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【5】

 色を失った蔦がだらりとイトスギの枝から下がっている。まるで、やぶれた蜘蛛の巣のようだった。冬の陽は天に高かったが、青ざめた空に満ちる光は弱々しく、森をゆく2人の影は木々の影に呑みこまれた。
 死体のあった場所をさぐり、さらにその奥へ、獣の通る道をたどってゆく。イユキアの歩みは遅かったが、レイヴァートは騎獣の端綱を引きながら黙って彼に従った。
 何かを確かめるように、時おり立ちどまり、木々にふれては身をかがめて土をたしかめる。人の目に見えているものだけを探しているわけではないのだろう。イユキアの瞳にうつりこむものが何なのかはわからないが、レイヴァートに同じものは見えない。それだけは知っていた。
 異変にはっきりと気付いたのは、森を歩いて1時間ほどたった時だ。見上げた木の股に、こわれかけた鳥の巣を見つけた。斜めにくずれた小枝のかたまりの中から青い羽毛がはみだしている。
 レイヴァートは小さな息をつき、相変わらず奇妙にさだまらない足取りで前をゆくイユキアへ声をかけた。
「イユキア。──同じところを回っているぞ」
「‥‥本当に?」
 足をとめ、イユキアはレイヴァートをふりむく。フードをかぶっていないので、銀の髪は淡い光を溜めながら、肩口へゆるく流れ落ちていた。
「ああ」
 うなずいて、レイヴァートはひとつずつ目印を教え、説明する。それを聞いてから、イユキアはあたりをもう1度ぐるりと回って自分の足取りをたしかめ、吐息をついた。
「ねじれてますね。封じ地があるのかもしれない」
「ふむ。内側へ入るなら、俺が道を探そうか?」
「多分、そう単純なものでもないでしょう」
 考えこんだイユキアへ、レイヴァートが水筒を手渡した。少し休むとの無言の提案にうなずき、イユキアは水を一口飲む。つめたい指先へ白い息を吐きかけた。手袋が嫌いなのだ。覆われると、感覚がにぶる気がする。
「森の封じ地は、単に空間だけの問題ではないので、歩いていけばそこに行き着けるわけではありません。ただ、その存在で森の流れが変わることがあります。どうもこの森には不安定なねじれがある。その中心に封じ地があるのかもしれません」
 レイヴァートも水を飲んで、
「封じ地があるということは、ここに何かが隠されているということか?」
 と、たずねた。イユキアはあいまいな表情で、虫穴の空いた木肌に指でふれる。
「そういうこともありますが、森の封じ地は珍しくないものですからね。王城の森にも人の入れぬ場所がいくつもあります。そのどれもに意味があるわけではない」
「お前も入れないのか? 黒館と森とは近しいのだと思ったが」
 特に何も考えず、レイヴァートはイユキアへたずねた。イユキアはチラッとレイヴァートを見やる。微笑したように見えた。
「距離は近いですね」
「‥‥イユキア。俺には、王城と森と黒館の関係が、よくわからない」
 フィンカの鞍に水筒をくくりつけ、レイヴァートはすりよせてきた獣の鼻面をなでた。彼はこれまでイユキアにそういうことを聞いたことがない。この冬長、王城で聞いた森長の言葉が、彼にそれを言わせたのかもしれなかった。
 答えるイユキアの声は、奇妙にひややかだった。
「私にもわかりません、レイヴァート。アシュトス・キナースの地には、何かがある。それが何かはわからないし、知っている人もいないのかもしれませんが、おそらくはその何かを中心にして、王城や黒館、森をも巻きこんだ大きな術律が組まれています。古いものです」
「この地全体に魔呪がかけられていると言うことか?」
「ある意味では。王城も黒館も、複雑な術律を織りこまれてつくられた存在であるとともに、それ自体が術律の外殻要素となっているのだと思います。あまりにも古く、今はもう原形もわからない術ですが、いまだにそれは、生きていて──」
 イユキアは自分の考えに沈むように話していたが、ふっと言葉をとめた。レイヴァートはおだやかな深緑の目で見つめ、獣をなでながらたずねた。
「今でも、生き続けているのか。何の術だかわからないものが? 俺たちはその中で暮らしているのだな?」
「‥‥そうです」
 レイヴァートが眉をしかめた。魔呪について彼の知識は限られているが、少年の頃に出会った魔呪師に聞いた言葉が、記憶のすみで動いた。
「‥‥魔呪の術律を動かすには人の〈意志〉の力が要ると、聞いたことがあるが‥‥」
 イユキアがレイヴァートへ顔を向けたまま、小さくうなずいた。レイヴァートはイユキアを見ていたが、ふいに低い声でつぶやく。
「だから、黒館は主を必要とするのか。術を継ぎ、生かし続けるために」
 彼を見つめるイユキアの目が、ゆっくりとまばたきした。
