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【9】

 イユキアは時おり方角を指し示しながら、森に残る自分の気配を追う。あの鳥の残した気配。それをたぐろうとするたびに右目の奥が激しく痛んだが、歯を噛んでどうにか押さえつけた。幻痛のようなもので、体に直に刻まれた痛みではない──が、それだけにするどく純粋な苦痛が凝る。
「伏せろ」
 レイヴァートが囁いてイユキアにかぶさるように身を低くし、頭上の枝をやりすごした。フィンカの速度を少しゆるめ、茶色く立ち枯れた茂みが点在する斜面を降りる。ふたたび木々の間に走りこもうとしたが、イユキアの息が荒いのに気付いて背後から肩を抱いた。
「少し休む」
 イユキアの反論を封じてフィンカから飛び降り、レイヴァートは手綱を取って歩き出した。
「このまま走らせては、フィンカももたん。お前は乗っていろ」
「急がないと──」
「急いでいるから、休む。水を飲んでおけ。飲みたくなくても、口の中を湿らせろ」
 こうなるとレイヴァートに何を言っても無駄なのも、彼の方が正しいのも知っている。イユキアは言われるままに従って、水筒から水を一口含み、地面に吐き出した。寒いのに体が奇妙な汗をかいている。もう1度水を飲んだ。氷のような冷たさが喉をすべりおち、ひとつかすれた息をついた。
 レイヴァートは手綱を引いて歩きながら、目を細めて木々の間の空を見上げた。流れる雲が低い。視界に覆いかぶさるような木々の色はうすぐらく、かわいていた。
「このあたりに来たことがないからか。空気が少しちがうな」
 イユキアがまた口の中の水を吐き出し、息をついて前鞍の持ち手をつかんだ。
「いえ。彼の‥‥彼らのせいですよ。ずいぶん不安定になっている」
 冬長の、おだやかに眠る森の姿の下に、イユキアは貪欲なうごめきを感じとる。もつれ、乱れて地中の脈を外れようとうねっている、何かの息づかい。気をゆるめると、疲労した神経が呑まれそうだった。キルシにこの乱流を制することができるだろうか、と思う。道をひらくのに彼はどれほどの血を使ったのだろう? それによって何が呼び醒まされるか、彼はわかっているのだろうか? アシュトス・キナースの森の底にひそむ「飢え」を、彼は知っているのだろうか。
 ──焦っているのか。
 キルシにとって、イユキアの存在は予想外だった筈だ。イユキアの出現で何もかもを急いだか。
(あの死骸は、なぜ人目にふれるところに置いてあったのだろう‥‥?)
 頭のすみに引っ掛かっていた問いが、またイユキアの脳裏に浮上する。イユキアたちが森へ注意を向けるきっかけになった左腕のないあの死骸。あれさえ発見されなければ、森で何かがおこっていることに、イユキアは気が付かないままだったかもしれない。あの死骸があらわれなければ村人は、仲間がお狩り場から帰ってこないことをレイヴァートに告げようとはしなかっただろう。少なくとも、もうしばらくは。
 キルシは、あの死骸をもっと目にふれないところに捨てた筈だ。だが、骸は森の入り口に近いところにあり、案の定、探しにきた村人に見つけられた。それがイユキアをこの森へ引きよせた。
 ──何故‥‥
「イユキア」
 レイヴァートの声に意識を引き戻される。イユキアは方向の指示がおろそかになっていたかと慌てたが、そういうわけではないらしく、レイヴァートは手綱を引いて歩きながら言った。
「キルシにはこの森の〈杭〉を抜く力があるか?」
「‥‥わかりません。この地を〈杭〉として組まれた術律の外形すらわからないままでは。でも、術をこわしたり歪めたりするのは、組むよりはずっと簡単なことなんです」
