接の通知が来たと大学の研究棟から連絡をもらって、オーガストは何となく「帳尻合わせ」という言葉を思い浮かべたのだった。何がどう帳尻が合っているのかは、わからない。幸い、退院してから面接ということでどうにか話もつけてもらえた。
「南ギルデンの緑化計画だったよな。凄いな。受かったら奨学金全部払ってもらえるんだろ?」
「俺が金目当てみたいな言い方をするな」
「え、ちがったのかよ」
くすくすと喉で笑うジョシュの脇腹をつつくと、笑い声は可愛らしい悲鳴にかわった。くすぐったがりの恋人は、ベッドの中でもこの性癖でオーガストを困らせる。
必死にオーガストの手を払いのけ、悪態をひとしきりついてから、ハンドルレバーにしがみついたジョシュはオーガストに微笑を向けた。
「格好いいスーツ買おうな。白い靴と蝶ネクタイも。帽子もいる?」
「阿呆」
目をとじたオーガストの耳にやわらかい声がきこえた。
「おやすみ、オーガスト」
その声を覆うようにノイズがしのびよってくる。それを聞かないようにしながら、オーガストはだるい全身を眠りにゆだねた。
ジョシュの細い体は汗ばみ、肌は赤らんで、荒い息に胸が上下する。欲情に硬くとがった乳首はピンク色に色づき、投げ出された体はひどく扇情的だった。拗ねたように呻く。
「病み上がりのくせに‥‥」
「一月もご無沙汰だぞ?」
肌を重ね、首すじを吸うとジョシュが甘い息をこぼした。ゆっくりと、オーガストはジョシュの体を愛撫し、胸に舌を這わせ、腹部を舐め──ジョシュはくすくす笑いながらオーガストの髪をかき乱した──脚をひらかせた。その間に体をかがめ、淡い色の茂みにふれてジョシュのペニスを手の中へ握りこむ。
「オーガスト」
ジョシュが小さな声でつぶやいて、乱れたシーツからオーガストを見た。オーガストは微笑すると、手の中で萎えているものに口をかぶせ、舌を絡めはじめた。ぐったりとして力のないペニスをやわらかく吸うが、それには反応がない。ジョシュがまたつぶやいた。
「いいよ。‥‥恥ずかしい」
「何で」
「だって──」
声が途切れ、ジョシュは顔を右手で覆った。オーガストはしばらく顔を伏せ、ペニスを含んで愛撫をつづけてから、身を起こした。ひらいたまま投げ出された太腿を、汗ばんだ手のひらでなでる。
「可愛いよ、ジョシュ」
ジョシュの顔が真っ赤になった。オーガストを見上げて口をとがらせる。
「つないで」
「そうがっつくな」
欲情に潤んだ目でにらまれて、オーガストは微笑した。ベッドの頭側の引き出しを開け、ジェルのチューブを引っ張り出す。その首にジョシュの手がからみ、引き寄せられて、下から熱っぽくキスをねだられた。唇をかぶせ、入り込んでくる舌に応じながら、オーガストは片手でチューブの蓋を開けた。キスを続けながらぎこちない片手でジェルを出そうとしてみるが、うまくいかずに体を起こす。首にからむ腕を逆の手でほどいた。
「ほら、いい子にしてろ」
「すぐそういうコトを言うぅ‥‥」
ねだる唇が可愛らしくて、オーガストはクスクス笑いながらジェルをたっぷりと指に出した。手のひらであたためたジェルをもう一度指先に取る。ジョシュの膝を折らせ、足を大きく開かせると、ジョシュはオーガストと逆側に顔をそむけた。手でシーツをかき集めるようにして、溜まった襞に顔を押し付ける。
知りあって一年と数ヶ月、体を重ねるようになってからは10ヶ月ほどだが、ジョシュはまだ何もかもをさらけだすのが恥ずかしいらしい。だが彼が快楽に弱いのも、それを求めているのも、よく知っている。脚の間に手をのばし、オーガストは窄みの外側にたっぷりとジェルを塗り付けて、マッサージするように撫でた。はじめはゆるく、次には少し強く。
ジョシュがシーツの襞の中に息を吐き出し、体の力を抜いていく。オーガストはしばらく外襞をさすっていたが、ジョシュの右の足首を肩にかけ、さらに大きく脚をひらかせた。窄みは刺激に反応し、オーガストの指がふれるたびにひくついて、ジョシュの肌のほかの部分と同じようにかすかに赤らんでいた。ジェルをふたたび指につけ、オーガストは指をジョシュの内側へしのばせる。
