沈黙が重い。広いカフェの一画に座って注文した飲み物がくるのをじっと待っていたが、オーガストは相手に右手をさしだした。
「はじめまして。オーガストだ」
 青年はまたぎくりとした。まばたきして、それから焦った様子で中腰になって右手を出し返そうとする。その手がテーブルの上のナプキンケースにぶつかって倒しかかり、オーガストがあわてて左手でおさえたが遅かった。数枚のナプキンがテーブルにすべり出し、床にひらひらと落ちた。
「すいません」
 急いであやまりながらそれを拾い、青年は視線をさまよわせながらひどくうろたえた口調を重ねた。
「俺は、アーロン。その、すいません──」
「いや、別に」
 握手しないまま手を引いたオーガストがうなずいてみせると、アーロンは神経質な仕種で額をこすり、椅子に腰から沈み込んだ。大きな溜息をつく。オーガストは眉をひそめた。
「大丈夫か?」
「ええ──」
「何か聞こえてるんだろ」
 額をこする仕種は、オーガストもノイズを聞いている時にやっていたものだ。ジョシュに指摘されて気が付いた。アーロンははっとした顔でオーガストを見て、それから肩の力を抜いた。
「そう‥‥そうなんだ」
「どういうふうに──」
 言いかかって、ウェイトレスが近づいてきたのでオーガストは口をつぐんだ。タキシードベスト姿のウェイトレスが二人の前にコーヒーを並べ、角砂糖をつんだ貝殻型の容器を置き、ミルク入れを置き、一礼して下がる。
 オーガストはひとつ砂糖を取り、ミルクは入れずにコーヒーを口元へ運んだ。アーロンは少し困ったようにコーヒーを見ている。不審に思いつつ一口二口飲んでから、オーガストはふいに気が付いた。
「コーヒー、飲めないのか?」
「‥‥うん」
 小さな声で、アーロンがうなずく。オーガストは口をあけ、それから何も言わずにとじた。「コーヒーでいいか」と聞いた時、アーロンはひどく迷った顔でうなずいたのだ。「飲めない」と言えばすむことだが、この青年は、そういうことを苦手にしているようだった。
 そしてオーガストは少しならず、こういう相手が苦手だ。こちらから気を回せば回すだけ、気疲れしてしまう。これは早めに話を終わらせたほうがいいなと考えながら、オーガストもソーサーにカップを戻した。
「それで‥‥」
 なるべくおだやかな声をつくった。
「夢を見る、ってきいたけど」
 そう話の口をきってみる。アーロンは下を向き、思いつめたように唇を結んだままうなずいた。目の下に小さな涙袋がふっくらとしていて、そういう顔つきと仕種がやけに幼い。アッシュブロンドを首の後ろで結んでいる姿は会社勤めのようにはあまり見えなかった。
 アーロンが何か説明するのを待ってみたが、何の気配もなく、オーガストは次の態度を決めかねた。根掘り葉掘り事実を問いただしてやりたいところなのだが、それでこの相手がしゃべるかどうかがわからない。
 世間話でもして少し緊張をほぐしたほうがいいか、と考えつつ、何で俺がそんなことに気を回すんだとも思ったが、オーガストはとりあえずもう一度話しかけてみた。
「仕事は何?」
 相手はこれにもぎょっとしたようだった。オーガストは、口元にはこんだカップのふちで吐息を隠す。あのクソ医者め、と大した理由もなく胸の中でののしっていると、静かな声で返事があった。
「ベビーシッター」
 思っても見なかった答えに、オーガストはコーヒーを吹きだした。口の中にコーヒーがほとんどなかったのは幸運だったが思いきり咳込んで、オーガストはテーブルにつっぷし、数度小さく笑ってから、こらえきれずに声を立てて笑い出した。途方にくれてオーガストを見つめるアーロンへ片手を振る。
「いや‥‥すまん、ちょっ、待っ‥‥」
 笑いが次からあふれてとまらない。失礼だとは思ったが、笑ったせいで緊張の糸が切れ、オーガストはしばらく体を二つに折って笑いつづけた。
 笑いすぎた涙を拭いながら、顔を上げる。
「悪い、べつに──」
 馬鹿にしてるつもりはないんだと言おうとして、言葉が喉にとぎれた。アーロンが微笑している。グレーの目に光がともり、表情をやわらげてオーガストの姿を見つめる彼は、それまでと別人のようだった。
 頬杖をつき、オーガストはにやっと笑いを返す。
「悪い。あんまり意外で」
「うん。わかるよ」
 アーロンはうなずいた。
「でもベビーシッターにも色々あるんだよ。専門的なものもね。早期の幼児教育を兼ねた教師役とか、誘拐されないように見張りがわりとか、特殊なケアを求める親というのがいるから」
「へぇ」
 オーガストは素直に感心して、アーロンを見つめた。
「で、君は何を?」
「電脳のコーディネートをやっている」
「‥‥子供の?」
「主に乳幼児の」
 おだやかに答えて、アーロンは額におちてくる髪を指の腹でゆっくり払った。落ち着いてきたのか、まっすぐにオーガストを見て説明を続ける。きれいな目をしていた。
「電脳との不整合によって生じるノイズを、接続して吸収してあげるのが基本の仕事だ。子供の脳は三歳までに爆発的な発達をとげる。体積面でも、能力面でも。だから子供に接続する電脳は外部接続方式が基本で、出力もそれぞれの子供の発達にあわせて抑えてある。それを段階的にレベルアップしていくんだけど、リミッターをどこで外すか判断するのも、俺の仕事」