 そうなのだ、とレイヴァートは悟る。それがどういうものなのかレイヴァートにはわからないが、黒館に仕掛けられた魔呪の、生きた焦点として、黒館は「主」を必要とするのだ。
 レイヴァートの確信した表情に、イユキアが小さな溜息をついた。
「‥‥そう。黒館の主であるということは、黒館の魔呪の要であるということでもあります」
「お前は、その役割を先代の主から引き継いだのだな。それでも自分が継いだ術が何であるのか、わからないのか?」
「ええ。知らない鍵を手渡されたようなものですよ。その鍵でひらく扉の向こうに何があるのかは知らないし、それどころか扉がどこにあるのかもわからない。本当に、まだ存在しているのかどうかすら。‥‥私には本当にわからない、レイヴァート」
 つぶやいて、イユキアはどこかたよりない表情を見せる。水薬で黒っぽく染まった瞳の奥に、金砂のような光がゆらいだ。冬の陽が彼の顔に青い影をおとしていた。
 レイヴァートは手綱を獣の首へかけるとイユキアへ歩み寄った。のばした手で頬にふれる。レイヴァートの指も、イユキアの頬も、冬の空気に冷えきっていた。
 親指を沿わせ、頬を下から軽くなでながら瞳をのぞきこんだ。
「ああ。わかっている。‥‥今は、この森のことを考えよう」
 イユキアがぼんやりとレイヴァートを見て、うなずいた。そのまなざしの中に、レイヴァートはたしかな不安を読みとる。これまで、黒館の主であることでイユキアが迷いを見せたことはなかった。イユキアは静かにそこにいて、何もかもをただ受け入れているように見えた。レイヴァートはそう思っていた。
 もしイユキアの考える通り、古い魔呪の術を生かし続けるために黒館が主を必要とするというのならば。
 ──それはまるで生きた贄のようだと、レイヴァートは思う。黒館に捧げられ、ただそこにあることを要求される。だがそうは言えなかった。
 低い声で、たずねた。
「つらいか?」
 イユキアは目をみひらいたが、かたい表情のまま首を振った。1歩下がって、身を翻す。ゆっくりした足取りで歩きはじめた。
 もと来た方角へ戻りながら2人は黙々と歩いていたが、やがてイユキアが振り向かずに言った。
「私は、あまり慣れていないのです。こんなふうに、何者かであるということに。最近、少し──それが、怖くもある」
「怖い?」
「‥‥いつか、背負えずに、何もかもを失望させてしまうような気がします。予感と言ってもいい」
 イユキアの表情は背後のレイヴァートからは見えなかったが、その口調は不自然なほど淡々としたものだった。しばらく、枯れ枝を踏む乾いた音だけが続く。
 やがてレイヴァートがおだやかな声で言った。
「お前はよくやっている。今のままで大丈夫だ」
 イユキアが小さく笑った気配があったが、言葉は返ってこなかった。沈黙が痛々しく、レイヴァートは先を行く後ろ姿を無言で見つめた。どうしようもない。何を言えばいいのかわからない。イユキアの中には融けない氷のような塊があって、時おりに彼の心をとざしてしまうようだった。
 2人は無言で、昨日の死体が発見された場所まで戻る。あらためて地面に膝をつき、イユキアは死者が横たわっていたあたりを調べながらたずねた。
「死体はどうしました?」
「街道警備隊が引き取った。王城の者が検分するだろう。‥‥イユキア。あの死体、血が抜かれていたのではないのか?」
「ええ。多分」
 茶色くささくれた地面にイユキアが手をのばし、死者が倒れていた部分の土をひとすくい握り、つめたい小石を指の間からこぼした。顔を上げてレイヴァートを見上げる。
「村人が戻ってこないと言っていましたね」
「うむ。2人」
「2人?」
「お前も知っているだろうが──」
 ふいにレイヴァートは言葉を切り、唇へ指をあてた。肩ごしにちらっと視線を流し、イユキアへ合図する。イユキアが小さくうなずくと、レイヴァートはフィンカの端綱を木の幹に巻きつけながらはっきりとした声で言った。
「あたりの様子を見てくる。お前はもう少しここを調べていてくれ」
 イユキアはうなずいて地面へ視線を戻した。レイヴァートが手を振って、木々の間へ分け入り、左右を調べるそぶりをしながら姿を消した。イユキアは地面にあてた手のひらごしに、そこにあったはずの死者の気配を感じとろうとしたが、ひやりとした冬の地面には生者の息づかいも死者の息づかいも感じられなかった。冬長だ。森は眠っている。‥‥その筈だった。
 いつもは森に満ちる雑音もない。だがイユキアは、その静寂の向こうにある奇妙なざわつきを読みとっていた。レイヴァートが「いやな感じ」と言ったのと同じものだ。眠る大地の脈を感じとろうと心をとぎすますと、耳には聞こえてこない大量の虫の羽音を感じとったように、ふうっと背すじが総毛立つ。すぐそばに血の臭いを嗅いでいた。
 心臓がドクリと脈をうつ。その瞬間、鼓動にかさなる別の音を聞いた。ひどく古い、深い──地脈のねじれ──?
(呼吸か?)
