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【10】

 剣の音を背後に聞きながら、イユキアは木々に囲まれた大きな泉のふちへ歩みよった。
 泉──これは泉なのかどうか、イユキアは迷う。風もなく揺らぎ続ける水面は赤黒く、見るからにどろりと粘っていた。血臭がたちのぼる泉のふちの地面は、黒く焦げたように変色していた。
 泉の中央、血の水面から白い杭状のものが空へ向かってつき出している。いびつに傾いだそれが巨大な骨なのだと、イユキアは見た瞬間に悟っていた。まるでその骨が大地をつらぬき、傷からあふれる血がそこに溜まったかのような光景だった。
 イユキアの手の中で、あの古い骨が熱をおびている。同族の──同種の骨だ。同調を感じとる。
 ドクリとイユキアの心臓が大きく脈を打つ。骨に共鳴している──させられている。
(解き放て)
(放て)
 遠い意志がこだまのようにひびく。
(まだ──生きているというのか‥‥?)
 熱い波のように打ちよせる鼓動に強く感応しそうになる己を制し、手の中の骨の共鳴も律しながら、イユキアは泉へ歩みよった。赤い水面が淡い冬の陽光をはねかえし、赤い反射光がイユキアの目の金にうつりこんでいた。
「ほう──死んではいなかったか」
 キルシが泉のふちから顔を上げて微笑した。イユキアはきびしい表情で彼を見つめる。キルシの足元には狩人のまとう毛裏の長着姿の男が崩れていた。リーセルの父、カルザノだろう。目をとじて意識はなく、身を丸めて倒れた男の左腕には、肘から先がなかった。
 ハサギットの左腕が誰の腕なのか、イユキアは悟る。予想はしていたが、リーセルの真剣な表情がちらりと脳裏をかすめた。
 カルザノの首には、キルシの短剣の薄い刃があてられていた。すでに肌には浅い傷がひらき、とがった細い刃に血がすじになってからみついていた。
 イユキアの目が強くひややかな光をおびる。妖しいほどの金のかがやきを見つめて、キルシがつぶやいた。
「成程。金の目‥‥お前、そうか、ユクォーンの者か」
「あなたは?」
 問う声はやわらかだったが、温度がなかった。
「あなたはどこで生まれ、どこでこの骨を手に入れたのです」
「言えば俺に力を貸すか? ここに何が眠っているのか、それが何の骨なのか、お前は知っているのだろう? ‥‥魔呪を使う者ならばふれたいだろう」
 キルシが遠い風のように囁く。イユキアを見つめる目は飢えていた。
「竜に‥‥」
 振られた短剣から血の珠がとび、赤い泉に呑みこまれた。ざわりとあたりの気配がざわめく。イユキアは脈動に応じる骨を握りしめた。背後で鉄と鉄のぶつかる音がする。その澄んだ響きが、レイヴァートの戦いの音が、引きこまれそうになるイユキアの意識の芯を支えた。
 イユキアはあごを引き、静謐な眸でキルシとその足元のカルザノを見つめた。
 カルザノはぴくりとも動かない。左腕を切られたのはおそらく昨夜。傷口を布で包まれ、上から紐できつく縛って血止めされている。顔は土気色で、キルシが首の傷をひらいてもあまり血は出なかった。血管が縮んでいる。このままでは遠からず死ぬ。
 イユキアは背後をちらりと見る。レイヴァートとハサギットは互いにゆずらず激しい剣をかわしていた。ハサギットの左腕がくり出す異様な力の打込みをレイヴァートが巧みに受け、流し、打ち返す。その戦いには迷いがなかった。
 キルシへ視線を戻し、イユキアはうなずいた。
「ええ。私も竜を知りたい」
 自分が手にするのも、泉の中央で地面を貫いて立つのもともに竜の骨だと、キルシに言われるまでもなくイユキアは知っていた。そして、男は正しい。魔呪を使う者ならば、誰でも竜にふれてみたい。その圧倒的な力を知りたい。知への渇望が心をうずかせる。
「ならば、力を貸せ」
 イユキアはほそめた金の目でキルシを見つめた。その目にキルシが何を見るか、自分の目がキルシに何を見せているか、彼には自信がない。ただイユキアは背中にレイヴァートの剣の音を聞いていた。
「‥‥ふたつ、条件を呑んでもらえるのなら」
