シチューの残りと黒パンで簡単な食事をすませると、レイヴァートはマントをまとい、油燭を手に立ち上がった。もう片方の手に鍵のついた金属の輪を下げている。
「地図が見たいと言っていたな。案内する」
案内、という言葉にけげんな顔をしたが、イユキアもマントを羽織りながらレイヴァートを追った。家の中でも火のない場所はしんと冷えている。扉を4つ通りすぎた廊下のつきあたりを左へ曲がると、目の前に両開きの扉があった。
「叔父の書斎だ。‥‥あの人は本当に変わり者で」
油燭をイユキアに渡し、5つの鍵の中から1つを選りだしながら、レイヴァートが説明した。
「俺の母の弟だが、母と彼の間には直接の血のつながりがない。親同士の連れ子だそうでな」
「では、あなたと叔父上に血のつながりはないんですね」
「そこが面倒なところで‥‥」
鍵穴に鉄色の鍵がさしこまれた。かなり大づくりで精巧な鍵だった。
「父方の、かなり遠い親戚でもある。ないに等しいつながりだが、完全にないというわけでもない。まあ俺は、13の時に国に戻るまで叔父の存在すら知らなかったのだがな」
慎重に鍵を回し、錠があく音を聞いてから、レイヴァートは鍵を抜いた。両開きの扉の右だけを引いてひらく。重い扉だった。
「前にも言ったと思うが、叔父は竜を探している。それで、地図も色々とあつめていた。使えるものはあらかた旅に持って行ったようだが」
うながされるまま中へ入って、イユキアは室内を見回した。つきあたりの壁一面に大きなカーテンが吊るされていて、油燭の炎が動くたび赤灰色の布襞の間で影が揺れる。だが、目につくものはほとんどそれだけだった。壁に並べられた棚はほぼ空で、手でひろげたほどの長さがある書き物机の上にも、何もない。まっすぐな背もたれのついた椅子は机にぴたりと寄せられたまま長く誰かが座った気配はなく、室内には、冷えたほこりっぽい静寂が満ちていた。
本は1冊も見当たらない。それどころか、地図のような紙も巻物も見当たらない。イユキアは油燭を手にレイヴァートを見やった。
「本のたぐいは人に預けたらしい。誰かはわからんが。高価なものだし、手入れも必要だからな」
レイヴァートは部屋を横切ると、壁全体を覆うカーテンのはじに立ち、布裏に手をさしこんだ。ガサガサさぐっていたが、目当ての紐をつかんで下へたぐる。カーテンの裏、中段あたりに等間隔で布の輪が縫いつけられ、輪の中に紐が通してある。紐は天井近くの鉤に掛けられてから輪に通されているため、レイヴァートが紐を引くにつれ、カーテンは襞を寄せながら右上に吊り上げられた。徐々に壁があらわになっていく。
イユキアは、息を呑むように立ちすくんでいる。完全に引ききった紐を柱の鉤に巻いて留め、移動して左のカーテンも同様に引き上げながら、レイヴァートがその姿を見てちらりと笑った。
「さすがにこれは持っていけなかったらしい」
カーテンの下にある白漆喰の壁全体に、巨大な地図が描かれていた。上下はレイヴァートの背丈ほど、左右はその倍はある。陸に丸く食い入ったルキ湾。その港町であるクーホリアから北西にのびた街道は、弓型に折れてからアシュトス・キナースの王城へ至る。王城の腹をつつむようにひろがる巨大な森の中を細い道が北の峰へと向かい、その道から早くにわかれる分岐の1本が、黒館へと続いていた。レイヴァートがたどり慣れた道。
アシュトス・キナース全体は北東にやや長く傾いた形で、東には湾と海をのぞみ、北西は森と峰に守られている。北はサグナの大河が三つ又に分かれるつけ根に湿地が横たわり、わずかに下流に下った地には大きな商業都市であるベッツェンの円形の城壁が描きこまれていた。さらに北にのぼれば、国境の先にはギュイエルの国。
