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【2】

 しばらくイユキアの頬にふれていたが、完全に眠りに落ちたと判断してレイヴァートは手を引いた。注意深く、イユキアを起こさぬように立ち上がり、寝室に置かれた小さめのソファへ歩みよる。暗闇はますます深さを増し、ぼんやりとした物の形程度しか見えないが、大体何がどこにあるかは知っていた。
 記憶通りの場所にあるソファへ、音をたてないように身を沈める。部屋のすみにあるはずの油燭のことを考えたが、炎がイユキアを起こすかもしれない。それはさけたかった。まあ、いい。闇に慣れていないわけではない。足を組み、背もたれによりかかって、レイヴァートは目をとじた。
 港から戻ってきてすぐに王に目通りし、報告を終え、屋敷へ戻る途中でイユキアの病の噂を聞いた。そのまま、うっとうしい正装を着替えただけで取るものも取りあえずこの館へ向かったのだ。さしもに、軽い疲労があった。
 浅い眠りにうつらうつらしていると、短い悲鳴がきこえた。ソファからはねおきる。右手が腰の後ろの短剣をさぐった時、それがイユキアの声なのに気がついた。室内にほかの気配はない。
 イユキアが、苦痛に揺れる声で呻いた。
「‥‥や‥‥だめだ、ラマルス‥‥やめ──」
 荒く強い息を吐き出す。毛布が激しく乱れる音がした。
 レイヴァートは手をのばして油燭と火口箱をつかみ、炎をともした。小さな炎は、だが闇に慣れた目には花火のようだった。一瞬、目がくらむ。
 室内がうつろな炎に浮かび上がった。壁には無数の古びた本の頁が鉄鋲で留められ、小さな骨や鬱金色の鎖などがいくつも吊り下がって、それぞれに不吉な色で炎をうつす。
 壁に寄せて据えられた、飾り気のない寝台の上で、イユキアが乱れた敷布に身を丸めていた。髪が顔を半ば覆っている。激しく首をふった。
「やめてくれ‥‥」
 レイヴァートは油燭を手に、大股に歩みよった。イユキアをするどい目で見おろす。誰かにまじないか何かをかけられている様子はない。イユキアは以前、森の魔呪使いから使い魔を送りこまれたことがあるが、それともちがうようだ。悪夢は外からではなく、イユキアの内側から彼をさいなんでいるようだった。
 頭を敷布にうずめるようにしたまま、イユキアが背を弓のようにのけぞらせる。色の失せた膚はにじむ汗に光っていた。
 壁の鉤へ油燭を架け、レイヴァートは身をかがめてイユキアの肩をつかんだ。
 強い痛みがはしった。イユキアがレイヴァートの手首をつかみ、外そうともがく。力まかせに膚へ爪をくいこませ、彼は激しくもがいた。
「やっ‥‥!」
 苦しげな拒否を吐き出す。レイヴァートは表情もかえず、イユキアが血のにじむ手首をかきむしるのにまかせながら、左腕をイユキアの体の下へ回した。細い体がますます暴れる。
「‥‥ら、私を──」
「イユキア」
 自分を抱いているのが誰なのかわからぬ様子で、まるで血を吐くような叫びをあげた。
「私を、殺せ‥‥!」
「イユキア」
 名を呼んで、レイヴァートはイユキアの背に回した左腕で細い体を抱きおこした。強く引きよせる。暴れる体へ両腕を回し、すっぽりと胸にかかえこんだ。イユキアは、のたうち回る魚のように身を左右へよじらせたが、騎士であり名のある剣士でもあるレイヴァートにかなうはずもない。ほとんど絶望的な叫びを上げて、身をのけぞらせた。その全身を強い痙攣がはしりぬける。悲鳴は幾度か途切れてつづいた。
 イユキアの体が、がくりと力を失う。レイヴァートは崩れる彼を抱きとめ、そっと髪にくちづけた。抱いた体は小刻みにふるえていたが、背をさすっていると、荒かった呼吸は徐々に平坦にもどってゆく。汗に濡れた髪をかきあげると、イユキアの顔がかすかに上がった。
 目が、うつろに開いてレイヴァートを見る。イユキアの目。金色の、獣のような魔の色。炎をうつしただけではない、深いところからの妖しいかがやきがレイヴァートを見上げた。レイヴァートはおだやかに見つめ返し、頬から唇へはりつく銀の髪をやさしい指先で払った。
「イユキア。俺がわかるか?」
「‥‥レイ‥‥」
「そうだ。大丈夫か?」
「‥‥‥」
 目を伏せたイユキアの頭に手を回し、レイヴァートは細い体をきつく抱きしめる。腕の中で、イユキアがくぐもった呟きを洩らした。
「血の匂いがする。‥‥あなたを、傷つけた?」
「かすり傷だ」
「‥‥だから、帰れと言ったのに‥‥」
「言うだけ無駄だ」
 抱いた力をゆるめると、イユキアはぐったりとレイヴァートへもたれかかった。その身へ腕を回したまま、レイヴァートは寝台へともに身を横たえる。イユキアの頭の下で左腕を枕にしてやりながら、右手で乱れた毛布を引き上げた。右手首を、なまぬるい感触がつたう。血がイユキアを汚さぬよう、レイヴァートは傷を軽くなめた。怪我には慣れている。
 イユキアは引き寄せられるまま、彼の胸に頭を寄せた。レイヴァートが呟く。
「二度と、帰れとは言うな。言ったところで、俺は帰らん」
「‥‥あなたを傷つけたくはない。こんなふうに‥‥」
「お前を一人で残すほうが、俺には痛い」
「‥‥‥」
「イユキア。病の原因は、その夢か?」
 左腕で抱き寄せたイユキアの髪の内へ、そっとくちづけた。答えはなかったが、もともと答えを求めての問いではない。
 イユキアが目をとじ、頭をかたむけてレイヴァートへ深くもたれた。
「レイヴァート‥‥」
「何だ?」
「‥‥このまま、眠ってもいいですか? こうして、そばにいてもらっても‥‥?」
「ああ」
 抱いた左腕に一瞬だけ力をこめてやると、イユキアはひどく小さな声で何かを呟いて、体から力を抜いた。そのまま、あっけないほど短い時間で眠りにおちる。静かな寝息がきこえてきた。
 そんなささいな願いすら、イユキアはためらい、怖がる。熱をおびた細い体を腕の中に抱きながら、レイヴァートはじっと暗い天井を見上げていた。