 遠い、胎動のような。感じとったと思ったそれは、地脈の気配に融けこみ、次の瞬間まるで区別がつかなくなっていた。それともはじめから錯覚だったのか。
 イユキアが目をとじて気配を追おうとした時、人の声が上がって、彼は醒めたようにはっと顔を上げた。頭をめぐらせた先に、レイヴァートが黒髪の少年の腕をつかんで歩いてくるのが見えた。
 あきらめた様子でおとなしく歩く少年の顔に、イユキアは覚えがあった。昨日、イユキアをフィンカに乗せて森から家まで送った少年だ。
「‥‥リーセル?」
 イユキアが名を思い出してつぶやくと、レイヴァートがうなずいた。
「村の、カルザノの息子だ。イユキア、昨日聞いたカウルといっしょに森に入り、やはり帰ってこないのがカルザノだ。リーセルは父親を探しに来たそうだ」
 少年は硬い表情で足元の地面を凝視している。冬の風に赤らんだ頬を見つめ、イユキアが静かにたずねた。
「場所の心当たりがあってのことですか?」
「‥‥俺、父さんたちと‥‥」
 答えようとして、おどおどと視線がさまよった。またうつむく。
 立ち尽くしてしまったリーセルの様子を見ていたが、レイヴァートはふっと口元に白い息を溜めてイユキアを見た。
「俺は、聞かない方がいいかもしれん」
 イユキアが答えようのないうちに、レイヴァートはさっさと大股で歩み去って2人から大きく距離を取った。灰色の木の幹の向こうで背を向けて腕組みする。イユキアは怯えた様子のリーセルへ向き直って、まっすぐ見つめた。少年は痩せているが、イユキアよりわずかに頭が高い。
「リーセル。いなくなった人たちがどこで狩りをしていたのか、心当たりがあるんですね?」
「‥‥‥」
 こくりとうなずいた。黙りこくったままだ。イユキアが辛抱強く待っていると、やっとかぼそい声で続けた。
「この先に、今はもう使われていない狩猟小屋があって‥‥」
 しぼり出すように言った。
「父さんたちは、そこを使ってたんです」
 その一言を言うには勇気がいっただろう。自分もその場所を知っている──お狩り場の森に、禁じられた狩り目的で入ったことがあるのだと、告白したと同じだ。イユキアは離れた場所に立つレイヴァートをちらと見やってから、静かなまなざしを少年へ戻した。
「その近くで狩りをしていた?」
「‥‥‥」
 小さく、リーセルはうなずいた。恐れるようにレイヴァートの方へ視線を投げ、さらに恐れるようにイユキアを見て、深くうつむく。聞けば少年を罰さないわけにはいかないからレイヴァートは離れたのだが、こうして2人でいるとイユキアの長い銀の髪と異邦人の風貌も恐ろしいのだろう。彼が正体不明の自分を恐れているのはよくわかっていたが、他人に忌避されるのはイユキアにとって珍しいことでもなかった。
「彼らが帰らなかった時、すぐに行ってみなかったのですか?」
「‥‥行きました。でも‥‥どうしても、見つけられなくて‥‥」
 その言葉にイユキアの表情が動いた。
「たどりつけないということですか? 小屋のあるはずの場所に?」
「はい‥‥」
 さらにイユキアは問いを重ね、小屋の場所と目印を少年の口からはっきりと得た。
 イユキアが片手をあげてレイヴァートを手招きした。レイヴァートが歩みよると、
「彼を村へ送って行ってください。私は少し、探してみます」
「1人で行くな」
 珍しくレイヴァートが強い調子で言った。イユキアが意表をつかれて騎士の顔を見やると、深緑色の目に心配そうな光があった。まっすぐに見つめ返されて、イユキアは一瞬返す声を失う。その間隙をとらえて、レイヴァートが言葉を重ねた。
「相手の正体も人数もわからん。それにこの森は、お前にとってもなじみのない森だろう。1人では行かせられない」
「ですが‥‥」
 イユキアが迷って口ごもる。だが森には狼もいるようだし、リーセルを1人で帰すのはいかにもまずいのではないかと思っていると、うつむいていたリーセルが顔を上げて2人を見た。
「俺‥‥俺、案内します。案内、できます。この先へ行くんでしょう?」
「‥‥ですが」
「おねがいします。‥‥おねがいします」
 父を助けようと必死なのだろう。思いつめた様子のリーセルを見つめ、自分を見据えているレイヴァートを見て、イユキアは気がすすまない様子のまま、うなずいた。本意ではないが、仕方がない。
 礼を言うリーセルからついと身を翻し、イユキアはふたたび森の奥へと歩き出す。リーセルをうながし、レイヴァートもフィンカの端綱を引いて続いた。
 無言の3人は、白い息を吐きながら、冷えきってはりつめた空気の中を歩いてゆく。先頭に立ったリーセルは、先刻イユキアが迷っていたあたりを左へ大きく回避して、枯れた小川を渡った。しめった堆積物が靴の下で大きく沈む。細いサンザシの茂みの間を抜けた。物慣れた足取りをレイヴァートは憂鬱そうに見たが、何も言わなかった。
