枯れたつたをからみつかせた木の幹が、冬の闇にやけに青い。
かぼそい月の下、夜の森はふしぎとあからさまに見えた。
朽ち葉が積み重なるやわらかな地面を、巨大な四つ足の獣が歩いてゆく。獰猛に優雅な足取りで、沈黙の満ちる森の奥を影のように移動した。
灰色の毛皮に覆われた狼だった。両耳をぴんと立て、黒い瞳を油断なく前に据え、地面に近づけた鼻で時おり匂いをさぐりながら木々の間へ分け入ってゆく。
森には音がなかった。
冬長の眠りが森を支配している。何もかもが沈黙し、こごえる冬に身をすくめ、この一時を堪えている。冬の木々の、かわいて青みを帯びた幹の下にひそむ遠い水のざわめきすら、今はやんでいた。
狼の耳は、この森に何もとらえなかった。
死の気配もない。死は、森にとってはひとつの糧だ。骸から木々は育ち、生命は死を喰って育つ。だが、冬長の森にはそれもなかった。森全体が息を殺し──いや、殺す息すらもなく、深い眠りに沈んでいる。
大地も木々も冷えきって、全身を冷気がつつんだが、分厚い毛皮がそれをはね返した。ふさふさとした尾を揺らし、狼はふと鼻を上げる。透徹した夜気の中に、甘い腐臭のようなものを感じ取っていた。
これはおかしい。これは、生の匂い。そして、死の匂い。
(冬長の眠りの外側にあるものの匂い──)
急ぐでもなく、しかし確固とした目的を持つ足取りで、狼はゆっくりと歩き始めた。足の下に色あせた苔をやわらかく踏み、朽ちて穴の空いた木をのりこえる。匂いは強くも弱くもならなかったが、自分が近づきつつあることはわかっていた。
木の根がからみあう地面に獣の影が、おちていた。影だけだ。獣の本体はどこにもない。狼は自分の影とつれだってそれに近づき、ふんふんと匂いをかぐ。血の匂いがかすかにした。足で軽く地面を掘ってみたが、なんの手ごたえもなく土だけがえぐれ、影はそのままそこに残っていた。狼は喉の奥で小さなうなりを洩らす。
不意に獣の匂いが強さをましてたちのぼった。
1歩下がり、狼は警告のうなり声をあげる。目前に影がむくりと起き上がり、次の瞬間、影は獣の実体をまとって狼の喉元へとびかかってきた。荒々しい一撃で叩きおとしたが、腹の下へもぐりこまれそうになる。狼は相手の背中に噛みつき、2匹は組みあってどうと地面に倒れた。互いに相手を組み伏せようと、転がったまま戦う。
相手の獣は声を出さなかった。威嚇をしようともしない。ただ執拗に狼の毛皮に歯と爪をくいこませようとする。苛立ちのうなりをあげてそれを振り払い、地面へ叩きつけて、狼は相手の喉元へ牙をつきたてた。奇妙なほどやわらかい皮膚を易々とくいやぶる。
血の味がはげしく口の中にあふれた──その血が、地面にぽとりと落ちる。その瞬間、森が、ざわりと身じろいだ。
目をあけて、イユキアは起き上がる。闇を見つめてじっとしていると、すぐそばから声がした。
「夢でも見たか」
「‥‥夢というか‥‥」
イユキアは部屋の空気のつめたさに身をふるわせたが、そのまま闇を見ていた。ひえびえとした森の感覚がまだ体に残っている。
イユキアの夢ではない。誰かの夢だ。だが、誰の?
──あの狼の‥‥?
