イユキアは膝をついたままキルシを見上げた。手の中で、小さな骨が灼けるような温度で脈打つのを感じる。まるで何かの心臓が動きはじめたように。
ハサギットの苦鳴を聞きながら、キルシは唇のはじを軽くもちあげた。
「前王の近衛。かつての王城の守り。──贄にはなるだろう」
「封じの」
ひっそりとした言葉が血まみれのイユキアの唇からこぼれる。彼は目をとじていた。キルシが何か言おうとして──彼は凍りつく。茫然とイユキアを見おろした。
「馬鹿な──貴様‥‥」
「血はあなたのもの。骨は私のもの」
イユキアはゆっくりととなえる。全身をキルシの呪縛がしめつけるのを感じたが、苦痛は無視できた。ぼんやりと感覚が遠くなる。そう。イユキアの血はキルシとの約束通り、この地に流れる。だがイユキアを骨まで呪縛することは、キルシにはできない。
──逆に、呪縛されたのは彼だ。イユキアはキルシが己にかけた呪縛の道を逆に使い、血を通して、キルシの内に魔呪を張った。
「私の血はあなたのもの。あなたの血はあなたのもの。私の骨は私のもの。あなたの骨は私のもの」
歌うようなふし回しで詠唱し、イユキアは金の目をひらいてキルシを見上げる。キルシが何かとなえているのが見えたが、ほとんどその声は彼に聞こえなかった。体に入りこみ根を張ろうとする力を抑えつけながら、イユキアは森に満ちる声に耳を傾ける。冬長の森──眠っている筈の森が、胎内にひそむ傷を思い出したかのように苦悶の声を上げている。己を貫く骨の存在に気付いたかのように、身をよじろうとする。
赤い水面が大きく揺れ、ざあっとしぶきを噴き上げた。自分のものではない痛みを、イユキアは感じる。キルシが目ざめさせ、顕在化した。封じられる苦痛。
キルシが何か叫び、短剣をふりあげる。詠唱を続けるイユキアにそれを振りおろそうとした瞬間、彼の左目を剣が柄まで貫きとおしていた。折れた剣の柄元をレイヴァートが投げたのだ。キルシは剣の勢いのまま後ろへ倒れ、もがき、それでも起き上がろうとした。駆けよったレイヴァートが、短剣をさしこむように魔呪師の心臓を貫く。息がとまったことを確認し、イユキアを振り向いた。
イユキアは詠唱をとめずに続けながら、地面に崩れたカルザノの体をさし示し、それから道を指した。息を吸いながら同時に吐き、一瞬たりとも声を途切らせずに言葉をみっしりと編みあげていく。森を寝かしつけるようにやわらかに、高低とりまぜた音色のようなひびきの言葉。眠れ、と。もう1度。遠く、遠く、何もかもを夢にして。森はとじる。冬長の眠りを取り戻して。
ふたたび泉が鳴動した。
レイヴァートは心配そうにイユキアを見つめたが、何も言わずカルザノの体をかつぎあげ、示されたまま、ゆらぎ出した道の向こうへ走り去った。迷わず。約束の通り。イユキアの唇が微笑を刻む。イユキアもまた、誓約を守った。リーセルに、父を守ると誓ったあの言葉を。
道がとじてゆく。イユキアは手にした骨がうごめくのを感じた。目醒めたいのか? それとも遠い夢を見ているのか? もはや死にたえた、遠い種族の夢。その夢を体の深くに感じながら、イユキアはゆっくりと森の記憶をとじてゆく。
大地が無数の虫のようにうごめき、やわらかに融けた。横たわるハサギットとキルシの体が沈みはじめ、まるで流砂が呑むように彼らは森へ呑みこまれていく。生命の贄として、封じの代償として。
赤い泉も大地の内側へ消えはじめ、みるみるうちにその下の乾いた地面があらわれた。イユキアが手を入れた泉には底がなかった筈なのに、そうして姿を見せた土の底はひどく浅かった。中央から天につきたつ白い骨は、イユキアの言葉に共鳴してふるえていた。
