言葉通り、レイヴァートはカルザノを宿長に引き渡してすぐにイユキアを迎えに戻った。カルザノの左傷についてはくわしくはふれないまま、狼に食われたということで片をつけるよう、それとなく忠告を残す。魔呪師に腕を取られたとなれば、悪い噂がたつ。生き残った以上、彼は片腕でこの村で生きていかねばならない。
宿長は忠告を受け入れるだろう。森で実際に何があったのか、彼が知りたがっているとは思えなかった。ただ森の出来事にこれ以上わずらわされずにすむことにほっとしていた。
イユキアをフィンカの鞍に押し上げ、後ろににまたがってレイヴァートが手綱をとる。2人ともに無言だったが、鞍上で互いによりかかるように体をよせていた。
夕暮れの中を館へ戻り、レイヴァートは鍵をあけてイユキアとともに中へ歩み入った。窓をすべて板と布で封じてあるために中は暗い。油燭をともして居間に入り、レイヴァートは暖炉に火をおこしはじめた。
細い焚き付けに火をうつし、燃え残りの燻り木をのせて火を充分大きくしてから、薪をのせていく。火かき棒で火の位置をうごかしながら、レイヴァートが言った。
「リーセルと何か約束したのか。‥‥誓約か?」
とがめるような口調ではなかったが、火の方を向いた彼がどんな表情をしているのか、床に座りこんで身を丸めたイユキアからは見えなかった。
「彼が、何か言いましたか」
「それについては、何も。ただ何度もお前に礼を言っていた」
「そうですか。彼は‥‥彼らは、どうなります?」
火を動かす手をとめ、レイヴァートは少しのあいだ考えこんでいた。
「お狩り場に入ったことを不問にするわけにはいかないだろう。だが、カルザノはすでに報いを受けたように、俺には思える。機会をとらえて、陛下にそう申し上げるつもりだ」
イユキアは小さくうなずき、かかえた膝にあごをうずめて黙りこんだ。大きくはぜる音がして、火の中で木が半ばから割れた。細かい火炎が巻き上がり、炎がいっそう大きくなる。レイヴァートは火炎の色を見つめていたが、つぶやいた。
「父親をつれ帰ると? そう約束したか」
「‥‥それは私と彼との、話です」
「確かにな」
うなずき、吐息をついてレイヴァートは立ち上がった。イユキアの頭にポンと手を置く。
「火にあたってろ。台所で湯を沸かしてくる」
「レイヴァート。私はあなたに話がある──」
「後で聞く。とにかく、血を洗おう」
血がかたまった銀の髪に指でふれ、レイヴァートは部屋から出ていった。イユキアは言われた通りに火の前にうずくまる。冷えきった体には炎の熱がひどく強烈に感じられる。肌がじりじりとあぶられるような時間がすぎると、やっと体の内側にその熱がとどきはじめた。イユキアは汚れたマントを脱いでたたみ、引きよせた膝に頬をのせる。ぼんやりと炎を見つめた。
赤く踊る火炎と影を見ていたら、うつらうつらしてしまっていたらしい。肩にレイヴァートの手が置かれ、ゆすられて、イユキアは目をさました。まだぼんやりしたまま台所につれていかれる。
「本当なら風呂の方がいいんだがな。ちょっと手間がかかるから、こっちで」
レイヴァートはそんなことを言いながら、台所の石の床に沐浴用の大きな平桶を据え、大鍋に沸かした湯を手桶に汲んで水でうすめた。火をおこしたかまどに近いので、その熱気であたたかい。
ぼうっと立っているイユキアを見た。
「服を着たまま湯浴みするか?」
「‥‥あ」
まばたきして、イユキアはたじろいだ。レイヴァートがちらっと目に笑みをはしらせ、
「大丈夫だ。見慣れてる」
「‥‥‥」
イユキアは怒ったように表情を消して目を伏せ、それでも言われた通りに服に手をかけて脱ぎはじめた。たいがいこんな顔の時は、どうしていいかわからない時だと知っているので、レイヴァートは気にしなかった。服を受け取って椅子の背にかけ、裸になったイユキアを平桶の中にしゃがませると、手桶でぬるま湯をかけた。ざっと埃を洗い流してから、石鹸を手にしてイユキアの髪を洗いはじめる。血がこびりついた細い髪に指をくぐらせて泡を丁寧にすべらせた。