ふ、と息をついて、ひとまず毛布の中に戻ろうとした。その瞬間、はたと気がついた。
「‥‥レイヴァート?」
「少し、寒い──」
「すみません」
いささかあわててイユキアが毛布の中にもぐりこむと、レイヴァートが腕をのばした。すっかり冷気が入りこんでいる。つめたくなったイユキアの肩に手を回し、身をよせながら、レイヴァートがたずねた。
「気配か何かか?」
「それも何とも‥‥それよりレイヴァート。ここは、あなたの部屋ですか?」
「いや。お前の部屋だ」
レイヴァートの手が毛布を引き上げ、イユキアの肩をきっちりつつむ。イユキアは闇の中で眉をひそめた。
「どうしてあなたがここに?」
「この方があたたかい」
少し眠そうにレイヴァートは答え、頭を倒してイユキアの頬へくちづけた。イユキアが淡い溜息をつく。
「駄目ですよ‥‥」
レイヴァートはふっと笑って無言のまま、回した腕に力をこめた。イユキアは黙っていたが、
「‥‥時おり、あなたは不用心すぎますよ」
困った声でつぶやいた。レイヴァートが少しして、答える。
「べつに、知られてもかまわないからな」
「レイヴァート──」
あわてた声をあげて、イユキアが上体をおこす。冷たい空気がかき回されて肌が一瞬にして冷え、小さくふるえた。
なだめるように、レイヴァートがイユキアの腕をぽんと叩く。
「単に、かまわないというだけだ。わざわざ人に知らせるわけじゃない」
「‥‥‥」
「もともと俺はずっとそのつもりでいるぞ」
「それは──」
「何か困るか?」
たずねられて、イユキアは言葉を返せなかった。イユキアが失うものは何もない。だがレイヴァートはちがう。そう言おうとしたが、それを「かまわない」と言う男相手では子供っぽい反論になりそうで、なんとも言葉にならなかった。
レイヴァートも寝台に身を起こし、イユキアと自分の肩に毛布をかけた。闇に互いの顔が見えるほど顔をよせ、彼はどこかまだ眠そうに言った。
「王城にも、男の恋人を持つ者はいる。おおっぴらにはしていないというだけだ」
「‥‥それとは、ちがうでしょう。私たちは」
「かもな。だが、どこがちがうのだろうな」
言ってから、レイヴァートは自分の言葉を消すように、
「いや、いい」
とつぶやいた。毛布の下で腕を回し、イユキアを強引に抱きよせる。細い体を抱きしめながら冷えた首すじに頭を預け、囁いた。
「いい。考えるな」
「‥‥‥」
イユキアは小さくうなずく。何も言葉が見つからないままレイヴァートの背に腕を回し、自分によりかかる頭を抱いた。
レイヴァートの声の中に、迷いが聞こえた。それが自分の持つ迷いをうつしたものなのかレイヴァート自身がかかえる迷いなのか、イユキアにはわからなかった。ただきつく抱きしめて、今は何も考えまいとした。彼らのことも、森のことも、冬のことも。何ひとつ。
埋み火に枯れ木を数本足すと、ちろちろと小さな炎を上げはじめた。冬の凍りつくような冷気に、わずかな熱などたちまちに喰われていく。炎を見つめるやせた男が身をつつむマントは薄手のものだったが、彼にはまるで寒さを苦にする様子がなかった。
身の外の寒さなど、彼にとっては何ほどのこともない。身の内に宿って骨を噛む永劫の凍えにくらべれば。すべてささいなものでしかなかった。
手にした枝の先端を小さな火であぶり、炎を凝視したまま、男はゆっくりと地面に模様を描きはじめる。六角形の中に円とふたつの三角形が内接した外形を描くと、気だるげにその内へ文字のようなものをしるしはじめた。
枝を支える指先までもが肉を削いだようにやせている。血の色を失って白い指の、爪の根元はどす黒かった。手の甲に奇怪な生き物のような紋様がある。魔呪師であった。
遠く、夜の底をゆするような音がひびく。聞くものの胸をかきむしるような哀しげな響きが尾を引く。それが消えると、背後でかすれた声が呟いた。
「‥‥また狼か」
無言のまま、魔呪師は枝を火の中へ放りこむ。かわいた音をたててはぜた。
暗い目をした男だった。目の表面には炎がうつっているが、瞳の内には凍るような空虚があるだけで、そこに光はなかった。濃い褐色の髪が頬におち、残る髪を首の後ろで細い鎖にたばね、背へ長く垂らしていた。目元に険のあるするどい顔には魔呪を使う者独特の、年齢の読めない若さと奇妙な老成とが同居していた。炎の揺らぎがうつす顔は青年のようにも、老人のようにも見える。
薄い唇をかすかに動かした。声は低かった。
「放っておけ」
「あの獣は‥‥森の守り手ではないのか、キルシ」
「この森に守り手はいない。あれは、闇の獣だ。我らに直接挑むほど愚かではあるまいよ」
そう言って、キルシと呼ばれた魔呪師はうしろを振り向いた。
