[Novel] 1 2 3 4 5 6

【1】

 丘の上から、冴えた空気の朝には遠く海がのぞめるという。その丘に建つ黒館の主が病に伏したのは、早い秋の嵐がすぎていった後だった。
 嵐は港町クーホリアを襲い、街は高潮に浸された。潮は数日で引いたが、街路には壊れたボートや家具の木切れが山積みとなり、港の波間には船の残骸が漂っていた。おろかにも岸に近づきすぎて座礁した帆船が陸へ傾いて乗り上げ、離れた水面に、折れたマストが浮き沈みしながらおだやかな波に揺れている。
 レイヴァートは、いつもは海から離れたアシュトス・キナースの王城都市に暮らしている。
 だが、この嵐でクーホリアの街が傷んだと聞いた王は、被害を調べるための役人団を街へつかわした。彼らの護衛役に任じられたのが、レイヴァートをはじめとする〈王の盾〉の一団だった。王城と港町は人の足で半日程度の距離だが、街への見舞金を運ぶ彼らを狙って盗賊が出ないとも限らない。
 レイヴァート自身、護衛のほかに、王からあれこれと非公式な用をおびていた。一つ一つは大したものではないが、煩雑な取引もまじっている。護衛の任を果たして王使をクーホリアへ送り届け、用命を果たし、数日を港町でついやしてから王城へ戻った。
 その彼を待っていたのは、丘にある孤独な家に孤独に住む施癒師イユキア──黒館の主が、病に倒れたという噂であった。


 イユキアの館までは、王城都市の西門を出て、人の足なら三時間。レイヴァートの歩幅ならもっと早い。径は、ひとたび森の中へ入り、細くなりながら茂みや木の影をくねって抜けていく。森は深く、ざわめく風はまるで警告のように、茂みを揺らして消えていく。立ったまま朽ちかかる楡の古木を通りすぎ、木漏れ日の下をしばらくたどる、やがて目の前は明るくひらけ、小高い丘の下へ出た。
 目前の地面に、白い杖が突き刺さっていた。
「‥‥‥」
 レイヴァートは無言で見下ろす。なめらかに磨かれ、ふしぎに湿った白色の杖は、傾きかかった陽射しに照らされて凛然と潔癖に、地面から生えるように立っていた。やわらかな丸みをおびてふくらむ先端に、鱗を持つ生き物の形が精緻な浮彫りに刻まれていた。
 ──骨の杖。
 巨大な動物の骨から削りだされたその杖を、レイヴァートはイユキアの居室で見たことがあった。うすぐらい部屋のかたすみに、まるで打ち捨てられたようにころがっていた。
「警告だ。──近づくな、と」
 背後で声がした。驚いた様子もなく、レイヴァートはふりむく。静かなまなざしの先、森が途切れる境界の向こうに、細身の少年がレイヴァートをにらむように立っていた。
 体をゆるく沿いながらつつみこむ灰色の衣。布の表には深い色の糸で複雑な紋様が縫い取りしてある。青年の頬にも、緋色の樹液で同じような複雑な紋様と読めない文字がしるされていた。
 ──森の民だ。
 王権の及ばぬ種族の少年は、するどい眸のままニヤリと笑った。険のある顔が、子供っぽい愛嬌をおびる。
「久しぶり、レイヴァート」
「セグリタ」
 挨拶を返すかわりに、レイヴァートは相手の名を呼んだ。深い、静かな声と、落ちついたまなざしを相手へまっすぐに向けて。
 セグリタは苦笑した。
「イユキアの警告を無視する気かい? ──人にうつる病かもしれないから、警告を立てたのかもしれないのに」
「‥‥‥」
 無言のまま、レイヴァートは数回まばたきするほどの間、セグリタを見ていた。厳しく彫りの深い顔は、普段からあまり表情を読ませない。凝視されて、セグリタは顔をしかめた。