自分でやる、とイユキアが小さな抵抗を見せるが、レイヴァートは意に介さなかった。髪から汚れを落とすと、今度は湯でしぼった布を手にして首から肌を拭っていく。
イユキアの左腕、その内側には傷が赤く残っていた。血はとまっている。レイヴァートは湯を流してそっと傷を洗った。
「痛くないか」
イユキアが無言でうなずく。
「ほかに傷はないか? どこか、痛むところは?」
イユキアは首を振った。髪に泡をつけたまま、すっかり抵抗はあきらめた様子で桶の中に座りこみ、レイヴァートにされるがままになっている。そうやってふれられ、洗われるのが心地よさそうでもあった。
胸元から腹部へ布がすべると、たじろいだ表情で背後のレイヴァートを見上げたが、レイヴァートは布を持つ手を脚の内側へすべりこませた。内腿を布でなでる。囁いた。
「ここ、まだ痛むだろう」
「‥‥少し」
騎乗に慣れないイユキアの内腿は軽くすれて赤くなっている。イユキアを見つめながら、レイヴァートは布を置き、ゆっくりと脚をなでた。手のひらを這わせ、張りの残っている筋肉をほぐしながら指先で揉む。巧みな指の動きに筋肉の緊張がほどけ、イユキアが溜息をついた。目をとじる。
ふいにレイヴァートが強くイユキアを引き寄せ、背後からきつく抱きしめた。両腕を回して濡れた肌を抱き、首すじに唇をつける。石鹸を香りづけたラベンダーの香りがした。泡のまじった白いしずくが、イユキアの髪からレイヴァートの頬をつたっていく。
「‥‥あなたが濡れる」
イユキアがかすれた声でつぶやいた。
「どうせ、俺も後で洗う。だがお前が風邪を引くな」
笑って体を離し、レイヴァートはイユキアの上から湯を数回流して泡を洗い落とした。かわいた布を頭からかぶせて拭いてやる。そのままひょいと体ごとすくいあげ、抵抗を無視して居間まで運ぶと、火の前にイユキアをおろした。
「何か飲むか?」
着替えのローブをまといながら、イユキアは首を振る。レイヴァートは火の前にソファを寄せた。
「あたたまって休んでいろ。俺は、サーエの様子を見てくる。あっちで何か食うものをもらってきた方が早そうだしな。腹も空いた」
ソファに座らせたイユキアに毛布を渡した。ぼんやりとしているイユキアのあごを指ですくい、金の目をまっすぐにのぞきこむ。
「大丈夫か? 聞こえてるな?」
「平気です。少し、ぼうっとして‥‥」
「休め」
額にくちづけ、レイヴァートは火の横へ戻った。火かき棒を手にして火をととのえはじめる。イユキアはソファにかけられた大きな鹿皮の上で体を丸め、毛布に顔までもぐって目をとじた。
どんなふうに眠りにおちたのか、まったく覚えていない。いつも魔呪を使った後に残る体の奥のこごえもなく、何も考えず、何の夢もなく、悪夢も声もなく、ただ眠っていた。それはひどく深い、静かな眠りだった。
「‥‥イユキア」
肩に手を置かれ、イユキアは目をあけた。レイヴァートがのぞきこんでいる。イユキアが起きたのを見て、唇にかるくくちづけた。心地よさに目をとじて眠りに戻りそうになったイユキアの髪を、指で引く。
「寝るな。食事だ。昨日、ほとんど食ってないだろう」
「‥‥昨日?」
少し不満げな呻きを喉の奥で洩らし、イユキアは起き上がった。部屋の窓は覆われて外の光も闇も見えず、光といえばテーブルの油燭と暖炉の炎だけだ。そしてイユキアは、いつもなら持っている時間の感覚を完全に失っていた。
「ああ。じき夜が明ける。よく眠っていたな。とにかく1度起きて腹に何か入れろ。調子は?」
レイヴァートは部屋着に着替え、目の詰まった毛織りのシャツの上に毛糸で編んだガウンを羽織っている。あまり見たことのない格好にイユキアは小さく目をみはったが、ひとまず言われた通りに起き上がった。もつれた髪を指で梳きながら、手の下であくびを殺す。イユキアは普段、あまり眠らない。これほど長い時間眠ったのがいつ以来か思いだせないが、まだ眠かった。体は少し気怠いが、重苦しい疲弊感は自分でもおどろくほどきれいに消えていた。