西は、集落が多い丘陵地帯を回り込んだ細い道がいくつもからみあい、その間に森と湖がちらばっている。王の街道は西南西に向かって岩がちの斜面を抜け、谷の口の大門をくぐって、隣国イヴァンジールとの国境いへ通じていた。
地図は、アシュトス・キナースの全土と周囲の国々をその形の中におさめていた。きわめて詳細に。おどろいて見つめるイユキアの手からレイヴァートが油燭を取り、視線の先を照らしてやった。
「これで足りるか?」
「あなたの叔父上は‥‥本当に変わった方にちがいない。どうして壁に、こんなものを‥‥」
「紙に描くには大きすぎるだろう。あちこちから地図を集めて描かせたらしい。他国のことはよくは知らんが、アシュトス・キナースの地図は正確だ。保証する。イヴァンシュールとの国境いの形は少し違うし、新しくできた道は描かれていないがな」
イユキアは1歩下がってまじまじと地図を眺めていたが、我に返ると、視線で自分たちの今いる場所を探した。彩色も美しい地図につよく惹かれていたが、いつまでも呑まれているわけにはいかない。
王城から南西、やや西より、細い丘陵地帯と森に囲まれた村を探し出した。この館までは描きこまれていないが、森と村がはっきりと見てとれる。イユキアは注意深く壁の表面にふれないようにしながら、黒館が接する巨大な森とこの森との距離を指で測った。次に港町クーホリアを示す。それから、王城の北にある古い神殿都市ザルウェントを見て、彼はじっと考えこんだ。
レイヴァートは黙って見ている。
やがて、イユキアは地図を見つめたままつぶやいた。
「レイヴァート。彼らはあの森で、血を使い、封じ地への道をひらこうとしているのだと思います。おそらく、あの森には〈杭〉がある」
「杭?」
「大きな術の焦点として地脈に打たれる、小さな術律のことです。いくつかの杭でひとつの術律を組み上げる。使われ方はさまざまで、時には何かを封じたり、強すぎる地脈を分断して術の焦点を合わせたりもします」
イユキアは指先で王城を示した。
「王城を焦点とした巨大な術律の一部。それが、あの森にある。私はそう思います。キルシはそれを探すためにあの森にいるのです」
「いったい、どんな術だ?」
「わかりません。王城を焦点とするならば守りの技かとも思いはしますが、この術はあまりに古く、あまりに深く沈みすぎている。‥‥多分、この地にはこうして術を保つための〈杭〉が何本もある。あるいは、あった‥‥」
イユキアの指先がすべっていくつかの森と神殿を規則的な動きで指した。
レイヴァートは手をのばし、イユキアが示した森のひとつを指先で叩く。
「ここの森はもうない。イヴァンジールとの戦争で焼かれた。5年前」
「ええ。杭のすべてが残っているとは思いません」
「それでも術は続くものか?」
「‥‥そうですね。多分。完全な形ではなくとも」
レイヴァートはイユキアを見つめた。森での会話を思い出していた。このアシュトス・キナースには大きな術律が仕掛けられていると、イユキアは言った。黒館もまたその一部であり、黒館に仕掛けられた魔呪の生きた焦点として、黒館は「主」を必要とするのだと。
「この術律には、黒館も関わっているのだな。お前が森で話していたように」
イユキアは地図を見つめたままだった。
「おそらく。位置は、正しいように思える。ですが‥‥」
溜息をつき、首を振った。
「わかりません。私には‥‥わからない、レイヴァート」
しばらく黙った。どこかうつろなまなざしで炎の照らす地図の色だけを追っていたが、やがて、視線を動かさずにつぶやく。
「私は、前から不思議でした。そもそものはじまり、何故この地が森と森の民へ結びつき、黒館というものをつくり出し、今でもその主を必要とし続けているのか。何故、森に溜まった様々なものを黒館の主が祓うのか。‥‥何故、あれほど多くの力があの森に溜まるのか──」
