イユキアは木にもたれ、曲げた足をあぐらのように組んで目をとじていた。フードを目深に下ろし、銀の髪も白い顔も布の中に覆い隠している。
夕暮れの風がざわざわと枝の間を抜け、灰色の布を揺らしたが、その中に隠れたイユキアの表情はうごかない。ただ時おり目をあけ、ぼんやりと薄闇をながめては、また目蓋をおろした。
イユキアが座っているのは、村をのぞむ森の内側だった。村には入れないとイユキアが主張し、レイヴァートが折れた。カウルの手当ては難しいものではないから、村の薬師でことたりる。それよりも魔呪を使うところをリーセルにはっきりと見られた以上、村中にその話がつたわるまでにそうはかからないだろう。
まじない程度のものには因習としてなじんでいる人々も、術律として目に見える魔呪の技には大きな恐れを持つ。魔呪のたぐい、そしてそれを使う者への畏怖は、人々の間に根深い。普段はそれをおさえ、敬意をもって接してはいるが、今は村人が2人も行方不明になった上、紋様を体にしるされた不気味な死体が森から出ている。1人は生きて戻ったとは言え、こうした冬の出来事が、魔呪に対する過剰な恐れを呼び醒ましてもおかしくなかった。
それにいつ何時、イユキアが「黒館」の主であると知られないとも限らない。このあたりにイユキアの顔と名を知る者はほとんどいない筈だったが、1人でも知っていれば──あるいはイユキアの髪の色と黒館の主の詳しい噂とを結びつければ、イユキアが何者であるかはすぐに知れる。100年以上にわたってこのアシュトス・キナースで恐れられ、忌まれ、暗い技の象徴のように語られ続ける黒の館の、今の主であると。
レイヴァートが「客」として黒館の主を遇していることが知られれば、村人は反発する。ましてや、招かれもしないのに村の中までつれていったとなれば。
恐怖は理屈ではない。イユキアはそれをよく知っていた。敵意、恐れ、侮蔑、憎しみ──そう言ったものにイユキア自身は慣れている。だが、レイヴァートを巻きこみたくはなかった。
やはり来るべきではなかったのかもしれないと、思う。己のさだめた範疇をこえるべきではなかった。レイヴァートの友人も、いつか噂をつなぎあわせてイユキアの正体を悟るかもしれない。銀の髪はそれだけで人を特定できるほどに希有なわけではなかったが、魔呪を使う銀髪の者となれば、黒館の主を連想する者はきっといる。
だが、こうしてともに来なければ、レイヴァートは独力であの2人と対峙することになっていた。その思いもまた、イユキアの顔に物憂げな影をおとしていた。
──レイヴァートの血を欲していると、あの剣士は言った。
(罪償の血を残らずしぼりつくしてやるぞ──)
ハサギットの言葉を思い出して、伏せたイユキアの目が光をおびる。傷つけさせる気はない。決して。レイヴァート自身であれ、レイヴァートが大切にしているものであれ。必ず──彼らを見つけ出す。
マントの下に入れた手が、固い破片の感触をさぐった。
足音が近づいてくる。人のものと、騎乗獣フィンカのものと。やや大股でせわしない。誰のものかはすぐわかったが、顔を上げると自分の目の中にするどいものを見られそうで、イユキアは顔を伏せたままでいた。
足音はイユキアにまっすぐ近づき、立ちどまった。
「イユキア」
ゆっくりと、イユキアはレイヴァートを見上げる。しゃがみこんだレイヴァートはイユキアの腕をつかんで支え、立ち上がらせた。
「大丈夫か? すまない、待たせた」
「いいえ」
イユキアは首をふった。レイヴァートはうなずくと、のばした指先でイユキアの唇にかるくふれ、頬をなでた。
フィンカの前鞍にイユキアを押し上げ、レイヴァートは後ろにまたがった。手綱をとり、ゆっくりと獣を歩かせはじめる。
「カウルの意識がぼんやり戻って、とりあえず話をきけた。5日前、リーセルの父親、カルザノとともに狼を追って森へ入り、3日すごした。その3日目に、罠のエサに使うために穴ウサギを獲ったそうだ。それをさばこうとしたところから、もう覚えてないと」
「‥‥血の道がひらいてしまったのでしょう」
イユキアがつぶやく。レイヴァートは揺れる体にイユキアを軽く引きよせ、姿勢を安定させてやりながら、顔をのぞきこんだ。フードに隠れてほとんど鼻先しか見えなかったが。