「ほう?」
「レイヴァートの血を使わないこと。そしてもうひとつ」
 カルザノを指でさした。
「彼の血も」
「だめだな。覚醒には、血が要る」
 もう1度短剣を振って、刃先から滴った血が泉に呑みこまれると、キルシは舌打ちした。イユキアにもわかる。場の反応がにぶいのだ。カルザノの血をほとんど受け容れていない。このままではキルシは彼を殺す。血だけではなく生命そのものを、直接の贄とするために。
 イユキアは左腕をさし出し、手首が上になるよう腕を返して袖をたくしあげた。キルシの黒い目を見つめる。魔呪師の目──渇望、飢え。己の知らない世界を求めてしまう者の目だ。自分も同じ目をしているのだろうと、思った。そうした欲望のない者が魔呪の才を手に入れることはない。
「あなたがレイヴァートの血を欲しがったのは、彼が王城と王に絆の深い者だからでしょう、キルシ? 彼は王と王城に忠誠の誓約を立てた、王の近衛だ。森の魔呪に干渉するために、あなたはレイヴァートの血と王城との絆を使おうとした」
 キルシは言葉を発さなかったが、目の奥に揺れた一瞬の炎がイユキアの言葉を肯定していた。イユキアは右の人さし指をのばして左腕にあてる。鳥に術を使う時につけた傷が生々しい色に残る、その上を爪先でなぞりながら、キルシを見つめて囁いた。
「私の方がずっと絆は深い。王城と森をつなぐ絆である黒館と、その主の存在は、あなたも知っているでしょう」
 爪が傷の上を正確になぞった。白い肌にふたたび傷がひらき、血の珠がつらなって浮き上がる。朱のつぶを指先にすくいあげ、イユキアは右手を振った。宙をとんだ血の粒が泉に落ちる。瞬間、ドクリと巨大な脈動があたりの空間をふるわせた。それははっきりと意志を持った脈動だった。
 骨と同じように血にも記憶がある。そして、熱が。それが術律に干渉し、新たな律形をつくる。魔呪師ならばまちがえようのないざわめきが泉から沸き上がった。
 キルシが呆然とイユキアを見つめた。
「‥‥そうか。お前の力は、黒館の──」
 もう1度、深くなぞった腕から血が赤く這い出し、肌をつたって滴った。黒い土に染みて呑みこまれる。イユキアは金の瞳でまっすぐにキルシを見つめていた。
 黒館の力。その不可思議な存在に、キルシが惹きつけられているのがわかった。イユキアの血は彼が挑む術に力をもたらすだろうし、さらにイユキアを殺せば、自分こそが黒館の新たな主となって黒館の力を手に入れられるかもしれない──力を求めるキルシの心が、その好機をのがす筈がない。これは賭けだが、イユキアには確信があった。
 間はわずかだったが、イユキアと濃厚なまなざしを交わしたキルシはカルザノの首から短剣を引いた。レイヴァートの方角へあごをしゃくる。
「あの騎士は、ハサギットの獲物だぞ」
「彼らの問題は彼ら自身にまかせておけばいい。私たちには関わりがない」
 ひとすじの表情も動かさず、イユキアは答えた。
「あなたは血が必要だ。私がそれを供する。ここに眠るものを目覚めさせ、呪縛するために」
 キルシは口のはじを持ち上げた。まだ足りないだろうか。イユキアは静かに言葉を継ぐ。
「どうします。不安ですか、私の血を使うのが。不安なら私を呪縛しますか? それともそんな力も残っていませんか。道をひらくのに、あなたは随分と力を使った筈だ」
 挑まれたと感じたか、キルシはするどい眸でイユキアをにらむと、カルザノの体を振り払うように横へ押しやって立ち上がった。大股に歩みより、イユキアの腕を乱暴につかむと傷に唇をあてる。血をすすった。
(獣を使う者よ、血を使う者よ、道を外れた外道の者──)
 傷口から血が流れ出し、乱暴な圧力が逆に流れ込んでくる。骨までからめとろうとする力だ。イユキアは目をとじて呪縛される苦痛をこらえながら、背後の剣の音を聞いていた。レイヴァートが防戦一方になっているのが、ハサギットの激しい打ちこみの音でわかる。
