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【8】

 扉はかすかなきしみを上げてひらいた。
 夜明けを待つ空は、どこか青みを帯びた闇をたたえている。氷の粒をまいたような星のかがやきも、真夜中よりかすかに淡い。
 暗闇に歩み出そうとした時、背後から声がした。
「早いな」
「‥‥起きてましたか」
 イユキアはあまり驚かずにふりむいた。廊下の奥の暗闇からあらわれたレイヴァートがイユキアへ歩みよりながら、少し不機嫌そうな様子で言う。
「眠っていたが」
 こんな場合だというのに、寝起きの反応が少しおかしくなって、イユキアは微笑した。
「起こして、すみません」
「いや」
 一息で言って、レイヴァートは手にしていたマントを羽織る。彼が、何かあった時のために外装備をまとって眠っていたのがわかった。用心深さにあらためて感心しながら、イユキアは未明の空気の中へ歩み出す。思わず体がすくむほどに空気はしんと冴えていた。冷気にじかにふれる顔や指に、痛みに近いひりひりした感覚がはしった。
 ──雪は、まだふらないだろうか。
 そんなことを考えて身をすくめながら歩いていると、レイヴァートの足音がすぐに追いついた。
「彼らを探すつもりだろう?」
「そうです」
 イユキアは門に続く道を歩いていく。自分が門にかけた護りの技との干渉をさけるため、門の外で追跡の術を立てるつもりだった。
「‥‥本当は、あなたにあまり見せたくないんです。気持ちのいいものではありませんよ」
 つぶやいた。だから、1人で行おうと思っていた。
 レイヴァートの返事は相変わらずむっつりと、平坦だった。
「それは俺が決めることだ」
 前を向いたまま、イユキアは苦笑した。こういうところはじつに扱いづらい。
「私の希望は無視ですか?」
「守りが必要だろう、お前も。術を使えば消耗するし、周囲に気を配れなくなる」
 レイヴァートは息で右手をあたためながら、かすかにくぐもった声で言った。イユキアはふっと吐息をつく。
 それは、事実だ。術はどんなものであれ凄まじいまでの精神の集中を要する。それをごく自然に一瞬で行うよう、使い手はくり返しくり返し鍛練されるが、それでもやはり無防備な瞬間というのは生じる。
 それはわかっているが──と、やはり気が向かずに黙っていると、レイヴァートがちらっと視線を向けた。
「イユキア。これは、戦いだ。感情に流されて背中を無防備にするな」
 その言葉が含むきびしい響きに、イユキアは目を見ひらいた。足取りがゆるんでレイヴァートから1歩遅れる。すぐに追いつき、小さな声で言った。
「すみません。あなたが正しい」
「いや」
 門柵の前で立ち止まってレイヴァートは鎖をほどき、横棒の閂を外した。門をあけようと手をかけたところで彼は動きをとめ、ふうと息を吐き出し、背すじをのばしてイユキアへ向き直った。
 イユキアが不思議そうに見つめ返す。レイヴァートは何か言おうとしたが、結局言わずにもう1度息をつき、顔を近づけて唇を重ねた。かるい愛撫を残して、顔を離す。とまどったまま、イユキアがまばたいた。
「‥‥レイヴァート?」
「せめて俺の剣が及ぶ範囲だけでも、お前を守らせてくれ」
 レイヴァートは真剣な表情で囁いた。イユキアは少し目を見ひらく。口元で息が白くくもったが、言葉はなかった。
 レイヴァートが門柵に向き直って、門をひらいた。イユキアは無言のままレイヴァートの後ろを小さくうつむいて歩いた。
