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【6】

 銀色の睫毛がうごき、まどろんでいたイユキアの目蓋があがった。うっすらと光る金の瞳があらわれる。
 ぼんやりとまなざしが漂う様子を、レイヴァートは隣に横たわって眺めていた。イユキアはしばらくうつろな表情をしていたが、ふと顔がうごき、レイヴァートを見てつぶやいた。
「レイ‥‥」
 かすれた声に、甘えたような響きが残っている。レイヴァートは華奢な体へ手を回し、抱き寄せた。情事の名残りがけだるく漂う体をよせあって、ふたりは静かなくちづけを交わした。
 レイヴァートの胸に頭をのせ、イユキアは天井を見上げた。暗がりを縦横に太い梁の影がつらぬいている。それは彼に、闇色の檻を思わせた。
「‥‥レイ」
 名前を呼んで、頬をレイヴァートの胸によせた。レイヴァートは無言のまま、抱き寄せた左手にあたたかな力をこめる。
 闇を見上げて黙っていたが、イユキアは、小さな声でつぶやいた。
「私は‥‥殺してはいけない人を、殺したことがあるんです」
「‥‥殺したくない相手ということか?」
 低い、錆をおびた声で、レイヴァートはたずねる。イユキアの顔は見えなかったが、胸元にあずけられた頭がかすかにうなずいた。
「決して裏切らないと誓った相手を。‥‥自分の命よりも大切だと思っていた‥‥」
「──」
 レイヴァートはイユキアの頭へ手をすべらせ、胸に強く抱いた。髪をなでる。イユキアは溜息をついて目をとじた。
 もう二度と、誰かのことを大切にしたくはない。誰のことも守りたくはない。守るほどの力も意志の強さも己にはそなわってないと、思い知った今は。
 ‥‥二度と、想いを誓ったりはしない──
 そう心にくりかえしながら、イユキアは、レイヴァートの胸へ頬をよせ、心臓の音に静かに耳をかたむける。レイヴァートの胸板が呼吸に上下するたび、かすかに頭が持ちあげられ、沈みこむ。彼は騎士にしては細作りだったが、無駄なく体を覆った筋肉は強靱で、はずむような勁さを秘めていた。
 レイヴァートの持つ勁さはそのまま彼の命の強さだと、イユキアは思う。彼の中には激しい命の力がある。それに惹かれて、それをこうして与えられ、味わって。満たされるような一瞬がすぎれば、ただやるせない。それでも、つたわるぬくもりにすがってしまう。自分の弱さのままに。求めてしまう。愚かしく。
 レイヴァートの肌を頬に感じながら、イユキアはつぶやいた。
「その夢を見ていました‥‥何度も、何度も。迷路のように」
「そうか」
 レイヴァートはイユキアの髪をなでながら、静かにこたえる。手に優しい力がこもった。
「イユキア」
「‥‥何です?」
「時を戻すことはできないぞ。世界は、無慈悲なものだ」
「ええ‥‥」
「──お前の傷は‥‥」
 呟くように言って、レイヴァートの手がイユキアの頬をそっと撫で、あごを持ち上げた。自分の方へ向け、優しく唇をかさねた。イユキアは目をとじてくちづけを受ける。
 その頭をふたたび胸に寄せ、レイヴァートはイユキアの体へ手を回して、一瞬強く抱きしめた。
「もう少し、眠れ」
「‥‥ええ」
 目をとじたままうなずいて、イユキアはレイヴァートの鼓動に耳をかたむける。命の音。体にしみわたるような、あたたかな脈動。今はそれだけでよかった。やがて、やわらかい眠りが訪れ、意識をつつんだ。夢もなく。


