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【1】

 冬の街道は寒々しく、かたく踏みしめられた地面に馬車や荷車の轍の跡がくっきり残っている。山ごえの隊商はすでに最後の旅を終え、冬のねぐらを見つけるか、港町クーホリアから南に出る船を見つけるかしているだろう。船ももうほとんどないが。
 なだらかにつらなる丘の上には、葉を落とした木々にまじって常緑のオークの色が目を引く。灰色に覆われた景色の中で浮き上がる濃い緑は、誰かがそこに色を置いたかのように見えた。その彼方に青くかすんだ剣峰が見える。峰は白い雪をまだらにかぶっていたが、雪は山腹の半ばまでしかなかった。
 畑がひろがる丘の斜面に時おり小さな集落が見えたが、人影はなかった。街道沿いにいくつか宿屋はあるが、今はほとんど営業しておらず、戸口に木を打ちつけてふさいでいる建物も多い。
 主街道ですらそうなのに、王城から峰へつながる街道を外れてからは、道に人影はまるでなかった。彼らのほかには。
 レイヴァートは何度目かの溜息をついて、イユキアへ説明しようとする。
「もう少し体を後ろに倒して。あまり怖がるな‥‥」
「苦手なんです」
 イユキアの声は小さい。フードをかぶっているので後鞍のレイヴァートから表情は見えないが、見なくとも想像はついた。こわばっているにちがいない。
「私だけでなく、相手も。前にも言ったでしょう、だめだって──」
「だから、2人乗りできる大きさのをつれてきた。気もおとなしい。ほら。お前が嫌がるから、相手も嫌がるんだよ。落ちやしない、大丈夫だから。イユキア」
「‥‥‥」
「イユキア」
 レイヴァートがもう1度名前を呼ぶと、イユキアは吐息をついて、それでも体から少し力を抜いた。
 2人は騎乗用の獣の一種、フィンカの背にまたがっていた。フィンカは王城が騎乗獣をかけあわせてつくった獣で、アシュトス・キナースにしかいない獣だ。荷運びや騎乗用など種類が分かれているが、全般に背が広く、強靱で持久力のある筋肉を持つ。首が長くやや頭は前に垂れ、全身は鱗状の凹凸のある硬い皮膚と短い毛に覆われ、面長の顔にくりりとした大きな目がついている。いつもは見えないが、口をあけるとおとなしい外見にそぐわないするどい牙が見えた。長い耳は先細りで、普段は顔の両脇に垂れているが、今は斜め後ろに立って、背に乗る者の機嫌をうかがうようにパタパタと動いていた。
 イユキアが鞍の前側で、レイヴァートが後ろだ。フィンカの背に2人乗用の平鞍を据え、2人で座っている。荷は後鞍から左右に吊ってあり、レイヴァートの足に少し当たるが、邪魔というほどのものではなかった。レイヴァート自身は乗り慣れているので、鞍を置かない肌背でも充分なほどだ。
 イユキアの左右から前に回した両手で、レイヴァートが手綱をあやつる。フィンカはかたい土の道をゆるい速歩で走っていたが、レイヴァートの手綱にこたえて速度をゆるめた。人の早足と変わらない程度になる。それでもイユキアの体はかたい。
 手綱を左手にまとめて持ち、レイヴァートは右手の革手袋を左手で抜いた。イユキアのフードに右手をかける。頭を覆う布を後ろへおろすと、イユキアの銀の髪が冬の薄い陽に白くひかった。イユキアが抗議する。
「人が来たら──」
「誰もいない」
 やんわりと、レイヴァートはさえぎった。閑散とまばらな木々の間にも、そこを通して見える冬の野原にも、人影などまるでない。手を回し、指先でイユキアの頬からあごをなでる。背後から唇を寄せ、髪をよせて耳の後ろへくちづけた。首回りに溜まるマントの布をぐいとよける。首すじまでの肌を唇でゆるくなぞると、イユキアが息をつめた。落ちるのが怖いのか、前鞍についた革帯の握りを両手でつかんだまま体は動かさない。と言うより、動かせない。
