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【2】

 レイヴァートの言葉通り、すぐにディノの言っていた場所へたどりついた。乾いた苔が足元の岩をまだらに覆っている。平らな地面に人の体のようなものが倒れ、その横に立った男たちが2人、歩み寄るレイヴァートを途方にくれた表情で迎えた。1歩下がって少年が1人立っていたが、彼も疲れ果てている様子だった。
「お館様」
 一礼した3人は、フードを目深にかぶったイユキアを見て不安そうな顔をしたが、レイヴァートはひとつうなずいただけで何の説明もせず、死体の横の地面へ膝をついた。
 死体はよくある旅人のいでたちをしていた。肌は血の気を失って白茶けていたが、それを差し引けばこのあたりに多い色合いで、それだけではどこから来たか何の手がかりにもならない。髪は黒のように見える濃い茶。目蓋を指先で上げると、にごった眼の瞳の色も茶のようだった。これもありふれている。
 薄汚れた綿の長袖に裏地のついた革の上着をまとい、袖口と襟口は細い毛皮で裏打ちされていた。底の固いブーツをはいている。マントはないが、どこかでなくしたのだろう。荷物も見当たらない。装飾品のたぐいはほとんど身につけておらず、身を守る剣も短剣もなかったが、腰に巻かれた革帯に剣を吊るための真鍮の環は、よく使いこまれてなめらかに光っていた。
 ──旅の剣士、とレイヴァートは考える。右手の平の皮も厚い。左手は、肘より少し上で切断されていた。それも、古い傷ではない。この数日に切られたものだ。
 首すじに針をさしこんだような細い傷がついている。傷は固く黒ずんで、完全に血がかたまっていた。この傷か、腕の傷からの出血で死んだか。顔色の異様な白さからして大量の血を失ったようだったが、あたりの地面に血痕はなかった。
 イユキアも膝をつき、フードの下から死体とその傷をじっと検分している。男の左袖は肩の縫い目部分から引きちぎられて外され、剥きだしになった左腕の切断面がはっきりと見てとれた。
 レイヴァートがたずねた。
「どうだ?」
「獣の傷ではないですね。この3日ほどの傷でしょうか」
 イユキアは静かな声で答えた。レイヴァートが眉をしかめる。たしかに、傷口はきれいに切断されていたし、わざわざ服を取ってから腕を切ったあたり、単純な喧嘩のようなものとも思えなかった。誰かがこの腕を切り、持ち去ったのだ。
 イユキアは血の乾いた傷口を指先でなぞり、男の右袖をまくった。ディノの言ったとおり、肌にくすんだ青い染料で円と直線が交差した奇妙な紋様が描かれている。ところどころ丸い点が赤く打たれていた。左の肩口にも同じものがある。左右対称のようだった。襟元をのぞき、胸まで紋様があるのをたしかめながら、イユキアは何か口の中でつぶやくと、石を拾って簡単なうつしのようなものを地面に描いた。すばやく手でならして消す。
 レイヴァートは、心配そうに様子を見ている3人を見上げる。宿長と長老会の若手、それに村の少年だ。一息ついて立ち上がり、レイヴァートはおだやかに聞いた。
「見つけたのは誰だ?」
「‥‥私の従兄弟の、フェルです」
 宿長が言いづらそうに口をひらいた。村で唯一の宿は長老会のひらかれる場所でもあって、代々の宿長は村の中でも高い地位にある。時によっては、村長より大きな権限も持つ。
 今の宿長は40少し前の男で、若いころはアシュトス・キナース城下で騎士の従卒をしていたと言う。レイヴァートは、がっしりと肩の張って頬骨の高い男の顔をじっと見つめた。
 フェルは宿長より10ほど若い筈だったが、無論、王の名で狩りを禁じられたお狩り場へ入ることの意味は知っている筈だ。
「どうしてお狩り場に?」
 レイヴァートの問いの調子は変わらなかった。いつもと同じ、淡々として、誠実に。イユキアは死体をあらためながら、フードの中から気づかわしい視線をレイヴァートへ投げた。
 宿長は、ぐっとあごに力をこめてレイヴァートを見つめ返した。
