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act.5

 砕け散る音。破壊の轟音。ガラスの絶叫。
 神経を切り裂き叩きのめす。その圧倒的な音色が耳だけでなく全身を揺さぶり、一気に交感神経からノルアドレナリンが放出され、全身の神経が興奮して気分がロケットのように昂揚する。とぎすまされた意識にうつる世界は見えるはずのないディテールまで異様なほどにリアルで、クリアに浮き上がって感じられる。
 人の息づかい。短い悲鳴。血の臭い。押し殺された銃声。恐怖と混沌の波が、意識の中を一瞬のバックラッシュのように抜けていく──
 それが自分の記憶なのか共鳴した他人の感情なのか、サーペントにはわからない。どうでもいい。粗くざらついた、ひりひりするほどレアな恐怖。口の中に鉄の味がひろがった。
 首すじがぞくりと総毛立つ。内臓を死神の長い指がつかんでくいこんでくるような、根源的な恐れ──原初の、動物的な脳が否応なしにゆさぶられる。
 唇に笑みを刻んで、サーペントは左手を振った。手の中に持っていたセラミックの刃が宙へ放たれる。その行く手をたしかめるより先にベイグラス・コールドハンドの体をつかんで床へ倒れた。男の喉へ手刀を入れて声を一時的につぶす。
 暗黒はほんの3秒ほどで、世界を非常用電気パネルの弱々しい光が照らし出す。天井のパネルにまぎれて設置された細長いシート状の光はいかにもたよりなかったが、暗闇にくらべれば真昼のようにまばゆい。
(Fiat Lux──)
 光、あれ。
 ふっと心に何かがきしんだ。なじみのある感触。一方的な引き攣れ。サーペントは一瞬に精神を集中させ、するどいアイスピックの一撃のような思念を送り出す。
(クラッシュ!)
 心がパチンと軽くなった。サーペントは歪んだ微笑をはしらせる──サイ能力者にとってテレパス能力は諸刃の剣だ。単純に人を読もうとするようなシンプルな能力の持ち主なら、尚更。
 思念の逆送がどれだけこたえたか、シェインは苦痛に顔を歪め、膝をついていた。そばにガードの仲間が倒れていたが、首が不自然に逆方向を向いている。シェインを取り押さえようとして反撃にあった様子だった。
 床へ倒れたディンクの体をエースが押さえ付け、背中を膝で踏んで後頭部に銃を押し付けていた。その横に二人のガードが倒れて動かなくなっていた。肩を撃たれ、さらに意識を失わされているが、死んではいない。相棒はあまり無意味に殺しを好むたちではなく、それだけに彼が人の意識や肉体の反応を失わせる手際は、サーペントにもわからないほど鮮やかだった。
 サーペントはベイグラスの首根っこをつかむようにしてシェインの前へ大股で歩き寄り、頬に落ちた髪を左手でかきあげながら、微笑した。
「ご気分は?」
「‥‥‥」
「今さら一つ忠告しとくと、コントロールの不十分なテレパスは、俺にはちょっかい出さない方がいいんだよ。手加減してやった、感謝しな」
 シェインの目の焦点がやっとサーペントに結ばれて、男はかるく首を振った。声にはきしむような苦痛があった。
「お前‥‥何者だ?」
「さあ。俺はあまり "誰か" であったことがない。それよりあんたは何者?」
 なめらかな声で問い返しながら、サーペントはベイグラスの両腕を強引に後ろへ回させ、取り出した目隠しを使って両手首を縛り上げ、拘束した。ベイグラスの耳をかるく引っぱると、いかにも親しげにその耳元へ囁いた。
「どうするかな、コールドハンド。あんたと取引するか、シェインと取引するか。俺はどっちでもいいけど、取引が成立しなかった方を殺す。取引がどちらとも成立しなければどちらも殺す」
「取引?」
 ベイグラスがほとんど聞こえないしわがれた声で呟いた瞬間、シェインの体がふっと沈んだ。男の姿がサーペントの視界から鮮やかに消失する。寸前にわずかに逆に体を振って、サーペントの視線を無意識に誘導した上での動きだ。視覚と視野をよく把握している──サーペントが頭のすみで感嘆した瞬間、シェインの足先が首をそらせた彼の鼻先をかすめた。容赦がない。殺気はないが、殺す力のこもった一撃だった。
 サーペントがよけた空間をシェインの靴先がみごとに抜けていく。男の膝がのびきるのを見きわめようとした瞬間、サーペントの首すじをぞくりと冷気が撫でた。
