オーガストと医者の間には薄膜スクリーンが垂直に立ち、それぞれの位置からまっすぐ読めるようデータが投影されている。それを見ながら、医者は首を振った。
「わかりませんね。丸3日分のモニターにも出てこない。少なくともあなたの電脳はノイズにあたる情報を処理していない」
「そんなはずはないんだ」
 オーガストは顔をしかめ、黒髪に指をさしこんで苛々と頭をかいた。
「聞こえるし、電脳のハブを外すととまる」
「聞こえているのは、わかります。脳波には反応ありますからね」
 落ち着いた、おだやかな声だった。はじめに意識が戻った時に聞いたものと同じ声なのだろうとオーガストは思っているが、当人にそれを確認したことはない。あの時は視界がぼやけて顔までは見ることができなかった。
「どういうことですか?」
 苦い声で言うと、医者は少し黙ってから、テーブルに置かれた水のボトルを引き寄せて一口飲んだ。
「事故の被害者の中に、あなたと近い症状が出た人が12名います。彼らの場合は電脳のアウトプットが確認されていますがね。原因不明のノイズが聞こえるというもので、音の大小に個人差はありましたが、あなたの症状とよく似ている。はじめは、あなたも彼らと同じ症状だと思っていたんですがね」
「違うってことか?」
「彼らはほとんど全員、快癒しましたよ。あなたは事故後三ヶ月になるのに、症状に変化がない」
 さらりとした言い方がいかにも他人事に感じられ、オーガストは指で苛々とテーブルの表面を叩いた。医師にちらっと見られて思わず手をとめる。医師はオーガストの顔に視線を戻して口をひらいた。
「あの事故の瞬間、強い共鳴現象がおこったんです。電脳同士のね。強烈な感情が狭い空間に一瞬で爆発のように響き渡って、乗客同士の電脳が共鳴したのだと思われます。これまでも何件か報告のあるケースです。そして今回の患者の中で、ノイズが聞こえつづける人のほとんどは、耳鳴りのように強烈な音が残ったもので、一時的な現象です。実際、時間の経過とともにほぼ全員が完治している」
「俺を除いて?」
 それには医師は答えず、また一口水を飲んで、小さな息をついた。
「あなたのケースはちがうようだ。事故の記憶が電脳にも残っていないのと、何か関係があるかもしれない。専門の医局でもう少しくわしい電脳のメディカルチェックをしましょう」
 一瞬、オーガストはたじろいだ。相手の視線を受けて、少し声を低くする。
「それ、保険、効きますか?」
 医師は事情を悟った顔でうなずいた。
「大丈夫。事故の後遺症で診断書が出せますから、Gスパイラルの運営会社の方から支払われますよ。カルテ出しますから、これを持って受付に行って下さい」
 手元のフラットパッドに軽く左手をはしらせ、何か打込んでから、スリットから吐き出された半透明のカードをオーガストの方へ押しやった。
「ありがとう」
 軽く頭を下げ、オーガストはカードを手にして立ち上がる。まだ聞こえる。頭の片隅に住みついたそれにもう慣れきっている自分が鬱陶しかった。


『原因、わからないって?』
 COMの向こうから聞こえる声に、オーガストは溜息まじりにうなずいた。
「ああ。‥‥ジョシュ」
『うん』
「まだ会えない」
『うん』
 わかっていたのだろう、ジョシュの返事はあっさりしていたが、声は硬かった。彼らはもう一度だけためしてみたが、二度目のセックスも一度目と同じようにうまくいかなかった。普通に接続するだけならまだいいのだが、オーガストの感覚が昂ぶってくるとノイズはダイレクトにジョシュを苦しめる。昂ぶらずにするセックスなど無理だし、無意味だった。ジョシュがほしがっているのは単なる体の接触だけではなく、絶頂感であり、一瞬の解放だ。それを与える方法がなかった。
 二度目には失敗を予期していたので、オーガストはあらかじめ体感セックスの電脳データを落としてきていた。ジョシュはそれを使ってどうにか自分の熱を発散したが、他人のポルノを使ったそういうやりかたを彼が嫌っているのも知っていたので、オーガストには後味の悪い一日だった。
 半端な関わりが続いて、会えばどちらも相手を欲しがる。彼らは体だけの関係というわけではなかったが、数日に一度は体を重ねてきた。オーガストが事故で入院するまで。欲求を抑えるジョシュを見かねてなるべく会わないように決めたのはオーガストの方だったが、ここまで長引くとも思っていなかった。
「すまん」
『オーガストのせいじゃないよ。それで、プロジェクトの方はどう。正式採用になりそう?』
「多分。最後の候補者絞り込みが、今月。でも手ごたえとしては悪くないと思う。働いていても楽しいよ」
 二回の面接を無事くぐりぬけ、オーガストは大学の研究棟に通うかたわら、軍の研究所のプロジェクトのサポート要員に採用されている。本プロジェクトに参加できるかどうかはまだわからないが、充分に希望はあった。
『がんばって』
 微笑した声でそう言って、接続は切れた。オーガストは肩をすぼめるようにして、病院の中庭を抜ける散歩道を歩きはじめた