「この森の〈杭〉が破れたら、何が起こる。王城に、何か変化があるか?」
 イユキアはじっと考え込む。しばらく獣が土を踏む音ばかりが聞こえていたが、やがてゆっくりと口をひらいた。
「たとえこの地にあるものが王城の守りの一部だったとして、すぐ何かがおこるというものではないと思います。ひずみや歪みは、どこかに生じてくるでしょうが。杭のひとつが壊れても、術全体が壊れるとは考えにくい。でもレイヴァート、そもそもキルシが何を望み、何を狙ってこの森に道をひらこうとしているのか、それも本当のところはわからない」
「ほかに何か狙いがあると?」
「そうも、思えます」
 青みをおびたもやが、木々の間を生き物のようにたゆたっている。イユキアは金の瞳でそれを見つめていた。声にはどこか不確かな響きがあった。レイヴァートはうなずき、鞍をつかんで身を騎上に引き上げると、ふたたび騎獣を走らせはじめた。


 枯れた下生えの間を這うもやを蹄で蹴散らし、行く手をふさぐ朽木を大きく回りこむ。
 すでに太陽は中天近く、2度の休憩をはさんだ彼らは森の奥深くへと入りこんでいた。イユキアが枝を見上げ、手綱をつかむレイヴァートの腕に手をかけた。レイヴァートが速度をゆるめる。
 行く手に獣が倒れていた。腹を十文字に裂かれた野犬の下の地面は血で黒々と染まっていた。そこを通りすぎてすぐ、また別の野犬の死骸を見つける。その向こうに狐らしき血まみれの骸を見て、レイヴァートが嫌悪の声でつぶやいた。
「奴らか?」
「獣の血で道をひらく気です。大量の血と死で、場をむりやり不安定にしている」
 冬の冴えた空気の中に血と獣臭がただよっていた。その奥にどろりとよどむ、奇妙な歪みをイユキアは感じとる。また別の血溜まりをさけて方向を変えながら、フィンカが喉の奥で威嚇と怯えのまじったうなりを洩らした。レイヴァートがなだめながら歩かせ、木々の間を抜けて、土がむきだしの空き地へ足を踏み入れる。
 強い気配を感じて、レイヴァートは反射的に長剣の柄に右手をかけていた。フィンカが前足をつっぱらせてとまる。
 空き地の中央に、巨大な獣の死骸が横たわっていた。黒い毛皮の獣はその巨体をバラバラにされ、黒々と地面に染みた血の痕がくっきりと模様を作り出している。レイヴァートは鞍からおり、イユキアに手を貸して地面におろした。
 レイヴァートにその場にいるよう手で示し、イユキアは獣に歩みよる。裂かれたような手足は、血に黒く描かれた大きな円環の中に、規則的な位置どりで配置されていた。円環の中は直線で複雑に分割され、やはり血で紋様が描きこまれていた。
 金の目をほそめて、紋様を観察する。今朝の記憶がぼんやりとよみがえった。キルシをこの場所まで追った。円環の外には首を落とされたフクロウの死骸も見える。イユキアが使い、キルシが殺した鳥──もっとも、キルシが殺さずとも、術が終わればイユキアがこの鳥の命を終わらせただろう。ここで、キルシはイユキアを罠にかけたのだ。
 リーセルの父親の死骸があたりにないのが幸いだった。イユキアは彼の血が道をひらくのに使われるのではないかと危惧していたが、キルシは呼び集めた獣を使ったのだ。もっとも、安堵するわけにはいかない──単に、カルザノには別の運命が用意されているということだ。意味もないのに生かしておくわけがない。
 円環の中央には、切られた熊の首が座っていた。口に黒ずんだ棒のようなものをくわえさせられている。それを見つめるイユキアの目はきびしかった。地面に血で描かれた紋様の種類は、イユキアにとって予想外のものだった。
 森に、血の道をひらくだろうことは予想していた。そこまでは。
