短く眠った後、身支度をしてかるい食事を取り、イユキアはジノルトとエギンの家を訪れた。サーエシアの具合を診るためだ。レイヴァートはその間に街道警備の詰め所までフィンカを走らせ、ハサギットとキルシの死をあらためて報告に行く。
ジノルトはレイヴァートが「誓約破りの剣士を返り討ちにした」ことを素直によろこび、イユキアへまじないの礼を言った。
レイヴァートの妹はさすがに兄に似て、事情を汲むのが上手い。森で何があったのか、イユキアがどう関わったのか、一切聞こうとしなかった。が、しきりにイユキアといっしょにいられないまま冬長の訪問がすぎたことを残念がる。「お話したかったのに」と。あんまり落胆していたので、イユキアはレイヴァートと2人の帰還途上、前鞍に座って揺られながらつぶやいた。
「私と話したところで、おもしろいとは思えないんですが。何か思いちがいなされているのでは‥‥」
イユキアの体に回した手で手綱を取りながら、レイヴァートがふっと笑った。フィンカはゆるい速度でのどかな丘陵の間を抜けている。
「竜の罪障の話をしたろう」
「ええ」
サーエシアの病──陽光に極端な拒絶反応を見せるあの病のことを、侮蔑の意をこめてそう呼ぶのだと。
イユキアは前を向いたままうなずく。随分と慣れたが、速歩をしている騎上で後ろを見るのはまだ怖い。
「だから、サーエには友人と呼べるものがほとんどいない。言い伝えを信じる者はあれを避けるし、信じない者も信じる者の目を気にして関わりを避ける。俺が、人付き合いがあまりないのも悪いのだがな。人があまり寄らん」
「‥‥‥」
「お前は、サーエの病に惑わされず、あの子を見ている。だから、あれはお前が好きなのだろうと思う」
やさしい声だった。フードの中で、イユキアが目を伏せる。白い吐息が冬の風に散った。
「本当なら、城下よりはあの叔父の家で暮らした方が本人も楽しいかもしれないが。あまり目のとどかないところへやるのも心配でな。勝手な話だ」
「‥‥叔父上のほかに、血筋の方はいらっしゃらないのですか?」
「遠縁ならいないことはないだろうが。探しもしないし、つきあいのある者はいないな。俺は子供の頃はほとんど国には戻らなかったし」
その話はイユキアも聞いている。レイヴァートは13でアシュトス・キナースへ戻るまで、国の外で育った。
少しの間考えこんでいたが、イユキアはためらいがちにたずねた。
「‥‥レイヴァート。叔父上が竜を探しに旅立たれたのはいつですか?」
「ん。たしか‥‥多分、11年くらい前だな。それからほとんど帰らん。あれは俺がアシュトス・キナースへ戻ってはじめて叔父と会った、その半年ほど後だった」
「手紙が来ると言ってましたが、定期的に?」
「3月から半年に1度くらいな。王城に、とどく」
「あなた宛に?」
「だけではないようだが」
微妙に言葉をにごし、少し間があってからレイヴァートは言葉を続けた。騎上でもあり、イユキアはフードをかぶっているので、とどくように声はやや大きい。
「たしかに、俺も思ったことがある。叔父は、王城の命を受けているのではないかとな。帰還せずとも荘園も取り上げられず、女を管財人にすることも認めて、王城が叔父に示す厚情はあつい。竜探しが王城の命によるものであるならば、それもわかる。お前が考えているのもそのことか?」
「‥‥ええ」
「竜がまたどこかにいると思うか? いや、そもそも竜とは一体何だ?」
「天地の獣」
とは言ったが、イユキアはすぐに首を振った。
「はっきりとはわかりません。それが、本当は一体何なのか。私も‥‥昔、竜を探したいと思ったこともありますが」
「本当か?」