「レイヴァート、何を──」
「乗るのが苦手なのか? 獣が苦手なのか?」
 つめたい肌をなぞりながら、レイヴァートが囁くようにたずねた。息が首すじを這って、イユキアはかすれた声で、
「‥‥両方‥‥」
「昔から?」
「ええ‥‥多分、眸のせいで‥‥」
 レイヴァートの唇がイユキアの耳朶をなぶり、ゆっくりともてあそんだ。唇に含み、やわらかく噛む。耳の形にそってなぞりあげた。イユキアが身をこわばらせているせいで2人の間には隙間があるが、それでも腕の中のイユキアの体が反応を見せるのがわかる。回した右腕で服の上から抱きしめ、首すじへ強い唇を押し付けて丁寧に舌を這わせると、息が荒くなった。
「レイヴァート──」
 かるく歯先をたてられて、声が途切れる。腕に力をこめて後ろへ引きよせると、首をかるくそらせ、レイヴァートの肩へ頭をすりよせるような動きをした。甘えた仕種に微笑して、レイヴァートは手綱を巻いた左腕をのばして前鞍の握り帯をつかんだ。よせた体を安定させると、イユキアのあごを指先ですくって後ろへ向けさせ、背後から唇を重ねた。
 わずかに抵抗するそぶりを見せたが、唇はすぐにひらいた。よりかかったレイヴァートの体が揺らぎもしないのに少しは安心したか、イユキアはぎこちなくレイヴァートへ身をあずける。レイヴァートはイユキアの口腔をゆっくりと舌でなぶり、荒くなる息を呑みこんで、互いの舌をからませた。
 おだやかで時間をかけたくちづけに、イユキアの体から力が抜けた。首をそらせ、レイヴァートの舌を受け入れてさらに求める。より深く、強く。レイヴァートもまた求めに応じながら、くらくらと背骨のしびれる快感がわきあがるのを感じていた。
 世界からお互い以外のものが失せ、満たされていく。レイヴァートは鞍上でイユキアの体をささえながら、体の芯をのぼってくる熱の甘さにめまいをおぼえた。思わず没頭しそうになる。
 イユキアが小さく呻いた。レイヴァートは我に返って唇をはなし、頬をよせて背中から強く抱いた。イユキアが長い吐息をつき、レイヴァートへやわらかな体を預けた。
 やがて、レイヴァートが囁く。
「ほら」
 イユキアが意味がわからないまなざしを上げた。レイヴァートは笑って、
「お前が警戒しなければ、大丈夫だ。眸のせいだけではないな、イユキア」
「‥‥‥」
 まだとまどっていたが、ふいにイユキアが驚きの表情になった。フィンカは緊張していたはずの耳をだらりと垂らして、自然な様子で速歩にうつっていた。
 レイヴァートの右手が手綱を持ち、フィンカの速度を上げる。着地ごとに2人の体が揺れたが、イユキアの体からはさっきまでのぎこちなさが払拭され、揺れに逆らわず重心を安定させている。
 レイヴァートが耳元にたずねた。
「後で手綱をとる練習もしてみるか?」
「‥‥私が?」
「何事もためしてみるものだ」
 イユキアがふっと笑った。
「それは‥‥とても、あなたらしい物言いだ」
「そうか?」
「ええ」
 力を抜いた体を背後のレイヴァートへ合わせ、イユキアはうってかわってくつろいだ様子だった。楽しみはじめているようでもある。レイヴァートは白い頬へ軽くかすめるくちづけを落とし、襟元を直してやると、獣の速度をさらに上げた。


 太陽が中天をすぎたころ、脇道に入って水場でフィンカを休ませた。自分たちも水と軽食をとり、騎乗でこわばった体をほぐす。