「フェルの兄が、行方しれずになっておりまして、それを探しに‥‥」
「何故、森へ? 森で行方しれずになったと言うことか?」
「‥‥そうです」
 宿長はうなずいた。レイヴァートが見つめたまま説明をうながすと、重い息を吐き出して、続けた。
「森に狼が、出ておりまして。遠吠えが聞こえますし、薪を拾いに入った者が森で姿を見ております」
 お狩り場の木を切ることはできないが、外が見える範囲で森に入って落ちている枝を拾うことは認められている。
 だが狩りはきつく禁じられていたし、ただでさえ冬長は、どこの森でも狩りをしてはならない決まりになっていた。
「見た者によれば、普通の狼よりはるかに大きく、群れを持っていないようです。吼え声もひとつしか聞こえません。フェルの兄は、狼狩りのために5日前にお狩り場へ入り、戻りませんでした。フェルはそれを探しに参った次第で」
「嘘はないな?」
 レイヴァートは念を押した。
「嘘があれば、俺にはどうにもならん。わかるな?」
「ございません。‥‥申し訳なく──」
 頭を垂れ、宿長は肩を重く落とした。後ろで少年が顔を伏せて居心地が悪そうに身をすくめている。
「あれだけの狼を狩れば名も上がり、毛皮を売ればよい糧になりますゆえ‥‥」
「兄の名は何と言う」
「カウルと」
「カウルがお狩り場に入っていくのを、あなたは知っていたか?」
 丁寧な口調だったが、静かな圧力を秘めた声と目だった。お狩り場は王のものであって、そこに入って獣を狩るということは王権に対する反抗としてとられる。過去、お狩り場の木を切った者が切った枝の数だけ指を切られ、指が足りなければ腕を切られたこともあった。
 宿長はこわばった声で答えた。
「カウルはそうは言いませんでした。獣を追う、3日で戻る、と」
「‥‥‥」
 レイヴァートは死体と、それをしらべるイユキアを見やってから、宿長へ顔を戻した。カウルが口に出しては言わなかっただけで、弟も村の人間もお狩り場のことは察していただろう。しかしそれを言っても仕方ない。村人の裁罪も聴罪もレイヴァートの役目ではなかった。それは治地をまかされた采領にゆだねられるべき問題だ。
「ほかについていった者は?」
 たずねた時、ふいに遠くから地をゆるがすような獣の叫びがひびきわたった。切々と身にせまるような、哀しげな声だった。声はふるえながら長く尾を引き、村の3人が身をすくませて硬直する。
 不吉なひびきが消えるまでレイヴァートはその方角を見つめていた。声が消えると、立ち上がったイユキアへ顔を戻した。
「イユキア。俺はもう少ししらべていく。先にサーエのところへ行っていてくれないか? いやな感じがする」
 イユキアはうなずいた。近づいて、レイヴァートにしか聞こえない小さな声で、
「この死体は、術に使われた贄です。まだ新しい。誰かが何かに呼びかけるのに使った」
「ふれても平気か? どう処理すればいい」
「森にやるのが一番よいのですが‥‥今の森の様子だと、墓地かどこかに葬った方がいいかもしれませんね。もう抜けがらなので、お好きなようにして下さい」
「わかった」
 うなずいて、レイヴァートは宿長とすばやく言葉を交わす。少年がイユキアを館まで送っていく手筈になり、慣れた身ごなしでフィンカの前鞍に乗ると、イユキアがレイヴァートの手を借りてぎこちない動作で後鞍にまたがった。前の少年の腰帯をつかむ。
 レイヴァートはあぶみの位置を合わせてやってから、見るからに緊張しているイユキアへ耳打ちした。
「半刻もかからん。重心は前にかけて、膝をしめておけ。肩と背中の力は抜けよ」
 イユキアは小さな微笑を返した。やや心もとなさそうでもある。
「サーエ様にご伝言は?」
「いや。日暮れまでには戻る」
 イユキアの肩を叩いて、レイヴァートは手綱をとる少年へうなずいた。
「たのんだ、リーセル」
 少年は硬い表情で頭を下げ、手綱をつかんでゆっくりとフィンカを走らせはじめた。