「魔呪にかかわる者ならば誰でも、言い伝えにある圧倒的な力に興味を持ちます。子供が1度は風邪を引くようなものですよ」
かすかな微笑を含んでイユキアはつぶやき、それきり会話は途切れた。
レイヴァートが軽く合図し、手綱を打って速度を上げた。揺れるイユキアの体にしっかりと身をよせながら、
「随分上手になったな」
「‥‥ありがとう」
「春になったら遠乗りに行こうか」
イユキアは返事をしなかったが、レイヴァートの腕にふれる体はやわらかく、レイヴァートの動きに合わせて自然に動いていた。冬の風がとおりすぎていく中、互いにふれたところだけがあたたかかった。
王城へまっすぐ向かうアシュトス・キナースの主街道へ道が入っていく手前で、イユキアは獣の背から降りた。後鞍から自分の荷をとり、心配そうに見おろすレイヴァートへ微笑を向ける。
「ここからなら森にも近い。大丈夫ですよ」
「‥‥ああ」
レイヴァートはうなずいた。王城へまっすぐ戻らねばならないのは確かだったが、何ともしがたい心残りですぐには身が動かない。イユキアが暗く染めた瞳でレイヴァートを見上げ、何か言おうと唇が動いたが、その視線はふっと宙へ泳いだ。
「‥‥雪」
「え?」
レイヴァートも視線を追って顔を上へ向ける。冬の、やけに白っぽい空には不ぞろいな雲がいくつか流れているが、雪の空ではない。だがたしかにイユキアの言うとおり、ちらちらと白いかけらが羽毛のように落ちてくるのが見えた。
手袋で受けると、たちまちに形を失ってとけ、革の表面にほんの小さな沁みを残す。それは風花だった。遠い空にふる雪が、風に飛ばされてきたものだ。ほんのわずかな、遠い雪の気配のようなもの。
イユキアが白い息をついた。血に汚れたマントは荷の中で、彼はレイヴァートから借りた旅装の茶色いマントに全身をつつんでいる。そのマントにも淡い光がいくつかとまっていた。
「また寒くなりますね」
「ああ。そうだな」
レイヴァートも口元に息をくもらせ、手綱を取った。風花は、まるで幻だったかのようにあっというまに消え失せる。レイヴァートは獣の腹へ踵を入れると街道へ向けて走らせはじめた。遠ざかる姿をほとんど見おくることなくフードを深くおろし、荷を肩にかけたイユキアは、黒くひろがる森の方角へ道を外れて歩きはじめた。
冬の泉は透徹した色の内に深い闇を呑み、まるで黒い鏡のようだった。木を丸くくりぬいた椀に泉の水を汲んで手渡され、一口飲んで、イユキアはそれを相手に返した。氷を呑んだようにつめたい。舌が痺れる。
森の長老は同じように一口飲み、残りを地に捨てた。ひとつは客に、ひとつは自分に、ひとつは森に──と、いうことだ。骨ばった手足を白っぽい長衣ひとつにつつんだだけの姿だったが、森長は寒さを苦痛と感じていないようだった。
泉のそばの地面に互いにあぐらを組んで向き合った。イユキアは茶色いフードを首のうしろへおろして白い顔をあらわにしている。他に人影はなかったが、木々の間に森の民がいることはわかっていた。
長が静かに言った。
「南西の森の祓えを行ってくれたようだな。感謝する」
イユキアの頬を微笑にも足りない揺らぎがかすめる。やはり知っているのだ、長は。
「あの森に、森の民はいないようでしたが」
「はぐれ者が知らせにきてな」
「何故森の民はあの森を去ったのです?」
「我らも随分と数を減らした、黒館の主。幾度も、さまざまなゆえあって減ってきていたが、5年前イヴァンジールとの戦いで焼かれた森を守ろうとして、また多くが死んだ。‥‥今、はぐれ者以外の民はこの森にしかおらん」