 イユキアは枯れ草の上に膝を立てて座り、ぼんやりと空を見上げていた。冬用の厚地のマントにつつまれた体との対比で、やけに顔がほそって見えた。金色の眸はいつもの水薬でかくされて、瞳は暗い色をおびている。
 レイヴァートは横に座ってその顔を見た。
「疲れたか?」
「いえ‥‥」
 否定しかかって、レイヴァートを見やり、イユキアは微笑した。
「そうですね。少し、疲れました。あなたが驚かせるから」
 微笑を返し、レイヴァートは頬にほつれたイユキアの髪をかきあげてやる。
「まだ少しかかるが、陽が完全に傾く前にはつける。冬だし、荘園も人はいない。のんびりしていていいところだ」
「あなたが、荘園の主だというのにも驚きました」
「叔父のものだが」
 レイヴァートは訂正して、皮袋の水筒から一口水を飲んだ。水の冷たさが喉をつたって身の内に沁みる。騎乗の風を受けた体は冷え、こわばった指先をほぐすようにしながら、続けた。
「今でも名義は叔父のもので、名代をサーエにしてある」
「女性が地領を持てるのですか?」
 イユキアは少し驚いた顔をした。レイヴァートは首をふって、
「いや。例外がないでもないのだが、女性が地領の主となることはできん。サーエに関しては、陛下のご芳情があってのことでな。俺を後見人として、サーエに権利を移管した」
「‥‥何故、あなた自身が名代にならなかったのです?」
 レイヴァートは指に白い息を吹きかけて、イユキアをちらりと見た。黒館の主は、目のつまった毛織りのマントを体にきっちりと巻きつけ、かすかにあごを上げてレイヴァートを見ていた。否、うすぐらい色に覆われた目の焦点がどこにあるのか、レイヴァートにもしかとはわからない。遠くを見ているようでもあり、レイヴァートの中にある何かを凝視しているようでもあった。
 イユキアは答えを知っているなと、レイヴァートは思う。だが答えないわけにもいくまい。慎重に、彼は言葉を選んだ。
「はじめは俺が名代だったのだ。だが5年前、西のイヴァンシュールとの戦乱があってな。そこへ行くことになった時、陛下にお願い申し上げた。俺が帰ってこなくとも、サーエが立ちゆくように、と」
 イユキアは、表情を動かさずにうなずいた。冬の色あせた陽が細い銀の髪にきらめき、澄んだ影を頬に落とした。
 静かな声で、
「叔父上は、どちらに?」
「さてな。最後に会ったのが6年は前になるか。手紙はたまに来ているが。旅ばかりしている。変わり者でな」
「ああ‥‥」
 ふっと笑った。
「あなたを見れば、それは何となく想像がつきます」
「どうして」
 意表をつかれた様子のレイヴァートへ、イユキアは小さく息をついた。
「どうしてと言われても‥‥ああ、そうだ、レイヴァート」
「レイ」
 レイヴァートが訂正したが、イユキアはまるで聞こえなかったかのようにそれを流した。イユキアが「レイヴァート」と堅苦しく呼ぶのはいつものことで、2人だけでいるからと言って滅多にそれを崩すことはない。誰に聞かれるわけでもあるまいにと思うと、レイヴァートには少し歯がゆい。
 イユキアが背すじをのばしてまっすぐレイヴァートへ向き直った。マントの下の腰に吊るしていた短剣を外して、両手でレイヴァートへさし出す。レイヴァートはそれを見おろした。
 白い骨柄の短剣は、レイヴァートのものだ。この秋にイユキアの館へ残してきたもので、それからずっとイユキアの手元にあった。
 それをさし出しながら、イユキアは、
「ずっとお借りする形になって、申し訳ありませんでした」
 おだやかな口調で言った。レイヴァートがわずかに目をほそめる。
「お前が持っていればいい」
 イユキアが淡い微笑を返した。
「ありがとうございます。でも、これはあなたのものだ」
「そうか。わかった」