一間だけの小屋だ。床はすべて踏み固められた土で、むき出しの梁は低く、無骨な鉄鉤が梁からいくつもぶらさがっている。曲がった鉤の先端は血に黒ずんでいたが、今は何も架かっていなかった。大きな作業台が小屋のすみに置かれ、横に壺がいくつも並んでいる。作業台の横には粗末なマントで覆われた塊がふたつ転がっていた。マントの下から手足がのぞく。人間のようだったが、ほとんど息もせず、術で眠らされたまま身を丸めて動かなかった。
小屋の逆側には木であつらえた粗末な寝台がある。毛布はなく、寒々しい木組みと張り板だけが剥き出しになっていた。
その寝台に黒ずくめの剣士が腰をかけていた。レイヴァートの館でイユキアと顔を合わせた男だ。前かがみで膝に肘をのせ、黒い目で魔呪師を見つめていた。
「道は、いつ見つかる」
「じき、だ。少し急がねばならんかもしれんな」
そっけなく、キルシは言って、唇のはじをもちあげた。
「あの男の血があれば楽になると思ったのだがな。王の近衛で、罪償の血すじならば、その血の内に充分な絆を持っているだろう‥‥」
「レイヴァートか」
剣士はレイヴァートの名を呼ぶ瞬間、左の上腕を右手でぐいとつかんだ。音をたてて歯を噛み、首から肩が力にはりつめる。身の内にたぎるものを抑えこむような、物凄まじい目をしていた。
それを暗く見つめたまま、キルシは静かに言った。
「そう。王城と、そして王と、結びつきが近ければ近いほどなじみがいい。この地の魔呪と王城の魔呪は、同じ系統の力で統べられているからな。血の絆は、魔呪のいい足がかりになるのだよ」
剣士の目がギラリと鉄のような光を帯びた。
「‥‥あの血が手に入らなければ、お前は俺の血を使う気か? 王城の‥‥」
キルシは目をほそめたが、それには答えず、足元へ視線をおとした。手のひらにのるほどの土の像を取り上げ、地面に描いた円環の中央へ置く。ほかにもいくつか動物のような像がころがっていたが、それにはふれず、立ち上がると像をまたいで寝台へ歩み寄った。ほとんど空気を揺らさずに剣士のそばへ身をかがめ、目をのぞきこむ。剣士は身を切るような冬の寒さにもかかわらずうっすらと額に汗をかき、歯を噛んでいた。
「腕が痛むか、ハサギット。可哀想に」
つぶやいて、男の首から背中をなでおろし、ゆっくりと抱きしめる。剣士は左腕をつかんだまま魔呪師のローブに顔をうずめ、苦悶に呻いた。
「まだ‥‥まだもつ筈だろう。替えたばかりだ」
「あの魔呪師にかけられた呪縛が、腕に残っているのだよ」
そう言って、キルシは剣士に回した腕に力をこめる。無表情だったが、はじめて声に温度がこもった。
「大丈夫だ。我らには、あの骨がある。骨の絆を使えば、あの男の血がなくとも、絆を足がかりにたどりつける」
「キルシ‥‥」
「俺は道をひらく。その後ゆっくりとあの男を引きずり出し、左腕をお前に、首を王城にくれてやろう」
くくっと喉の奥できしむような笑いをたてた。
ハサギットが目をとじ、キルシの肩に頭をもたせかけた。顔は苦悶に満ちていたが、キルシが骨張った手でその背をなでていると少しずつ息が平坦にもどってきた。
やがて、キルシを見上げ、魔呪師のやせた腰に腕を回す。ハサギットの方がはるかに体が大きいので、キルシの細い体をすっぽりと腕に抱きこんだが、その腕はまるですがるようだった。
「キルシ。あれは‥‥あの魔呪師は、誰だ。あんな力ははじめてだった。俺は‥‥お前から切り離されるかと──」
「光のものでもない、闇のものでもない。我らはそういうものを〈黄昏の力〉と呼んでいる。今の世に使い手は多くはないが」
遠くで狼が長く鳴いた。夜を裂くようなその響きに、2人のどちらも注意ひとつ向けなかった。キルシはハサギットを見つめていたが、ぽっかりと見ひらいた瞳には深い闇だけがあった。魅入られたように、ハサギットがつぶやく。
「黄昏の力‥‥?」
「それは、人の力ではないと言われている。王城の力も森の力もその内に属する。元をたどれば、竜の力だと言うが──あんな使い手が、この地にいるとはな‥‥」
ハサギットが荒々しい力でキルシを寝台へ倒した。毛布ひとつない、つめたい板がむきだしの台へ抵抗なく押し付けられながら、キルシは自分にのしかかってくる男の姿を見つめていた。身を寄せるようにしていても、肌の内に巣喰う凍えは一向に消えない。ハサギットもそうだろう。男が肌を求めるのはキルシが愛しいからではない。凍える身を寄せ合わずにはいられないだけだ。
そしてむきだしの肌を合わせても、そこには何もない。キルシは己が身の内に宿す冷たさになすすべなく凍え、ハサギットはやはり身に宿す骸のような冷たさに骨まで凍える。彼らをつなぐものは体でも心の絆でもなく、ただ、その寒さだった。