「何故、あなたの父親は冬長の森へ入ったのです?」
 歩きながら、ふいにイユキアがリーセルへたずねた。
「禁じられてはいませんか。冬長に森へ入ると魂が抜かれると」
「‥‥知っています‥‥けど‥‥」
 前を向いたリーセルの頬が、寒さだけでなく赤らんだ。お狩り場に入って獣を狩るという禁を冒していた以上、冬長に森の奥へ足を踏み入れて禁を破ることも、彼らにとっては差が無かったのかもしれない。少年は押し黙り、イユキアも遠い目をしたまま、それ以上は何も言わなかった。
 やがて、リーセルが周囲を見回し、怯えた目を森のあちこちへ向けた。
「このあたりから、もう小屋が見えてくる筈なんです。それがどうしても、たどりつけなくて‥‥俺、探したんですけど‥‥」
 イユキアの合図を受け、レイヴァートは一動作で長剣を引き抜いた。刃を見て身をすくませるリーセルにフィンカの端綱を渡し、1歩前へ出た。
「そこにいろ」
 そうリーセルに命じ、イユキアを追って進む。イユキアは斜めに幹のよじれたナラの横で足をとめ、目をすがめて眼前の空間をはかるようにしていた。
「封じ地か?」
 イユキアは前を見たままかすかに首を振った。
「目くらまし‥‥もっと簡単な結界です。新しい」
 膝をつき、右手のひらを大地に当てた。集中している顔を見おろして、レイヴァートがそっと問う。
「解けるか」
「ええ」
 落ちついて澄んだ声には、魔呪を使う者としての自覚と誇りがにじんでいた。
「獣の属性を感じます。形の中にはじき出してしまうので、斬ってもらえますか?」
「心得た」
 レイヴァートも、王城の剣を持つ者としての自信に満ちた言葉を返す。それぞれに互いの力量を信頼している。それを感じてイユキアは淡い微笑をうかべ、目をとじた。己ひとりでもこの場の術を扱うことはできるが、レイヴァートに背中をまかせて術だけに専念できるのは心強い。それをどこかで楽しんでいる自分が、妙に面映ゆかった。
 手のひらを地面にあてたまま、全身の力を意識に集中させる。
 見つめるリーセルがあっと声を上げ、自分の声に驚いて口を押さえた。イユキアの目の前の地面から血の色がにじみ上がってくる。たちまち地面全体に赤いもやがかかり、じわりと染み出した血の霧があたりに濃くたちのぼりはじめた。だがイユキアの前に見えない壁があるかのように、霧はイユキアの向こう側にだけたちこめ、目の前の景色を赤く染める。
 赤霧はゆらゆらと粘り気のある動きを見せ、不穏にうねくっている。
 イユキアが目をとじたまま、そっと呼んだ。
「レイヴァート」
「いつでもいい」
 長剣を軸の中心に据え、肩と腰をどっしりと落とした構えでレイヴァートが応じる。イユキアはうなずき、口の中で呪の詠唱をはじめた。古い、遠い、文字をもたない言葉。呼びかけ、名付け、つなぎとめるための言葉。言葉を紡ぐごとに自分の存在そのものが言葉となってほどかれていくような、異様な感覚がわきあがる。この言葉の前では、己もまたひとつの「言葉」にすぎないのだ。言葉によってつくられ、言葉によってほどかれる存在。
 精神を限界まで集中させた。この場所に置かれてある別の「言葉」をさぐりあて、他人がつくりあげたその形を感じとりながら、もう1度名付けなおしてほどいてゆく。手探りで糸の結び目を解くように。ほどかれて流れ出していこうとする力をつなぎあわせ、イユキアは術の全体と細部を同時に組み上げはじめた。
 術には獣の気配が満ちていた。イユキアがはじめに感じとったように、術律が獣の形を焦点として立てられているのだ。この結界を張った術師は獣の技を得手としているのだろう。
 術は、何かの「形」を焦点とすることで、術全体として律される。形を持たない「力」を形にはめこんで御しやすくするのは、魔呪の基本だ。特にこの結界のように術師の手からはなれても術が保たれる必要がある場合、「形」はしばしば術本体と同じほど重要になってくる。ある意味、形もまた本質なのだ。それは、体と魂のような関係に似ている。形と、その中にあるもの。
 イユキアは、術中の獣の形を意志と言葉の力でからめとりながら、形を壊すことなく術をほどいてゆく。獣がうごめきだそうとする蠕動を抑えこみ、形を逆利用して、獣を自分の支配律に組みこんだ。
 剣をかまえたレイヴァートの眼前で、赤い血霧が徐々に寄り集まり、目に見える形をとりはじめる。レイヴァートは微動だにせず、あらわれ出る獣の姿を見据えていた。
 それは四つ足で長い尾を持った獣だった。異様に肩が張り上がって後ろ脚は長く、レイヴァートの知る地上の獣ではない。頭は扁平で鼻はとがり、耳は後頭部から魚のひれのようにひろがっている。