 門から少し離れたところで径から外れ、一番近い木の下へ歩み寄った。葉の落ちた枝を水平にのばしたミズキの下の地面を軽くならし、イユキアは木を背にして座ると足を組んで趺坐した。背すじをのばし、左右の手を膝に置く。レイヴァートは少しだけ離れた場所に、片膝を立てた姿勢で座ってイユキアの様子を見ていた。
 イユキアは目をとじる。心を集中させ、同時に体の力を抜いた。呼吸を継ぐごとに感覚が体を離れて大きくひろがり、レイヴァートの存在が意識のうちにはっきり入ってくる。レイヴァートの息も気配もおだやかに抑制され、見事に無駄なく周囲にとけこんでいた。それは、彼のたたずまいとよく似ている。その気配に強くふれて、より強く感じてみたいと心が動いたが、イユキアは己を制してさらに気配をひろげた。遠く、薄く、地脈に沿って大きく探ってゆく。
 次の瞬間──ひきつけられるように見つけていた。ブナの枝にとまった鳥の気配。
 イユキアは右手を上げ、口元を覆うように手の甲を丸くあてがった。数度に分け、ゆっくりと手の中に息を吹きこむ。唇は無音の詠唱をきざみ続けていた。
(空の目、天の翼、夜の使者──)
 ひらいた手の中から、鳥の形をした白い影が飛び立った。
 目をとじたまま鳥の影に意識の焦点をあわせ、木々の間を飛ばせていく。ブナの枝の下を通り抜けた瞬間、バサッと翼の音が闇にひびき、影にするどい爪がくいこむのを感じた。
 白い影は霧のように散り、自分に襲いかかった鳥の内側へ入りこむ。とらえた。鳥の心臓の律動をすくいあげ、自分の意識の焦点を一瞬でそこに移動させた。獰猛に血を求める小さな獣の心。翼がはばたきをはじめ、イユキアは飛翔感にひきずられそうになる。鳥と言えども魂は魂だ、それ自体の生命の熱さでもってイユキアの意志をはじきとばそうとする。
 浸みこませていくように、ゆっくりと己の波動を合わせた。強すぎず、弱すぎもしない引力をたもちながら、イユキアは目をあけた。鏡のように闇をたたえた夜空を見上げる。昨日から新たな水薬をさしていない目は半ば金の色にもどり、深い琥珀のかがやきの中に無限の闇がうつりこんでいた。
 近づく羽音を追ってレイヴァートが顔を回した。星の光をさえぎって、翼が舞い降りてくる。それは1羽のフクロウだった。波状の模様が黒く入った灰色の翼をひろげたままイユキアの前へおりたち、丸く黄色い目を油断なくきょろきょろと動かしながら、イユキアを見上げた。
 イユキアは短剣を引き抜き、左袖をまくりあげて腕の内側に刃をすべらせた。血が珠になって染み出してくる。短剣を置き、右手でフクロウの首根をつかんだ。鳥はわずかに羽根を動かしたが、抵抗せず、手で首を後ろに引かれるとくちばしをあけて頭を上げた。
 くちばしの上へ、イユキアが己の血を滴らせる。小さな声で言葉をとなえていた。血がくちばしをつたって口へ入りこんでいくのを確かめながら、たっぷりと時間をとった。
 手を離すと腕の傷をぬぐい、強く抑えて血止めをしてから袖を戻した。フクロウを見つめる。小さな体の中にイユキアの血が染み渡り、イユキアの感覚がひろがってゆく。世界が2重写しにぶれたように見え、鳥の視界が重なった。
 はっきりとらえたと確信すると、イユキアは手をのばして鳥を両手でつかみ、膝の上に引き寄せた。鉤爪がイユキアの膝をつかむ。鳥は従順にイユキアを見上げていた。
 イユキアはちらっとレイヴァートへ視線を流した。
「目を借りるために、片方の眼球を取ります」
