眠りは深かった。
悪夢にうかされて昼も夜も区別なくどろどろと漂うばかりの、暗いまどろみではない。音のない、あたたかな水にたゆとうような、安らいだ眠り。
あまりに穏やかに目をさましたので、イユキアはしばらく、自分が目覚めたことに気がつかなかった。まだ眠っているような思いのまま、ぼんやりと横たわる。
油燭の炎は消えていた。明るみが、廊下からわずかにさしいってくる。廊下にうがたれた小さな明かり取りの窓からこぼれる、遠い陽光。つまり、知らないうちに夜が明けているということだ。
「‥‥‥」
身の内に、熱が残したかるい酩酊はあったが、高熱は引いていた。レイヴァートの呼吸が耳元に聞こえてくる。そのリズムと、よりそった体からつたわるぬくもりが、ひどく心地よい。ふたたび眠りに引きもどされそうになりながら、その思いを払って、イユキアはゆっくりと身をおこした。レイヴァートを起こさぬように。
座りこんで、レイヴァートの寝顔を見おろす。男は、いつもの揺るぎない表情のまま眠っていた。レイヴァートはまだ若いし、顔つきもしなやかな体つきも若々しいのだが、落ちついた表情と物腰のためによく年長に見られるらしい。べつに、当人は感情を殺しているわけではないが、表情の変化が小さいので、たいていの人間はレイヴァートがもつ繊細さに気付かない。
見つめていると、彼はかすかに身じろいだ。からになった左腕、まだイユキアを抱いた形で投げ出された腕がぴくりと動く。長い吐息を洩らした。
イユキアは、のばした指でレイヴァートの髪にふれる。イユキアのからまりやすい細い銀髪とはちがう、まっすぐで素直な黒髪。指先を髪にくぐらせ、しばらくレイヴァートの寝顔を見つめていたが、イユキアはふいに手を引いた。指先を見下ろす。爪が血で汚れていた。
「‥‥‥」
イユキアは無言で爪をなぞる。
その時、またレイヴァートの左腕がうごき、そこに横たわる者のいないことに気付いたか、なにかをたぐるようにしてから、彼は目をあけた。
「‥‥イユキア」
呟いて、少し眠そうにイユキアを見上げる。ふっと微笑した。左手をのばし、イユキアの手を包むように自分の手をかぶせた。
「眠れたか?」
「‥‥‥」
無言で、イユキアはうなずく。その手を引いて、レイヴァートはイユキアの体を抱き寄せた。やわらかに受けとめたイユキアの体を敷布に横たえる。上から肘をついてかぶさり、優しく唇をかさねた。わずかな短いくちづけ。それだけで熱に疲労した身の内に甘い感覚が揺れ、イユキアは伏せたまぶたの下で目をそらした。
流されてしまいそうになる。この優しさに。
「水を飲むか?」
問われて、うなずいた。見おろしてくるまなざしから、のがれたかった。
レイヴァートは身を引き、寝台から降りる。鉤から油燭を取って焦げた芯を切り捨て、ふたたび炎を灯した。脇机の上へ置く。その明かりをたよりに、寝台の頭側へ置かれた水差しをとったが、水は入っていなかった。レイヴァートは自分の荷物へ戻ったが、水筒を忘れている。水を汲みに出ようとしたところで、セグリタにもらった皮袋を思い出した。口の紐をほどくと、拳ほどの大きさのサナの実がいくつも入っていた。
サナの果肉は食べられないが、完熟した実は中に甘い果汁を溜める。セグリタがよこしたサナの実は、そのやわらかさからしてほどよく熟れていた。レイヴァートは短剣の先を使って果実のヘタ近くへ小さな穴を開けた。起き上がったイユキアへ果実を手渡す。
「飲め。セグリタがくれた。俺は水を汲んでくる」
「‥‥セグリタに、会いましたか」
「怒っているようだったぞ」
「私に、それともあなたに?」
「両方だろうな」
水差しを手に立ち上がり、出ていこうとしたレイヴァートはふと振り返った。