 うなずいて、レイヴァートはイユキアの手から短剣を受け取った。革帯に吊るした短剣を外し、返された骨柄の短剣を代わりに吊るす。元の短剣は、腰のうしろへさしこんだ。
 立ち上がって、
「行くか」
 と、言った。


 川沿いに西へのびる道をたどり、川にかかる細い橋をわたる。木々のまばらな林の中を抜ける道には、やせた枝を透かして冬の陽光がまだらに落ちてくる。
 ここまで来ると目的地は近い。2人はフィンカからおりて、レイヴァートが手綱を引きながら、のんびりと歩いていた。2人とも口数はさほど多くないが、心の向くままにぽつりぽつりと言葉を交わす。他愛もないことばかりだった。木の種類や、見かけた鳥やリスについての会話。互いに知った相手であるゼンや、王城の音師となっているロゼナギースの最近の様子。レイヴァートは王城でとりおこなわれた冬至の儀式の話をしたが、森長の言葉についてはふれなかった。理由は特にない。あえて探すならば、口に出すことでどこか不吉な言葉が実体をおびてしまうような気がしたからだ。
(我らは王城を見捨てぬ。王城が我らを見捨てぬうちは)
 森長はそう言った。黒館は森と王城をつなぐ要なのだ、と。
 黒館が何のためにあるのか、レイヴァートは知らない。王城に住む人間のほとんどは知るまい。ただ彼らが知ることは、黒館が不可侵だということ、そして黒館のことは森の民にまかせておけばいいということ。それだけだった。
 黒館の主であるということがどういうことなのか、レイヴァートは知らない。前の黒館の主は、死ぬ20年以上前から王城とは一切の関わりを断っていた。断たざるを得なかっただろう、前王の毒殺に用いられかかった毒をつくったのは彼だったのだから。
 そして2年前、森の民の1人がその黒館の主の首を王城へとどけ、主の代替わりを告げた。黒館に新しい主を戴いたと。その時はじめて、「黒館」という言葉がレイヴァートの中で意味を持った。森の民が王の前でそれを告げた時、レイヴァートは謁堂の壁際に控えてその言葉を聞いていたからだ。その時には、イユキアの名前すら知らなかったが。
 時がたって、黒館とその主が己にとってこれほど重要なものになるとは、思いもしなかった。
 異邦の民が黒館の主となるのは、珍しいことでもあるらしい。少なくとも、イユキアがこのあたりの生まれ育ちでないと知った呪司の者たちは驚いていた。
 レイヴァートは黒館の歴史を知る立場にはないし、許可なく王城の記録を読むことはできない。彼が知るのは言い伝えと噂の入りまじった、真偽さだかならぬものばかりだった。
 それでもいい、と思っていた。イユキアが誰であるのか──それは、よく知っている。かつて誰だったのか、そして黒館の主が何であるのか、それは知らない。レイヴァートには、それで充分だった。それだけで惹かれて、それだけで彼を抱いた。
 今でもそれ以上のことを知りたいわけではない。だが、いつかは王城の者として黒館にかかわらねばならないのかもしれないと、レイヴァートはこの冬かすかな懸念をおぼえていた。それをイユキアに知られたくはない。彼を不安にさせたくはなかった。
 鳥の羽音が行く手の木々の間から飛び立った。レイヴァートは異変を探す視線をとばす。イユキアがわずかに右手をあげてレイヴァートへ警告をおくると同時に、曲がった道の先に、立ち上がった男の姿が見えた。
「サハルヴァのお館様──」
 レイヴァートを見て、ホッとした様子で駆けよってくる。サハルヴァは、レイヴァートの管理する小さな館と荘園の名だ。厚手の野良着をまとった小太りの男の顔に、レイヴァートは見覚えがあった。
「ディノか。どうした、館で何かあったか?」