 低い声にレイヴァートは少し眉を上げたが、何も言わずに見つめたままだった。警告した意味があるのかどうかよくわからないまま、とにかく彼の存在をいったん意識の外側にしめだすと、イユキアは右手の指を鳥の左目にあてた。眼窩にゆっくりと指を沈め、黄色い瞳の眼球をえぐり取る。鳥とつながった自分の感覚に、にぶい痛みと異様な指の感触が逆流した。目の奥に何かが入りこみ、ぐるりとまさぐって、えぐる。イユキアの呼吸がふるえた。
 鳥は、左の眼窩から血をあふれさせながら、ほとんど動かなかった。イユキアは血どめの葉の粉末を血のあふれる穴に押しこめ、細い針で左まぶたをとじつけた。
 マントの内側から手のひらにのるほどの土の像を取り出す。動物の形をした像には無数のひび割れがはしっている。形に、レイヴァートは見覚えがあった。キルシが使っていた獣だ。
 像は、小屋で拾い集めた破片をイユキアが元の形に継ぎ直したものだった。それに気付いたレイヴァートが感心した表情になる。イユキアは像を自分の前へ無造作に置き、古い言葉で獣の像へ呼びかけはじめた。
「獣の形をしたものよ、血のふちから呼び醒まされし虚ろな魂の器よ、己の主を思い出せ。己にふれた主の手を、主の指を、己に息を吹きこんだ主の血を、主の言葉を思い出せ。主の呼び声をきけ」
 像がカタカタとふるえはじめる。イユキアが3度目の詠唱をはじめるとギチギチと破片がきしみをあげ、内側からふくらんだかと思うと、粉々にはじけとんだ。破片ひとつ見えないほど、こまかな粉となって霧のように漂う。その霧は獣の形をしていた。曖昧な色の尾を引きながら、影は疾風のように走り出す。
 フクロウが翼をひろげ、地面から飛び立つ。するどい片目を獣の影に据え、追うものと追われるものはともに凄まじい早さで闇の向こうへと消えていった。


 イユキアは座した姿勢をくずさず、左手に鳥の眼球をつかんだまま目をとじている。集中している気配はそのままだったが、呼吸がのび、肩のこわばりがとけた。唇がゆっくりと動く。小さな声が自分への言葉だったので、レイヴァートは驚いた。
「‥‥レイヴァート。何故ハサギットの左腕を斬ったのです?」
 目はとじたままだ。レイヴァートはイユキアの横顔を見ながら淡々と答えた。
「王の前で彼が剣を抜いたから、剣を持つ腕を斬った。彼は左利きだったからな」
「近衛、だったのでしょう。あなたと同じ」
「前の王のな。当代の王に従うをよしとしなかった者のひとりだ。王はそれらの者を容赦なく遠ざけた‥‥ハサギットは、王に剣を向ける気はなかったのだと思うが、王の前で剣を抜いた。俺にはそれを許すことはできなかった」
「‥‥‥」
 イユキアの口元で息が曇った。ややあって、
「‥‥彼と、そばにいるあのキルシという魔呪使い、あの2人はおそらく〈剣〉と〈杖〉です。互いに誓約を結んでいる。〈剣〉と〈杖〉を知っていますか?」
「ああ。昔、会ったことがある」
 レイヴァートはイユキアの集中を必要以上に乱さぬよう、低い声で答える。〈杖〉と〈剣〉はそれで一対であり、魔呪を使う者とそれを守護する誓約を立てた者のことだ。特に戦いの場において、術の使い手──〈杖〉は、精神集中によって自らは無防備となる。それを武術にすぐれた〈剣〉が守る、そういうものだと彼は聞いていた。かつては多くいたらしいが、魔呪師が戦場で戦うことのほとんどない今、誓約の存在はあまり知られていない。レイヴァートにも深い知識はなかった。
 イユキアの声はしんとした響きをおびていた。
「キルシの技には、闇の匂いがする。彼の技は、外道の技だ。ああした黒魔呪の使い手を己の〈杖〉とし、相手の〈剣〉となって絆を結ぶということは、いずれ魂を喰われるということを意味します」
「そうか」