レイヴァートは毛布をどかしてイユキアの横に腰をおろし、前の床へ食事をのせた盆を置いた。
「乳粥をもらってきた。食べやすいしな」
わざわざあたため直したのだろう、小さな木の椀が2つならんで湯気をたてている。その横に干しイチジクと水のグラスもあった。片方の椀と木のスプーンを取ってレイヴァートが食べはじめる。少しためらったが、言われてみればたしかに空腹を感じて、イユキアも椀を手にした。
つぶした木の実を山羊乳と水で煮た粥に、干し青菜と魚の燻製を刻んだものが入っている。塩味の奥にかすかな甘味のついた粥は舌を焼くほど熱い。
口元でさましながら、レイヴァートが言った。
「サーエに会って、大体説明してきた。‥‥お前を巻きこむなと、怒られた」
丁度口に粥を入れていたイユキアがむせかかった。レイヴァートが水のグラスを取ってやる。受け取ってどうにか咳をおさめ、イユキアはため息をついた。
「巻きこまれたのは、あなたですよ」
「そうか? まあ、お互い巻きこまれたようなものだな。とにかくお前がいてくれてよかった、イユキア」
「‥‥‥」
小さく微笑して、イユキアはまた食べはじめる。粥を食べ終わると、レイヴァートに渡された干しイチジクを素直に口に入れて噛んだ。ねっとりとした甘さが口の中にひろがっていく。時間をかけて食べた。
簡単な食事を終えて片づけてから、イユキアはレイヴァートの傷をあらためた。レイヴァートは面倒そうだったが、とりあえずイユキアに従う。本人の言葉どおり浅手で、問題がない傷だとイユキアが確認してから、ひととおりの治療を施してやっとそれも片づいた。
弱まっていた炎の中にブナの薪を放りこみ、レイヴァートは新しい火をかきたてた。火の前に置いてあたためておいた壺からワインを杯に注ぐ。蜂蜜で甘くしたワインを飲みながらのんびりとしていると、イユキアがつぶやいた。
「すみませんでした」
「──何をあやまる?」
レイヴァートはけげんそうに左横のイユキアを見るが、イユキアは炎の色を見ていた。まばゆい赤にかがやく炎は大きく揺らぎながら時おり黄色い粉のような光を散らす。イユキアの目はその色をうつして、さらに深い金の光を溜めていた。
「森で。‥‥気がついたでしょう。あなたの‥‥生気を奪った」
レイヴァートはワインを一口飲んだ。
「あれは、そういうことなのか」
「‥‥そうです」
うつむいたイユキアの声は消えるように小さかった。森で自分にふれたレイヴァートのあたたかさを思いだす。自分の中へ流れこんできた、何とも言えないあのぬくもりの感覚も。
ワインの杯をつかむ指に力がこもり、赤い酒の表面が小さくふるえた。
「あんなことを‥‥してはいけなかった。するべきではない、まちがったことです」
「お前が意図したわけではないだろう。どっちにしても、俺はかまわん。お前がそれで少しでも癒えるならな」
本当に何とも思っていないような声だった。イユキアは長い溜息を吐き出す。
「あなたはわかっていない。もっと用心するべきです。ひとつ踏み外せば‥‥大変なことになる」
レイヴァートはそれには何も言わず、ワインを飲みながらイユキアを見つめていたが、おだやかにたずねた。
「イユキア。俺はこれまで、ふれただけで生気を奪うような、そしてそれが術者を癒すような術を聞いたことがない。それに、お前は何の言葉もとなえなかったし、何かの術をかけようとしていたわけでもない。こういうことがあるものなのか?」
イユキアはワインを見つめたまま考えこみ、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「‥‥ないことでは、ないのだと、思います。あまり表には出しませんが。誓約で絆を結んだ相手から、魔呪師がそんなふうに生気を分け与えられる、ということはあります」
「そうか。それが〈杖〉と〈剣〉か?」
レイヴァートが目をほそめた。
「彼らは誓約によって結ばれている。誓約には、その絆も含まれているんだな?」