イユキアの詠唱は時おり2重3重のひびきをおびて、こだまを引きながらゆっくりとふくらんでいく。それはまるで歌のようだった。
血には血を、命には命を、骨には骨を──
巨大な骨に亀裂がはしった。網の目のようなひびが全面を覆い、ピィンと金属的な音をたてて骨は粉々に砕けた。白い砂となって一面にふりそそぐ。次から次へとふる砂が雪のように地につもり、大地をうずめ、赤く染まったイユキアの髪にからみ、肩にさらさらとつもった。
長く続く詠唱の中、イユキアは白い骨の砂が一面にしきつめられた大地を見つめる。身の内にするどいねじれを感じた。キルシの死と妄念が彼の内側へ喰い入ろうとする。血を奪ってゆく。
(血には血を、骨には骨を)
イユキアは右手に細い骨を握った。黄色く変色してあちこち黒ずんだ古い骨を、白砂の覆う大地へ放り投げる。骨は杭のように砂を貫いて立った。
その瞬間、ほとんど自分の体が貫かれたような苦痛が走った。膝をついたまま、イユキアはただ詠唱を続けるしかできない。言葉を重ね、音色を重ね、そこにある何かを繭のようにくるみあげる。幾重にも。どれほどの時間がたったのか、言葉の中にすべてを見失ったが、術の核だけは離さなかった。
最後の言葉をつむぎ終わり、のめった体は砂に倒れた。白砂の下に自分の体が沈みはじめるのを感じたが、イユキアにはもう体を引き上げる力が残っていなかった。血が流れ去り、からめとられる。ひどく眠い。まだ体の中にキルシの呪縛が残っていた。
レイヴァートに言わなかったと、ぼんやり思った。森を抜け、カルザノをリーセルの元へつれ帰れと。彼はどうしているだろう。迷うことなくイユキアの言葉に従った。イユキアを信じ、信頼していたからだ。
とじた道の向こうでイユキアを待っているだろうか? イユキアを、探すだろうか。
(レイ──)
名を呼んで、目をあけ、イユキアは体にからみつく不可視の鎖を払うようにもがいた。砂は粘泥のように重く、体をはなさない。唇をうごかして音のない旋律をきざみながら、キルシが身の内に刻んだ呪縛をひとつひとつ剥がしはじめた。骨から肉をはぎとるような苦痛に頭の芯がぼやける。今にも失いそうな意識をつなぎとめ、ただ旋律に集中した。言葉をつむぐ余裕はない。
「音」が魔呪として強い力を持ち得るということをイユキアに教えたのは、ロゼナギースが見せた技だった。呪を唱えるためだけでなく、「音」それ自体が魔呪として立ち得るのだと。音に関してロゼナギースほどの技はないが、物心つくより前から魔呪を扱うことを叩きこまれたイユキアだ。ロゼナギースの技を見てから、季節ひとつのうちにある程度の形を自分なりにつくりあげていた。
その音にすがりながら、イユキアは最後の呪縛をはぐ。体の奥で何か砕けるような音がして、イユキアは白砂の上に倒れていた。呻いて、立ち上がろうとしたが、体はどうにも重く、イユキアはやっとのことで仰向けに身を返す。砂がきしむ音をたてた。
視界のすみを獣の影がよぎる。倒れたまま頭をねじって顔を向けた。
巨大な狼が数歩先に立ち、赤い目を光らせてイユキアを見つめていた。
はじめの日に出会った狼──そしてカルザノたちが森に追った狼だ。大きさは通常の狼の2回り以上大きく、分厚い毛皮につつまれた全身はまだらな灰色で、牙を見せる口元は黒っぽい毛に覆われている。耳はぴんと立ち、太い四肢を踏みしめ、鉤爪を砂にくいこませて、イユキアを威圧的に見下ろしていた。牙が白く光る。
たわめた後脚が砂を蹴り、ふわりと宙を駆けた。イユキアの体にドンと衝撃が走り、強く砂に押し付けられる。喉元を獣のあたたかな息が這い、首すじに牙がくいこんだ。