 夜の果てがうっすらと光のようなものを帯びはじめ、藍を溶いたような色が空に流れはじめる。レイヴァートはその空を見上げていたが、ぼそりとつぶやいた。
「腕を取り戻すためか」
「‥‥所詮、死者の腕。まやかしですよ」
 そのまやかしのために魂を闇に売った男のことを、イユキアがはたして哀れんでいるのかどうか、目をとじた横顔からは読みとることができなかった。それきり言葉はなく、イユキアはふたたび術の内に没頭し、レイヴァートは沈黙の内に己の心をさぐる。だが、自分の中にも哀れみを見出すことはできなかった。ただ遠く、虚しい思いがあるだけだった。


 鳥の目は疾走する獣の影を追い、鳥の翼は強くはばたいて闇の森を抜けてゆく。遠ざかるごとにか細くなってゆく鳥とのつながりを保つため、イユキアは左手に握った鳥の眼球に意識の焦点を合わせた。右の眼球と左の眼球、互いに対となって共鳴するその響きを追う。
 森はまるで眼前に次々とひらいていくようだった。その中を迷いなく抜ける。鳥の視界は形の焦点がぼんやりと曖昧で、しかも左半分の眼球が失われて視野が大きく削られていたが、先をゆく獣の動きだけは炎のように浮かび上がる。
 獣の形はどんどんと薄らぎはじめていた。そもそも、術の名残りを呼び起こしたにすぎない。1度は失った形をイユキアに無理矢理呼び出され、今やその名残りすら尽きようとしていた。だが、最後のかけらだけが、術者のもとへとひた走る。
(──やはり、獣だ)
 イユキアは淡い微笑を唇に含む。キルシはおそらくは傀儡の技を使う。それも、獣の扱いを得手とするのだろう、獣の形代を使って技をくくっている。イユキアが小屋で手に入れたのは、彼が小屋を隠す結界を張るときに使った形代の破片だ。
 はっきりとした「形」を持つだけに獣の技は力が強く、人を傷つけることに高い能力を持つ。イユキアが真っ向勝負の戦いをキルシに挑めば、キルシの方が強いだろう。
 だが獣には獣の本性があり、それは長所でもあれば短所ともなる。帰巣の本能もそのひとつだ。イユキアがあやつるまでもなく、獣の名残りは己を失いながら最後の本能でキルシのもとへ走っていく。
 ほとんど体が失せ、冬長の静謐な森にとけて消えながらも。獣は走りつづけ、最後の1歩は土に吸われるようにとけた。鳥は翼をゆるめて枝の間を上昇し、獣がたどろうとしていた道を追って、さらに木々の奥へと分け入る。イユキアは鳥の視界に焦点を合わせた。眼球を媒介にしているので、視界はきくが、音は聞こえない。
 朽木の上を横切った。鳥の気配が弱くなっているのをはっきりと感じる。血止めはしたが眼の傷は大きく、しかも限界をこえる速度で飛ばせたため、消耗も激しい。イユキアは意識を強く集中させ、鳥の視界にうつる森を見据えた。鳥の命が尽きる前に決定的な何かを見つけたかった。
 翼にぶつかる小枝に体勢をくずした。斜めの視界に、何かがうつりこんだのが見える。近い枝に身を休めさせ、イユキアはうっすらと見えてくるものに意識をこらした。
 色はまったく見えない、濃淡だけの視界だったが、地面にひろがるものがどろりとした血溜まりだということはわかった。その中にちらばる手、足、獣のはらわたのようにやわらかにちぎれた何か──そして、地面に、描かれた、あれは──
 ぐらりと視界が崩れた。鳥の体が枝から落ちたのだと気がついたが、イユキアは動くことができなかった。意識を鳥から引きはがすことができない。完全に、とらわれていた。自分の体も動かない。手の中で鳥の眼球が熱をおびるのを感じた。自分のものではない他者の力に、鳥との絆を強引に奪いとられていた。
