[NOVEL] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
マルチモニターをオフにして、オーガストは読書用の眼鏡を外した。視力のサポートではなく、モニターの光をやわらげコントラストをあげて目の疲労を軽減する眼鏡で、大学図書館の備品だ。
机のサイドポケットへ眼鏡を戻し、コンソールパネルを叩いてログオフした。IDカードがスリットから吐き出される。それをカードケースへしまい、こわばった体で立ち上がって歩きはじめた。
マルチモニターと椅子が並んだ部屋は静かで、モニターの前に座った人がメモを取ったり手持ちの端末に打込んだりする音がやけに大きく聞こえる。オーガストは頭を振った。ノイズと音の区別が一瞬、つかなかった。
図書館に半日こもって共鳴現象について調べてみようとしたが、よくわからなかった。脳波の共鳴というのはありえるのだろうか。世界に存在するすべての物体と同じように人は固有の振動数を持ち、さらに脳はまた固有の振動数を持つ。それがぴたりと一致した場合、共鳴を起こす可能性はゼロではない──らしい。そこまではわかったが、自分のケースでそれをどう考えたらいいのかわからない。
テレパステストは受けたことがあるが、オーガストはテレパスではないし、家系にもテレパスはいない。それに「共鳴」はテレパスではないと、医師は言っていた。
──会ったからって、どうなるものかね。
頭のすみでちらっと考えたが、肩をすくめて、オーガストは図書館を出た。とにかく、このままというわけにはいかない。
もう陽はほとんど落ちていた。実りがない割りに、思ったより時間がかかったものだ。今から研究棟に顔を出そうかと思ったが、忙しい友人にでもつかまったらそのまま徹夜作業に引きずり込まれる。悪いと思いながら、オーガストは大学から出るバスに乗った。
腹が減ったので途中で降り、バーガーショップで腹ごしらえをする。ビールを飲んでいたら久々にちゃんとしたものが飲みたくなって、オーガストはウィドウズというバーに足を向けた。
オールドスタイルの店内の壁には小さな額縁がたくさん掛けられ、その中には古い新聞記事が飾られている。変色した記事に視線を投げながら、オーガストはカウンターに座った。
「ブッシュミルズ」
アイリッシュウィスキーを注文し、出された野菜のチップスをつまむ。
一人で飲むのは嫌いではなかったが、一杯目を飲み終わったところで少し気が滅入っているのに気付いた。陽気な音楽を聞きながら香りの濃いウィスキーを飲んでいても、一向に気分があがってこない。そうして一人でぼうっとしていると、ノイズがやけに大きく聞こえた。そのくせ、ノイズに神経を集中させるとめまいがしてくる。
(夢を見続けている人が──)
医師の言葉を思い出し、残り少ないウィスキーのグラスをのぞきこんだ。夢。なら、これは相手の夢の一部なのだろうか。何故それがオーガストに届く?
人の夢を聞いている、という可能性を考えていると、奇妙な罪悪感を感じた。理屈にはまるで合わないが、自分がのぞき見をしているような気すらしてくる。ノイズが何を言っているかわからないのは、幸運かもしれない。そんなことを考えながらとまらないノイズを聞き続けていたら、段々と頭痛が首の後ろからはいのぼってきた。
今日は駄目だなと溜息をつき、最後の一口を飲み干してスツールから立った。悪酔いする前に退散しよう。トイレに寄ってから、扉の方へ向かおうとして、オーガストの足がとまった。
店の右奥は細い通路でつながった続き部屋のようになっている。その場所は内装が異っていて、穴蔵のように低い天井は岩のような見た目に作られている。照明が落とす青っぽい光の中に、ちらりと華奢な姿が見えた。
「‥‥‥」
オーガストは目を細める。ジョシュの隣にいる男に、見覚えがあった。ジョシュの大学で彼らが話しているところを幾度か見たことがあるし、オーガストとジョシュが関係を持つ以前、よく二人で出歩いていたらしい。昔の恋人ではないかとこっそり考えていたが、それをジョシュにたずねたことはなかった。
一瞬ためらう。どうしようという考えもなかったし、どうしたらいいのかもわからなかった。そう言えば去年一度だけ、ジョシュとここで飲んだ。彼はあまり酒に強くないから、こういう場所でいっしょにすごすことは少なかったが。