「知ってんだろ。森の民は、イユキアを守るしイユキアの意志を尊重する」
「だから館を訪れる者を脅して帰し、イユキアが病だと噂をひろめたか?」
「病は本当のことだ!」
 怒りが声にはじけた。レイヴァートは表情ひとすじ動かさずにセグリタを見ている。
 ふっと息を吐き出し、セグリタは脇に下げていた皮袋を差し出した。
「どうせ、行くんだろ。あんたを腕っぷしでとめようとするほどこっちも馬鹿じゃない。これをイユキアへ持っていってくれ。‥‥俺たち森の民は、誓約があるからイユキアの結界を越えられないんだ」
 無言のまま、手をのばしてレイヴァートは皮の袋を受けとった。ずしりと重い。かるく頭を下げた。
「わかった。すまんな」
「やかましい。さっさと行きな!」
 ひらりと手を振り、身を翻して森へ駆けこむとたちまちセグリタの姿は、木々の落とす影と木漏れ日の迷宮へ溶けるように消えた。わずかに二呼吸ばかり、それを見おくって、レイヴァートは森へ背を向けると白い骨杖に目もくれずに通りすぎ、丘をのぼるゆるやかな道をたどりはじめた。


 丘の上に一つだけ建つには、奇妙に大きな館であった。周囲を取り巻く庭も柵も、外門すらない。ただ消えかかった道の左右に、標石のように小さな石像がうずくまっているだけだ。それも苔に覆われ、雨と風に丸みを帯び、注意深い者でなければ存在にも気付くまい。
 館は時経て古いもので、いったいいつからそこに建つのか、王城の歴史をひもといてもしかとはわからなかった。王が館の修繕のために職人をよこしたと云う一番古い記録が、120年前。それより前から館はここにあったらしい。だが建てた者の名も、はじめに住んだ者の名も杳として知れない。レイヴァートにはあまり興味のないことだった。
 丘の尽きる手前に、暗鬱な館がうずくまっている。傾斜のきつい屋根と左右にのびる両翼をもつ、黒屋根の屋敷。両翼の窓はいつも鎧戸が落とされているが、本棟の窓の鎧戸も落ちているのを見てレイヴァートは眉を動かした。
 名を記した札のひとつもなく、住む者の正体をしめす物は何一つない。鉛で枠を打たれた黒樫の扉は、暗鬱にとざされていた。呼び鈴もない。そんなものがなくとも、イユキアは来訪者を知るし、レイヴァートの知るかぎり扉には鍵などなかった。
 なのに、引き開けようとノブをつかんだ手は、びくとも動かなかった。
 レイヴァートは数回こころみたが、扉は身じろぎもしない。イユキアは家をまるごと封じてしまったらしい。少し考えてから、思案含みでつぶやいた。
「イユキア。開けろ。俺は‥‥帰らんぞ」
 そう言ってから、もう一度ためしたが、扉はやはり動かなかった。まあそうだろう。もっとうまく脅したり説得できればいいのだが、あいにくとレイヴァートはそう言った方面に不得手だ。たたずんだまま次の言葉を探してはみたが、言いたいことはさっきの言葉で言い尽くしていた。
 一瞬考えこんで、すぐに彼は肚をきめる。言葉が無理なら、行動しかない。
 荷を扉の脇へおろし、腰の剣帯を外すと長剣の鞘をかかえて荷の横へ座りこんだ。イユキアの意志がどうあれ帰るつもりはない。だがイユキアが人を入れる気がないのなら、仕方がなかった。
 晩夏の陽はゆるやかに傾きだし、風は夜の予感をはらんでかすかに涼しい。マントを体によせてうずくまり、レイヴァートは身じろぎもせずそこに座っていた。苔色の目はじっと目の前の地面を見ている。表情はおだやかに揺らがない。
 ──きしむ音がした。