冬長の森はどこまでも静かに彼らの声を呑みこみ、ゆらぎもこだまも返らなかった。イユキアは、暗い色の瞳で物憂げに長を見つめる。
「遠見の民のように、あなたがたも去りつつあるのですか?」
「さて、な。それが運命ならばそうなるのであろう」
「運命」
温度のない声でぽつりとつぶやき、イユキアはゆっくりと背すじをのばした。森の民は小柄なので、イユキアより目の位置が低い。長はどっしりと落ちついたまなざしでイユキアの視線を受けとめていた。
「あの魔呪師は、森に竜が封じられていると信じたようです。竜の力を得るために〈杭〉を抜こうとしていました。‥‥長。あなたはあの森に何が封じられているか、ご存知ではないのですか?」
すぐには答えず、長の黒い目がイユキアを見つめていた。イユキアは白い指で空間をなぞる。
「中心の眼に王城。蒼灼の位置にこの森。黒瞶に黒館。紫龕にはザルウェントの神門。その符軸を内環する位置に森が3つ。ひとつは、あなたの言われたイヴァンジールに焼かれた森。ひとつは、あの南西の森。ひらいた扇の要には港町クーホリア。これらは全体でひとつの魔呪を描き出しているのではありませんか?」
指をおろし、長を正面から見つめた。
「クーホリアの丘に遠見の骨が埋められていたのも、その術の一環でしょう。術律の流れをまとめ、王城へと反照させるために、遠見を骨と為して使った」
クーホリアの海をのぞむ丘から前年の冬に掘り出された古い頭蓋骨は、額に小さな穴がうがたれていた。第3の眼。双眼では見えないものを見るために、遠見の一族は額に穴をあけ、貴石を埋めこんでいたと云う。
イユキアは1度、王城に招かれてその骨を検分している。その時、どこか奇妙なものを感じていた。どこか、完全な骨ではないような。
ひとつ呼吸をおいて、そっと続けた。
「あの場所に骨は、2つ埋められていたのではありませんか? ひとつはその目で海を張り、ひとつは内を向いて王城を張っていた」
「何のために王城を張る」
「竜を、封じるために」
互いの瞳の奥にあるものをさぐって、どちらも目をそらさない。イユキアの声は泉の表面のようになめらかだった。
「私ははじめ、この地にかけられた術律は王城を守っているのだと思っていました。王城を守り、王を守るための魔呪だと。ですが、それでは竜の骨を地脈に打つ理由がない。あれはたしかに竜を封じるために打たれた杭だった」
長を見つめて、わずかに間をおく。森長の口元にあるかすかな表情が笑みなのかどうか、イユキアにははかりかねた。
「竜は王城に封じられているのでしょう。森にあるものは、封じの術の、ほんの一部にすぎない。そして王も黒館の主も、竜の番人としてこの地にあるのではありませんか?」
「我らがその答えを持つと思うか、黒館の主」
「この身はかりそめの祭司にすぎない。森と森の民こそが、この地に張られた術の要。‥‥ほかに答えを持つにふさわしい者がいるとは、私には思えない」
急速に夕暮れがおちてくる。うすぐらい森をゆるい風が抜け、イユキアの白い息を散らした。
今度ははっきりと、森長は微笑した。きびしい顔の、さびしげな笑みだった。
「遠見も去り、我らも数を減らした。そなたに答えられる者はここにはおらぬ」
「あなたがたの物語を黒館の者に分け与える必要はないと言うことですか」
ひっそりとした声でイユキアがつぶやいた。その表情はただ静かだった。
「私の存在も、あなたがたにとっては森と城をつなぐ〈杭〉の1本にすぎないのでしょうから。長、私は、竜の骨から記憶を読んだ。竜は王城にいる。あなたがたがそれを知らぬはずはない」
森長は指先であごの先をなで、考え深い目でイユキアを見つめた。