 半刻ほどか、イユキアがどうにか慣れない後鞍でバランスをくずさないように苦心しているうちに、眼前に小さな荘園が見えてきた。獣よけの杭囲いに囲まれた果樹園は今はほとんどが葉を落とし、むきだしの枝のところどころで名残りの葉が冬の陽にひかっている。畑と果樹園の間に、家と納屋がならぶ小さな集落があった。そこを通りすぎて木々の間の細い径を抜け、奥囲いをもう1つこえると、その先に2階建ての大きな家が建っていた。
 黒樫の横木を長く渡し、斜めの梁に美しく外壁を飾られた古めかしい家で、傾斜のゆるい屋根は窓枠と同じ赤みの強い焦茶に塗られている。真鍮の雨よけがついた煙突の横に、動物のような形の屋根飾りがあった。
 風見の鶏か、とイユキアは見上げるが、風上を向いているようでもなく、何の生き物なのか、古びていてよくわからなかった。
「あちらがお屋敷です」
 フィンカをとめ、降りた少年がイユキアへ頭へ下げる。イユキアもどうにか降りて礼を言おうとした時、意外なほど近くから狼の遠吠えがひびいた。少年がぎょっとして身をこわばらせる。
 イユキアはフードの下で眉をひそめて遠吠えの方向を見つめていたが、空気を痺れさせるような響きが消えると、小さなため息をついた。マントの下に右手をさし入れ、軽くさぐる。
 少年は荷物をおろして家の扉へ向かっていた。15、16才と言ったところか、たしかレイヴァートはリーセルと呼んでいた。呑気に鼻を鳴らしているフィンカの顔をかるくなで、イユキアは少年を追った。
 扉を叩くと、しばらくしてやや年のいった女が顔を出した。2人は早口の言葉をかわし、女はイユキアへ深々と頭を下げる。奥へと招かれたイユキアは礼を言いながら扉をくぐったが、寸前、小さな言葉をつぶやいて、手にした淡い色の砂を扉口にまいた。


 背後で扉がしまると外の光はほとんど完全にさえぎられ、壁際のぼんやりした油燭の光と、廊下の先から洩れてくる明かりだけが物の形を曖昧に照らした。
 入ってすぐは、客待ち用の廊下になっている。廊下と言っても広く、人を待たせるための長椅子を置く場所もたっぷり取ってあるのだが、今はその手のしつらえはなく、がらんとしていた。外から見てもわかるのだが、窓という窓に鎧戸が落とされている。それだけではなく、窓の位置には光をさえぎる分厚い布がかけられていた。
 少年は室内の暗さに驚いた様子もなかった。サーエシアを知っているのだろうとイユキアは思いながら、荷物を運ぶ少年を追って光の向きへ進んだ。出迎えの女は簡単な挨拶だけで、どこかに引きこんでいる。
 開け放たれた扉の内側から、黄色っぽい光が廊下に洩れている。そこからふいに足音が鳴って、少女がはずむような足取りで扉の前に現れた。イユキアへぱっと明るい笑みを向け、それから少年へ向き直った。
「リーセル、お久しぶり」
「お久しぶりです」
 リーセルは頭を下げ、部屋へ入るとすみに荷をおろした。居間だろう。壁際に大きな暖炉がしつらえられ、赤々とかきたてられた炎がつめたい冬の空気をあたためている。白ガラスのほろがかかった油燭が位置を離して3つ置かれ、それぞれの炎が動くたびに室内に横たわる影は大きくゆらいだ。
「兄は、途中の木にひっかかってるのかしら?」
「そのうち落ちてきますよ」
 イユキアは少女へ微笑を向けた。少女はほっそりとやせた体に白いブラウスと長い薄桃色のスカートをまとっている。1歩ごとの足取りにつれ、スカートの裾が花のように揺れた。やわらかく編み上げられた毛糸のガウンを羽織っていたが、それは毛糸が首すじにふれないよう襟ぐりを大きくとった形に仕立て上げられていた。かぶれるのだ。同じ理由で黒髪を後頭部にかたく結い上げている。そのため首が余計にかぼそく見えた。
 レイヴァートの妹、サーエシアの姿を、イユキアは微笑したまま見やる。会うのは久しぶりだった。秋に1度、診に行ったが、その後は経過を手紙で知るだけだ。彼女が暮らすアシュトス・キナースの城下は黒館から遠くはなかったが、黒館の主が城下を訪れるにはいろいろ差し障りがあり、余程のことがないかぎりイユキアは王城に近づかなかった。