 赤黒い姿がてらてらと実体を帯びはじめると同時に、周囲の赤霧が一気に獣の体内に吸いこまれて消えた。獣が四つ足を張って赤く光る両目をひらいた瞬間、レイヴァートは剣を振り上げながら大きく1歩踏みこみ、腹から気合いを発しながら全身の力をこめて斬りおろしていた。
 獣の姿に剣身がふれた瞬間、剣からつめたい痺れが両腕をはいのぼった。異様な冷気にとらわれそうになる。レイヴァートは腹の底に力を溜め、体内に闘気をみなぎらせながら裂帛の気合いとともに押し切った。
 粘液を斬ったような手ごたえだった。それがぶつりと途絶え、獣の姿は消失して、剣は硬い地面にぶつかっていた。片膝を深く折った体勢でレイヴァートは荒い息をつく。顔を上げ、剣を離すことなくイユキアを見つめた。
 イユキアがうなずく。かすかに微笑した。レイヴァートが斬ったのは、イユキアが術のうつし身として顕現させた獣だ。そう簡単にこの世の刃で切れるものではないが、レイヴァートはうなずき返しただけで特に何も言わず、マントで刀身を拭って──獣を斬った痕跡は何ひとつ残っていなかった──剣を鞘へおさめた。
 イユキアも立ち上がる。背後ですくんでいるリーセルを振り向き、木々の間を白い指でさした。
「あれが狩猟小屋ですか?」
「‥‥‥」
 リーセルは蒼白なまま、物も言えずにうなずく。まるで目に見えない覆いを取り払ったかのように、行く手には古い丸太小屋があらわれていた。


 レイヴァートにリーセルをまかせ、イユキアは数歩先をゆく。かすかな風が銀の髪を揺らし、冬の空気に肌はますます血の色を失っていた。
 丸太小屋は囲む柵もなく、納屋も煙突もなく、ただそこに建っていた。リーセルの話によれば、王城から猟をゆるされた狩人がかつて使っていたものらしい。風雨に色あせ、朽ちる寸前の屋根や壁は、背後の木々の色にとけこんで見えた。
 窓がわりの小さな板戸はしっかりとしめられている。人の気配も外からは感じとれなかった。あたりを警戒しながらぐるりと小屋を回ったレイヴァートは、扉のそばに膝をついているイユキアを見つける。地面から何かを拾おうと手をのばしているところだった。
 砕けた陶器の破片のように見えた。もとは手のひらにおさまる程度の大きさの何かだったのだろう。打ち砕かれたと言うより、内部から破裂したように四方に散っていた。イユキアはつまみあげた破片の1つをじっと見てから匂いを嗅ぎ、用心深い仕種でなめた。考えこんでいる。どこか憂鬱な気配があった。
「中を見てくる」
 そう断って、リーセルにイユキアのそばにいるよう手ぶりで伝えると、レイヴァートは扉に手をかけた。小屋の大きさに対して意外と幅の広い扉を押すと、たてつけの悪さに手間取ったが、扉はきしむ音をたてながらひらいた。
 薄暗い小屋の中に、丸太組みの壁を抜けてさしこむ光のすじが淡い模様をつけていた。床は土のまま平らに踏み固められている。レイヴァートは用心深く小屋の中を見て回った。つめたい土はかたく、見てわかるような足跡は残っていなかった。
 板戸をあげたが、窓は小さい上に太陽と逆向きで、さして光は入ってこなかった。床の中央に石で四角く囲った小さな炉が切ってあり、レイヴァートは黒ずんだ燃えさしに手をふれて、それがつめたいのをたしかめた。石も冷えている。だが、この数日に何かが燃やされたことは確かだった。
 壁によせて、大きな木の作業台が据えられていた。台全体に散っている黒っぽい汚れはやけに艶めいている。血だ。本来は、この台を外に出して狩りの獲物を処理するのだろう。手のひらをすべらせた表面はナイフや斧の痕でささくれ、表面は乾いていたが、顔を近づけると生臭いにおいが嗅ぎとれた。何日か前に使われた気配がある。
 逆の隅には木の粗末な寝台が置かれているが、板がむきだしで毛布はない。レイヴァートはぐるりと部屋を見回し、扉口からのぞきこんだイユキアと視線をあわせた。
「誰かがここにいた」
 告げるとイユキアは小さくうなずき、レイヴァートが外へ出るのを待ってから中へ入った。
 レイヴァートは扉の外に落ちていた破片がすべてなくなっているのに気付く。イユキアが拾ったのだろう。リーセルは小屋の角に立ち、森やあたりを落ち着きなく見回していた。
 レイヴァートがリーセルへ歩み寄る。いや──歩み寄ろうとした時だった。
 瞬間、きしむような声に足をとめた。
「動くな、レイヴァート。俺はガキを狙っている」
「‥‥‥」
「指1本でも動かしたら、短剣を投げる。お前も、小屋の中の魔呪師もな」