「知らぬのだよ。口伝には言うがな、竜が王城に眠ると。──だが我らはそれが真実かも知らぬし、竜が何であるのかも知らぬ。それほど長い時間がたってしまった。王城にならば記録もあろうが、我らと王城との距離もひらいた‥‥」
「‥‥‥」
「森のひとつはイヴァンジールに焼かれ、遠見の骨も掘り出された。そなたの言うのがたしかならば、竜を張るべき2つの骨の片割れはどこかへ失われたということになるな。ほころびが生じているのであろう」
「術律が解けつつあるということですか」
「永遠に保たれる魔呪などあるまい」
呟いて、森長は地に左腕をついて立ち上がった。イユキアも応じて立つ。白い息を長くつき、彼はこごえる指でレイヴァートのマントの胸元をかきあわせた。
「竜が目ざめるかもしれないと?」
「眠るものが竜であるならば、な。おそらく当代の王はそれを考えている」
イユキアがゆっくりまばたきしながら、表情の消えた目で森長を見つめたが、何も言わなかった。
イユキアを導くように先に立ち、長は立ち枯れた下生えを踏みこえて、細くくねる獣道をたどっていく。
「かの御人は、王城の深くにある扉をひらく心づもりでいるようでな。いずれほころびるものならば、己が手でほどいてしまおうということやもしれぬな」
その声にも読めるような感情はなく、イユキアは黙ったまま冬の固い大地を踏みながら歩き続けた。ふいにヒュイッと鳥の声のような音がひびき、口笛を吹きながらセグリタが木々の間から姿をあらわした。少年は先刻あずかったイユキアの荷をかついでいる。
「こっちだ、イユキア」
ぱっと長と先導を変わって、イユキアが礼を言おうと見回した時は、すでに森長の姿は灰色の森に消えていた。森の民の動きを森の中でとらえるのは難しい。セグリタにつれられるまま歩いていくと、どこか見知った木々の景色が周囲にあらわれ、森を抜ける道に出ていた。
「どうだった、冬長」
セグリタが少しばかり拗ねたような口をきく。考えごとをしていたイユキアはまばたきしたが、すぐに少年へ微笑を向けた。
「そうですね。少し、疲れましたね」
ふーんとつぶやいて、セグリタは木々の間から空を見上げ、鼻を数回うごめかせた。夕暮れの空は濃い紺青にかわり、淡い星がまたたきはじめている。
「明日からもっと寒くなるね。雪がふるかも」
イユキアは前を見たまま、その言葉に小さくうなずいたが、瞳は遠くを見ていた。
短剣を使って布を幾度も裂いた。単調な作業、単調な時間。
漆喰で煉瓦をかためた暖炉の中では炎が燃えていたが、暗い部屋の中の唯一の光は、冬の重苦しい空気の前でいかにも無力だった。
イユキアは暖炉の前に置いた小さな平椅子に腰をかけ、布を裂いていた。椅子は拳2つ分ほどの高さしかない。膝の上に細切れになった布が積まれると、イユキアは指でそれをすくいあげ、炎の中へ1枚ずつ投げ入れはじめた。大きく揺らぐ炎が布地をなめ、包み、やがてめらめらと燃え出すのを見ながら、ゆっくりとその動作をくりかえす。
布の一部は黒くかわいてゴワついていた。イユキアのマントだ。あの封じ地で血に濡れたそれを、イユキアは丁寧な仕種で時間をかけ、残らず火にくべた。布地の焼ける、獣臭めいたにおいが煙とともにたちのぼり、煙突を抜けていく。炉床に灰が黒く散った。
最後の1枚が燃え尽きるまで、イユキアはじっと炎を見つめていた。
(‥‥永遠に保たれる魔呪などあるまい──)
そう。それはたしかに森長の言うとおりだ。そしておそらく同じことを、王城の王も考えている。いつか封印はほどかれると。その先にあるものを、きっとあの王は見据えている。
レイヴァートの叔父は本当に竜を「探し」に行ったのだろうか?