 鳥の体を誰かが拾い上げる。残った右目の視界に、薄い笑みをうかべたキルシの姿がうつった。鳥の目を通じて、まっすぐにイユキアをのぞきこんでくる。イユキアは必死にあらがおうとしたが、神経を灼かれるような苦痛がギリギリと身にくいいるばかりで、意識の焦点を保っていられない。全身の力をふりしぼっても何の手ごたえも感じられない。
 キルシの右手に長い針が光るのが見えた。腕が振り上げられる。
 視界が完全に闇にとざされた。右目に深々と金属がつきたつ。衝撃と苦痛が精神と肉体の両方を貫き、イユキアは絶叫した。‥‥しようとした。


 イユキアの唇からかすかな音がこぼれた。小さな、だが、ただならない苦鳴。レイヴァートははじかれたように立ち上がった。
 術中の術者にふれてはならない鉄則は知っていたが、迷いなく寄り、イユキアを腕に抱く。腕の中でイユキアの体がはじけるようにのけぞった。
 眼球を持っていた左手を強く握りしめ、指の間から血を流して、イユキアは激しく痙攣する。噛んだ歯のあいだからきしむような呻きをこぼし、身を引き攣らせた。目はとじたままだ。顔を覆おうと両手があがった。
 イユキアを体で支え、レイヴァートは後ろから回した両手でイユキアの手首をつかむ。目をえぐるのではないかと心配したのだ。実際、はげしく震える指先がまぶたをまさぐろうとしたが、レイヴァートは右手でイユキアの両手首をひとまとめにし、自分の左手を下にすべりこませてイユキアの目を覆った。
「イユキア」
 耳元で強く名を呼ぶ。のけぞったイユキアの首すじから汗の匂いがするどくたちのぼっていた。ひらいた口から荒い息を吐き出し、喉を引き攣らせて息を吸う。体を、数度の痙攣が抜けた。
 両腕がだらりと落ち、イユキアの体からぐったりと力が抜けた。
 レイヴァートは耳をよせてイユキアの呼吸をたしかめ、目を覆う手を外す。囁いた。
「イユキア」
「‥‥レイ?」
 ひどくか細く、かすれきっていたが、とにかく声を聞いたことに安堵して、レイヴァートはイユキアの顔をのぞきこんだ。イユキアは焦点のあわない金色の瞳でぼんやりとレイヴァートを見上げ、荒い息でうつろに呻いた。
「レイ?」
 まるではぐれた子供が呼ぶような、たよりない声だった。レイヴァートはイユキアを左腕に支えて右手でイユキアの頬にふれ、唇からひとすじ落ちる血を親指に拭った。唇を噛んだのだ。
「俺だ。大丈夫か? 俺が見えるか? ‥‥イユキア」
 返事がない。レイヴァートは顔を傾け、荒い呼吸にひらいた唇に唇でふれた。血の味のくちづけに、イユキアが体をふるわせて何かを呻いた。頬に手をあてて、レイヴァートはもう1度くちづけ、名前を呼ぶ。
「イユキア。‥‥イユキア」
 イユキアが、のろのろと持ち上げた右手でレイヴァートのマントをつかんだ。まばたきをくりかえす目にゆっくりと光が戻ってきたが、まだレイヴァートを見てはいなかった。
 汗がにじみだす額から髪を払ってやりながら、レイヴァートはおだやかな声でイユキアを呼び続ける。やっと何度目かで、イユキアがレイヴァートを見つめた。名を呼ぶように唇が動いたが、声は出ない。起き上がろうと弱々しくもがく体をレイヴァートが抱きおこし、木にもたれて座らせた。レイヴァートの左手の甲にかきむしったような掻き傷が走っているのを見て、イユキアが溜息をついて自分の両手を見た。声は弱かった。
「‥‥すみません」
「何でもない。それより、お前は平気か」
「ええ。獣の扱いはあちらが1枚上手だっただけです」
 そうつぶやいて、イユキアは左の手のひらを見た。鳥の眼球は完全に形を失い、どろりとした血塊となって手のひらにつぶれている。レイヴァートが手布でそれを拭った。