 足が戻ってくる──シェインが蹴りを途中で引き戻し、足の甲をサーペントの首へ叩き込もうとする。大した体のバネだった。
「ちィッ」
 頬から肩にかけてビリリと痺れが抜け、サーペントは床で一転して、跳び上がるように身を起こした。低く構えようとしながら、横を駆け抜けるなじみの深い気配へ怒鳴る。
「俺んだよ!」
「時間切れ」
 エースはそっけなく言い捨て、シェインがサーペントへひらめかそうとした右手首を蹴り上げた。ナイフのように鋭いシャンデリアの破片が手からとんだ。
 視界のすみに、ベイグラスが転げるように部屋の中央へ走り出すのが見える。その後頭部をサーペントが無造作にひっつかみ、顔面から床へ叩きつけた。グシャ。‥‥とまではいかない。かなり手加減はしているようだ。
 シェインが左足を軸にくるりと反転し、からになった右手を大きく振る。その動きにまぎれて左手の指をまっすぐエースの眼球めがけて突き上げた。
 手首をつかんで軌道をそらし、内側から肘をからめて逆関節を取りながら、エースはシェインの腕がのびきったところで一気に叩き折ろうとした。だがシェインの腕に鉄のような筋肉が盛り上がり、ピキッと靭帯がのびかかる感触だけで、腕は振りほどかれていた。
 シェインがするどい身ごなしで下がろうとした一瞬、その首すじに細長いクリスタルガラスの破片が突き立てられる。
「はいはい、じゃれてないで俺の話を聞けっつの」
 サーペントが不機嫌そうに言った。シェインの首すじを貫いているのはシェインが落としたシャンデリアの破片で、サーペントの手でさらに細長く折られた先端がシャツの上から正確に首のつけ根の筋肉へさしこまれていた。血がにじみ出す。動脈は傷つけていないが、サーペントがその気になれば一瞬だった。
 動きがとまったシェインの髪をつかみ、強引にねじって自分へ向かせる。破片が筋肉の間で動き、血が大きくあふれ出した。
 サーペントは、シェインの目をのぞきこむ。男は息をつめ、無駄な動きを殺して破片の位置が致命的な場所へずれないようにしていたが、サーペントを見つめ返したまなざしの奥にも、肌からたちのぼる汗の匂いにも、まるで恐怖の気配はなかった。サーペントは微笑する。
「成程。夕べ、俺はあんたと寝るべきだったんだな。きっと楽しかったろうに」
 エースがシェインの体に素早く手をはしらせてあらためて身体検査をしながら、目だけで天井を仰いだ。シェインの表情はかわらない。喉を動かすのを避けてか、それともあまりに下らない話題だと思ったのか、彼は何も言わなかった。
 男の背広の裏側に手をすべらせ、裾をさぐって、エースの指は裏地から爪先ほどの薄いチップを引きはがす。サーペントが小首をかしげた。
「何?」
「‥‥IDチップだな」
 目の前にかざして、エースは特殊な読み取りアタッチメントを必要とするチップを見る。
「普通は体内に埋め込んだりするがな。アレルギーか?」
 質問ではなかったし、シェインも反応しなかった。サーペントがくるっと目をまわす。
「発信機ついてる?」
「いや。IDだけだ。どこのかはわからんが、大体この形は官製だな」
「アンダーカバー‥‥潜入捜査官か」
「可能性としては高い」
「じゃあ体にきいてみるかな?」
 サーペントの手がシェインの首すじを怠惰にすべって、指先でガラスの破片の形をなぞった。二人の会話を聞くシェインの表情は完璧なほど揺らがなかったが、サーペントは血に濡れた指先にシェインの肌がかすかに揺れるのを感じて、唇に微笑をつくった。テレパスでなくとも、人を読むことくらいはできる。
(むしろテレパスは、他人を「読める」ことに惑わされすぎる──)
 指を口元にはこび、サーペントはシェインの血を舌先でなめた。
「あんた、微弱テレパスなんかじゃないだろう。それも偽装か? 接触もしてないのに俺を精神感応でつかまえようとした」
 シェインの首すじにもどった指が、血で何かを描くように肌を這った。小さな渦をなぞる。男の肌が感情や意志とは無関係にひくりと揺れ、肌に刺さったガラスの根元からじわりと新たな血が盛り上がった。
 シェインの目をのぞきこみ、サーペントが囁く。
「お前、誰だ?」
「‥‥‥」