イユキアは動かない。逃げようとして体力を消費せず、目をとじて、その瞬間を待っていた。殺す瞬間、相手は必ず無防備になる。その一瞬にすべてを賭けるつもりだった。彼が生き残れるかどうかはわからないが、相手を逃がしはしない。それだけを考えていた。
狼の荒い息が肌をなぶった。濡れた感触が喉に熱い。
数秒、どちらも動かなかった。
やがてイユキアがつぶやいた。
「殺さないなら、どいてもらえませんか。‥‥ナルーヤ」
「‥‥‥」
狼は奇妙に人間くさい動作で鼻を鳴らし、牙を外した。数歩下がって尾をくるりと巻き、その場に尻をおろして座る。赤い目でイユキアを見つめたまま、喉の奥で奇妙なうなり声を洩らした。それは人の声ではなかったが、イユキアには言葉としてはっきりとどいた。
「俺を殺す気だったろう」
傲慢な声の響きはたしかに、1度顔を合わせた黒魔呪師のものだ。港町クーホリアの一画、魔呪の使い手たちがつどう小路の宗主。扉上にしめされた焼き印の形から、その道を通称「コウモリの通り」と呼び、そこに棲む呪師たちも「コウモリ」と呼ばれていた。
「あなたこそ。‥‥この森で、何をしていたのです。あの骸を村人が見つけられる場所に置いたのも、私に森の夢を送ったのも、あなたでしょう? 私を、この森へ呼ぶために」
「俺が獣足だとわかっていたのか」
人から獣へと形を変える者、あるいは獣の内に入りこんで体を借りる者のことを、獣足や獣頭などと呼ぶ。イユキアは金の目をほそめた。髪と顔には血の残りがまだらに絡みつき、乾きはじめていた。
「あなただとは、気がつきませんでしたが。人だろうとは思っていましたよ」
「ふぅむ」
「何が目的です」
「俺が片づけるにはいささか手数がかかりそうであったのでな。お前が来るならば、その方がたやすかろうと思ってなあ、黒館の」
イユキアの力を見ようという心持ちもあったのだろう。他者の力を見たいという好奇心は、つねに魔呪を使う者の心をとらえる。イユキアは少し黙ってから、たずねた。
「いつ気がついたのです。キルシがこの森で何をしようとしているのか」
「ずっと知っていた」
イユキアに聞こえてくるナルーヤの声はそっとやわらかだった。
「あれは昔、コウモリのひとりであった。10年の前だ。ハサギットが腕を斬られてアシュトス・キナースを追われる時、ともに去った。俺の持っていた骨を盗んでな。いつか戻ると思っていた。戻ったら骨を取り返そうと思っていた」
ちらりと赤い目が砂の中央を見る。キルシが道をひらくのに使った小さな骨はイユキアの手で砂につきたてられ、根元の砂の中からはじわりと赤い血が染み出しはじめていた。いずれまた、泉のように、血は深く溜まるのだろう。眠るものを眠らせたまま。
「‥‥キルシは気がつかなかったんですか。この森には、竜などいない。あなたはわかっているのでしょう?」
「ふむ。キルシはこの森に竜の骨が立てられていることを探り出したのさ。それで、竜がここにいると信じた。もともとアシュトス・キナースには、竜の骨を使って竜を封じたという言い伝えがあってな」
獣の喉で音が鳴った。それが笑いなのかどうか、イユキアにはよくわからなかった。
「あれは、王を殺す気だった。森に眠る力を呼び覚まし、竜の力を手に入れれば、王を傷つけられると信じたのだろうな」
「竜の力」
つぶやいて、イユキアは小さく顔をしかめる。そんなものがこの森にあるとして、キルシは本気でそれを制御できると思っていたのか。人の身で、人のものではない力を? 愚かだった。
ナルーヤがつぶやく、
「挑んでみたくもあったのだろうよ。王は、王城の魔呪に守られて、ほかの力はとどかん‥‥」
ふっと、狼は黙った。赤い目の奥にともる光が強まる。イユキアは倒れたまま、体の内にゆっくりと力をめぐらせ、物憂げに獣の気配をさぐった。