 レイヴァートが木の幹に手綱をかけ、円紋から注意深く距離を取って回りこんだ。右手を長剣にかけ、油断なく周囲に注意をくばっている。
「どんな術かわかるか?」
「‥‥呼びかけの、円紋です。絆をつないだものを呼んでいる」
「絆?」
「骨の‥‥絆」
 それだけをつぶやき、イユキアはさだめられた足どりで円紋の境をこえて内側へ入った。急いでいたためか、それとも余力がないのか、キルシは術への守りを置いていない。いや、とイユキアはまだ痛む右目をすがめる。キルシはイユキアを仕留めたと思っているのだ。幸運だった。今ここでキルシの獣と戦うには、消耗しすぎている。
 円紋の流れをたぐりながらバラバラの手足をまたぎ、胴を回りこみ、中央の頭へ近づくと、イユキアは手をのばして熊の口がくわえている棒を取った。血に濡れている。いびつに曲がって黒ずんだ、それは骨の形をしていた。血と黒ずみの下には黄ばんだ地色が見えた。時経る前は白かったのだろう。片端はへし折れて短剣のようにとがり、逆側はこぶのようにふくらんで丸い。骨の表面はざらついて、紋様の刻みにびっしりと覆われていた。
 イユキアは、指でそれをなぞる。紋様は後から刻みこまれたものではなく、生まれた時から骨に刻まれているものだと、彼は知っていた。この骨が何の骨であるのか。
 これを絆にして、キルシは道をひらいたのだ──
 絆の、骨。
(‥‥骨)
 何故この骨が、キルシの手にある? そして何故、これを使って呼びかけを行った?
 骨は、その内側に種族としての記憶を持っている。連綿と受けつがれてきた種としての名前、種としての絆。
 イユキアの背すじにぞくりと冷たいものが這う。キルシはここで呼びかけの円紋を描き、骨を通して絆を呼んだ。何のためだ? 通常それは、何かを召喚する時に行う技だが、この骨は今や召喚することの不可能なものだった。この召喚に応えうるものは今や地上には存在しない。その筈だ。
(まさか──この森に──)
 いるのか? そんな筈はない。では、どうして。せわしなく考えをめぐらせて立ちつくすイユキアを、レイヴァートの声が呼んだ。
「イユキア。彼らはどこへ行った?」
 イユキアは手にした骨から視線を引きはがし、レイヴァートへ顔を向けて背をのばした。そう。とにかくキルシを探し出し、ハサギットを探し出さねばならない。カルザノもそこにいる筈だった。
「今から追います。‥‥道を、ひらきます」
 キルシがたどった道ならば、自分にもたどれる。手中の骨の冷えきった感触に意識を集中しながら、イユキアは場と対応する言葉を慎重にえらびはじめた。


 世界は幾重にも重なりあい、弱い干渉をくり返しながら、小さな波動が重なりあってひとつの大きな波動を生み出してゆく。共鳴し、揺らぎ、離れ、溶けあう。時という巨大な波動の内側で。
 やわらかな膜に包まれたおのおのの世界はさだまった形をもたず、さだまった位置を持たない。それは時に強く重なりあい、また離れる。水にうつった影と光が揺らいで重なりあうように。
 森の奥深くの封じ地は、そうした影が重なりあう境界の地だ。そこは森というひとつの巨大な波動が胎内にはらんだ、深みの場所。そこがこの世のものなのか、イユキアにはよくわからない。だが異界というわけでもないのはわかる。はざまであるのかもしれないし、人がふれられるようにこの世界へ重ね合わされた異界の影であるのかもしれない。
 黒館の主となり、森の民に請われるまま森の祭司となってから、イユキアは数度この深みへ足を踏み入れたが、道をひらくのはいつも森の民の手だった。森の律動に沿った方法、しかるべき暦のしかるべき時間と場所で。すべてが森の秩序の内だった。