「目的は指輪か、ジュエルか、組織か? だからベイグラスの組織に入り込み、息子をたらしこんで指輪のテストに自分を使わせた?」
 脅すように、指先をガラスの破片にかけた。わずかな圧力──致命的な血の脈を断つその意図を、シェインは察した筈だが、その顔は何の動揺も恐れも、あるいは倒錯した期待感すらも、ひとすじたりとも見せていない。彼は死を恐れていない。サーペントは彼から何の恐怖も嗅ぎとれない。
「やっぱりあんたとセックスしとけばよかった」
 囁くサーペントの背後でエースが顔をしかめた。相棒がどうもテレパス相手に感情的なもつれがあるらしいのを、エースは経験的に知っている。むやみと嫌ったり憎んだりしているわけではない。むしろ、どこか無条件に愛でているふしすらあるのだが、サーペントの気まぐれな愛情とその発露が相手にとって吉となることはあまりなかった。
 サーペントの唇がついと上がって、どこか邪悪な、だが美しい笑みをまっすぐシェインへ投げた。
「ここでする、シェイン?」
 左手が男の胸板を服の上からすべりおり、股間を淫猥な仕種でなであげた。エースは床に膝をついて、血に汚れた顔で呻くベイグラスを支え起こしながら、醒めきった声で言った。
「3分」
「フェラくらいしかできないじゃん」
「どーぞ」
「やだね。俺も愉しみたい。お前、してくれる?」
「俺が、誰に、何を?」
「お前が、俺に、口で」
 いけしゃあしゃあと。それまでとうってかわってやたらと可愛らしい、ねだるような口調だった。さぞや楽しかろう。エースはサーペントの方へ顔を向けなかったが、相棒がシェインのズボンの前をくつろげる音は嫌でも耳に入ってくる。ベルトは身体検査の時に外していた。
 エースはベイグラスの胸ポケットからシルクのハンカチを引っぱりだして、男の顔の血を拭いてやった。ベイグラスは咳込みながら、床に倒れたディンクの姿をちらりと見る。呼吸で動く背中を見て、気絶させられているだけだと確認すると、興味なく目を戻した。エースはその手にハンカチを渡す。
 背後からよからぬ音が聞こえた。
(馬鹿が──)
 うんざりしきっていると言うのについつい笑いがこみあげてきて、エースがしのび笑いを殺すのに苦労していると、ベイグラスが口元にたれた鼻血を拭いながら、まだかすれを残す声で言った。
「取引に応じる」
 ヒュイッとサーペントの口笛が鳴った。お口が留守になってるぞ、と嫌みを投げてやりたいのを抑え、エースはベイグラスの顎をつかむと、緑がかった青い目をのぞきこんだ。ベイグラスが口の中の血を呑みこんで、つづける。
「条件を明示しろ」
「そりゃ──」
「脱出用ルートの生体認証」
 サーペントが余計なことを言ってややこしくする前に、エースがさえぎった。何もかもを相棒がややこしくしているのは、多分、気のせいではないだろう。それがわざとだと言うのも。
 楽しんでいるんだろうな、と思う。自分が引き起こしたすべてのトラブルを。そんな行き当たりばったりの相棒は可愛いが、このままずるずるペースに流されてたまるかとエースは気を引きしめた。朝から振り回されっぱなしだ。
(‥‥いつもか)
 結局のところ、これは病のようなものであって、のがれようがない。恋というのは本当にタチが悪い。しかも相手がアレとあっては。
 ベイグラスはエースを見上げて、小さくうなずいた。外部から遮断されたこの部屋へ助けの手が入るまでどれくらいあるだろう。放っておけば10分程度で交渉用の接触開始、突入までは30分、とエースは見ていた。それを待つか、こちらからコンタクトを取って外へ脅しをかけるか、それとも消えるか。打つ手は限られている。
 ベイグラスは小さく咳込んでから、まだかすれた声で言った。
「こちらも条件がある」
「言ってみろ」
 エースはうなずく。
「シェインを渡せ。指輪も。そうしたらお前たちを逃してやる」
 ベイグラスの目の中にある硬質な光を見つめてから、エースは肩ごしに後ろを見やった。シェインの首に手を回して半ばしなだれかかったサーペントと目が合う。相棒は濡れた唇にいつもの澄んだ微笑を浮かべ、意味ありげに小首をかしげてみせた。
「指輪に関しちゃあんたとシェインとの間の話で、俺たちには関係ない、コールドハンド。自分が取引できる立場だと思うのか?」
「君たちは、私の助けがないとここから出ていけない」