 イユキアは立ち上がろうとする。
「場所はわかりました。行きましょう」
「イユキア」
 レイヴァートが肩に手を置いて、その動きをとめた。イユキアがまっすぐに彼を見上げる。その目はほとんど完全な金の色を取り戻していた。
「キルシは何かしようとしています。獣の血を使って、道をひらく気かもしれません。森も杭も、彼の好きにさせるわけにはいかない。私は──行かなくては」
 けわしい表情を見ていたが、レイヴァートはうなずいた。自分のマントを取ってイユキアの肩にかける。
「わかった。お前はここで休んでいろ。騎乗の準備をしてくる」
 顔をよせ、じっと顔をのぞきこんだ。
「いいか、勝手にどこにも行くなよ」
 念を押されて、イユキアは力のない苦笑を返した。
「大丈夫。おとなしく待っています。だから、急いで下さい」
「ああ」
 もう1度気づかわしげな視線を投げ、レイヴァートは身を翻して早足で去った。
 イユキアはレイヴァートのマントを体の前でかきあわせ、冷えきった体をちぢめる。木に背中を預けて目をとじた。まだ右目の奥に針が残っているような痛みがある。
 完全に目をやられたと思った。それどころか、あの次の刹那、キルシは鳥の心臓を貫いた筈だった。イユキアの心臓をめがけて。
 自分がどうやってそれを逃れたのか、イユキアにはわからなかった。さすがにキルシは獣の扱いが巧みだ。鳥の形を彼の術の中に一瞬でとらえられていた。あの瞬間、イユキアにはまるで逃げ道が見つからなかった。
 ‥‥レイヴァートか、と思う。彼が──彼の存在が、イユキアを引き戻したのだろうか。キルシの呪縛の向こうから。
 すべての神経が灼けるような激痛の中、レイヴァートが呼ぶ声を聞いたような気はした。だがあの一瞬に何がおこったのか、イユキアの記憶は苦悶に引き裂かれて曖昧だった。
 わからない。イユキアは小さな吐息をつき、それから目をあけた。
 眼前にリーセルが立っていた。少年の顔色は白茶け、唇に血の気はなく、髪は乱れ、寒さのためだけでなく全身がふるえていた。目は泣きはらして真っ赤だ。だらりと両脇に垂らした手の、指だけを鉤のように曲げていた。その手は体よりもはげしくふるえ、わなないている。
 いつのまにか夜は明け、半ばほど雲に覆われた空はぼんやりと明るい。白っぽい光がイユキアの金の瞳をはっきりと照らし出していた。獣のような目の色に、少年ははっと息を呑む。
 頬にかわいた涙の痕を見てイユキアはかすかに目をほそめたが、何も言わなかった。
 少年の腰には小振りな山刀が下がっている。ふるえる右手が山刀の柄をつかみ、また指をひらいて離し、またつかんで──リーセルは、イユキアを凝視していた。金の目の魔呪師を。
 イユキアは物憂げに目をとじ、木にもたれた。沈黙が落ちる。それきり眠ったように動かなくなった。
 やがて、絞り出すような声が聞こえた。
「父さん‥‥、を。助けて──」
 イユキアは目をあけなかった。
「それはできないと言ったら、私を殺しますか? 私を殺しに来たのでしょう、リーセル」
「‥‥父さんが──言う、から‥‥父さん‥‥」
 リーセルの体がふるえた。呪縛されてはいない、とイユキアは気配を読む。ただひたすら脅しつけられ、苦しめられて、恐怖のせいでまともな思考ができないままここまでやってきたのがわかった。夢を送られたのか。
 可哀想に。イユキアは吐息を口の中で殺す。一体彼らは、少年のまだやわらかな魂を、どれほど痛めつけたのだ? リーセルにイユキアが殺せると思ったわけはなかろうが。足止めになるとは思ったか。