 言われた通り体を動かさず、レイヴァートは木々の間へ顔を向けた。灰色にあせた色を見せる木々の間に黒づくめの剣士が立っていた。げっそりと痩せた体に革の胸当てとマントをまとい、左手に短剣を振り上げた体勢のまま、するどくレイヴァートをにらみつけていた。
「ハサギット」
 レイヴァートは小さく息を呑んだが、次に少年へ呼びかけた声は落ちついていた。
「大丈夫だ、リーセル。‥‥動くな」
 少年は立ちすくんで小さくふるえている。彼とレイヴァートとの距離は10歩近くあった。走りよっても宙を飛ぶナイフにはまにあうまい。この剣士がかつてと同じ腕ならば尚更──と、レイヴァートは男を見つめた。憎しみだけに灼けた瞳は、かつてレイヴァートが知っていた剣士の目ではなかった。
「ハサギット。いつ戻った。戻らぬと王城に誓約しただろう」
「誓約? そのようなものには、もはや縛られんよ。扉をしめろ。それから後ろへ5歩、その姿勢のまま小屋に沿って下がれ」
 レイヴァートは言われるままに小屋の扉をしめ、リーセルとの距離をさらに取った。イユキアは小屋の奥にいるのか、扉にふれた時も姿は見えなかった。
 ハサギットはまるで幽鬼のように見えた。ほつれ破れたマントをまとい、古びて血の染みのついた革鎧の胸元に色のくすんだ鎖を垂らしている。左腕で短剣を構えた姿を見つめて、レイヴァートは抑えた声で言った。
「死者の左腕を切り落としたのはお前か。何と取引した、ハサギット。何に自分を売った」
「お前が切った腕が痛むのだ、レイヴァート」
 声は憎悪よりも歓喜に満ちていた。ついに求めていた相手に出会ったかのように。唇を左右に歪め、頬をつりあげてハサギットは笑みを向ける。
「そちらから出向いてきたとはな。──リーセルと言ったか、お前、こっちに来い」
「俺が行く」
 レイヴァートが動こうとすると、ハサギットがぎろりとにらんだ。
「ああ、お前には勿論来てもらう。罪償の血を残らずしぼりつくしてやるぞ。だが、まず──ガキ、お前だ。来い」
 まがまがしい視線をうつされてリーセルは蒼白になったが、唇からふるえる言葉を押し出した。
「父さん──父さんは、どこにいる‥‥?」
 ハサギットの表情がぴくりと動いた。
「ほう。森に喰われた男はお前の父親か。我らといっしょにいるぞ。いいとも、後でいっしょに帰してやるから、こっちに来い」
 右手で手招かれ、リーセルは唾をのみこんで、こわばった足を踏み出した。レイヴァートはハサギットをにらみながら周囲の気配をうかがう。ハサギットの狙いはわかっていた。まずリーセルをそばに置き、その喉に手をかけてからあらためてレイヴァートを脅すつもりだ。それまでにどうにか打つ手が必要だった。
 背後の小屋の中でほんのかすかな音がした。イユキアが、レイヴァートにだけ聞こえるよう小屋の壁を中からそっと叩いている。2度。
 レイヴァートは1歩前へ出て、大きく呼んだ。
「リーセル、とまれ!」
 少年の足が思わずとまる。ハサギットが苛立ちの目でレイヴァートをにらんだ。バラバラにのびた黒髪が目の上へ落ちかかり、影のせいで余計に目がおちくぼんで見えた。
「ハサギット」
 レイヴァートは両手をだらりと垂らして見せたまま、男へ向き直る。
「順序が逆だろう。俺を狙うのなら、俺だけを狙え。リーセルにも父親にも手を出すな。今、そちらへ行く」
 言いながら腰の剣帯の留め金を外し、長剣を鞘ごと地面へおとした。両手をひろげて何も持っていないと示しながら、歩き出す。ハサギットがするどい警告の声を発した。
 その瞬間、しぼり出すような苦鳴とともに男の指から短剣が落ちた。左腕をおさえ、ハサギットは身をはげしくよじって吼える。体をバラバラに引き裂かれているかのような絶叫だった。
 レイヴァートは一気に走り出し、とびつくようにリーセルを地面に倒した。ハサギットから死角になる木の根元へ少年の体を押し付ける。
「じっとしてろ」
 言い捨て、立ち上がった。視界のはじに、小屋の扉がひらいてイユキアが立っているのが見えた。その目を金の色を帯びたかがやきに染め、イユキアはひどく自然な動作で歩き出す。唇が何かをとなえていた。
 レイヴァートはマントをはねあげて腰の後ろの短剣を引き抜く。ハサギットがいっそう高い悲鳴を上げ、小屋に背を向けて走り出した。その先にやせたマント姿の男が森から浮き出すように現れ、ハサギットのよろめく体を受けとめた。ハサギットが悲鳴をあげる。
「助けてくれ、キルシ──」
 物も言わずに、魔呪師は小剣をひらめかせ、ハサギットの左腕を肘から切り落とした。腕力などありそうにない弱い一撃に見えたが、左腕は服ごと切り離されて地に落ち、苦悶の形に歪んだ五指はみるみる黒ずんで、焼けただれたようにしぼんでいく。