 これは、ちがう。キルシが強引に森に引き起こした流れの歪みが森を不安定に活性化し、あちこちにはざまのような薄い境界を出現させた。カルザノとカウルが狩りの最中に迷いこんだような空間の溜まりが、森の中にあらわれては消えている状態だ。
 術をかけ、冬長の森をさぐって──キルシは「場」を探していたのだろう。弱いところ、ひずみがより集まって大きなひずみを生むところ。その場所に呼びかけの骨をたてた。
 獣の技ならばキルシの方が強い。だが骨の技、1度死んだ者たちを扱う技ならば己の方が強いと、イユキアは知っている。骨の向こうにあるのは死者の言葉であり、死者たちはイユキアにとって生者たちよりもなじみ深い相手だった。骨。死。物言わぬものたち。とまった時間。かわいた感触。熱も冷たさも持たない。
 深く、深く‥‥古い力と古い絆をたぐり、それを自分の舌を通してもう1度言葉の形に作り直し、世界に示す。
 骨の絆の向こうに、その地はある。


 イユキアは目をあけた。道がひらいたのがわかっていた。キルシがひらいたようにではない。同じ骨を使ったが、イユキアがひらいた道はキルシの道と異なる、もっとおだやかに森の流れに沿う道だった。
 ふらつきかかる体を、そばに立つレイヴァートが上腕をつかんで支えた。2人が立っていた円紋も周囲の獣の骸も、白砂に吸いこまれてなにもかも失せていた。
 ──白砂。足の下にやわらかく崩れる感触に、イユキアは呆然と立ちすくむ。白砂。周囲を見回した。樹々のように見えていた影は、すべてよじれた巨大な白い杭だった。頭上に高く、樹冠のように先端が拡がったものもあれば、剣のようにするどいものもある。丸みをおびたもの、ひらべったいもの──
 そのすべてが、骨だった。イユキアは金の目をみひらく。見わたす限り、なにもかもが骨。骨の森だ、ここは。靴底で白い砂がかわいた音をシャリッとたてる。白い砂。骨のように白い。そのすべて、足の下にひろがり見渡すかぎり大地を覆ったすべての砂が、細かく砕けた骨だった。
 生きるものの気配はなく、イユキア自身の気配と息づかいも骨の砂と骨の樹の静寂に呑みこまれ、ゆっくりと凍てつく。無限の時のひろがり、境界の存在しない巨大な虚ろが、浸みるようにイユキアの内に入りこんでくる。
「‥‥イユキア」
 耳元に囁かれ、イユキアは息をつめた。世界が反転する。何もかもが逆流し、裏返った。感覚の迷走に耐えながら、イユキアは自分をつかむ腕の感触に意識を集中させた。世界から自分を引きはがすような痛みが全身を抜ける。
 頭を振って息を吐き出すイユキアを、レイヴァートが見つめていた。表情はいつもとあまり変わらないが、目の中に心配そうな光があった。
「大丈夫か?」
「ええ。少し‥‥骨の記憶にふれてしまって」
 イユキアはうなずいて、背すじをのばした。
 レイヴァートの視線がイユキアの手元をちらりとかすめた。
「それは何の骨だ?」
「古い、とても古い獣です。今の言葉での名はない」
 イユキアはレイヴァートに合図して、獣の骸を回りこむと血の円紋の外へ歩き出した。そうか、とつぶやく声が背中に聞こえる。
(人は誰でも嘘をつく──)
 骨は失せ、森はふたたび元の姿をとりもどしていた。冬の木々の青みをおびた灰色の枝がからみあい、暗い影の中をどこまでもひろがっている。
 その影の間に、さっきまではなかった淡い道があった。木々がひらいて奥への道をつくっている──いや、木々が動いたというより、そこだけ空間が引きのばされて、その分隙間がひらいたかのように見える。視界の歪みにレイヴァートは目をほそめたが、異様な現象の境い目を見切ることはできなかった。