「それは?」
「冬長の森は眠っています。少しの血でも、時によっては大きな揺らぎを引き起こす‥‥」
「だから、冬長の森には入るなと言われるのか?」
イユキアはそのまま答えなかった。何かをじっと考えこんでいる気配を悟り、レイヴァートもそれ以上話しかけない。夕闇がゆっくりと色を深めた。
ゆるい斜面を抜け、森から遠ざかりはじめた時、ふいにイユキアがたずねた。
「レイヴァート。地図はありますか?」
「どのくらいのものが要る」
通常の地図には、街などの目印とそれをつなぐ道の分岐に簡単な地形しか記されていない。それぞれの位置や距離も正確なものとは言えないが、移動する者にとって重要なのは、地理よりも目的地にたどりつく手段だ。また、地理の正確な地図は戦略的に大事なものであり、詳細な地図が市場に出回ることはまずなかった。
イユキアが一瞬考えた。
「‥‥方角の正確なもの。アシュトス・キナース全体の。ありますか?」
「ある。戻ったら見せよう」
「おねがいします」
答えた時、イユキアの体が小さくふるえたのがレイヴァートの腕につたわってきた。もうかなり暗く、かぼそい月の下、獣の足元もややおぼつかない。ゆっくりした足取りで目印の大きな樫を曲がった。
レイヴァートは回した腕でイユキアを抱きしめ、冷えた体を自分の胸へ引きよせる。
「サーエを、エギンとジノルトの家にうつそうと思う。ハサギットがまた来るかもしれんし、俺へのうらみをサーエに向けられると怖い。あそこの家は人も多いし、腕の立つ者もいる。これまでサーエを寄せてもらったこともあるから、病の扱いも知っているしな」
「あなたがサーエ様についておられるのが、一番いいのですが」
と言って、イユキアは小さく口元に息をくもらせた。
「‥‥駄目ですか」
「俺がいなければ、お前は森に1人で入る気だろう。それに、俺はハサギットと片をつけねばならん。魔呪師などとつれだって、森でいったい何をたくらんでいるのかも気になるしな」
「あの剣士はあなたをうらんでおられるようですね」
「前代の王の近衛だった男だ。王城で、俺があの男の左腕を切り落とした。15の時」
淡々と言って、レイヴァートはイユキアの肩を抱いた。
「大丈夫か? 疲れただろう」
大丈夫、と答えようとしたが、イユキアはふっと力を抜いてレイヴァートに身をよせた。レイヴァートの抱擁はいつも優しい。体は冷えきって芯から疲労にこわばっていたが、レイヴァートに支えられていると身の奥で何かがほぐれていくのを感じた。
「‥‥ええ。少し」
ぽつりと呟く。その声に何を聞いたのか、無言のまま、細い体を抱くレイヴァートの腕に力がこもった。
サーエシアを館で数日預かって欲しいとたのむと、ジノルトは二つ返事で引き受けたが、サーエシアは大きな緑色の瞳を兄へ向けて数秒、口をきかなかった。
レイヴァートはテーブルのそばに立ち、かるく腕組みして揺り椅子の妹を見下ろしている。イユキアは火がかき立てられた暖炉のそばにたたずんで様子を見ながら、2人がよく似ているのにあらためて気がついていた。サーエシアが無言でかるくあごを上げ、口元に強情そうな意志を漂わせて兄を見やる様には、まっすぐ人を見やって何か考えている時のレイヴァートとよく似たゆるぎなさがあった。
サーエシアはゆっくりと頭をふる。
「‥‥本当は、何がおこっているのです、兄上?」
レイヴァートが肩をすくめた。彼がした説明は、そのあたりを不審な人物がうろついていて村人が行方不明になっていることと、明日も1日──あるいはもっと長く──イユキアとともに森を見回って家を空けるということだけだ。
「うむ」
「兄上」
「‥‥うむ」
イユキアが口元をおさえた。片手で笑みを隠した彼へチラッと視線を投げ、レイヴァートは少しばつが悪そうに妹を見た。まっすぐに見返される。やがて彼は、思案含みのまま言った。
「ハサギットが戻ってきた。森にひそんでいる。俺は片をつけねばならん、サーエ‥‥だから少しの間、離れていてくれ」
数度、サーエシアはまばたきしながら考えこんでいたが、レイヴァートを見上げたままうなずいた。
「昨日、この家をたずねて来た剣士というのも彼だったのですね?」
「そうだ」