肩にかかったジョシュの脚に力がこもった。締めつけてくる襞に必要以上の力を与えないように、慎重に、奥まで入れる。この恋人はラフなセックスを怖がる。丁寧に、粘膜を傷つけないよう、優しく指を引いた。もう一度、さするように指で中を押し開いていく。この狭い場所が勃起した自分のものを受け入れるということが、いつもながらに少し驚きだった。熱い内側にきつく締めつけられる快感を思うとすぐにでも挿入してしまいたくなるが、どうにかこらえて、ジョシュの反応を見ながら指をふやした。
「ん‥‥」
奥までさし入れた指の腹が敏感な場所をかすめ、ジョシュが少し顔をしかめた。内側がひくりとうごめいて、オーガストの指を締めつける。ほしがりはじめる体のサインに応えて、オーガストは奥襞をこねるように指を動かした。
ジョシュの唇から呻きがこぼれる。ジョシュはやっと最近、ここで快楽を感じることを覚えてきた。それは体より頭で、なのかもしれない。先にやってくる快感を体が勝手に想像して昂ぶりはじめている。オーガストを見つめてねだった。
「も‥‥つないで、オーガスト‥‥」
「イキたいか?」
「イキたい」
うなずくその目は物欲しそうにきらきらと光って、頬には紅潮が浮いている。もう一度ねだった。
「つないで、入れて。ね?」
あきらかに快感の表情を見せながらも、ジョシュのペニスはだらりと萎えたまま、半ば茂みに隠れている。彼のそれは勃起しないだけでなく、成人男性のものにしては未発達だった。ジョシュは子供の頃の事故で腰椎の神経が断裂をおこし、10になるまでサポートチェアから立ち上がったこともないと言う。今は電脳からのアウトプットで下半身の動きをサポートしていたが、一部の身体的発達は阻害されたままで、ペニスは勃起能力がない。その部分の感覚はゼロではないが、外部からの刺激だけでは強い快感は生じないらしかった。
オーガストは熱いジョシュの体から指を抜き、タオルでジェルを拭うと、ベッドサイドのテーブルに置かれたコンバーターから二本の細いファイバーコードを引きだした。ジョシュがもどかしく身を起こし、その片方を受けとると先端のコネクタを首の後ろにさしいれる。彼は古いタイプの電脳手術を受けているので、キャップのかかった接続子が首の後ろにつねに見えていた。オーガストは首の後ろの皮膚にふれ、人工皮膚のスリットをひらくと、その下のコネクタへ線をつないだ。
コンバータのパネルを横目に見ながら、正常な接触が開始されたのを確認する。オーガストの感覚に変化はないが、明らかにジョシュの表情が変わる。欲情に潤んだ目の焦点が浮き、唇がひらいて低い呻きが洩れた。ベッドに座ったオーガストにすがりつく腕をのばし、熱い息を吐きながら、また声をこぼした。
オーガストの欲望を感じている。オーガストのペニスが痛いほどはりつめ、ジョシュを求めているのを自分の欲望のように感じているはずだった。接続は一方的なものなので、オーガストの感覚には変化がない。
ジョシュがベッドに起き上がり、オーガストの足の間に膝をついて彼のペニスを口にくわえた。舌をからめ、唾液をこぼしながら頭を上下に動かし、ぴちゃぴちゃと粘っこい音をたてる。熱い口の中で吸われて、オーガストは腰から沸き上がる快感に呻いた。その強烈な快感はそのままジョシュにもフィードバックされているはずで、かがみ込んだ彼の首すじがびくりとふるえ、含んだ先端を舌でねぶりながら、ジョシュは喉の奥で法悦の呻きをこぼした。自分の体では得られない快感を、オーガストの体を使って得ている。
「ジョシュ」
名を呼んでも反応がなく、熱いペニスをくわえて顔をあげない。ジョシュの髪をつかんで、オーガストは頭をあげさせた。ジョシュの口のはじから唾液がこぼれた。
「つっこむ前にイッちまうぞ」