 事のいきさつと、レイヴァートが足どめされている理由をリーセルが言葉少なくサーエシアへ説明する。それがすんだ頃に出迎えの女が入ってきて、茶の準備をととのえた盆をテーブルの上へ置いた。サーエシアが、彼女に笑みを向ける。
「ありがとう、キナ。イユキアが来たからもう引き取っていいわ。また明日おねがいしますね。リーセル、キナを家まで送ってくださる?」
「はい」
 少年はうなずいた。サーエシアが小首をかしげる。
「‥‥どうしたの。元気がないみたいだけれど」
「いえ、大丈夫です。何でもないです」
 首を振って小さな笑みを見せるリーセルに、それでも何か言いたそうだったが、サーエシアはうなずいた。
「気をつけてね。落ちついたら、今度また本を読んでくれる?」
「喜んで」
 イユキアは意表をつかれ、手をあたためていた暖炉のそばからリーセルへ顔を向けた。この少年は字が読めるのだ。サーエシアは視力が弱く、あまり長い時間本を読むことができないので、王城では代読者をたのむことが多い。
 サーエシアがイユキアを振り向いた。
「ごめんなさい、2人を扉までおくっていただける?」
「よろこんで」
 イユキアは微笑を返し、部屋を出る2人を外扉までおくる。2人がイユキアの見送りを欲しているとは思えなかったが、サーエシアの望みをかなえられるならそれでいい。
 リーセルとキナの2人はそれぞれに儀礼的なあいさつをイユキアを向け、イユキアもそれを返し、2人が歩き去ってゆくのを礼儀として見送った。キナはどうやら荘園入口から見た集落に住んでいるらしい。
 リーセルはフィンカの手綱を引いていた。あれに乗って村に戻り、レイヴァートがまた乗って戻ってくる手筈になっている。振り向かない後ろ姿が小径を遠ざかったところで扉をしめ、イユキアは閂をおとして居間へ戻った。
 サーエシアは茶を淹れている最中だった。暖炉の上に渡された2本の鉄棒に小さな鍋を置いて湯を沸かし、分厚い布の持ち手で銅の柄をつかむ。陶のポットに湯を注ぐことに集中している姿を見ながら、イユキアはフードをおとし、マントを脱いで自分の荷の上へ置いた。
 湯気がたちのぼる。自分が思った通りに湯を注げたのか、サーエシアはいかにも満足そうな様子で石の鍋置きへ鍋をのせた。イユキアへ、火に近いソファを示す。
「どうぞ。冷えたでしょう、お好きなところに座って、靴をゆるめて。後で足と顔を洗うお湯を出すから」
「何か手伝いましょうか?」
「いいえ」
 きっぱりと断って、サーエシアは含み笑いをこぼした。
「兄がくるまでは、私がこの家の主人。ね?」
「はい」
 イユキアも笑って、暖炉の前に置かれたソファへ腰をおちつけた。ソファの背には大きな毛皮がたっぷりとかけられている。鹿皮だろうか。火の熱が直接あたるほど近くではないが、冷えた体に十分すぎるどのぬくもりがつたわってくる。薪がパチパチと音をたてて時おり細かい火花を散らし、炎は赤くのたくった。
 サーエシアが湯気のたつカップを脚付きの盆にのせ、イユキアの足元へ置いた。自分もカップを持って、やわらかなクッションを据えた揺り椅子へ腰をかける。深い森のような暗緑の瞳でイユキアを見た。
 すっきりと頬骨が高く、目元に聡明な意志がうかがえる。顔色はいつものように白く、体つきもやせてところどころ骨張っていたが、強く明るいまなざしは彼女の兄によく似ていた。
「兄は、日暮れまでに来られるかしら」
「そうは言っていましたが」
 イユキアはカップの取手を指で持った。熱い茶を一口飲んで、自分の体がいかに冷えていたかに気付く。カルダモンの香りを含む湯気が口の中にひろがり、鼻に抜けた。体の芯があたたまるぬくもりに、思わずほっと息をついた。
 サーエシアも腰のふくらんだ蕾型のカップを口元にかたむけ、イユキアへなつかしそうな笑みを向けた。