うなずいて、レイヴァートは口を結ぶと妹の決断を待った。サーエシアはまだ何か言いたそうだったが、兄そっくりの仕種で肩をすくめると、しなやかに身をひねってたちあがった。やや気取った動きでうなずいてみせる。その場を支配するような仕種とは裏腹に、口をついたのは子供っぽい言葉だったが。
「折角イユキアとたくさんおしゃべりできると思ったのに」
いきなり水を向けられたイユキアは当惑したが、彼がこの場に即した言葉を見つけるより早く、サーエシアは仕度をしに部屋を出ていってしまっていた。
レイヴァートは苦い顔で見おくっていたが、すぐに真顔でジノルトへ向き直った。
「すまんが、そういうことだ。俺にうらみを持つ相手が国に戻ってきている。この家のことを知っているし、1度訪れた。サーエをここに置いておきたくない」
「うちならかまわん。お袋の編み物とエギンの帳簿整理を手伝わされることになるだろうがな」
ジノルトは陽気に笑って見せたが、レイヴァートはきびしい面持ちのまま続けた。
「お前の家の門にも、まじないをかけさせてもらいたい。害意を抱く者の魔呪を容れないように」
一瞬ジノルトの顔がこわばった。不安げな視線が自分へ向くのを感じたが、イユキアは炎を見ていた。ジノルトがためらいがちに問う。
「彼は──やはり、魔呪師なのか? 施癒だけなく‥‥」
「魔呪の術律も扱う」
レイヴァートがおだやかに引きとった。
「俺が彼にたのんだ。サーエを守るためだ。たのむ、ジノルト」
「‥‥‥」
ジノルトの沈黙を肩ごしに聞きながら、イユキアは炎のうちに黒く燃える薪を見ていた。まただ、と思う。また。
人々はまじないや魔呪のたぐいに交わりながら生きているが、それを使う者を恐れる。その恐れを、イユキアはとがめる気にはなれなかった。自分の手は決してきれいではない。これまでも、そして多分、これからも。
レイヴァートは何故平気なのだろう、と思った。はじめから、彼はイユキアを恐れなかった。好奇の目で見もしなかった。警戒ははっきりと見せていたが、それは敵意も底意もない正直なもので、距離を置きながらもイユキアをつめたく扱ったことは1度もなかった。
「イユキア」
ジノルトの声に呼ばれ、イユキアはおどろいて顔を上げた。ジノルトは長椅子に座ったまま前にのりだし、イユキアをまっすぐに見つめて微笑を向けていた。
「聞いての通りだ。あんたにたのめるか? 俺の家に、守りのまじないをかけてくれるか?」
イユキアは言葉の意味を取りかねて、相手の顔をぼうっと見つめていた。レイヴァートがひとつ咳払いのような音をたて、彼を呼ぶ。
「イユキア」
「‥‥ええ、勿論」
イユキアは背すじをのばし、ローブの衣擦れの音をさせてジノルトへ向き直った。顔に落ちる銀の髪をかきあげ、うなずく。
「勿論。お引き受けします。あなたがたがよろしければ」
「と、いうことだ、レイ。これで決まりだな」
ジノルトはぱんと両手を合わせ、右の口元を上げてにやっと笑った。何故か少々憮然としているレイヴァートの様子にとまどいながらも、イユキアは微笑を返した。
サーエシアを騎乗獣フィンカに乗せ、星の光の下でレイヴァートが手綱を引いた。夜の道をジノルトが先導し、ほろのかかったランプを手に足元を照らす。
寒くないか、とレイヴァートがしきりにサーエシアにたずね、そのたびごとにサーエシアの返答がそっけなくなっていくのが少し可笑しくて、イユキアはジノルトの横を歩きながらこっそりと微笑した。
ジノルトの住む屋敷まで、畑と果樹園をすぎて半刻ほど歩いた。ジノルトの兄のエギンと母親が出迎え、レイヴァートが事情を──サーエシアにはじめに説いたものと同じ、やわらかめな説明を──話すと、2人はこころよく頼みを受け入れた。エギンには、もっと細かい事情をジノルトが後で説明することになっている。
サーエシアがこの家に遊びに来るのははじめてではなく、今回の逗留中にも夕食会を行う予定があったため、分厚いカーテンの奥部屋が彼女に用意されていた。冬長の間、いつも食客として迎えている剣士も姿を見せ、見知ったレイヴァートとなつかしそうなあいさつを交わした。
ひととおり段取りをととのえ、では、と辞そうとしたイユキアの手をサーエシアが取り、彼女はイユキアへ顔を近づけて囁いた。