「しめだすなよ。無駄だ」
「わかりましたよ」
かすかな苦笑を唇に溜め、イユキアはレイヴァートを見送る。果実にあいた穴を口にあてて傾けると、サナの甘い果汁がかわいた喉にしたたった。飢えたように飲み干して、吐息をつき、彼は膝をかかえて寝台にうずくまった。
ついでに厨房にあった大きな水がめも肩にかつぎ──これも空だった──、森へ入るとレイヴァートは近くの泉へ向かった。黒館には井戸もあるが、人が飲むには向かない水だ。
泉まで、さしたる距離ではないが、足取りは早い。イユキアを一人でおいておくのが不安だった。
出会った時から、イユキアは、どこかこの世のものではないようだった。存在が淡い。ふっと遠くを見る時、その目がどこを見ているのか、レイヴァートにはわからない。イユキアは、ふいに消えてしまいそうな顔をすることがあった。
だから、イユキアが病に倒れたと聞いた時、レイヴァートは自分でも驚くほど狼狽した。病がイユキアをつかんでどこか知らない場所へ消してしまうような──そして、イユキアがそれに逆らわずどこかへ去っていくような、そんな理屈にならない恐怖に心が揺らいだ。
朝露が光らせる草を踏みしだいて泉に歩みよった。澄んだ水に水がめを浸し、中を洗って水を満たす。水差しを洗っている時、背後に草の音がして、セグリタの気配が近づいてきた。
「イユキアは?」
「熱は峠をこしたようだ」
「そーか。それ持つよ」
身をかがめ、セグリタは水がめをかかえあげる。たいていの森の民と同じく彼も、小柄な見かけにそぐわぬ力を持っている。
ちらっと見やって、レイヴァートは水差しを手に歩きだした。セグリタが肩に水がめをかつぎ、木漏れ日の影を踏みながら横を歩く。
「病気は何? まさかただの風邪とかじゃぁないんだろ」
「わからん。イユキアは、前にも病で骨の結界を張ったことがあるか?」
「病だっつのは、コレがはじめてだなあ。っても、これまで引きこもってた時が病じゃなかったとは言い切れないけどね。でもたいてい骨をたてるのは、蝕の時とか星辰が合う時とか、理由がある時だけだよ」
「そうか」
つぶやいて、ふとレイヴァートはセグリタを見た。
「嵐は大丈夫だったか?」
「誰? イユキア?」
「いや、お前たちだよ。何か被害は出なかったか?」
ぷっとセグリタは吹きだした。明るい笑い声をあげる。
「王城の人間に心配されるほど、森の民はやわじゃねえよ。嵐だって森に訪れる客だ、災いもあれば恵みもある。古い木が嵐で倒れれば、そこは新しい芽の萌える場所になるだけさ。あんたたちみたいに、いちいち騷いだりはしない」
「失礼なことを聞いたようだな。悪かった」
「いいさ、あんたは王城の人だ」
二人が森の境界へたどりつくと、セグリタはレイヴァートへ水がめを渡した。レイヴァートは水がめをかついで、
「サナの実をありがとう。イユキアが飲んでいた」
「あっ、そう?」
ぱっと朝日が当たったようにセグリタは表情をかがやかせた。
「あれ、うまいよ。俺しか知らないとっときの木から採ったんだ。あんたも飲んでみなよ」
「ああ」
ちらっと笑みのようなものを投げて、レイヴァートは骨の杖を通りすぎる。背後でセグリタがしばらく見送っている視線を感じたが、丘の中腹へさしかかったところで小さく振り向くと、もう森の少年の姿はなかった。
寝室へ入ると、横たわっているイユキアの姿が見えた。眠るように目をとじているが、眠っていないのはわかる。だが、彼はレイヴァートへ目を向けようとはしなかった。
水差しを寝台の頭部分へ置いて、レイヴァートは荷物の中から布をとった。水で布の一部を湿し、イユキアの手を取る。爪と指先を汚す血を丁寧に拭った。