 膝で座ったベイグラスは汚れたハンカチを裏に返して顔の血を丁寧に拭いながら、少しばかり威信を取り戻して背すじをのばす。
「それに君は、取引が成立しなかった方を殺すと言った。それなら私にシェインを渡しても同じだろう。私が君のかわりに彼を殺す」
 サーペントはいかにも可愛らしく首をかたむけ、恋人にするようにシェインの首に両腕を回している。シェインは表情を動かさないまま、左手だけを動かして自分のペニスをスラックスの中へしまいこんでいた。
 エースはベイグラスの表情を注視していた。彼が、裏切り者であり潜入捜査官の可能性すらあるシェインの身柄をほしがるのは不思議なことではない。だが、やけに聞き分けがよくなった様子が気になった。折れやすい人間ではない。
 ──と思った瞬間、ベイグラスがサーペントへチラッとはしらせた視線を見て、ふいにエースは合点がいった。不安なのだ、彼は。視線に不確かなゆらぎがあった。そりゃ不安だろう。サーペントのような気まぐれで無茶な人間を相手にしていると、何が起こるかわからない。そういう相手と長くいるよりは、エースを相手に手堅い交渉をしたほうがマシだと判断したのだろう。
 もっとも、逃がした後で報復措置を講じるつもりだろうが、それはどちらも承知の上だ。
 どうする、とサーペントに目でたずねた。俺はこっちに乗るぞ、と目配せすると、サーペントはかるく肩をすくめる。その唇が動く寸前、それまで黙っていたシェインが重い口をひらいた。
「取引する」
「誰と、何を?」
 サーペントのやけに優しげな声。シェインはサーペントにちらっと目をやったが、答えを言いながらエースの方をまっすぐ見つめた。
「部屋からの脱出法。かわりに、俺を自由にしろ」
 シェインを見る相棒が少々傷ついたような顔をしているのが可愛くて、エースは笑いを噛み殺す。今さら他人に信用されたいなんて思っていないだろうに。取引の相手に選ばれないのは自業自得というものだ。
 その瞬間、天井からかすかな音がした。音──いや、振動。かすかな、気配としか言い様のないもの。他者の意志──


 無音の警告がエースの口からあがる。擦過音に近いそれがとんだ瞬間、サーペントの指がシェインの首からガラスの凶器を引き抜いた。宙に深紅の珠がとぶ。
 エースの左手がベイグラスの首根をつかんで引きずり上げ、自分の前面へ押し出しながら拳銃を宙へポイントした。ふりかぶった部屋のすみで天井のパネルがずれてワイヤーが垂れたかと思うと、ほとんど同時に奥の壁一面にひきのばされた巨大なモナリザの顔が粉々に砕けた。
 サーペントの体はその音より前にしなやかにスピンして、モナリザへと半身を向けていた。その手がシェインの手の中へ拳銃を押し込む。
「取引に応じる」
 するどい囁きがその唇からシェインの耳へと渡った。蛇の囁き。それは返事を待たずに宙で散り、サーペントの姿も一瞬のうちにシェインのそばから消える。ぼんやりとした光のなかを黒い影が天井からすべりおりてくる。モナリザの破片の向こうからも三つの影がとびこんできた。
 ワイヤーからすべりおちる二つの影の顔面を覆うマスクの形状を見ながら、エースはベイグラスのこめかみに銃口を押し付ける。ワイヤーの吊り方が軍の方式なのを見て、内心舌打ちした。軍上がりは市警上がりより気が短い。交渉より行動した方が早いと思っている。
 もう少し待ってりゃおとなしく引き上げてやったものを。‥‥多分。
 天井にエースが気配を感じてからわずかに1、2秒、上横あわせて5つの影がとびこんできた瞬間、彼らに先んじて床にはねたガス弾の衝撃センサーが働き、無味無臭のガスが噴出した。
 ワイヤーをすべって床に着地した一人が、立てずにそのまま落ちた。マスクの顔面と腹部をエースの銃で撃ち抜かれている。素早い動きを保つために防弾アーマーを胸部にしか装着していないのを、エースはボディシルエットで見てとっていた。
 モナリザの壁の向こうからとびだそうとした二人が、まるで蜘蛛の巣にからめとられたような動きをした。──そこはサーペントがあらかじめ細いタングステンワイヤーを横渡しに張ってある。生身ならば体が切れただろうが、アーマーとその上の防刃繊維が彼らを救う。だが動きがはっきりと停滞した瞬間、応接テーブルを踏んで宙に身を躍らせたサーペントの足が一人の顔面をまともに蹴り上げていた。