低い声だった。レイヴァートはひどく不安定な響きをそこに聞く。床にランプを置き、彼はイユキアの背中から腕を回して引きよせた。
イユキアがレイヴァートの首すじに頭をもたせかけ、長い溜息を吐き出した。
「キルシがその答えを持っているのだとすれば‥‥」
声が途切れる。レイヴァートは自分のマントで2人の体を包んだ。背後から耳元に囁く。
「イユキア。とにかく、この森で今何がおこっているのか考えよう。明日、どうするかを。ほかのことに気持ちをそらすな」
「‥‥‥」
「森で、お前は〈血の道〉と言ったな。それは何だ?」
「‥‥その前に、ひとつ、聞いてもいいですか」
レイヴァートがうなずくと、イユキアは腕の中で体を回してレイヴァートの顔を見つめた。
「ハサギットがあなたに言った言葉です。彼はあなたに向かって〈罪償の血〉と言った。どういう意味ですか?」
「サーエの病をな、この地方では竜の罪償と言う。蔑視する言葉だからお前の耳に入ったことはないだろう。ふつう、人前で使われる言葉ではない」
「竜?」
「ああ」
イユキアの顔に落ちる髪を丁寧に指先で払いながら、レイヴァートは説明を続けた。
「あれの病は、まれにこの地方に出るものだが、竜の血のためだという言い伝えがあるのだ。我々の祖先が竜を裏切り、竜を殺した時に血を浴びた。そのとき人の中に竜の血がまじり、時として彼らの血を濃く継ぐ者は、サーエのような病となって陽光から遠ざけられるのだと言う。それは、罪の代償なのだと。だからあの病の者を出した家系を、罪人の系につらなる者として、罪償の血と呼ぶ。ハサギットは、俺のことを嘲ったのだよ」
「‥‥彼らは、その罪償の血をほしがっているようでしたが」
「ハサギットの復讐だろう。俺の血が特別だとは思えん」
イユキアを見つめ、レイヴァートが小さく喉の奥で笑った。
「それとも、本当に竜の血を引いているとでも言う気か、お前も?」
「いいえ」
イユキアは見つめ返したままゆっくりと首を振った。
「ですが、彼らは本気でそう思っているのかもしれません。あなたの血に何かの意味があると。‥‥彼らは、あなたの血を使って、森の封じ地へ入る道をひらくつもりだったのだと思います」
「目的は?〈杭〉か?」
「おそらく。はっきりとはわかりませんが」
床に置かれた油燭の炎がゆれる。地図にうつりこむ2人の影が大きくゆらぎ、地図を這う何かの生き物のようにも見えた。
「冬長は、森がもっとも静かになる時です。人で言えば深く眠っている状態に近い。いつもより力の脈が探しやすく、いつもより少ない力から干渉を受けます。おそらくあの魔呪師は森の脈をさぐりながら血を使って術を張り、森の一部を不安定に活性化していたのだと思います。冬長だからできたことです」
「冬長に森へ入るなといましめられているのは、そのためか」
「ええ。冬長には、森が異なる顔を見せることがある。あの村人は狩りで血を流したことによって、不安定になった森に血の道をひらき、森の歪みのひとつへ迷いこんでしまったんです。おそらく、あの魔呪師が掛けた術の近くにいたがゆえの不運でしょう。しかし、そもそも彼らは冬長に森で狩りをするべきではなかった」
低い声は物憂げで、底にひやりとするような厳しさを含んでいた。レイヴァートは寄せた体にイユキアのぬくもりを感じながらふと、イユキアが「黒館の主」でなければ彼は何と言うのだろうと思う。彼の怒りが村人のためなのか森のためなのか、レイヴァートにはよくわからなかった。イユキアを抱きながら、独り言のようにつぶやく。
「リーセルの母親は早いうちに亡くなり、父親がリーセルを1人で育てた。頭のいい子でな、宿長の話だと、父親はどうにかしてリーセルを学舎にやって学ばせたがっていたそうだ。その金を工面しようとしていた」