「来て下さってうれしい。と言っても、静かにすごしているだけで何のおもてなしもできないのだけれど、兄があたりをご案内すると言っていますし、冬でも景色はきれいだと思うの」
 不自然に色の落ちた白い肌を見やって、イユキアはそっとたずねた。
「お加減は?」
「とても元気ですよ」
 またクスッと笑った。
「あなたのおかげ。ありがとう、イユキア」
「いいえ。痒みや湿疹も出ていませんか? この間から少しずつ、調合の内容を変えているので、何かあったらすぐに知らせを。新しい軟膏を持ってきましたので、後でお渡しします」
 カップを盆に戻し、イユキアはことわってからサーエシアの右手を取った。細く骨張った手の裏表を見やり、皮膚の色ときめを見て、爪の表面に丁寧な指先をすべらせる。爪にかすかな青みが出ていたが、総じて問題はない。肌も、どうしても汗で荒れる夏よりはずっと状態がよく、割れた部分もなかった。乾燥しないよう使わせている今の水薬と相性がいいようだ。
「3種持ってきたので、ためしてみましょう。湯に溶いて使うものもあります」
 言いながら手を戻し、イユキアはサーエシアを見つめた。
「去年の冬よりも、ずっとよくなっていらっしゃる。‥‥あなたは、がんばっておられる」
「ありがとう」
 サーエシアはにっこりした。レイヴァートの5つ離れた妹は、兄ゆずりの澄んだ意志をたたえた瞳でまっすぐ人を見る。
「私の病の者はね、ほとんどが20をすぎるまで生きることがないの。王城には今もお1人、高貴な血すじの方が同じ病を得て城の奥に住んでいらっしゃると言うけれど、私より年が上なのはたぶんその方だけですね。たいていは子供のうちにみんな命を落としてしまう。陽に当てて、自分の子供を殺してしまう親もいる‥‥」
 小さく首を振った。
「陽をさけて生きるというのは、本人だけでなく、家族にも、つらい。私は本当にめぐまれています。兄もいるし、あなたもいる、イユキア。私ががんばっているとすれば、皆のおかげです」
 薪が小さな音をたて、火がはぜた。
 イユキアは静かな表情のまま、サーエシアの言葉を聞いていた。サーエシアの病は、陽光に強い反応を引き起こすもので、皮膚が割れたり体中に熱を持った湿疹を生じたりする。体の外側だけでなく、内側にも。普段からサーエシアは代謝が悪く、頭痛や熱に悩まされることも多かった。
 この地方にまれに生じると言う、不治の病。生まれついての病であって、人にはうつらないが、治るものでもないと考えられていた。レイヴァートがイユキアにはじめて会いにきたのも、サーエシアの病に何か手だてがないかと求めてのことだ。国の薬師も施癒師も、治せぬ病にはふれたがらず、薬があるとも思われていなかった。
 イユキアにも彼女の病を癒す方法はなかったが、いくらかでも症状を落ちつかせることが出来たのが、せめてもの救いだった。
 サーエシアはカップを口元にかたむける。中に入っているのは茶ではなく、湯だ。
 イユキアがサーエシアを見つめたまま、おだやかに言った。
「レイヴァートはあなたをとても大事にしていますよ」
「ええ‥‥」
 視線が一瞬さまよって、サーエシアは炎が白く照らす目蓋をふっと伏せた。
「そう。もう7年ほど前になるかしら。一生こんなふうに暮らしていくのかと思って‥‥急に何もかもどうでもよくなってしまって、家を抜け出して外に出ていってしまったことがあります。もちろんすぐ熱を出して、全身が膿んで大変なことになった。兄は絶対に、すごく怒ると思いました」
「怒らなかったのですか?」
 けげんそうなイユキアへ、サーエシアは黙って火を見ていたが、やがて首を振った。
「怒らなかった。治るまで何も──本当に何ひとつ言わずに、そばにいてくれた。起きられるようになった時、兄に言われたの。それほどつらいなら俺が殺してやろうか、と」
「‥‥‥」
 イユキアはまばたきしたが、サーエシアを見たまま沈黙をたもった。
 サーエシアはもう1度、ゆっくりと首をふった。
「兄は本気だった。私がたのめば、私を殺して、きっと兄も死ぬつもりだった。あれからあんな馬鹿なことはしていない。‥‥2度と、しないわ」