 にぶい音がする。サーペントはよろめく男のそばに着地し、サブマシンガンを握った男の右手をつかんで仲間へ向けた。引き金を引こうとして相手の抵抗にあう。ワイヤーごしに揉みあいながら左手を相手の顎の下へ入れ、ぐいと顔をはぐようにガスマスクを引きはがした。見もせずに、背後へ放る。
 同時に身を沈め、頭上にいかついコンバットナイフの一閃をかわした。間を置かず、重い柄が上から叩き込まれてくる。前に一転して床からはね起きようとして、サーペントは後頭部に叩きつけられた銃口の勢いに膝をついた。
 サブマシンガンの銃口が頭蓋に押し当てられ、サーペントは両手を上げて恭順のポーズを見せる。二人目は一人目より腕も反射もよかったらしい。ガスで気を失う真似でもするかとおとなしくうつむいた彼の金髪を、男が硬繊維の手袋で覆われた手で乱暴につかんだ。
 ──瞬間、鉄のような力で銃身が上へ押しやられ、耳元でくぐもった声がした。
「人のものにさわんな」
 サーペントがばね仕掛けのように立ち上がり、男のヘッドギアの上からこめかみめがけて思いきり掌底を叩き込んだ。よろけた男の首すじに片割れから奪ったサブマシンガンの銃口を押し当て、引き金を引く。
 エースを見て、にやっと笑った。
「"人のもの"?」
 エースはにこりともせずに倒れた死体からガスマスクを外し、サーペントに手渡す。いらない、と首を振る彼の手にもう一度押し付けると、サーペントは皮肉っぽく唇のはじを上げてから、口に押しあてただけのマスクの中で数呼吸し、エースへ片眉をうごかした。
「これでファックする時間ができた。どう?」
「阿呆」
 指をのばして相棒の額をこづき、エースは部屋を見回した。死体と生きている人間がちらばって倒れ、ベイグラスもガスで意識を失って横たわっている。その中に立ったシェインは奪ったガスマスクを装着していたが、顔をしかめて喉を軽く抑えていた。少しガスを吸ったのだろう。ベイグラスと息子のディンクが室内にいる以上、使用されたガスは弱いもので、サーペントやエースのように体内に濾過プラントを埋めている人間なら意識を失うこともない。もっとも、肌や眼球の表面から吸収されたのか、エースも少しだけ指先に鈍さを感じていた。薬物耐性の強いサーペントとはレベルがちがう。
 シェインの顔を見やって、エースは淡々とした声で言った。
「脱出路を知ってるか?」
 シェインが無言でうなずき、頭上から垂れたままのワイヤーをちらっと見やる。膝をつくと、倒れている男の手から手袋を外しはじめた。


「エアシュートでほいほいっと外に出られんじゃないの」
 急角度のダクトにぶら下がるようにワイヤーをつたいながら、サーペントがぼやく。その声は2メートル四方ほどのダクトの中でぼんやりとしたエコーを帯びた。
「脱出システムを稼働させればコントロールセンターに知られる」
 先頭を行くシェインが低く返した。ダクトの斜面に片膝ともう片方の靴先をつき、見事な身ごなしで下っていく。
 その程度のことは言われなくてもわかっているくせに、サーペントは続きながらまだぶつくさと言った。
「疲れたぁ。俺ゆーべ、寝てないんだよね」
 自業自得。口の中で無音でつぶやき、エースも彼を追う。また下から声がした。
「疲れた──」
「うるさい。落とすぞ」
 エースが低く抑えた声で脅す。だが効き目はなかった。
「いーよ、落として。息のあるうちに下で拾えばいいんでしょ」
 相変わらずふてくされた声。エースは本気で肩の荷物を落としたくなった。何故お前がそうもすねる、どうやってそう自分勝手にすねられる、と思っていると、サーペントが同じ声でつづけた。
「俺、昨日からお前とちゃんとキスしてないんだよね。ひどくね?」
「‥‥阿呆‥‥」
 荷物よりも自分の方が落ちそうだったが、エースはどうにか脱力しかかった指に力をこめた。


 脱出ルートの存在は、エースもサーペントも始めから承知の上だった。
 ベイグラスの部屋の隔離システムは、そもそも、人をとじこめるために作られたものではない。そのためだけに作るには大仰すぎるし、意味がないものだ。
 目的は逆のところにある。内に何かを閉じこめる檻ではなく、外からくるものをふせぐための砦。