低く囁くと、それだけで身悶えして呻く。
「や‥‥入れる‥‥」
腰を抱くように体をシーツに倒すと、ジョシュはもどかしく自分から足をひらいた。全身で欲望のサインを示す恋人を見つめながらオーガストが両膝をかかえこむ。
と、ふいにジョシュの目がぱちりと開いた。
「‥‥何か、変なのきこえない、オーガスト‥‥?」
一瞬、オーガストはぎくりとする。
「すまん。俺、事故の後からノイズが聞こえてて‥‥お前にも聞こえちまうか?」
「わかんないけど‥‥」
つぶやいて、首を振る。オーガストへ腕をのばした。もう欲望に目がとろんとしている。そのことはまた後で考えることにしたようだった。
「お願い、オーガスト──」
「ああ」
呻くように答えて、オーガストはジョシュの後ろへ硬くはりつめたペニスを押し当てた。ジェルに濡れた後ろの窄みへ挿入していく。先端を呑み込まれ、粘膜の熱さに擦りあげられる快感に声をこぼした。
ジョシュが喉をのけぞらせる。
「あっ、あああっ‥‥!」
その体が感じているのはオーガストの快感であり、挿入されていく自分の体の感覚でもある。満たされながら満たしていく、その快感に溺れながらジョシュは頭を左右に振り、深く埋められていくペニスを奥にきつく締めこんだ。オーガストが短い声をたてる。彼の腰を白熱させる快感がジョシュに流れ込み、その快感にジョシュの体が引き攣る。快楽に弱い体は素直に乱れて、オーガストをさらに深く呑み込んでいく。
ほとんど入ったところで、オーガストはぐいと突き込んだ。ジョシュの体がはねる。
「ああっ!」
ゆっくりとギリギリまで引き抜き、また沈めると、とぎれとぎれに喘いでジョシュはもっと先を求めた。甘い声をたてながら、汗に湿る体をよじって乱れはじめる。
オーガストも愉悦に呑み込まれながら腰を動かし出した。ジョシュは二人分の欲望と快感に心を完全にひらき、オーガストにすべてをゆだねながら貪欲に互いの熱をむさぼる。だが、ふいに快感とはまるでちがう声を出した。
「や──何、何だ、これ‥‥」
「ジョシュ?」
呻きながらオーガストは腰の動きをとめられない。ジョシュもまたくねる腰をとめようとしなかった。二人の体は一つの快感を追い求め、理性はほとんど欲望に焼かれている。腰を振り、奥にオーガストのペニスをくわえこみながら、ジョシュは悲鳴をあげた。
「やだ! いやっ、オーガスト、怖い! 怖いっ!」
「く‥‥」
熱い粘膜にきつく締め込まれて限界が一気に近づく。腰から脳天まで愉悦の熱がかけぬけた。オーガストは歯をくいしばって自分の首の後ろに手を回し、コネクタを引き抜いた。
弓なりにしなっていたジョシュの背中から力が抜け、ベッドに崩れた。その後ろを強く突き上げ、オーガストは声をこぼす。とめられなかった。欲望と快感とが体を動かし、ぐったりとしたジョシュの体をゆさぶるようにペニスを突き込んで、長い呻きとともに絶頂に己を見失った。
肩を上下させて荒い息を吐いていたが、はっとしたオーガストはかかえていたジョシュの足を慌てふためいておろし、ペニスを引き抜いた。ジョシュが呻く。その体を抱き起こし、力のない彼をゆさぶった。
「ジョシュ、ジョシュ! 大丈夫か? すまない、ジョシュ──」
ジョシュは目をあけ、小さくうなずいたが、オーガストの手をどかすとベッドにうずくまり、うつぶせに体を折った。背中をさすって、オーガストは必死にたずねる。
「大丈夫か? 水、飲むか?」
「‥‥ちょっと、だけ、静かに、してて‥‥」
かぼそい呻きが聞こえて、オーガストは口をつぐんだ。ベッドにへたりこみ、手を引いて、うずくまった恋人の姿を呆然と見つめる。達した充足感など一瞬でふきとんでいた。吐き気をおぼえる。汗に濡れた髪を指でかきまわし、どうしたらいいかわからないまま、視線だけを無為に室内にはしらせた。精液にまみれた自分のペニスが視界に入り、顔をしかめてシーツで拭う。ひどい罪悪感が全身を浸した。