 サーエシアを移しておいてよかったと思った。レイヴァートの判断は当たっていた。もしサーエシアがまだ館にいて、イユキアとレイヴァートが去った後にこれほど思いつめたリーセルがやってきたなら、何が起こったかわからない。イユキアの守りの技は、魔呪を使う者やそれにつらなる者に向けられたもので、リーセルをしりぞけることはできない。
 リーセルの呼吸だけが静かな夜明けの空気を荒く乱していた。イユキアは独り言のようにつぶやく。
「何をするにも早く決めないと、レイヴァートが戻ってきますよ。リーセル」
 少年のかすれた声がした。
「どうして‥‥目をとじているんです?」
 イユキアは目をあけたが、目蓋を伏せたまま淡く微笑した。
「あなたは、私のことが恐ろしいでしょう」
 少年は青ざめたままイユキアを見つめ、動かなかった。
 イユキアはおだやかな声で、
「恐ろしいから、殺せと言われて刃を手にしたのでしょう? 父親を救うためではなく、ただ私が怖いから、私がいなくなれば何もかも元通りになると思って」
「‥‥父さんは‥‥」
「私が死ねば、家に戻ると言いましたか」
 その声も静かで、何かを責める響きはまるでなかった。
 少年は目をしばたたいて、うろたえた蒼白な顔でイユキアを凝視した。混乱の満ちていた目にぼんやりと理性の光がともった。
 イユキアは相変わらず少年を見ないまま、顔を少し伏せて地面を見つめている。細い体をレイヴァートが残していった厚手のマントにくるみ、力なく木にもたれかかり、白んだ朝の光が照らす顔に表情はなく、その姿はひどく無力にすら見えた。
 少年の手がふるえ、山刀が鞘から半分ほど抜けた。刃が白々と陽をはねかえす。リーセルがはっきりとたじろぎ、山刀からあわてた動きで手を離した。混乱しきった目を地面とイユキアとに交互にはしらせる。
「俺、そんなこと‥‥しません。できない‥‥でも、父さん‥‥父さんが、血まみれ──で‥‥」
 膝が落ち、地面に崩れた。両手で体を支える。肩がふるえ、苦痛の声で呻いた。
「父さん‥‥」
 イユキアは物憂げに、伏せた睫毛の下からリーセルを見つめた。リーセルの手がふるえ、泣きはらして目蓋の腫れた目には涙が盛り上がり、次々と地にしたたりおちる。少年の内側から今にもあふれそうな無言の叫びを、イユキアは聞きとる。助けて、と。
 叫んでいる。声もなく。
 悪夢。イユキアへの恐怖。父親への憧憬と、その死への恐れ。だがこの少年を追いつめたものはそれだけはないと、イユキアにはわかっていた。自分のために禁を犯して森へ入り狼を追った父親を、己の手で救えない無力さ──自分自身の力のなさが、リーセルを苦しめて追いこみ、自責に心は押しつぶされそうになっている。そして、当人はそれに気付いていない。
 己の無力さは、時に何より重く、するどい。イユキアはそれをよく知っていた。
 無力なのは彼1人ではない──人それぞれに力のなさに苦しんでいるのだと、己の無力さに苦しんでいるのは彼ひとりではないのだと、そう言ってやりたかった。だがイユキアは、人にその苦しみを語る言葉を持たなかった。
 遠くで森が泣くような音がする。一瞬の風は切りつけるような冷たさで、だがイユキアは身じろぎもせずに少年の顔を見つめていた。思いつめた激情と涙でリーセルの頬は赤く熱をおび、唇は小さくふるえ続けている。