「‥‥‥」
「あれほど大きな狼であれば、毛皮が高く売れると思ったのだろう」
溜息をつき、レイヴァートは強くイユキアを抱きしめてから、身を離した。油燭を拾い上げ、
「リーセルが今日、ああまで必死だったのは、父が自分のために冬長の森へ入ったと知っていたからだ。‥‥勿論、人は掟を破るべきではないが、カルザノにはほかに方法が見つからなかったのだろう」
イユキアは無言だった。もういいか、とたずねるとうなずいたので、レイヴァートは両方のカーテンをおろして地図を覆う。合わせ目をしっかりと重ねて地図を完全に隠してから、イユキアを振り向いた。
「彼らを探し出す方法はあるか?」
「ええ。小屋で手に入れた形代の破片が使えると思います。とにかく、明日」
イユキアは静謐な瞳をレイヴァートへ向けたまま、うなずく。疲れた表情をしていた。書斎を出るとレイヴァートが扉の鍵をとじるまでイユキアはそこで待っていたが、鍵の回る冷えた音に重ねるように「おやすみなさい」とつぶやいて、しのびやかな足音がレイヴァートから離れていった。
血の海。なにもかもが赤く、あたりはぼんやりとした赤い光につつまれている。見渡すかぎりの血。手も足もぬるついて、まるで動けない。
誰の血だろう、と思った。自分の血だろうか。こんなに血が出ては死んでしまう。だが、痛みも傷も感じなかった。
ああ──夢か。どこかうつろな自分の一部が考える。変な夢だ‥‥
かぽ、と目の前に泡が浮いた。小さな泡が盛り上がり、膜がぱちんとはじける。わずかな波紋だけ残して消えた。またひとつ。今度はもう少し大きい。またひとつ。ボコリと、子供の頭ほどもある泡が浮き、ぬめぬめと表面から血を流しながら揺れていたが、音をたててはじけた。耳が痛くなる。
またひとつ。ボコリと。
今度浮いてきたのは、泡ではなかった。顔だ。それが血の中から浮き上がり、体中から血をあふれさせながら、目の前に男の姿が立ち上がった。
「リーセル‥‥」
名を呼ばれ、リーセルは呆然と血まみれの男を見つめた。じわじわと凍るような恐怖が足元からのぼってくる。かすれた声で呻いた。
「‥‥父さん」
「たすけてくれ‥‥」
カルザノは1歩、リーセルへ歩み寄った。腰まで血に浸かり、動くたびにもったりと深紅の波が揺れた。ふいにリーセルは、濃密な血の臭いが自分をつつんでいるのを感じる。鼻や口、目や耳など、至るところの穴から自分の内側へ血臭がしみこんでくる。体の内がぬめぬめとしたもので満たされて、吐きそうになる。
──これは、父さんの血だ‥‥
カルザノの口からまた血があふれだした。信じられないほど大量の血を吐き出し、目から血の涙を流し、父親はリーセルにすがった。
「たすけてくれ‥‥おねがいだ、たすけてくれ‥‥」
「父さん──」
「‥‥たすけてくれ‥‥」
リーセルの体も血に濡れる。父親の重みをささえようとしたが、どうにもならない。ずるずると父親の体がくずれおち、血の中に沈んだ。
「殺してくれ‥‥!」
言葉の最後は絶叫になり、大量の血塊を吐きながらカルザノは血の中で叫び続けた。リーセルは沈んでいく父親を見ながら体を動かそうとしたが、ガタガタとふるえているだけで指1本動かせなかった。
「殺してくれ」
その囁きは右の耳元からした。すぐそばに誰かがいる。恐ろしくてふりむけない。父親が血に沈んでいくのを見ながら、リーセルは息を喉でつまらせた。
赤い液面の下に父親が沈み、次の瞬間、白い骨が浮き上がってきた。血の下で何かがリーセルの足をつかむ。固く細い骨の指が痛いほどに食いこんできた。骨が血をしたたらせながらゆっくりを顔をあげる。
「殺して──」
リーセルは絶叫した。次の瞬間、血の中へ引きずりこまれていた。