 魔呪師の手がふたたび一閃し、駆け寄ろうとしたレイヴァートは後ろに跳びすさった。赤く巨大な影がかぶさってくる。木の間に転がってよけ、一転してはね起きると、眼前に見覚えのある獣が立っていた。張った肩、長い後ろ脚、奇妙なひれのような耳──先刻、結界を破る時にイユキアが顕現させた獣だ。だが今回はその体は赤黒いうろこ状の皮膚につつまれ、生々しく粘る光をおびて、ずっと実体らしく見えた。
 それでもこれは実体ではないのだ。レイヴァートは、それを理解していた。男が召喚した術律の獣だ。
 使い魔を見るのも対峙するのも、はじめてではない。吹きつけるように押し寄せてくる見えない圧力を体に満ちる闘気ではねつけながら、短剣をかまえた。長剣は背後に鞘ごと落としてきたままだ。不利とは思わなかった。短剣は間合いが狭いが、速さでは勝る。たじろぐことなく獣の動きをするどい目で見つめ、ひらいた両足の爪先に力をかけ、重心をゆっくりと左足にのせてゆく。
「レイヴァート」
 そっと、囁くような声。イユキアがすぐそばにいることに、レイヴァートはあまり驚かなかった。獣から目をそらさずに答える。
「どうする」
「まかせて下さい。‥‥息を、とめて」
 イユキアの声はおだやかだった。
 ふいに、ピィンと空間が鳴った──いや、それは音ではない。風鳴りよりもっとするどく、人の心を直接通り抜けてゆくような、ただ純粋に凝縮された響き。澄んだ無音のこだまはあたり一帯にひろがり、体が内外から同時に押しつぶされるような音の圧力に、レイヴァートは息をつめてこらえた。何もかもがゆるやかに動きをとめたようだった。ふしぎな無音の中、ゆっくりと歩み出したイユキアが獣へと近づく。何か言おうとしたがレイヴァートは声が出ない。それどころか指1本動かせなかった。
 イユキアの瞳が強い金の光をおびてまっすぐに獣を見つめていた。獣はたわめた後脚で跳躍しようとした体勢のまま、動きを凍りつかせている。ひらいた口腔は血のように赤かった。
 イユキアが手のひらを獣の顔へつきつける。そのまま腕が何の抵抗もなく獣の内側へ沈みこみ、肘まで呑みこまれたところで、何かを引き抜くように力をこめて腕をひねった。獣の姿がはじけとぶように消える。その瞬間、すべての音と感覚が戻った。
 1度に押し寄せてくる感覚のうねりに息をつまらせ、レイヴァートは両足を踏みしめる。強く、頭を上げて息を吐き出した。イユキアを見る。
「今のは‥‥」
「ローゼ殿の真似をしてみました。及びもつかない自己流ですが」
 イユキアは微笑のようなものを返した。ローゼ──ロゼナギースは、かつてイユキアの前で声を使った「音」を発し、イユキアを狙う使い魔を撃退したことがある。王城の音師として彼がつんだ研鑽の技にイユキアがいたく感銘を受けたのは、レイヴァートも知っていた。だが、よもやイユキアがそれを自分の技の中に取り入れようとしているとは、思いもしなかった──いや当然か、とも心のどこかで思う。レイヴァート自身、他者のすぐれた剣技を見ればそれを修練するのは珍しいことではない。魔呪を使う者と剣を使う者と、そこには差がないのかもしれなかった。
 短剣を鞘におさめ、レイヴァートは2人が消えた方角へ顔を向ける。
「追うぞ」
 イユキアが金の光をおびた暗い色の瞳でレイヴァートを見つめ、うなずいた。いつも水薬をおとして暗く染めている瞳は、感情や魔力のたかぶりで時おりに金のかがやきを見せる。
 レイヴァートはリーセルを振り向き、早い口調で命じた。
「小屋の中で待っていろ」
 リーセルが青白い顔を左右に振った。
「‥‥父さんが──」
 ヒュッと音をたてて短く息を吸い、あごを喉元まで引いてレイヴァートを真正面から見つめた。声は低かったが、決然としていた。
「俺も行きます」
 返事を待たずに小屋へ駆けもどり、レイヴァートが落とした長剣と剣帯をつかみあげてまた戻ってくる。レイヴァートは溜息をついたが、それ以上は言わなかった。目の届くところにいた方が守りやすいことは守りやすい。
 イユキアが、切り落とされたハサギットの左腕のそばに膝をつき、黒くただれた肉に指先でふれていた。レイヴァートは剣帯をつけながら歩み寄る。
「あの死人の腕か?」
 イユキアがうなずいた。声に珍しくはっきりとした嫌悪があった。
「死者の腕を使う。‥‥外道の技です」
 ちぢみきってねじくれた炭のような肉の中から、白い指先がキラリと光るものを引きずり出した。レイヴァートが眉をひそめる。
「それは?」
「金属の糸。針のように使います。主に傀儡の技ですね。小屋の中にも落ちていました」
 ほんの指先ほどの短い糸をレイヴァートに見せ、説明した。
「彼の血がついています。あの腕をつける術に使ったものでしょう。さっきはこれを通した呪で、彼の腕に干渉しました」