「すごいな」
「ミルクもあげるしオムツも替えるけどね」
 クスッと笑った。仕事が好きなんだなと、オーガストは思う。
「そんな子供にも電脳をつなぐのか?」
「身体制御に必要なことがあるんだよ。病気や、事故なんかでね。たとえば義手をつけるにも、筋肉の微電流で腕を制御する方法を教えるよりも、電脳から制御させた方があとの拡張性が高い」
「へぇ‥‥知らなかった」
 その言葉にうなずいて、アーロンは表情を曇らせてテーブルへ視線を落とした。声も曇っていた。
「今は休みを取ってるけど。‥‥あの事故から」
 オーガストもうなずき返し、テーブルに肘をついて相手の方へ少し身を乗りだした。
「俺は、あれからずっとノイズが聞こえてる。君は?」
「夢‥‥と、言えばいいのかな。記憶のエコーが、消えない」
 頭を振って、目をとじた。
「事故の。記憶‥‥」
 全身が小さくふるえる。怯えが表情に剥き出しになった。顔色が青ざめ、色の失せた唇が白っぽくかわく。今にも倒れそうに頭がくらりと揺れ、オーガストは反射的に手をのばしてテーブルの上のアーロンの手をつかんでいた。
 耳元で轟音がはじける。悲鳴を押し砕く破壊の音。巨大なものが擦りあい、ギチギチと押しつぶされていくねじれた金属のきしみが耳を裂いた。その奥から喉が裂けるような悲鳴がほとばしり、骨から恐怖に凍りつく。
 オーガストは息をつめ、手を引こうとしたが、その手にアーロンの指が逆にすがり、引きとめた。二人の動きがもつれてコーヒーカップを床に叩き落とす。甲高い音をたててカップが砕け、口をつけていなかったアーロンのコーヒーが飛び散った。
 はっとアーロンが手を引く。青ざめた顔でオーガストを見つめ、何か言おうとしたが、両目に追いつめられたような狼狽がはしった。オーガストはまだめまいの残る頭を振る。ウェイトレスがてきぱきとした足取りで近づいてくるのが目のすみに見えた。
「これが──?」
 たずねようとしたが、身を翻したアーロンが駆け出していく。オーガストはあわてて立ち上がり、ウェイトレスに一言謝罪を投げて、コートの裾をはねあげた後ろ姿を追った。
「おい、待てっ!」
 華奢なパイプづくりの螺旋階段を駆け降りたアーロンは、勢いをゆるめることなく一階のフロアを抜けていく。オーガストは最後の数段をとびおり、テーブルの間を走り抜けて、店の外へとびだした。
「待て!」
 アーロンの腕をひっつかむ。たじろぐ体を引いて自分に向かせようとしたが、もがいて逃げようとするアーロンと揉みあいになった。アーロンがバランスを崩してオーガストの胸に体をぶつける。倒れる彼を支えようと、のばした腕に抱いた体は見た目よりもさらに華奢で、オーガストは一瞬息を呑んだ。
 ノイズが耳元を抜けていく。あの日も聞いた。事故の瞬間。忘れ去ったはずの記憶がどこかできしみを上げる。腕にかかるアーロンの体の感触が、失われた記憶の中の何かを刺した。
 静寂がしんと落ちた。
 嵐が通り抜けた後のようにすべてが消え、世界が音を失う。ノイズが消えていた。
 この四ヶ月近くではじめてノイズの見えない圧迫から解放され、細胞のすみずみまでもに静寂がしみわたるのを感じる。オーガストは言葉もなくアーロンを見下ろした。同じ静寂をきいているのかと。
 アーロンは目をみひらいてオーガストを見上げていた。額が汗ばみ、唇は何かをつぶやこうとしたままの形でとまり、オーガストを見つめる灰色の瞳の奥にすがるような強い光があった。
 ふいに彼の顔が近づいてくる。唇にあたたかい感触がふれ、キスしているのだと気が付いたが、ふしぎなほど驚きはなかった。静寂が深まり、すべてがあるべき場所におさまったように落ち着く。おだやかな唇に、オーガストは自然な気持ちでキスを返した。熱をはらんだ唇をとらえてキスを深めようとする。信じられないほど静かだった。
 心地のいい静けさの中でアーロンの熱だけが流れ込んでくる。
 唇の感触がいきなり消え、肩を力任せに押されてオーガストはよろめいた。ふたたびノイズが流れ込んできて、静寂の世界が一瞬にして崩れ去る。我に返った時には、彼をふりほどいたアーロンが振り向かずに走り去っていくところだった。
 オーガストはまだ少し混乱したまま、消えていく後ろ姿を茫然と見つめた。ノイズが神経を刺す。通行人の好奇の視線も意識に入らなかった。
 あの日。あの時。そうだ、何故忘れていたのだろう。
 アーロンが、彼のそばにいた。事故の瞬間。
 あの目でオーガストを見つめていた──


 店に引き返して置いていった鞄を受け取り、カップの謝罪をして、家に戻り、くたびれて服を脱いでいる時にジャケットにコーヒーの染みを見つけた。溜息をつき、ほかの洗濯物といっしょに袋へつっこむと、地下のランドリーへ降りていく。
 洗っている間に、医師の番号を押してみた。留守。名前だけメッセージに入れて切った。いざと言う時に、役に立たない相手らしい。