「これが道か」
「そうです。封じ地へと続く‥‥」
 数歩行ったところでぴたりと足をとめ、イユキアはレイヴァートを振り向いて騎士の顔をじっと見た。何か言おうとしているのを察し、レイヴァートは黙って見返している。
「レイヴァート。ひとつ、お願いがあります。この道を覚えておいて、私が戻れと言ったら必ず戻って下さい。迷わず、途中で立ちどまったりしてはいけない」
 表情の動きはほとんどなかったが、レイヴァートはイユキアの言葉の意味を正確に悟ったらしい。あっさりした口調でたずねた。
「お前を待つな、ということか」
「ええ」
「わかった」
 反論せずにうなずく。こういうところは騎士だった。命を賭ける場での決断が早く、ためらいがない。この場での主導権を握っているのがイユキアだと心得て、イユキアの判断を信頼している──だから、従うのだ。イユキアにはそれがわかった。
 イユキアがそれをたのむのは、いざと言う時にレイヴァートに迷ったりためらったりされると、自分の行動に制限が出るからだ。そのことが、互いの身をあやうくするかもしれない。それはさけたかった。
 イユキアへ1歩近づき、レイヴァートがのばした手でイユキアの頬へかるくふれた。かわいた唇を親指でかるくなぞる。
「お前に従う。だがハサギットは俺の相手だ」
「ええ。お願いします。カルザノも、この先にいる筈です」
 レイヴァートが身を傾けると、一瞬だけふたりの唇がふれた。イユキアは瞼をとじることなくレイヴァートの目を見つめる。揺らぎもよどみもない、静かな深緑色の目。心の中にざわめくものが吸いこまれるように音を失い、精神が鎮まるのを感じた。
 それきりどちらも何も言わない。木々がつくりあげた細い径を早足で進むイユキアをぴたりと追いながら、レイヴァートは鞘から長剣を抜いて柄を握りこんだ。


 道の先から明るい光がさしてくる。その光は奇妙に重く、水のようにたゆたって、赤い。イユキアの手の中で骨がぬくもりをおびた。それは奇妙な熱だった。命のぬくもりではない、もっと異なる、粘ついた感覚。
 赤い光が木々を染め、赤い影を2人の上へまだらに投げかける。蜘蛛の巣のような影と揺らぎを地面に踏みこえ、イユキアが前へ出ようとした時、レイヴァートが肩をつかんで引き戻した。すでに右手は長剣を握っている。イユキアに体をすりあわせるように前へ出て体を入れ替えるまでに一瞬、かまえた長剣はつんざくような音を響かせて斬撃を受けとめた。
 ハサギットの剣はずしりと重く、骨にまでひびく。赤い光を背にして浮き上がった黒衣の剣士を、レイヴァートは強く見据えた。ニヤリと笑ったハサギットが両手で剣を斜め上段にかまえる。
 キルシによって斬り落とされた筈の左腕が、元通りについていた。レイヴァートの目に嫌悪が浮かぶ。全身に闘気が満ち、手にした剣にすべての意識を集中させると、彼は裂帛の気合いとともに大股に踏みこんだ。
 首すじを狙って正確に叩きこまれた剣をはねあげ、ハサギットは打ち返そうとするが、レイヴァートが早い。斜めに上がった剣の角度をかえず、肘をたたむように凄まじい早さで斬りおろした。寸前にハサギットは後ろへ跳んで、剣先にはマントの肩の感触しか残らない。さらに大きく踏みこんで左から横なぎの一閃をおくりながら、レイヴァートはイユキアが背後をすりぬけていくのを感じた。見ている余裕はない。
 長くのびた剣の腹を、ハサギットが剣で叩き落とそうとする。2本の剣は互いを押し付けあいながらすべって激しい音を鳴らし、レイヴァートの剣がハサギットの剣でぐいと下へ押しこまれた。ハサギットがそのまままっすぐ突きこむが、レイヴァートは斜めに引き上げた剣で突きを流し、ふたたびのびてきた剣尖を下がりながら柄元でとめる。