ナルーヤの言葉は撫でるようにやわらかだった。
「そうか。そなたはちがうか、黒館の主。黒館の力、黒館の魔呪ならば、王を傷つけられるか?」
「‥‥‥」
イユキアの金の目がにぶい曇りをおびる。否定しようとしたが、ナルーヤ相手に嘘をつくには彼は疲れすぎていた。沈黙で答える。
獣の息の向こうに金属的な笑いが聞こえた。
「成程。黒館は、王城と王の喉元へつきつけられた刃のようなものだな。いつでも王を傷つけることができる。黒館はそもそも、そのために作られたのかもしれん。いざという時に王を殺すために。それを、あの騎士は知っているのか? お前が王への凶器となると?」
「‥‥‥」
「お前が言えないなら、言ってやろうか」
イユキアは無表情に獣を見つめている。ふいにその顔がするどさをおびた。
「ご自由に。私はあなたとは取引をしない」
獣がまた喉の奥で笑った。
「そう、かまえるな。あの男を取って喰いやしないさ。おもしろい男ではあるがな。──乗れ、道をひらいてやる」
「‥‥‥」
背中へ長いあごをしゃくり、イユキアの前で背を低くして後ろ膝を折る。イユキアが動かずに見つめていると、牙を見せた。
「それとも道をひらくだけの力が戻るまでここにいるか? 愚か者、歩けもしないその身で意地を張って朽ちるか?」
小さなため息をついたが、イユキアは重い体をのろのろと起こすと毛皮にすがって立ち上がり、狼の背中に体をかぶせた。毛皮はやわらかく、冷えてはいたが内側に強靱な筋肉を秘めて、イユキアを支える。うつ伏せに乗りはしたが、しがみつく力もほとんど残っていなかった。どうにか狼の首に腕を回し、交差させた手首をつかむ。それがやっとだった。
狼はゆっくりと身をおこし、背中を揺らさないよう静かな足取りで木々の間を歩きはじめた。
自分のマントを外してカルザノをくるみ、レイヴァートはカルザノの傷をあらためた。肘の上からすっぱりと切り落とされた左腕の傷口に、ろくな手当ての跡はなかったが、傷は汚れてもいなかったし、血もとまっていた。まだ断面はやわらかく、黒っぽくかわいた肉と白い骨が見えている。
水袋の水で傷口を洗い、油薬を布にのばして、その布で傷を2重にくるんだ。本来ならワインで洗いたいが、酒の手持ちなどあるわけがない。
体は冷えきっていたが、カルザノの息はゆっくりとして、おだやかだった。脈も遅いがしっかり打っている。術で眠らされているのではないかと見当をつけながら、レイヴァートは枯れ木を集めて小さな火をおこした。イユキアを待つ意味もあるが、せめてカルザノの体をあたためておきたい。獣の死骸が散った円紋の空き地が木々をすかしてのぞめる場所に火をつくると、カルザノを運んで火にあたらせた。
男の顔は青白く、こわばったまま目をとじている。数滴の水を唇に落とすと、かすかに口が動いて飲みこんだ。レイヴァートは息をつき、男の体に均等に熱があたるように体勢を変えると、自分の体の傷をあらためた。腕にいくつか浅手がある。水で拭い、油で練った血止めの薬草をすりこんだ。熱をもっている傷はない。ハサギットは剣に毒を塗るような真似はしていなかったらしい。
当然か。彼がほしがったのは、レイヴァートの左腕だった。毒が回っていては役に立つまい。
白い息で手のひらをあたため、レイヴァートは木々の間から空き地を見る。イユキアが道をひらき、彼が通り抜けたはずの場所に、もはや誰かが通れるような間隙はなかった。
短剣を鞘から抜き、血脂を丁寧に拭い落とした。長剣は封じ地に折れたまま残してきたため、腰の鞘が空なのが落ちつかない。