「いえ、村の方で‥‥」
 村の長老会の男は、イユキアを見て明らかに言いよどんだ。イユキアの銀の髪が冬の木漏れ日に淡い光を帯びている。端正な顔は無表情で、静かに視線を伏せていた。
 レイヴァートはうなずいて、
「俺の客人の施癒師だ。心配ない。村に何があった?」
「──あの、死体が‥‥見つかって‥‥それで館にうかがったんですが、まだおいでにならないということで、ここでお待ちするように、宿長が‥‥」
「村人の死体か?」
「いいえ。知らない男です‥‥」
 レイヴァートが目をほそめた。ディノの言葉や態度の煮えきらなさに、彼の心を刺すものがあった。
「死体はどこにある?」
 ディノは言いよどんだが、レイヴァートのするどい視線を受けてぎこちなく足を踏みかえた。
「お狩り場の森‥‥に‥‥」
「いつ見つけた? 今もそこにあるのか?」
「昨日の昼すぎに見つけて、そのまま──あの、体に、変な模様が描かれていて‥‥」
 レイヴァートはディノへうなずいてから、イユキアへまなざしを向けた。イユキアがちらっとレイヴァートを見て、目でうなずく。フードを引き上げて深くかぶった。
「行きましょう」
 そう言った声は静謐な、黒館の主のものだった。
 ディノからくわしい目印を聞き出し、レイヴァートはイユキアと2人でフィンカにまたがって獣を走らせはじめた。駈足に速度を上げながら、レイヴァートが説明する。
「右手に見える森の一部は、お狩り場になっていてな。王家と貴族、及び王寵を受けた者だけの狩り場だ。許可を受けた者が特別に獣を狩ることはあるが、この季節にはそれもない。冬長の狩りはどこの森でも禁じられている。どちらにせよ、村人が足を踏み入れていいところではない」
「その森には誰も住んでいないのですか?」
 イユキアが低い響きのある声でたずねた。随分慣れて、レイヴァートが騎獣を駈足にしても、動きに合わせて上手に揺れを逃がしている。こんな場合だったが、レイヴァートは小さく微笑して、イユキアの体に回した腕に力をこめた。
「森の民のことか? いないと言う話だが、実際にどうなのかは俺は知らん」
「あの人が、あなたを探しにきたのは、何故です? 領主にとどけるべきだと思うのですが」
「ここの村は王の直轄地でな、領主は王となっている。王城から任命された采領がいるから、確かにそちらにとどけるのが筋というものではあるが、お狩り場に入ったことを言えないのだろう」
「‥‥あなたは、見逃すのですか?」
 イユキアの声にはかすかな驚きがあった。レイヴァートは首を振って、
「いや。そういうわけにはいかんだろうが、話を聞いてからだな。今の時期、お狩り場に入ったからと言って獲物は獲れん。何か理由があるのだと思う」
「‥‥‥」
「どうした?」
 レイヴァートは手綱をさばきながら、フードごしにイユキアの耳元にたずねた。イユキアが何か考えこんでいる気配がつたわってくる。
 ためらっていたが、イユキアは一段と低くした声で言った。風と蹄の音にかき消されそうな声だった。
「あの人は、あなたを利用しようとしているのでは‥‥」
 村人が、レイヴァートの温情につけこんで、後ろめたい行為をごまかそうとしているような気がしている。
 レイヴァートはあっさりうなずいた。
「そうだな。多分、そうだろうな」
「レイヴァート──」
「大丈夫だ、心配するな。それに気になるだろう、体におかしな模様がある死体だと言っていた。これはお前の領分かもしれんな。くたびれているのに悪いが、少しつきあってくれるか」
「私が行って、迷惑でなければ」
 イユキアが小さくそう答えると、レイヴァートが背後からイユキアの肩を抱いた。