 イユキアは翌日の帰城をすすめたが、レイヴァートはイユキアの館へもう一夜逗留し、イユキアの熱が完全に引いたのをたしかめてから、次の昼に発った。
「怒られますよ、王城を長く留守にすると」
 イユキアは、レイヴァートの妹用の薬草を油紙に小分けして包みながら、おっとりとした口調で言う。その表情からも立ち居振舞いからも、病の翳は跡形もなく抜けていた。
 客間がわりに使われる六角形の部屋は、おだやかにさしこむ陽光に満ちてあかるい。窓辺によりかかったレイヴァートは、腕組みをしてイユキアを見た。
「気にするな。怒られてもかまわん」
「あなたには大切なものがあるのだから、そんなことではいけませんよ」
 溜息まじりにイユキアは細い糸で紙包みをくくった。細く切った紙に青いインクで薬草の名を記し、それを糸へくくりつける。
「陛下のことか?」
「サーエシア様と」
 王と妹と、ふたつのものはレイヴァートが生涯かけて守るものだ。そう告げて、イユキアは油紙の包みをまとめて布でくるんだ。その様子をながめて、レイヴァートは何か言いたそうにしたが、先手を打ってイユキアが立ち上がった。包みを手渡す。
「こちらを、サーエシア様に。ヒヨスは決して多くお使いにならないよう。頭痛がひどい時のために量は入れてありますが、お体にはよくありませんので」
「わかった」
 受け取って、レイヴァートはそれを荷物の中へ入れた。
 イユキアは先に立って歩き出す。扉を抜け、長い廊下を二度折れて玄関ホールへ出ると、外への扉を開けた。さしいる陽がイユキアの輪郭を淡く照らし、背へゆるく編まれた銀の髪が、まるで細い光のようにきらめいた。
 その背へレイヴァートが声をかける。
「イユキア──」
「次は」
 断ち切るように、イユキアが言った。背を向けたまま。声は静かだったが、刃のようなするどさを秘めていた。
「私が病に伏しても、来ないでください。来ないと‥‥約束してください」
「それはできない」
「私は」
 ふりむいたイユキアの顔は冴え冴えと白く、金の瞳にかすかな怒りがきらめいた。
「嫌です。病に倒れて‥‥あなたを待ったりしたくはない。だから、来ないと約束してください。でないと私は待ってしまう。あなたが来てくれるのではないかと」
「──」
「あなたには守らねばならないものがある。私とはいる世界がちがう。どうにもならないことがある。それはわかっているから‥‥だから、せめて、来ないと」
 声が低くなった。
「約束を、レイヴァート」
「何故?」
 レイヴァートは手をのばす。イユキアは、頬にふれようとした手をゆるく払った。
 首をふる。
「あなたは優しすぎる。‥‥お願いだ、レイ。約束してください‥‥。でないと私は‥‥」
「約束はしない」
「レイ‥‥」
 訴えるような声がつまった。イユキアは顔を伏せて長い溜息をつく。レイヴァートはもう一度手をのばし、細い体を抱きこんだ。
「イユキア。俺は来る。だから、信じろ」
「‥‥‥」
 あごを指ですくうと、イユキアはかすかに濡れた目でレイヴァートを見上げた。青いかがやきをおびる銀の髪がゆるやかに額から頬へ落ち、華奢な貌にうすい影をおとしている。その唇へ、そっとくちづけ、レイヴァートは目を見つめたままもう一度言った。
「信じろ」
「‥‥‥」
 淋しげな微笑を唇に溜めて、イユキアはレイヴァートの手をはずし、ゆっくりと首をふった。
 歩き出し、扉をくぐって外へ出る後ろ姿を、レイヴァートは荷を肩にかけて追った。
 館の前から見下ろす丘陵はやわらかな緑に覆われて、ところどころ地面の窪みに木の葉が溜まっている。秋の嵐で吹き寄せられたのだろう。左右へうねる道の先は、なだらかな斜面を回って消えていた。その向こうを眺めやれば、黒い森がうっすらと青い霞をまとってひろがっている。
 王城は、ここからでは森が邪魔になって見えない。だがイユキアが見ているのはその王城の方向だった。
「イユキア」
「さようなら。‥‥ありがとう」
 つぶやくように言って、イユキアは踵を返し、すばやい身のこなしで館の中へ入っていった。手もふれないのに扉がとじ、彼の姿を隠した。
 レイヴァートはしばらくたたずんで扉の黒い表面を見つめていた。冷ややかな黒い木が彼の視線をはねかえす。
 落ちついた声をかけた。
「また来る」
 それから、彼はゆっくりと丘の道をくだりはじめた。


 レイヴァートの気配が館から遠ざかるまで、イユキアは扉にもたれて目をとじていた。
 感覚をひろげれば、丘を出るところまでは感じとれるが、その思いを断ち切って歩き出す。無意味なことだ。歩みをすすめていると、自分の足音がやけに大きく廊下にひびくような気がした。
「‥‥‥」
 溜息をついて、足取りを早める。どこへ行こうというのではなく、足は自然と奥の寝室へ向かっていた。何日も悪夢にとらわれていた場所で、もう一度どろどろと悪夢にまみれて苦しみたいと、心のどこかが思った。体も心もうつろになってしまった気がする。何を失ったわけでもないのに。
 まだしも悪夢の方がいい‥‥
 扉をあけ、薄暗がりの寝所へもつれるような足取りで入り、寝台へ体を投げこむ。目をとじた。
(愛している‥‥)
 両手で顔を覆った。耳にレイヴァートの囁きがよみがえる。悪夢よりもなお悪い。手に入らないものの夢など見たくはない。だが意識はレイヴァートのことだけに流れ、イユキアは毛布の上できつく身を丸めた。
 レイヴァートは嘘はつかない。本気で愛を誓っている。だが、彼は知っているだろうか。そんな言葉に何の意味もないことを。
 人は時に愛を裏切り、愛する者を裏切る‥‥
 手をその血に染めてまで。
(ラマルス──)
 自分が殺めた者の名をつぶやいて、貫く痛みに息をつまらせた。永遠に彼を離さない愛の亡霊。痛みは堪えがたく心臓をつかんだ。考えることをやめて心の深みに沈みこんでいると、悪夢と夢のはざまに意識が漂いだす。そのまま暗いまどろみの檻へ落ちていこうとした瞬間、レイヴァートのくちづけのあたたかさが鮮やかに唇によみがえって、イユキアは起き上がった。
「‥‥‥」
 名を呼びかかって、口をとざす。愚かしいと頭をふった時、ふと、寝台の頭側の台へ置かれた短剣へ目がとまった。
 骨柄を銅線で装飾したその短剣に、イユキアは見覚えがあった。レイヴァートがいつも身につけているものだ。そもそもは彼が子供のころに尊敬している伯父からもらったもので、それ以来守り刀にしていると、彼は語ったことがあった。
 こんな大切なものを何故──と、レイヴァートらしからぬ忘れ物に眉をひそめて取り上げると、下からひらりと紙片がおちた。それを指にはさみ、イユキアは立ち上がって油燭に火をともした。黄色い光の輪に紙をかざす。
 それは、手紙だった。
 レイヴァートの、角張ってやや右上がりの癖のある文字で、たった一行。