レイヴァートはまたカルザノの息をたしかめ、きびしい表情で空を見上げた。白っぽい空にぼんやりと陽光の暈がかかっている。冬長の太陽は頭上に遠く、中天をはるかにすぎて傾きはじめていた。暮れる前に森を抜けるためには、そろそろ戻らねばならなかった。
「‥‥イユキア」
呟いて、レイヴァートは立ち上がった。レイヴァートが「道」を抜けて戻ってから、森は風もないまま数度ざわめいたが、今はぴたりと静かになっていた。朝に感じた、奇妙に殺気だった気配は散らしたように失せている。いつもの冬長の森、眠るような静寂だった。
カルザノがいなければ、イユキアを待つこともできる。だがリーセルのもとにカルザノをつれ帰らねばならない。そしてそれがイユキアの望みでもあると、レイヴァートにはよくわかっていた。
イユキアがここへ戻った時のために何かしるしを残そう、と周囲を見回した時、ちらりと視界のすみで何かが動いた。レイヴァートはすばやく短剣を引き抜き、体を回す。
木の幹のつらなりの間から、大きな狼が近づいてくるのが見えた。その背中に伏しているイユキアの姿に、レイヴァートは息をつめる。油断なく両足をひろげて距離と呼吸をはかった。
レイヴァートが気付くと狼は足をとめ、赤い目でこちらを見ながら体を左右に揺らした。イユキアの体がすべりおち、まるで意識のない様子で地にころがる。レイヴァートが1歩出たと同時に獣はすばやく身を翻し、大きな後脚で思いきりよく跳躍して尾を揺らしながら木々の間へ消えていった。
レイヴァートはイユキアへ駆けより、動かないイユキアの体を抱きおこした。イユキアの髪も顔も乾いた血が覆い、マントもローブも肩から胸元まで赤黒く染まっている。傷を探して指でふれたが、イユキアの血ではなく赤い泉の水だと悟り、レイヴァートはほっと息をついた。イユキアを腕に抱いて顔をのぞきこむ。首すじにあてた指で脈がしっかりと打っているのをたしかめ、低く呼んだ。
「イユキア。‥‥イユキア」
イユキアがぼんやりと目をあけ、レイヴァートを見上げた。まばたきする。うつろな口調でつぶやいた。
「‥‥ごめんなさい‥‥」
何を言っているのかわからなかったが、レイヴァートはイユキアの唇に手をあてた。
「いい。しゃべるな」
「カルザノ──は‥‥」
「大丈夫だ。お前と一緒につれて戻る」
イユキアの体にはまるで力が入っていない。青白い顔は幽鬼のように見えた。起き上がろうと弱々しくもがくイユキアの頬をなでながら、レイヴァートは強い口調で言う。
「動くな」
何か言いかかる唇をまた指でおさえた。
「しゃべるな。もう、いいから。黙っていろ」
するどい、怒ったような声だった。動きをとめてレイヴァートを見上げ、イユキアが淡い微笑を見せた。それは疲れきっていたが、たしかにイユキアの微笑だった。レイヴァートは乾いてはりついた髪をイユキアの頬から丁寧にはがし、動かない体を腕の中に引きよせて抱きしめた。冷えた体を抱かれ、イユキアが吐息をついて、また何か言おうとする。レイヴァートはその顔をのぞきこみ、つめたい唇へ自分の唇を重ねて言葉を封じた。
イユキアは目をとじ、体の力を抜いた。重ねた唇からぬくもりが体へ染み入ってくる、その流れに身をゆだねていた。レイヴァートの体温が心地いい。力を使い果たした体はこごえるように冷えきって、息のひとつごとに見えない針にさし貫かれるように全身が痛む。自分を抱くレイヴァートの腕と、重ねられた唇だけがあたたかかった。そこから流れてくるぬくもりが穏やかにひろがって、体の芯の痛みがほどけていく。あたたかな感覚に、陶酔の吐息がこぼれた。
レイヴァートからつたわる熱を、イユキアの体はむさぼるように呑みほした。意識と体がゆっくりとあたたまり、世界が色と手ざわりを取り戻しはじめる。体からこわばりが抜け、指先までもに熱がつたわるのがわかった。