「心配するな。‥‥来てくれると助かる」
「‥‥‥」
 無言のまま前を見て、イユキアはうなずいた。


 三叉路を曲がって1度平地に抜け、レイヴァートは森の辺縁にそってぐるりとフィンカを走らせた。獣よけに木を切り払われた間地をはさんで麦畑がひろがっている。ゆるい斜面に幾重にもはりついた畑を土色の道が抜けた向こうに、低い石垣が蛇の腹のようにうねりながら、村を囲んでいた。
 それを左に見ながらしばらく走ったところで手綱を引いて速度をゆるめ、ふたたび森の中へ走りこんだ。レイヴァートは細い獣道を巧みにたどってゆく。イユキアは言われるまま身を低くして獣の背に揺られながら、前鞍の先端をつかみ、フードの下から森の奥を見つめていた。枯れ枝が獣の足の下で折れる音がぴしぴしと鳴った。
 葉を落として寒々しい裸の木々は、いばらのように枝々をからみあわせ、灰色の幹が森の暗がりに沈んで見える。森の奥へ入りこむにつれてたちこめてくる気配に、イユキアが息をつめた。
「レイヴァート──」
 警告の声は中途で途切れる。レイヴァートがするどい息を吐いて手綱を引く、まさにその瞬間、木々の間をつむじ風のようなものが駆け抜けた。前足をつっぱってフィンカが凍りつく。勢いのままつんのめってバランスを失いかかるイユキアをレイヴァートの腕が背後からかかえ、騎上に体をぴたりと伏せた。瞬間、木々の間を抜けた影が眼前を飛びこえた。
 イユキアの喉の奥からきしるような声が洩れる。それが呪文のたぐいなのかどうか判別できぬまま、レイヴァートはイユキアを鞍に押し付け、獣から跳びおりた。腰の後ろから長剣を引き抜いて前へ走り出る。
 狼の姿が見えた。全身は灰色で、背中の上側と顔から鼻にかけてはさらに濃い灰色の毛に覆われている。背中の一部に黒いまだらがあった。優雅で獰猛な肉食獣は大きな弧を描いて地面に降り立ち、躍動に満ちた体を一瞬とめて、レイヴァートを振り向いた。長い鼻づらの口元に白い牙がのぞき、真紅の舌が炎のようにちらりとひらめく。漆黒の瞳がレイヴァートを見た。
 通常の狼より二回りは大きい、巨大な狼であった。もたげた頭がレイヴァートの胸あたりにある。人の頭など一口で噛み砕きそうな獣をにらみ返し、レイヴァートは抜き身の剣を手にフィンカと狼の間に位置を取った。
 じりりと前へ出た。
 剣尖を獣の眉間に向かって据え、半身にかまえながら体のすみずみにまで闘気をめぐらせる。巨大な獣の姿への本能的な恐怖はあったが、ただ目前の敵の存在だけに意識が集中し、恐怖もたじろぎも心の奥底に押しこめられる。
 迷うな、とレイヴァートに剣の基礎を教えた男は言った。戦いは、手にした武器ではなく、己自身を使ってするものだ。己そのものを武器とした者が勝つ。刃は迷ってはならない──
 わずかに狼の右肩が落ち、獣は半歩下がった。次の瞬間、身を翻して木々の間へ走りこむ。濃い灰色の尾を揺らしながら数歩走ると、歩幅を一気にひろげて跳躍し、獣の姿はたちまち森へとけた。
 レイヴァートは油断のない目で見送っていたが、イユキアが慣れない動作でどうにか鞍から降りると、落ちついた声でたずねた。
「見覚えがあるか?」
「いえ。‥‥レイヴァート、あれは普通の獣ではありませんよ」
 イユキアはほとんど足音を立てずにレイヴァートの横へ立ち、土に刻みこまれた狼の足跡を見おろした。膝を折り、深い爪痕にふれる。低い声で言った。
「あれと戦ってはいけない」
「使い魔か?」
「‥‥そうかもしれないし、そうでないかもしれません。いずれ、魔呪にからんだ存在にはまちがいありませんが。次に出会っても手を出さないで下さい」