 キルシは傷に口をつけたまま、唇を動かして呪の言葉をつむいでいた。傷から流れこむ呪縛を骨の芯に感じながら、イユキアはふと小さな微笑を口元にうかべた。外道、か。己の欲のために求道の道を踏み外した魔呪師のあさましさをそう呼ぶが、それを言うならイユキアもそうだ。罪を重ねてこの地にいる。道を外した者を外道と言うなら、己のこの身も外道だった。
 急激に全身の力が抜けて世界が遠のき、イユキアは膝から地に崩れた。剣の音が聞こえなくなる。キルシが流しこんだ魔呪が体の内側にはっきりと根を張りはじめた。顔を上げ、キルシを見上げて、彼はかすれた声で言った。
「カルザノを‥‥彼を、外へ出して下さい」
「じき死ぬ男だぞ」
「まだ救える」
 キルシが血の痕のついた唇を歪めて笑みをうかべた。目が血に酔っている。
「こんなささいな男を救いたいのか。愚かだな。お前ほどの力を持つ者が‥‥」
 体を横から蹴られ、イユキアは倒れる。支えようとたよりなくのばした手がぬるりとした水面に呑みこまれ、イユキアは血の色をした泉の淵から中へ倒れこんでいた。泉の内側には底がなく、まるで縦に掘り抜いた穴に落ちるように、イユキアの右上半身と顔がまともに血に沈んだ。口から泡がこぼれる。
 血かと思ったものは、血の形をした魔呪の流れだった。イユキアが冬至の日にセグリタに渡した「水」と同じだ。あれは水の性質を持ってはいるが、水ではなく魔呪を形として固定したものだった。血の魔呪はひやりとイユキアの体をつつみ、イユキアの生気を吸いとって深みにひきずりこもうとする。意識と体を同時に呑みこもうと──
 どうにか意識の焦点を保つイユキアの髪がつかまれ、血の中からぐいと引き上げられた。喉にキルシの短剣があてがわれる。髪と肌から血の色をしたぬめりをしたたらせながら、イユキアはキルシを見上げた。
 キルシが囁く。
「覚醒には命が必要だ。血には血を、命には命を。代償なくして息吹はない。その男を救うならば、誰の命を使う?」
 血のつたう唇で、イユキアが静かに囁き返した。
「あなたはとうに、ご存知でしょう」
 銀の髪を赤く染める血が額をつたって目に入り、視界が真っ赤に染まる。赤く。脈動する光の向こうに遠く遠く、イユキアは翼ある獣の影を見る。
(アシュトス・キナースの森に、竜などいない‥‥)
 だがそう言ってもキルシは信じまい。竜の骨で道をひらき、竜の骨が立つこの封じ地へたどりついた以上、彼はここに竜が眠ると信じる。竜の覚醒を求める。血を流し、死をまきちらして。


 ハサギットの左腕がくり出す剣撃には凄まじい力がこめられていた。魔呪でつなげた腕のためか。レイヴァートも膂力には自信があるし、王城でも腕力だのみに彼を打ちこめる相手はそうそういない。だがハサギットの剣を受け続けた手は重く痺れはじめ、剣はギザギザに刃こぼれしていた。
 まともに正面から受ければ剣が折れる。レイヴァートは自分から打ちこまず、相手の斬撃をそらすことに集中した。邪気にとらわれないよう体の内側に闘気をめぐらせ、ハサギットの動きを読む。足取り、視線。振り上げる腕の動き。人間離れした速度で打ちおろされる剣の軌跡。
 まるで軽い木剣を扱うように、ハサギットは両刃の重剣を片手で振り回す。
 かつて王城でまだ互いが騎士であった時、ハサギットと修練で打ち合ったことがあるが、レイヴァートはまったくこの男に勝てず、しばしば修練用の刃引きの剣で叩きのめされて終わった。力も、技も、かなわなかった。
 それをハサギットも思い出していたか、顔の前に剣を立てて男はちらりと笑った。息もはずませず、青白い顔に汗ひとつかいていない。
「お前は俺には1度もかなわなかった、レイヴァート。──よくもあの時、あんなふうに踏みこんでこれたものだ‥‥」
 上がりそうになる息をととのえながら、レイヴァートはハサギットの動きに油断なく目をくばる。息を大きく吐いたなら、体の中に抑えこんでいる闘気が外に出てしまう。そうすれば一気に疲労が全身にあふれてくるのがわかっていた。これをいつまで抑えておけるかわからない。腕は半ば痺れ、心臓は乱れて激しい脈を打ち、体の芯に鈍い重さが生じている。
 あの時。どうしてあんなふうに踏みこみ、ためらいなく剣を振ったのか。ハサギットにはわからないのだろうか?