唇が離れ、イユキアは物足りなさに溜息をつきながら、瞳をあけてレイヴァートを見あげた。レイヴァートは奇妙な表情でイユキアを見おろしている。とまどっているようだった。
瞬間、気がついて、イユキアは言葉を失った。茫然としたまま右手を上げ、自分の顔にふれ、唇にふれる。さっきまでこごえて重かった腕はやすやすと動いた。
レイヴァートの手を借りて起き上がる。重い疲労はあったが動作にさまたげはなく、体の芯はぼんやりとあたたかかった。
地面にへたりこみ、イユキアはレイヴァートを見つめる。手をのばし、レイヴァートの腕にふれて、かすれた声で言った。
「大丈夫ですか? あの──あなたは‥‥」
「俺は大丈夫だが」
レイヴァートはうなずいた。
「じゃあ、気のせいではないんだな。お前こそ大丈夫か?」
「ええ‥‥」
言葉が続けられないイユキアを立ち上がらせると、レイヴァートはたずねた。
「この場所はもう済んだか?」
イユキアは目をふせ、黙ったままうなずく。
「そうか」
レイヴァートはもう1度イユキアを抱き、軽く唇を重ねた。血に汚れた銀の髪をなでる。微笑した。
「戻ろう」
イユキアは何か言いかかったが、結局口をとじ、レイヴァートの肩に頭をのせて小さくうなずいた。
イユキアとカルザノをフィンカの背にのせ、レイヴァートが手綱を引いて木々の間をたどった。イユキアはカルザノの体をかかえて左手で持ち手の革帯を握り、右手の指を男の首すじにあて、何かつぶやいている。時おりそれを途切らせて黙ったが、言葉は発さず、レイヴァートも何も言わなかった。
1度だけ、レイヴァートがたずねた。
「あの狼は?」
「‥‥もう、森からは去ったかと」
イユキアが低い声でこたえた。それ以上の言葉はない。レイヴァートがうなずき、それきり2人はまた黙った。冬長の陽は傾いて森は長い影で覆われ、空気はしんと冷えはじめる。
途中から昨日たどった獣道に入り、村への近道を取って、太陽がまだ空にあるうちに森の入り口へたどりついた。ほっと息をついたレイヴァートは、森の入り口の茂みの横に座りこんでいる少年の姿を見つけ、立ちどまった。
「リーセル」
少年ははじかれたように立ち上がり、騎獣へ走り寄る。イユキアがかかえた父親の姿──左腕が断たれたその姿に息を呑み、見上げたイユキアの姿にまた息を呑んだ。水で多少は拭ったが、まだ肌にも髪にも赤い血の色がこびりついている。凄絶な姿だった。
イユキアはカルザノの体を獣の背に倒し、レイヴァートの手を借りて獣の背から降りた。少年へ向き直る。
「手当ては施しました。命には別状ありません。傷口を焼かなくても大丈夫。2日ほどで目を覚まします。その間、体をあたためて、これを湯に溶いて少しずつ飲ませて下さい。蜂蜜をまぜて」
手渡された油紙のつつみを受け取って、リーセルはまだ言葉を失っている。レイヴァートがイユキアの肩にふれた。
「待っていろ。すぐ戻る」
血まみれで、金の瞳で、イユキアが村人の前へ姿を見せるわけにはいかない。血に染まったマントのフードを引き上げたイユキアへ、リーセルが頭を深く下げた。
「あの‥‥ありがとうございました。すみませんでした、俺──」
右手の指をあげて、イユキアはリーセルの言葉をとめる。無言でうなずき、少年の肩に手でかるくふれた。
レイヴァートは眉を上げたが何も言わず、騎上に伏せた男の体を動かさないよう気をつけながら、鞍にのぼった。カルザノの体をかかえ、イユキアに小さくうなずいてから、ゆっくりと獣を走らせはじめる。リーセルはもう1度イユキアに頭を下げ、ぱっと身を翻してフィンカを追った。