 レイヴァートは鞘を手に立ち上がる。待っている間に、あたりには夕暮れがしのびより出していた。
 ふたたびためすと、扉はいつものように重くひらいた。
 がらんと大きなホールへ歩み入ったレイヴァートは、周りを見もせず廊下へつづく垂れ幕をくぐり、くすんだ廊下を大股に歩き抜けて奥へ折れ、イユキアの部屋へ向かった。左にはとざされた扉が並び、右の窓はすべて鎧戸が落とされて暗いが、天井近くに開けられた小さな明かり取りの窓から、夕暮れのわずかな光がしのびこんでいる。
 その奥にイユキアの寝所があった。
 部屋の扉は、ふれると抵抗なく開いた。中はほとんど闇。
 その闇からかわいた声が漂った。
「‥‥あなたを呼んだおぼえはない」
 部屋に入ると、荷と剣を戸口へおろし、レイヴァートは奥の寝台へ歩みよる。闇に目がなれてきたとは言え、すべては影のようだ。その中に横たわる人の形。
「イユキア‥‥」
 囁いて、手をのばした。指先で人影にふれる。細いあご、やわらかな唇。だが、いつもは氷のようにひややかな肌は、炎を呑んだように熱かった。
「イユキア」
 ふたたび、囁く。もつれた髪をかきあげてやると、相手はかすれた吐息を洩らした。
「帰って下さい」
「骨の警告を立てて、7日たつそうだな。‥‥すまない、知るのが遅れた」
 注意ぶかい指先で、熱い額と頬からからむ髪をかきあげ、手のひらでそっとイユキアの頬をつつんだ。いつもと同じように淡々とした、乾いた口調だったが、レイヴァートの手は壊れものへふれるように優しかった。
 手のひらをイユキアの頬にやわらかにそわせ、親指で頬骨をかすめるように撫でる。静かな仕種でイユキアの存在をたしかめるように。そうしていると、闇の中でもイユキアの姿をあざやかに思い描くことができた。淡い銀の髪を繻子のクッションに乱し、もろいほど端麗な貌に表情をうかべず、どこか遠くを見るような眸をうつろわせているのだろう。
 この青年は、表情を動かすことがあまりなかった。習い性なのか、時おり淋しげな微笑を唇に溜めたが、笑っているようでもないし、当人も自分の表情に気付いているふうではなかった。
「何か欲しいものはないか? 水か何か飲まなくていいのか」
「‥‥王の近衛はお忙しいでしょう。こんなところへいては、いけない‥‥」
「大丈夫だ」
「もしも、感染する病だったらどうするつもりなのです──」
「お前に治してもらう」
「‥‥‥」
 イユキアは無言だったが、頬にふれているレイヴァートの手に、小さな笑いがつたわってきた。その笑みを、イユキアが彼の存在を受け入れた証と取って、レイヴァートは身をかがめ、イユキアの額へくちづけをおとした。熱を呑んだ肌は唇にすら熱い。そのまま、呟いた。
「ずっと一人でいたのか?」
「‥‥‥」
「すまない」
「‥‥‥」
 イユキアは、何か言おうと唇をうごかしたようだったが、声も言葉もなく、小さな吐息だけを洩らした。その頬を指先でたしかめながら、レイヴァートはかすめるくちづけを額にくりかえし、ただ優しいだけの唇で肌にやわらかくふれる。
 まぶたへ唇がおりると、イユキアはまた吐息を洩らし、目をとじた。レイヴァートの唇は乾いていたが、イユキアの肌の熱をうつして熱かった。
 頬をかすめ、イユキアの唇のそばへ静かにくちづけると、レイヴァートは身を離す。右手はイユキアの頬にふれたまま、寝台のはじに腰をかけた。無言で、イユキアを見守るようにまなざしを落とす。イユキアの表情は闇にかくれて見えないが、指先でたしかめる頬はやわらかく、やがて、静かな寝息がきこえてきた。