 レイヴァートは答えず、腰の後ろへ吊った鞘へ剣をおさめた。立ち上がったイユキアがフードの内からレイヴァートを見やり、かすかに苦笑する。
「では、言い方を変えます。必要にせまられない限り、なるべく手を出さないで下さい」
 今度はレイヴァートもうなずいて、騎乗獣へ歩み寄り、怯えた様子の鼻づらをなではじめた。情けない鳴き声をあげて鼻をすりよせてくる獣をなだめてから振り向くと、イユキアは灰色の木にもたれてぼんやりと目を伏せていた。
「イユキア?」
「‥‥この森は、奇妙な感じがします。いつもこんな感じですか?」
「わからん。俺は奥へは数えるほどしか入ったことがない。だがたしかに、少々──何か、いやな感じはするな」
 レイヴァートは眉をしかめて周囲を見回す。さほど鬱蒼としてはいない。葉を落とした冬の木々が寒々しく立ちならび、その間にも、黒みを帯びたシダや下生えの上にも、動くものの姿はなかった。眠るような冬の森。
 だがレイヴァートは、皮膚がつれるような違和感をおぼえていた。殺気でも、意志でもない。あえて言うならば、何かの気配。それも、ひどく異質な。
 それはわずかなもので、イユキアに言われなければ──そして、狼と対峙したことで神経がとぎすまされていなければ、察知することはできなかったにちがいない。レイヴァートが感じたままを言うと、イユキアは考えこみながらうなずいた。
「私も、ざわつきを感じます。‥‥冬長にしてはおかしい。森の民がいれば、いつからこの状態なのかわかると思うのですが」
「ふむ」
 レイヴァートは手綱を取った。
「とにかく、死者を見に行こう。何か関わりがあるかもしれん」
 イユキアがあからさまにたじろいだ。
「‥‥まだ、遠くですか?」
「いや、もうすぐの筈だが──」
 物問いたげな顔をしたが、レイヴァートは言葉を切ってイユキアを見た。
「ああ。どこか痛いのか。内股か?」
 乗り慣れない者はとにかく獣から振りおとされまいとするので、足に力を入れすぎて内股を擦ることがある。直截的にたずねられたイユキアは気まずい様子で、ひどく曖昧な顔をした。
「少し‥‥」
「慣れないのに急がせたからな。すまん」
「いえ」
 レイヴァートがあやまるのを、イユキアがあわててさえぎった。レイヴァートは左手で手綱をまとめて獣を引き、早足に歩き出す。右手でイユキアの背を抱くように、足並みをそろえて歩きながら、笑みを含んだ声で囁いた。
「すぐ慣れる。──きっとお前はいい乗り手になるぞ。春になったら遠乗りに行くか? 古い石門が南の丘にある。今は使われていないが、細工がなかなか見事でな、1度見てみるといい」
「‥‥あなたは」
 イユキアが足取りを合わせながら、吐息をついた。
「私を誘惑するのが、とても、上手い」
「ほめてるのか」
「いいえ」
 レイヴァートは笑ったが、それ以上は何も言葉にしなかった。イユキアはフードの中で唇に微笑を溜める。レイヴァートは、イユキアに約束を求めたことがほとんど無い。先の約束をイユキアが避けるのを、よく知っていた。
 何故かそれが切ないような気持ちになって、イユキアはつき動かされるようにレイヴァートへ顔を向ける。おだやかに言おうとしたが、自分の耳に聞こえる声は奇妙に緊張していた。
「本当に──私は、いい乗り手になれそうですか?」
 レイヴァートがイユキアを見つめた。
「何かを会得するにはいくつか条件があるが、俺の経験上、恐れを持つ者がそれを克服すると、必ずいい腕を身につけるものだ。そう、お前はいい乗り手になる」
 イユキアは考える眼のまま、うなずいた。彼らは早い足取りをすすめ、木々の間を抜けていく。遠く、冬の風が枝を鳴らす音が森をわたって2人を追いこしていった。