 ──すまんが、預かっておいてくれ。

 無言で見下ろし、数回読み返してから、短剣に目をおとした。
 しばらく短剣を見つめていたが、やがてイユキアは手紙を細く折り、幌の隙間から油燭の炎へくべた。燃えあがる紙片の一瞬の炎が尽きるまで見とどけて、彼は小さな微笑をうかべる。淋しげだったが、静かな笑みだった。
 また来ると、だから待っていろと、その約束の証を置いていったのだろう、彼は。
 ‥‥言葉よりも、雄弁に。大事なものを残して。
 イユキアは、短剣の柄頭にそっとくちづけると、その鞘に壁から下がる鎖をまきつけ、壁に留めた。信じてはいけないと、たよってはいけないと思っても、甘い夢を見そうになる。ぼんやりと寝台に座りこんで、かかえた膝へあごをうずめ、目をきつくとじた。


 白い骨の杖が立つ手前で、レイヴァートは足をとめた。
 森の切れ目に生えた胡桃の木の枝、目の高さの少し上にセグリタが座りこんで、裸足の片足を宙にぶらぶらと揺らしていた。
 レイヴァートを見下ろすと、にやりと笑って口に噛んでいた木の実を吐き出し、地面へとびおりる。
「帰るんだ?」
「ああ」
 骨の杖に片手をかけ、レイヴァートはうなずいた。磨かれた骨は手にひやりと冷たく、吸いつくような感触をつたえてくる。一瞬身が総毛立った。中に含まれた魔呪のせいだとわかっているが、気持ちのいいものではない。息をつめ、彼は骨を地面から引き抜いた。
 ふっと息をついて、それを地面へ横たえる。
「これでお前もここを越えられるだろう。明日、イユキアにこの杖を持っていってくれ。何やら新月の話がしたいと言っていた」
「ふーん。採集の話かな。わかった」
 うなずいたセグリタの目がレイヴァートの右手に流れた。杖を抜いた動作で袖が引かれ、手首にまいた布があらわになっている。
「怪我したの?」
「もう治る」
 素っ気無く言って、レイヴァートは歩き出したが、セグリタのそばで足をとめた。
「セグリタ。イユキアを頼む。俺はまた月が変わるまではこられん」
「あんたに頼まれなくても、ちゃんと俺はあの人のことを気にしてるんだよ」
 ムッとした顔で言い返したセグリタの顔を眺め、レイヴァートは真面目な表情でうなずいた。
「そうだな。悪かった」
「‥‥いいけどさ。あ、あのウズラ、うまかったよ、ありがと」
「それはよかった」
「気をつけて帰んな。ま、あんたじゃ狼どもも返り討ちだろうけど」
 ひらっと手を振って、森の民の少年は、木をすばやくかけのぼるようにのぼっていく。あっというまに元の枝へ腰をおちつけ、袋からとりだした木の実を口に頬張った。そこに陣取って、イユキアの門番のつもりなのだろう。病が快癒したとはっきりわかるまで。
 レイヴァートは丘をふりむいたが、イユキアの館は手前のなだらかな丘陵にさえぎられて見ることができなかった。見上げる顔はいつものように平静だったが、目の奥をはっきりした痛みがよぎる。
「‥‥‥」
 静かに踵を返し、彼はゆっくりと森の径を歩きはじめた。木々の重なりからこぼれた光と影は、地面で陽光を照り返すさざなみのようだった。遠く鳥の声がする。一歩ごと、身を切られるような思いを抱いたまま、レイヴァートはまっすぐ目を据えて歩きつづけ、施癒師と、彼が主として棲まう黒の館から遠ざかりつづけた。

--END--