 その瞬間、ハサギットが、両手持ちの剣柄から右手を放すのが見えた。レイヴァートの首すじをするどい警告がはしる。
 片手になった分だけ間合いがのびる。ほとんど予備動作なく、ハサギットが左手1本で深く突きこんだ。のびた腕をさらに深くのばす動作ではほとんど力がこもらない筈だが、その剣はおそろしく早かった。レイヴァートは右足を軸に体を回し、間一髪でかわすが、ハサギットの剣はレイヴァートのマントを突き通していた。
 ふっと笑って、ハサギットは剣を引いた。幅広の両手剣を左手1本でもてあそびながら、レイヴァートへ血ばしった目を据えて笑みを深くする。
「10年たってやっと俺を殺す気になったか、レイヴァート」
 レイヴァートは答えずに、息を体の内へ溜めた。これだけ近くで剣を交わすと、ハサギットからたちのぼる邪気がはっきりと感じとれる。それをはねのけるために強い集中と闘気の充実が必要だった。
(俺を殺せ、小僧──)
 あれは、レイヴァートが15の時。後ろ盾もなく剣技会で勝ったわけでもない15の少年を、王は近衛として己のそばに置いていた。王城は現王の即位から5年の時を経て、若い王が実権を握りつつある中、前王の方針を強く支持する者たちとの対立はとけずに緊張が続いていた。そんな中で王がレイヴァートを重用したのは、王城にゆかりのないレイヴァートが権力や血筋のしがらみを持たないがゆえだろうと、今ならレイヴァートにも理解はできるが、その時はわけもわからず、15の彼はただ王を守ろうと必死だった。
 そんな中、ハサギットが王を挑発した。それまでも時おり王の前を横切ったり、礼拝に集団で姿を見せなかったり、ささいな挑発は重ねられていた。ハサギットは前王の近衛だった。通常、王は王位とともに近衛も継承するが、今の王はそれをよしとせずすべての近衛の任を解いた。
 ハサギットは傷ついていたのだろうか? 憎んでいたのだろうか、王を──新たなる王城の主を? レイヴァートは彼の腕を斬ったことを後悔はしなかったが、しばらくは時おりハサギットのことを考えていた。あれが何のためだったのか。あの時たしかにハサギットは酔っていた。それも酒にではなく、ケドゥの水煙管に。だが王の前で考えもなく剣を抜くほどに酔っていたとは思えない。どれほど酔っても、近衛であった者が王の前で考えなしに剣を抜くことなどありえない。
 王を殺そうとしたのではない。それはレイヴァートもわかっていた。殺気もなく、距離もあった。いたってふざけた調子でハサギットは剣を抜き、誰もが息を呑んで凍りついた一瞬、レイヴァートが踏みこんでハサギットの左腕──剣の腕を、はねた。
 剣を握ったまま、ハサギットの左腕は床石に落ちた。
 血溜まりに膝をついたハサギットは汗ばんだ顔でレイヴァートを見上げ、かすれた笑いに喉を引き攣らせた。その目は真剣で、寸前までのふざけた様子などかけらもなかった。
(俺を殺せ、小僧)
 レイヴァートは王を見たが、王は無表情で何も言わずに歩き出し、ハサギットの横を抜けた。許可が出されていないと判断し、レイヴァートは刃の血をぬぐって剣を鞘におさめ、王を追った。
 ハサギットが審問のすえにアシュトス・キナースを追放されたとレイヴァートが聞いたのは、それから半月後のことだった。
 それから10年、冬長の地に亡霊のように立ち戻った男は、失ったはずの左腕に剣をかまえて笑う。目に憎悪をたぎらせて。
「お前の左腕をもらうぞ、レイヴァート‥‥」
 帰ってきたのか。そのために。