男が軽く手を動かし、ジョシュが吹きだすように笑い出す。テーブルの下で弱い腹のあたりをくすぐられたらしい。二人の仕種はやけに親密だった。大体、恋人でもなければわざわざ隣り同士に座るまい。向かい合わせにも席はある。
オーガストは二人の視界に入らないように下がろうとしたが、その動きがかえって注意を引いたのだろう。ふいにジョシュが顔を動かし、オーガストを見た。
一瞬信じられないものを見たように目を見開き、顔色がすうっと変わる。うろたえた目を見ただけでオーガストは疑いが事実に変わったのを感じた。一つ首を振り、彼は背を向けて早足でドアへ急ぐ。
「オーガスト!」
背後から呼ぶ声を振りきるように。足をさらに早め、重い木の扉を引き開けて外へ出た時、シャツの背中をジョシュがつかんだ。
「オーガスト──」
振り向かずに歩道を歩き去ろうとしたが、ジョシュが彼の左腕にしがみついて離さない。オーガストは店の前で立ち止まり、溜息をついて彼の顔を見た。ジョシュは泣き出しているようだった。
「馬鹿。泣くな」
「だって‥‥だって」
「俺はお前にはもう用済みだろ」
何でそんなことを言ったのか自分でもわからないが、口をついて出た言葉にジョシュはほとんど茫然とオーガストを見上げた。次の瞬間、オーガストの頬が激しく鳴った。
「‥‥って」
オーガストは顔をしかめて頬をおさえる。ジョシュは右手を胸の前で握りしめ、青ざめて、狼狽した声をふるわせた。
「ごめん‥‥」
「じゃな」
肩を押してつきはなし、背を向ける。今度は追いかけてくる気配がない。ほうっと肩の力を抜き、オーガストは頬をさすりながら呻いた。
「痛ぇ‥‥」
ジョシュが淋しがっていたことくらい、よくわかっている。体も、心も。どうにかしてやりたくても、オーガストにはどうにもできない。考えてみれば、別れるのは唯一の解決策だった。
これが一番よかったんだと、くりかえし自分に言い聞かせながら歩く。冷えきった頭の芯でノイズが聞こえていた。
何度かジョシュから電話があったが、オーガストは一度も出なかった。メッセージも聞かずに消した。
怒りはなかったが、今さらどうできるものでもない。自分にも、ジョシュにも、望みを残したくなかった。別れてみれば、いつかこうなるのが当然だったような気がしてくる。ジョシュのことは好きだったが、それ以上の執着はない自分に気付いてもいた。
火曜日はあっというまにやってきたが、当日、病院のコーヒーショップで資料を読んでいたオーガストに近づいてきたのはあの医師だった。
「迷っているそうです」
またエスプレッソを飲みながらそう告げる医師を見上げ、オーガストは顔をしかめた。医師は少し困っているようだったが、オーガストは少なからず腹が立っていた。
「ふざけるな、と言っといてくれ」
「‥‥それはちょっと」
医師は首をすくめる。それから言いづらそうに付け加えた。
「来週は月曜に」
「‥‥‥」
オーガストは医師の顔を眺めて、大きな溜息をついた。どいつもこいつも。
俺が一体、何をした?
その次の週はジョシュからの連絡はほとんどなく、かわりに、仲裁しようとした共通の友人が研究棟にまで顔を見せて長々と情にうったえ、オーガストを苛立たせる。
月曜はまた、医師と二人でコーヒーを飲んだ。医師が隣人と共同で犬を飼っているらしいと、いらない知識がひとつ増える。どういうふうに共同? とたずねると、「散歩は彼が、餌代は私が」と医師が真面目な顔で言ったので、オーガストは大笑いした。医師は少し納得がいかない様子だった。
次の月曜。やっと身辺は静かになってきていた。
かわりばえのないコーヒーに飽きて紅茶を飲んでいると、手にした資料の束に影が落ちた。オーガストは顔を上げる。
青年が一人、チャコールグレイのロングジャケットに身を包んでそこに立っていた。オーガストはまばたきして、相手の顔を見た。同年代か、少し上。灰色の目と脱色したようなアッシュブロンドの取り合わせは人目を引く。薄い唇とどこかさだまらない視線の向きが、神経質で不健康な印象を与えた。
オーガストはコーヒールームの入り口に視線を投げる。医師がにこやかに手を振っていた。溜息をついて手を一つ振り返し、オーガストは青年を見上げる。
「場所をうつして話をしないか」
医師の立場を考えると、このまま病院内で二人で話をするのははばかられる。青年はオーガストの提案にぎくりとしたが、たじろいでから、うなずいた。取って喰いやしないぞと胸の中でつぶやいて、オーガストは立ち上がる。二人は黙ったまま病院を後にした。