イユキアは炎を見つめながらまとまりのない考えをめぐらせる。封じられているものがいつかは解放されると、そう見据えたのならば、王は別のことを命じたのではないのだろうか。
(竜を御する方法を知る者は、誰もいない‥‥)
パチンと樺の枝がはぜた。炎が一瞬ふくらみ、強まった熱気がイユキアの肌をなでた。首のつけ根にふっと熱がともるのを感じ、イユキアは膝を引きよせて身をちぢめた。目をとじる。レイヴァートはいつでもそこに印を残した。左の首の根元、やや肩に近く、鎖骨の上。今でもまざまざと唇の熱を感じとれるほど、幾度も。その場所を唇で愛し、己の存在を刻んだ。
襟の下を指でさぐり、指先に愛撫の熱を思い出しながら、イユキアはふいに喉の奥でつまった呻きを洩らした。裂かれるような痛みが身の内に凝結して息ができなかった。
王はいつから、このことを考えていたのだろう。
王城は竜を封じ、王はその封印の番人となる。そしておそらく竜との絆ゆえに、王は他のあらゆる魔呪から守られる。
──黒館の力を除いて。
(お前が王への凶器となる──)
ナルーヤの言葉がよみがえった。そう。王はいつから知っていたのだろう。王は封印の番人だが、黒館の主はその王を張る番人なのだ。王権から離れ、王を殺すだけの力を与えられて。
「‥‥レイヴァート」
小さな声で呻いて、イユキアはかかえた膝に額をおとした。体のすみずみまで痛みが満ちて、息ができない。春も終わり、空気が夏のはなやぎをおびはじめていたあの日。レイヴァートは妹の治療のために黒館を訪れた。だが、はじめにそれをすすめたのが王その人であったと、イユキアは知っていた。レイヴァートが自ら言ったのだ。王が黒館の主の人となりを知りたがった、と。
そのすすめと、病身の妹への思いから、レイヴァートは黒館を訪れた。
(王はいつから知っていた‥‥)
黒館の主が、王への番人であると。
だから、己の信頼する近衛を近づけたのだ。イユキアが何者であるか探り出し、王城とつながりをつくるために。彼らがこれほど近づくとは予測しえなかっただろうが。
額に拳をあて、イユキアは動かなかった。
レイヴァートは知るまい。──知っていたはずがない。己がそもそも、黒館の主への番人という役割をおびて動かされたのだとは。知っていたら一線を越えたはずがなかった。
炎の前に座っているのに体の芯が凍るようにつめたい。そろそろと息を吐き出し、手をのばしてテーブルにたたんで置かれた茶色のマントを引きよせた。ひろげて羽織り、身をつつむ。炎を凝視し、レイヴァートのマントをきつく身に巻いて、体を小さくちぢめた。
肌がまだレイヴァートをおぼえているのがわかった。重ねた彼の体の熱さ、愛しむような指先、耳元に囁く声のひとつひとつを。
レイヴァートの肌にもこんなふうに自分が残っているのだろうかと、イユキアはぼんやり思う。イユキアの体がおびた熱を、彼の肌はおぼえているだろうか。思い出すだろうか。
目をとじて苦痛をこらえていたが、やがて、イユキアはふっと微笑した。それでもこの冬長の記憶は、幸福だった。彼の傍らで、彼の声と言葉を聞き、仕種を見た。友人に話しかける声、カードをめくる手、暖炉の火をととのえようと身をかがめる背中。──イユキアはレイヴァートばかり見ていた。ささいなふるまいのひとつまで。今まで見たことのないレイヴァートを見ていた。
そばにいられることが幸せだと思った、そのことだけは真実だった。イユキアにとっても、そして願うならば、レイヴァートにとっても。
雪がつもり、やがて消えても、大地はその雪の記憶をどこかに宿して残す。冬の記憶は深くに眠ったまま消え去ることはない。そんなふうに、醒めても残るものはあるだろうか。この身に──あるいは、心に。
ゆっくりと目をあけ、イユキアは暖炉のほそい薪が燃えつきるまで、炎の色を見つめていた。火が消えると、火かき棒を手にして灰を中央に高く寄せ、半球状の鉄蓋をかぶせた。
名残りの熱はたちまち貪欲な冷気にくいつくされ、室内は冬の空気に満たされた。マントをかきあわせながら立ち上がり、イユキアはふと窓に目をやる。雪はいつふるのだろう。
数秒、凝然と窓枠の外の闇を見つめていたが、表情のない顔を戻すとイユキアは足音を立てずに歩き出した。
どうでもいいことだ。もはや雪を望んでも待ってもいない。今はただ、静かに眠りたかった。