 ハサギットが急に苦しみだした時のことだ。レイヴァートは剣帯の留金を留め、うなずいた。
「助かった。追えるか?」
「切られましたから、駄目ですね。なかなか上手い。追跡はおまかせします」
 淡々とした言葉の中にあの魔呪師への素直な称賛を聞きとって、レイヴァートはかすかに苦笑した。イユキアは他者の技というものに割と単純な好奇心を持っている。こんな状況の内でさえ、多分、イユキアの内側にいる魔呪師としての彼は楽しんでいる。
「わかった。リーセル。間を歩け」
 少年を手招きし、イユキアに最後尾をまかせると、レイヴァートは森に残る痕跡を追って歩きはじめた。


 足跡はほとんどない。急いで引いていった筈なのに、石や地面の固い場所、倒れた木の幹などを踏んで痕をつけないようにしている。折れた枝もほとんどなく、進む方角にも規則性がない。彼らは慣れているようだった。レイヴァートも追跡は不得意ではないが、罠が仕掛けてある可能性も考え合わせながら痕跡をたどるのは、時間と神経を使う作業だった。
 半時間近く、何の成果もないまま森の奥へ奥へと分け入っていく。イユキアの足取りがつらそうに重くなってきたのがわかったが、彼のきびしい表情を見たレイヴァートは何も言わなかった。魔呪は極端なまでの精神集中を要求し、術を使うごとに体力は大きく削がれる。歩みがいかにゆっくりと言っても、疲労のたまった身にはつらいだろう。それでもイユキアは何ひとつ言いもせず、何かを言われたくもないという表情をしていた。
 リーセルも荒い息をついていた。森を歩くのには慣れている筈だが、精神的な緊張は肉体の正常な反応を奪う。疲労がどんどん積み重なって、体が思うように動かない。だが、少年も不平を言わなかった。父親がこの先にいると思っているのか、思いつめた目で前だけを見つめている。
 小さな岩の斜面をおりたところで、レイヴァートは苔がまだらに生えた土にくっきり残る足跡を見つけた。新しい。あの魔呪師の足跡でも、ハサギットの足跡でもない。やわらかい靴底の上に荒く編んだ縄をかけた靴は、狩猟用の山靴だ。
 レイヴァートは迷ったが、その足跡を追った。
 おそらく、戻ってこない村人のどちらかだ。足跡はひとつしかなかった。
 キルシたちの逃げる方角から目をそらすための目くらましだとはわかっていたが、レイヴァートはあえて足跡をたどった。放っておくわけにもいくまい。
 ゆるい斜面を左手に見ながら小さな藪をぐるりと回りこむと、身を丸めて倒れている男が見えた。角張った体に薄汚れた灰色の毛織りのシャツをまとい、狼の毛皮の胴長を着ている。毛皮は毛のついた方を内側に仕立てられ、すそは獣の形のままだらりと垂れていた。
 目をとじ、毛皮の肩に頬をのせて、まるで眠っているように見える。その腹から短剣が生え、根元のシャツに黒い染みがひろがっていた。
「カウル──!」
 声を上げて駆け寄ろうとするリーセルを、イユキアがするどく左手をのばしてとめる。カウルの横に膝をつき、首すじと口元に指先をあてて脈と息をたしかめてから、レイヴァートを見上げた。
「息はあります」
 レイヴァートは長剣の柄に手をかけ、油断のない表情であたりを見ている。イユキアはカウルの首の後ろをさぐっていたが、やがて指を引き、指にからむ銀の糸を見せた。今の瞬間まで男の体内にあったそれは、小さな血の滴をまとわりつかせていた。
 周囲には、ほかの人影はおろか足跡や痕跡など、何も残っていない。カルザノ──リーセルの父親の姿はどこにも見えない。レイヴァートはイユキアを見下ろした。
「1人で歩いてきたのか?」
「ええ。自分でここまで歩いて、自分で短剣を刺したのでしょう」
 あやつられていたと言うことだ、あの魔呪師に。
 イユキアはレイヴァートの手を借りてカウルを地面へ横たえ、傷回りのシャツを切り裂いてから、刺さっている短剣を注意深く抜いた。傷は深くはない。水筒の水で血止めの粉末を溶いて布に貼り、傷口に押し当てると、カウルの腰から取った革帯で傷の上を強く抑えた。
 レイヴァートを見る。
「傷そのものは大丈夫です。命に関わるほどではありませんが、体温が低すぎます。つれ帰って体をあたためないと」
「‥‥戻ろう」
 レイヴァートは低い声でうなずいた。足止めのために、カウルをこうして残していったのだ。わかってはいたが、放っておくわけにはいかなかった。イユキアも目に見えて疲れている。これ以上はあてもなく探せない。カルザノのことも、キルシとハサギットも、1度あきらめて引くべきだった。
 リーセルが「父さん」と口の中で小さくつぶやく。レイヴァートが肩に手を置くと、少年は気丈にうなずいたが、その体は小さくふるえていた。