「イユキア」
「‥‥‥」
「何の夢を見ていた? 何がお前を病になるほど苦しめる?」
「あなたにはどうしようもないことですよ。──私にもね」
イユキアのまぶたがあがる。内に光をはらむ金色の目で、ぼんやりと天井を眺めた。無表情だったが、奇妙にはりつめたものを感じて、レイヴァートは血を拭いおえた布を置いた。イユキアの手をかるく撫でる。
「その目のことか?」
「‥‥聞いてどうしようというのです。どうにもならないことなのに。もう、何もかも終わってしまった‥‥」
「だがお前は苦しんでいる」
「私は‥‥」
「イユキア」
「あなたには、わからない。‥‥罪を犯した人間のことは」
イユキアの口元をかすかな笑みがかすめた。
「あなたは陽の当たる場所の人間だ。もう帰って下さい、レイヴァート。こんな時にあなたを見るのはつらい。己の暗闇ばかりが見えてくる‥‥」
「俺は、そんな立派な人間ではない」
やわらかに、レイヴァートは返す。本気でそう言っているのがわかって、イユキアは苦笑した。レイヴァートは自分が持っているまっすぐさ、内に秘めた強さをわかっていない。
はじめて出会った時から、イユキアはレイヴァートのおだやかな強さに惹かれ、同時に苦痛をおぼえてきた。日溜まりはたしかに心地よいが、そこから闇に戻った時の深さは前より深い。
レイヴァートはイユキアの顔を撫で、身をかぶせる。頬にやわらかく唇をおとした。
「イユキア‥‥」
この声も、唇も、肩から腕へたしかめるようにふれる手も、ただ優しい。いたたまれず、イユキアは顔をそむけた。
レイヴァートが身を起こし、イユキアの頭のそばへ肘をついて見下ろした。
「何故苦しむ? お前は時おり、自ら望んで苦しんでいるようにすら見える」
「‥‥おかしいですか?」
「つらそうだ」
「たしかに、あまり楽しくはありませんけどね。でも、あなたにどうにかできるわけでもない」
「──」
「あなたは、夢が病の原因かとたずねたが、それはちがう。この夢は、私の病そのものなのです。‥‥私を、ずっと追っている。たまに、逃げ切れなくなって、追いつかれる。そのうちまた去ります。放っておいてもらえるのが、一番いいんです」
目を合わせずに、イユキアはつぶやいた。レイヴァートはじっとその顔を見つめていたが、イユキアの唇へ指でふれる。
「お前が病に伏したと聞いて、俺は息がとまりそうになった」
「‥‥‥」
「俺に、何ができるとも思えない。だがここに来る以外のことは考えられなかった。お前の顔を見て、お前のそばにいたい」
指がやわらかに動いた。
「それと同じだ。何もできないが、お前を放ってはおけない。俺には何の力もないし、何もできないが、お前を苦しめているものが何なのか知りたい」
「昔の夢です。‥‥それだけのことですよ」
「そうか」
微笑して、レイヴァートは身をおこした。水差しを手に取る。
「もういい。水を飲んで、少し眠れ。何か食べるか?」
「‥‥‥」
抱き起こされ、レイヴァートの腕によりかかって、イユキアは首を振った。ゆっくりと水を飲み干すと、レイヴァートがその手から空のグラスを取り上げる。
体をささえる腕のぬくもりがつたわってきた。身の内に凝っていた悪夢の残滓が溶けていくのがわかる。身をはなそうとしたが、レイヴァートはイユキアを背中から抱いたまま、腕をとこうとしなかった。
目をとじて、レイヴァートに全身を預け、イユキアはのばした手にレイヴァートの手首の傷をさぐった。
「次はきっと、もっと深く傷つけてしまいますよ。だから、もう‥‥ふれないでください」
「‥‥‥」
無言のまま、レイヴァートはイユキアが眠りにおちるまで静かに抱きしめていた。