ジョシュの体は、自分自身の快感だけでは他人を受け入れることも、達することもできない。オーガストとの電脳接触が断たれた段階で、もうすでに彼にとっての「セックス」は終わっている。その体を自分の絶頂のために無理に使ってしまったことが、オーガストを心底狼狽させていた。
ジョシュの息はまだ荒い。それが最後に快感なく与えられた乱暴な行為のせいなのか、その前に見せた異変のせいなのかはわからない。どうすることもできず、ただうろたえ、後悔しながら見つめていると、やがて彼は顔をあげ、オーガストを見てつぶやいた。
「水、ちょうだい」
「わかった」
すぐに立ち上がり、部屋のすみに置いてある小さな冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取りだす。手が震えるのを抑えながらグラスに水を注ぎ、ジョシュのところへ戻った。ジョシュは自分の首から接続のファイバーを抜き、ベッドサイドにだらりと足を垂らして座り込んでいた。
「ほら。飲め」
「うん」
うなずいて、ジョシュはグラスを手に取る。水を飲み、肩で大きく息をついた。
オーガストは横に座り込んでジョシュの顔を見つめた。
「大丈夫か? 本当に、悪かった──」
「あれ、何? 何か、聞こえた」
水のコップを見つめながら、ジョシュが低い声でつぶやいた。オーガストは唇を噛む。
「ノイズだ」
「ノイズ? ノイズなんてコンバータで除去されるはず‥‥」
二人をつないでいたコンバータを見た彼に、オーガストは溜息をついた。自分も水がほしい。立ち上がってミネラルウォーターを取りながら、
「俺も、大丈夫だと思ったんだが‥‥すまん。事故の後から、聞こえてるんだ」
「ずっと?」
「ほとんど、ずっと」
「今も?」
オーガストは少し黙る。頭の芯に音を感じて、うなずいた。
「今もだな。慣れてるから、耳鳴りみたいな感じになっちまってるんだ」
「上の空なところがあるのは、そのせい?」
「多分」
水を飲み干してコップを床に置き、オーガストはジョシュの肩に手をのせた。もうそのその体は冷えて固い。絶頂を感じないままに放り出された体が不憫だったが、オーガストにはどうしようもなかった。
「すまん。体、大丈夫か?」
「うん。大丈夫。ごめん、びっくりして」
オーガストに視線を向け、ジョシュはまだ少し青ざめた顔で微笑して見せた。オーガストは身を寄せ、額にキスをする。優しい、形だけのキスに、ジョシュはやっと安心したようにオーガストへ体を預けた。
かかえこまれた腕の中で水を飲みながら、ジョシュがぽつんと呟く。
「何言ってるかわかんないけど、すごく怖い声だった」
「‥‥医者が言うには、事故の瞬間に聞いた声のエコーだろうって」
「‥‥大勢、いたんだね」
「たぶん、そうだ」
ジョシュを引き寄せ、頭にあごをのせ、揺らしながらオーガストは目をとじた。ジョシュの体温を感じていると少しずつ動悸がおさまってきたが、長い入院生活を終えてやっと抱きしめることのできた恋人にひどい仕打ちをしてしまったことが、彼をひどく動転させていた。
「記憶がほとんどないんだ。‥‥事故の瞬間の」
汗の匂いがするジョシュの金髪に顔をうずめる。ジョシュの左手が動き、オーガストの背中へ回った。裸の肌を優しく撫でる。
「うん」
「電脳の中にも残ってない。記憶が焼けた痕跡もない。ただ、ない。覚えてない」
「うん」
「かわりにノイズが聞こえてる。‥‥ずっと」
「うん」
「すまない、ジョシュ」
ジョシュの左手がオーガストの体をすべり、肩から顔にあがって、頬をなでた。顔の傷を覆う薄いテープにふれる。
「大丈夫。この傷が治るころには、きっとそれも治る」
オーガストが顔を上げると、ジョシュは彼の唇に軽くキスして、微笑した。
「いっしょにシャワー浴びよう、オーガスト」
立ち上がり、オーガストの手を引っぱる。オーガストはどうにか微笑を返し、引かれるまま立って、ジョシュとともに狭いシャワールームへと向かった。