「気をつけて。兄は無茶なところがあるから、あなたまでそれにつきあわないでね」
イユキアが何か答える間もなく、腕を回して1度ぎゅっと抱きしめてから、ぱっと身を離した。後ろに立つジノルトの母親が「まぁはしたない」と言うように、だが陽気に顔をしかめてサーエをたしなめはじめる。どうするべきかわからずにイユキアが立ち尽くしていると、レイヴァートにマントの後ろを引かれ、あわてて頭を下げてその場を辞した。
ぐるりと館の周囲を回り、イユキアは一通り守りをかけた。これは結界ではない。古い円環の律のひとつで、招かれずに内へ入る者の魔呪の力を、円環の外側へ流してしまうものだ。
「円環の内に在る者へは護りを、円環の外に在る者へは安らぎを、円環のふちに在る者へは虚無を」
つぶやいて、イユキアはひとふさ切り落とした自分の髪を土に埋めた。これに精気の残るうちは、イユキアが戻らなくとも術は術として回り続ける。今回は、2日というところだろうか。
とにかく正体のしれぬ者を扉をあけて招き入れぬよう、ジノルトにくり返し念押しすると、彼は真面目な顔で右拳を左胸にあて、引いた右膝を沈ませて一礼した。
「この家の守りはまかせろ。俺の誓約を持ってゆけ、イユキア」
昨日カードをしていた際にも感じたことだが、どうも大仰と言うか、立ち回りに派手なところのある男だ。くせなのだろう。イユキアが扱いに困って曖昧な微笑を返すと、ジノルトは身をおこしてポンとイユキアの肩を叩いた。
「とにかく、森のことをたのむ。森はこの国の守りだからな。レイが言っていた、森で何かがおこっているのなら、あんた以上にたよりになる者はいないと」
「──力を尽くします」
イユキアはしっかりとうなずいた。
ジノルトの家で熱い蜂蜜酒を飲んだが、その熱などすぐに失せ、2人は闇にも白い息を吐きながらマントの下で身をちぢめ、畑の間を抜けるあぜ道をたどった。
歩きながら、イユキアがふとつぶやいた。
「レイヴァート」
「ん?」
寒いので2人ともフードをかぶっている。首元を少しすくめながら、イユキアが少しおいて続けた。
「さっき。ジノルトが拒絶するとは思わなかったのですか? その‥‥術をかけられることを」
「ジノルトがお前を恐れると思ったか?」
レイヴァートの反問はあまりにも核心をついていて、イユキアは白い吐息をついた。
「ええ」
「魔呪を使う、というだけの理由で人を嫌ったり憎んだりできる男ではない。ジノルトは昨日、お前と話した。お前がどんな人物か知っている。無闇には畏れん」
イユキアはフードの下で眉をひそめる。
「話したのなどわずかな時間でしたよ」
それだけでいったい何がわかると言うのだと──我知らず含んだ棘を声の裏に聞きとったのだろう、答えるレイヴァートの声はかすかに笑っていた。
「まあ、そうだがな。そういうものが大事なこともあるのだと思う。地位や外の印象だけにとらわれず、相手を見るために。ジノルトは、だからお前を信頼した。そうだろう?」
「‥‥‥」
イユキアはじっと考えこむ目で足元を見つめながら、口を結んで歩き続ける。やがて、レイヴァートがぼそっと言った。
「ただし、手の早い男だからな。気をつけろよ」
イユキアが当惑した顔を向けた。
「サーエ様のことですか?」
「‥‥サーエは大丈夫。つきあいも長いし、あれはちゃんと知っている」
「では問題ないでしょう」
「俺は、お前に言ってるんだが」
溜息をついたレイヴァートをしばらく見ていたが、イユキアは歩きながらくすくす笑い出した。冗談ごとではないぞとつぶやくレイヴァートに、また笑う。
水のない溜め池を回りこんで道を曲がった時、ふいにイユキアが手をのばしてレイヴァートのマントをつかんだ。
「レイ」
その呼びかけに、レイヴァートは目をほそめた。イユキアは滅多にそんなふうには彼を呼ばない。
「ん?」
「‥‥ありがとう。私を‥‥黒館の者としてだけでなく扱うよう、心をくばってくれて」
手がはなれた。
レイヴァートは無言のまま足をとめ、向き直らせたイユキアのあごを指でもちあげると、フードの中に顔を寄せて唇を重ねた。短く、かわいた、だが優しい唇。間近に見つめる彼の瞳へイユキアが微笑を返し、2人はまた沈黙のうちに道をたどりはじめた。