 襲撃、手入れ、その他何らかの好ましからざる客。それをくいとめるために「壁」が用意されている。ならば当然、そこから脱出するルートも用意されてあるはずだった。
 レールをたどり、分厚いゲートドアへたどりつくまで3分と42秒。エースは途中から、サーペントの繰り言を聞き流すために秒数のカウントに熱中していた。
 薄闇の中で肩からベイグラスの体をおろして、エースは肩を回す。昨日から働きすぎの上、相棒は何ともアレな状態で、肩も凝ろうというものだ。
 シェインがエースへ手をさしだした。
「ループタイのヘッドを」
「どうして」
 用心深く、エースが聞き返す。ベイグラスのループタイから切り離したロードライトガーネットはマインドドラッグジュエルであり、テレパスにドラッグ効果をもたらす波動がある。それをテレパスのシェインに手渡すことにためらいを覚えていた。
 シェインはエースを凝視する。
「ゲートをひらく。ベイグラスのバイオメトリクスは、精神感応もキィの一つに設定されている。ガーネットをテレパスの波動で励起させないと、ゲートはひらかない」
 エースは眉をひそめた。バイオメトリクス──生体認証。ベイグラスの体がゲートの認証キィだと言うのは予想の通りだが、さらに、テレパスによるジュエルの波動がキィの一つだとは。
「ベイグラスは、テレパスだったのか?」
 円筒のパイプのような通路の奥、光と言えばサーペントが失敬してきた上の部屋の発光パネルのぼんやりとした明かりだけだ。円形の扉はぐるりとボルトが打たれ、一見して開く機構も鍵との接触点もない。まるで銀行の地下金庫のようだった。
 シェインは片方の頬を歪めた。それは笑みではなかった。
「いや。だがベイグラスの脳の扁桃核に接してこのガーネットと相応する波動の石がうめこんであって、ガーネットの波動を励起させることができる」
「脳のバイオメトリクス、か」
 サーペントの声が奇妙なほど静かだったので、エースはおどろいて相棒の顔を見る。そこに笑みはなく、彼は床に意識なくくずれたベイグラスの体を見て低い声でつぶやいた。
「‥‥コールド、ハンド」
 その様子も気になったが、エースはのばしたシェインの手にガーネットを渡した。
 シェインはベイグラスの体を右腕でかかえこみ、ドアの前に立つ。ゲートの中央にはよく見ると円を組みあわせた何かの図が描かれていた。カバラに言う生命の木の図に似ているとエースは思って、少しばかり滑稽になった。テレパス相手のマインドドラッグなんぞ扱って商売しようともくろみながら、神秘に通じようとでもしたのだろうか。
 シェインが右手の中にガーネットの石を握りこみ、その手でベイグラスの右手首をつかむと、ベイグラスの掌を中央の円へ押し当てた。精神を集中させてゲートを見つめる。いささか、黒魔術の儀式のようでもある。エースは揶揄したい気分を喉元で押さえ付け、ベイグラスをかかえるように立たせたシェインの姿を黙って見ていた。
 エロイムエッサイム、と声をたてずに呟いた時、扉のロックが小さな音を立てて外れ、大蛇の威嚇のような圧縮空気の音とともに扉はまっすぐ後ろへ1メートル下がった。
 シェインはその隙間をさす。
「30秒でしまる。行け。ベイグラスはこちらで預かる」
 エースはうなずいて抜けようとしたが、サーペントは動かずにシェインを見ていた。シェインは苛立たしそうに腕を振る。
「行け!」
 サーペントは動かない。エースが思わず呼んだ。
「おい‥‥」
「先行ってろ」
「おい!」
 この期に及んで一体何事だ、とエースが呻く。シェインがたじろいだ顔をエースへ向けた。口調は荒々しい。
「どうにかつれて行け──」
 その背後に音もなく回ったサーペントの指がシェインの首にのびる。ちくりとした痛みに男ははねとぶように離れようとしたが、サーペントの手がベルトをつかんで凄まじい力で押さえ付けている。混濁が押し寄せ、ほとんど一瞬で意識は闇に呑まれた。
 前に崩れかかるシェインを抱いて支え、サーペントはずるずる男を引きずってゲートを抜ける。あきれ顔のエースへ鋭い声がとんだ。
「ベイグラスを」
「‥‥OK」
 仰せのままに、と出かかった嫌みを呑みこんで、エースはベイグラスを肩にかつぎ、とじる直前のゲートの隙間をすべるように抜けた。