 イユキアを見て、微笑する。イユキアはおだやかにうなずいてカップを口元にかたむけた。その視線が揺れ、彼はふと立ち上がった。サーエシアにその場にいるよう手ぶりで示し、居間を出ようとした時、外の扉がズシンと重い音をたてた。1度、2度。
 3度目の音が鳴るより早く、廊下をすばやく抜けて扉の前へ立ったイユキアが、扉ごしに静かな声をかけた。
「どなたです?」
「‥‥客人だ」
「招かれておられる?」
「いや」
 居間の方から、サーエシアの声がした。
「後で人が来るのだけれど──」
「客人ではありませんよ、大丈夫。道にでも迷ってこられたのでしょう。扉をあけるので、そちらをしめておいてください」
 イユキアがそう声を返すと、サーエシアが扉をしめる音がした。冬の陽光ならば少しは大丈夫だが、用心にこしたことはない。
 扉に向き直ったイユキアの顔から表情が失せ、背すじをのばすと、閂を外した。扉を引きあける。
 つめたい冬の陽に、地の影は淡く長い。その影が立ち上がったような人影が眼前に立っていた。黒く染めた革の胸当にはじがボロボロに裂けた黒いマント姿の、黒づくめの剣士だ。右の肩に黒鞘の長剣をかけている。左利きだ。目深くかぶったフードの奥にかいま見える顔はやせおとろえ、頬はこけ、両の目だけが焼けた石のようにギラついていた。
「お前に用はない。レイヴァートはいるか?」
 きしるような声に、イユキアは深い妄執を聞きとった。動ずることなくひややかに視線を受けとめ、
「招かれておらぬのならば、帰りなさい。ふたたびこの敷地に足を踏み入れず」
 1歩、前に出た。細身の体が放つ気配に押されて、剣士が下がった。
「伝言があらば、うかがっておきましょう」
 そっと、囁くようにイユキアは言う。また前へ出た。扉をしめ、後ろ手のまま扉に大きく封じの印を描いた。じりじりと歩みをつめながら、下がってゆく男を追う。
 男が目に怒りを燃やしてイユキアをにらんだ。
「何者だ、お前──」
「あなたこそ。血と闇の匂いをさせて、何のためにこの地をうろついているのです?」
 イユキアは昂然と顔を上げ、ふきつけるような憎悪と殺意を受けてたじろぐことがない。男の身がすっと沈んだ。
 イユキアが横へ跳んで距離をとる。次の瞬間、男は背負った長剣を抜き放っていた。分厚い鈍色の刃を持った両手剣だったが、重そうな剣を扱う男の動作はかろやかなものだ。だが、1歩踏みだそうとした足は動かなかった。
 イユキアの右手が、男にぴたりとつきつけられていた。手の甲から指にほそい鎖がからみつき、のばされた2本の指はまっすぐに男を指している。
 銀の髪が頬におちかかる。イユキアは男を凝視したまま静かに囁いた。
「私を斬っても、あなたは家には入れませんよ。あなたは決して招かれない。円環の中のものを傷つけることも、ふれることもできない。あなたは」
 鎖が涼しい音を鳴らした。男は魅入られたように、イユキアの瞳を見つめている。その瞳にははっきりと金の光が宿って、力のあるかがやきが男をとらえていた。
 イユキアは歌うようなふしまわしを続けながら、鎖を揺らした。
「守りのうちにありては力なく、我が円環のうちにありては安んじることなく、天にありては──」
 男が右手で己の剣をぐいと握った。刃を。指の間から血がつたう。
 苦悶の声を洩らしてイユキアの呪縛をのがれ、身を翻して駆け出した。イユキアは後ろ姿をするどく見ながら最後の呪をかけたが、それが男をとらえた手ごたえはなく霧散した。所詮、言葉を使った魔呪は、言葉を聞こうとする者にしか通じない。
 男の姿が消え、気配が消えてもなお、イユキアは目をとじ、周囲を漂うかすかな気配をさぐっていた。ひろげた意識の外、遠く遠く、冬長の空気の奥にまがまがしい何かを感じとる。そのさらに向こう。深い呼び声のような──これは──
 目をあけた。表情を物憂げにくもらせて、イユキアはしばらく冬の空を見上げていた。