(お前は、わからなかったのか──)
 かつては知っていた筈だ。いつ見失ったのか。
 気合いとともに、ハサギットがふたたび打ちこむ。追いつめられないようレイヴァートは左後方へゆるい弧を描きながら下がり、斬撃を打ちかわした。ハサギットは両腕で構えていたかと思うといきなり左腕1本で打ちこみ、レイヴァートの距離感を狂わせようとする。その剣はすべてを叩き伏せようとする荒々しい怒りに満ちて激しかったが、かつてのハサギットの剣ではなかった。騎士の剣ではない。ただ凄まじい力だけをたのみにふるう、邪気に満ちた剣だった。
 レイヴァートの額から汗がつたう。体のあちこちに浅手の傷を負っていた。痛みは軽く、行動をさまたげられるような傷ではないが、疲労のせいか、闘気が傷口から流れ出してしまうような感覚が彼を悩ませはじめていた。全身が重い。それを見てとったハサギットが歯を見せて笑った。
「お前は俺にはかなわんよ、レイヴァート。あの時のようにはな‥‥」
 振りおろされた剣をよけてレイヴァートは大きく下がり、体をひねって半身にかまえた。視界の左側にぼんやりと赤い光をとらえる。白い骨が中央からつき出た赤い泉。そのそばに、膝をついたイユキアが見えた。こちらに背を向けた姿は、血に濡れそぼっていた。
 斜めに打ちおろされた一撃を、レイヴァートは両手に構えた剣で受けとめる。まともに衝撃を受けた腕にビリビリと痺れがはしり、剣がきしむのを感じた。合わせた剣をさらに強く押しこみながら、ハサギットが唇を歪めた。
「よそ見か? 心配するな、ヤツの面倒も見ておくさ」
 レイヴァートはするどく息を吐き、剣を打ち払うと前へ踏みこんでハサギットの肩を狙う。その剣を遠くはじかれ、腕がのびて体が右に大きくひらいた。無理に体の前へ引き戻した剣には力がなく、ハサギットは余裕をもってその剣を横へ払った。レイヴァートが大きく体勢を崩す。ハサギットの顔が笑みに歪んだ。
 ハサギットが大きく踏みこみ、レイヴァートの左肩めがけて剛剣を振りおろす。それをとめようとしたレイヴァートの剣はハサギットの剣にまともにぶつかり、激しい音が鳴ってレイヴァートの手から剣が落ちた。剣身半ばで刃はまっぷたつに折れていた。
 仕留めた──と、二の剣を送ろうとしたハサギットの足がとまる。その左肩を、レイヴァートの短剣が深々とさしつらぬいていた。
 ぴたりと男に身をよせ、左手首をつかんで剣を封じたレイヴァートは、間近にハサギットの目を見つめる。剣を取り落とすところまでも計算された誘いの動きだったと、ハサギットは気付いたかどうか──以前のハサギットなら惑わされない動きだっただろうが、己の力への慢心がハサギットの目を狂わせた。よもやレイヴァートが己の剣を自ら手放したとは思っていなかったにちがいない。一瞬、動きに隙ができた。
 左手に握った短剣に力をこめ、ねじりこむと、ハサギットが苦鳴をあげた。レイヴァートは歯をくいしばり、膝裏を足で払ってハサギットの体を地へ叩きつける。短剣を抜きながらはね起き、ためらいなくハサギットの左手首を短剣で地面に貫きとめた。
 荒い息をついてハサギットの手から長剣を奪い、レイヴァートは一瞬ハサギットを見つめる。お前はわからなかったのだな、と心の中で呟いた。あの時あんなふうに踏み込めたのは、修練では負けつづけたハサギットを恐れず剣を振ったのは、自分の命よりも守るべきものがあったからだと言うことが。
(そして今も──)
 口に出しては何も言わず、レイヴァートが振りおろした剣の分厚い刃は、ハサギットの左腕を上腕から断ち切った。


 地に崩れたまま、ハサギットはうつろな眸でレイヴァートを見つめた。その口からしゃがれた笑い声が洩れはじめる。レイヴァートは大きく呼吸しながら、2つに折れた自分の剣を拾い上げた。
 イユキアの方へ心配な視線を走らせようとした時、いきなりハサギットの声が悲鳴にはねあがった。地面に倒れた体がはげしく痙攣し、火にあぶられる虫のように苦悶にのたうった。
「キルシ──」
 名を呼ぼうとひらいた口にどす黒い血があふれ、顔中にとびちる。肌はみるみると黒ずんで木の皮のようにしなび、肉がしぼんだ。見ひらいた両目から血の涙がしたたって、耳元まで赤黒いすじを引くのを、レイヴァートは凝然と見つめた。ハサギットから、何かが吸いだされていく。血。生命。
 絶望的な呻きを最後に、ハサギットの声が途切れた。枯れ尽くしたような体だけが数秒動きつづけていたが、それも静かになる。男は死んでいた。