 カルザノを救うと言えば、彼を安堵させられるのはわかる。だがイユキアは、偽の希望を与えることはできなかった。キルシがもしまだカルザノを生かしているとすれば、それは術の贄として使うためでしかあるまい。ならば事によっては、自分のこの手でカルザノの命を絶たねばならない可能性すらある。術をとめ、キルシをとめるために。そして、イユキアは最後の選択をためらうつもりはなかった。
(人は、それぞれに無力だ‥‥)
 イユキアは座ったまま背すじを少しのばし、ゆっくりと少年へ語りかけた。
「私も、あなたの父親を助けたい。そのためにできる限りのことはしますが、それで充分かどうかはわかりません。だから、必ず助けるという約束はできない。わかりますか、リーセル?」
「‥‥‥」
 リーセルは顔をあげた。金の瞳と目が合った瞬間身ぶるいしたが、視線を外さず、小さくうなずいた。涙の筋が目尻から口元まで光っている。
 イユキアが続けた。
「ですが、ひとつだけ、あなたに私の誓約をゆだねましょう」
「‥‥‥」
 リーセルが大きく目を見ひらく。誓約は重い。それはただの約束ではなく、人を縛り守るべき掟となる。くわえて──少年は知らないだろうが──魔呪を使う者たちにとっての誓約は、それを口にした当人にとってさらに重く、危険なものだ。言葉を使って技を為す者たちであるがゆえに、自らの言葉に縛られる。深く、強く。
 少年と視線を結んだまま、イユキアはおだやかな口調で言葉を続けた。
「あなたの父親、カルザノ。私はカルザノを救うために己の血と命を惜しむことはありません。己の命ひとつで彼を救えるなら、救いましょう。これを我が言葉をもってあなたへ誓約する、リーセル」
「‥‥‥」
 朝の陽がイユキアの銀の髪を細く照らした。リーセルは背すじをのばして地面に座りこんだまま、一方的な誓約をさしだされたことに茫然としてイユキアを凝視している。金の瞳に対する恐怖も、魔呪を使う者への畏れも、その顔からは拭い去られていた。
 イユキアは小さくうなずいた。
「だから、もう戻りなさい。刃で誰かを傷つける前に。私は森へ行きますが、あなたは森へ入らないで下さい。人が入ると、邪魔になります」
「俺‥‥」
「戻って」
 少年のまっすぐな瞳がイユキアを見つめた。苦悶の涙は頬に残っていたが、あれほど混乱に満ちた目の奥はもう澄んでいる。見つめ返し、イユキアはうなずいた。
 無言でうなずきを返し、立ち上がったリーセルは深々と一礼した。白い息を吐きながら小走りに去っていく。イユキアは見送らずにまぶたをとじ、細い溜息を洩らした。疲労と苦痛の抜けない体を木にもたせかけ、徐々に朝の光が空気の中に浸透してゆくのを、ただ感じていた。
 しんとつめたい朝だった。マント2枚にくるまっていても、骨が凍りつきそうな気がする。マントを残していってレイヴァートは大丈夫だろうかと、らちもなく考えた。
 眠るでもなく目覚めるでもなく意識を漂わせていると、レイヴァートの腕に抱きおこされてイユキアは目をあけた。
「ほら。‥‥水を飲め」
 水筒を手渡される。かわいた喉にありがたく水を飲み、立ち上がったイユキアはレイヴァートへマントを返した。首に回したマントの留め針を留めながら、レイヴァートが心配そうにイユキアを見やる。レイヴァートは細い鎖を編みあわせた鎖胴着と手甲を身につけていた。
「どうだ、大丈夫か?」
「ええ」
 イユキアは乾燥させたサヌビキの実を取りだし、小さな粒をレイヴァートへいくつか渡すと自分も口に含んだ。焦げたような苦味が舌を刺す。一時的にではあるが、疲労感がうすれ、集中力を増す効能がある。背すじをのばし、うなずいた。
「いきましょう」
 金色の目に昂然とした意志の光を見てレイヴァートもうなずき、道に残してきた騎乗獣へと歩き出した。