「そう‥‥必ずしもそうではありませんが、たいてい、その筈です。魔呪を使うと消耗する。特に、人を傷つけるような力を放つ者の消耗は大きい。そうして力の弱った魔呪師を守り、時に生気を分け与える。それが〈杖〉と〈剣〉の関係です。かつて、魔呪師が傭兵のように戦いの場で己を売っていた時代につくり出された誓約で、そのころは大勢の〈杖〉と〈剣〉がいたそうですが」
「キルシとハサギットはその絆を結んでいたな」
その声は静かだった。イユキアはうつむいたままうなずく。炎の燃える音にも消されそうなほど小さく、つぶやいた。
「‥‥見たでしょう。ハサギットが最後、どうなったか。キルシは絆を使い、ハサギットの命までもを吸い取った。ああいうことすら、おこりうるんです」
「お前が、俺を?」
はっきりと笑いがにじんでいるのを聞きとって、思わず顔をあげたイユキアがレイヴァートをきっとにらんだ。
「笑いごとじゃありませんよ」
「笑ってない‥‥悪かった、悪かった」
左手をのばし、イユキアの肩へ回してなだめるように叩く。そのまま指でイユキアの肩に乱れた銀の髪をいじりながら、レイヴァートはかたい表情のイユキアの横顔を見た。
「しかし、お前と俺の間に誓約はないだろう」
「‥‥ええ」
「じゃあどうして、あれが起こった?」
「それは──多分」
イユキアはそこで黙った。何か小さな声でつぶやいたようでもある。レイヴァートが聞き返しても微妙な表情のまま黙りこんで、言おうか言うまいか明らかに迷っていた。レイヴァートはそれを眺めてワインを飲んでいたが、飲み干した杯を手の中でもてあそびながら、不意にたずねた。
「俺がお前と寝ているからか?」
「‥‥‥」
イユキアは火を見つめたまま顔を動かさなかったが、炎がてらす頬に赤みがのぼった。少し不機嫌そうに唇を結んでいる。困らせると、彼は大抵そんな顔をする。レイヴァートはイユキアの右頬に唇をあて、まだうつむいている顔を間近に見つめ、囁いた。
「それとも、俺がお前を愛しているからか?」
「レイヴァート──」
それ以上言わせずに唇をふさいだ。ゆっくりとイユキアの唇に残るワインを味わい、舌で唇の内側をなぞる。イユキアが呻いた。ひらいた口の中へ舌をしのばせ、あたたかな口腔をやわらかになぶって、深くイユキアのくちづけを求めた。拒むように身を引こうとしながらも、イユキアは求めに応じて唇をひらき、レイヴァートを受け入れる舌は情熱的だった。
息をついて体を離し、レイヴァートはイユキアの手からワインを取ると自分の空杯とまとめて床の盆に戻した。イユキアの肩をつかんで自分に向かせ、ふたたび強い唇を重ねる。背に腕を回して抱きしめ、イユキアをソファに倒し、肘掛けに頭を押しつけながらむさぼるように唇を奪いつづけた。イユキアが呻きながらレイヴァートの体に腕を回し、背中へ夢中な手を這わせる。長いくちづけが濡れた音をたて、2人の間でよじれた服が衣擦れにきしんだ。
乱れた息をつき、レイヴァートはイユキアを見おろす。イユキアの頬をなで、濡れた唇を親指でなぞった。
「あの一刻だけでもお前の〈剣〉になれて、俺は光栄だ、イユキア。それだけでいい」
「‥‥レイヴァート」
イユキアは陶酔したような金の目でレイヴァートを見上げて、名をつぶやく。くちづけに酔った──どこか甘えた目。レイヴァートは体の深いところがドキリと熱い脈を打つのを感じていた。一瞬に、ほとんど追いつめられるほど。
「イユキア」
囁く声が抑えきれずにかすれた。
「‥‥お前が欲しい」
イユキアが何か言おうと濡れた唇をひらいたが、吐息にふるえただけで言葉はなく、ただレイヴァートを見上げていた。金の瞳の奥にはげしい光がゆらいだ。
イユキアの腕がレイヴァートの首にからみ、引きよせた。自分から唇を合わせ、口をひらいてレイヴァートを求める。指がレイヴァートの髪をまさぐり、レイヴァートの顔を強く自分へ押しつけた。レイヴァートはさらに激しくくちづけを与えると、濡れた唇でイユキアの首すじを愛撫しながら、服を脱がせはじめた。