セキュリティ装置が仕掛けられている位置を目のすみに入れながら、エースはサーペントの後について、高級ホテルのような豪華なしつらえの廊下を歩いていく。ゆったりとした廊下にはところどころ椅子さえ置かれ、人を待たせるための場所を作られていた。
屋敷と言うにふさわしい広さのある家だった。調度品があふれた廊下を歩きながら、サーペントはどれがいくらになるか値踏みする借金取りのような目で、金額縁の風景画や小さなサイドテーブルに据えられた時計やセンターピースを見ていたが、エースが脇腹をつつくと、すぐに無邪気な笑顔を取り戻して前を向いた。
廊下の左右の扉を無視して奥の両開きの扉の前まで歩いていくと、シェインを見たスーツ姿のガードが扉を開いて彼らを通した。サーペントがずかずかと中へ入っていく。
エースはチラッとシェインを見て、かすかなうなずきで受託を得てからサーペントを追った。とりあえず、丁重に扱ってくれる相手には丁重な態度を──それが、エースのポリシーだ。優先順位の低いポリシーではあったが。
一歩踏み込むと、まず、正面の壁一面に浮かび上がる巨大な顔が否応なしに目に入ってきた。細かくひび割れた肌はまるで砂漠の岩の表面のようで、表面に淡い陰影が溜まって琥珀と焦茶の入りまじった斑点が全体に散っている。その中に浮かび上がる巨大な二つの目が、闖入者を見るように彼らを見据えていた。目元がふっくらとした、やや細く目尻が切れ込んだ目。大きな瞳は何もうつしてないかのように、ほとんど虚無的なまなざしは遠い。それでいて、確実にこちらを見ているのがわかる──奇怪な目だった。
やわらかくそれでいて冷ややかな硬質さを含んだ肌のラインをまなざしで追って、エースはそれがラ・ジョコンダという女性の肖像画を巨大に引き延ばしたカリカチュアであるのに気付く。
──モナリザ。
口元は床の下に隠れていて見えない。額の上は天井より高い。切り取られ、大写しにされた「永遠の微笑み」はひどく不気味だった。
その手前、豪奢な模様を織り出した応接セットのソファに、男が腰掛けていた。組んだ足に肘をのせ、指を軽く合わせて、底のないまなざしで入ってくる二人を見ている。横に張った骨格に上品な肉付きのある、おだやかな印象の壮年の男だったが、目元に険があるのにエースは気付いていた。険というよりは、殺気に近い。よく押し殺してはいたが、それは青い目の奥にあるかすかなチラつきとなってエースの癇にさわった。
白く色を抜いた髪を丁寧になでつけ、仕立てのいいドレスシャツにベストをまとっている。ベストの胸元に見えるループタイのヘッドにエースはチラリと目をやった──ガーネット。それもやはり、指輪と同じロードライトの石。深い、紫を帯びた深紅。
壁際には二人のガードが立っていたが、とりあえず見えるところに武器を保持してはいなかった。現状、それなりに「客」扱いをされているのだろうなと、エースは判断する。どう転がるかはサーペントの出方次第か、と考えていると、当の相棒はきょろきょろと周囲を見回し、天井から下がったウェディングケーキのようなシャンデリアに口笛を吹いて、テーブルをはさんで男と向かいあった。
「おはよう。あんたが俺を呼んだ人?」
男は、少し緑がかった青い目をサーペントへ向け、その背後のシェインをチラッと見てから、エースへ視線を移した。目つきが厳しさを帯び、エースの姿を上から下までじっくりと検分する。
エースはこの手の視線に慣れていた。彼らが二人でいると、たいていの人間はエースの方が油断ならないと見て用心するものだ。まるで、サーペントをエースが守っているかのように見えるらしい。
男はエースから目を離すとやっとサーペントを見て、壁際のガードへするどい言葉をかけた。
「ディンクをつれてこい」
ガードの一人がすっと身を翻し、エースの後ろに立ったシェインの横をすりぬけて出ていく。サーペントは男が直接返事をしないのにかすかに目を細めて、唇に微笑をうかべたが、何も言わなかった。エースが目だけで天井を仰ぐ。相棒が何かを言うべき場面で言わない時、それが危険なサインであることを彼はよく知っていた。
「飲み物か何か、出ないのか」
かわりに、そう言ってみる。ガードからも、当の男からも、ほとんど何の反応も得られなかった。
──しかし一体、何の用だ?
エースは部屋に漂うひりひりとした空気を感じながら、不思議に思う。あまりまともな商売をしている相手ではないらしい、それはわかる。そのボスの息子──おそらくは──にサーペントがちょっかいをかけたらしいが、その程度のことで相手を呼び出しまでするだろうか。単に「痛い目に合わせろ」と命じるだけですむ話だし、目の前の男は、そこまで息子に入れ込んで自分の部下を動かすタイプには見えなかった。
息子を殺しでもしたなら別だが、朝には健康そうな反応を見せていた。それに、死んだのならなおさら「報復」の怒りが感じられるはずだが、そういう感情的な激発は嗅ぎ取れない。
何か、「用」があるのだ。そこまではわかるのだが、その「用」が何であるのかが今いち情報不足でわからない。
考え込んでいると、扉が開いてガードが若い男をつれて入ってきた。これが「ディンク」──サーペントの気まぐれなアバンチュールの相手かと、エースは半身で振り向いて彼を眺める。朝はブランケットごと部屋の外に「排除」したので、顔を見る時間がなかったのだ。
サーペントの好みの基準はいつでも曖昧で、彼の一夜の相手は常に気分次第だったが、今回の相手はなかなか見目がよかった。たぶん、きちんと両足で立ってすました顔をしていれば、寄ってくる相手にはことかかないだろう。父親によく似たおだやかな顔立ちで、簡単に言えば軟弱、だがととのった鼻筋と少し厚めの唇に人目を引くものがあった。
ただし、今は青白い顔に脂汗を浮かべ、口元を汚れたハンカチで押さえ、ハニーブロンドが額に乱れている。上半身は裸で胸にテーピングが巻かれ、右の頬に大きな薬用シートが貼られ、体のあちこちに痣が浮いていた。
「SMでもやったのか」
エースがつぶやく。サーペントが頭の横でくるっと指を回した。「覚えてない」ということだ。どこまで本当かわからないまま、エースは鼻をならした。
サーペントがにっこりと、最大限の微笑をうかべてディンクに両腕をひろげて見せた。
「ハロー。こんなに早く再会できるなんて予想外の喜びだ、ディンク。夕べは愉しかったねー」
「‥‥貴様‥‥」
かすれた声で、ディンクが呻く。踏み出そうとしたが、よろけた体をガードが二の腕をつかんで支えた。サーペントはにこにこしながら父親へ向き直って、小首をかしげる。
「どうしたの、ひどいザマだね。朝から洗濯機にでも入れた? たしかにちょっとした "汚れ仕事" だった、夕べは。でもセックスって大体そんなもんだ」
「今朝の方がよほど "汚れ仕事" だったさ」
無表情の下に怒りを殺したまま、男はサーペントを見つめた。サーペントは細い顎を肩ごしにひょいとディンクへしゃくる。
「具合、悪そうだね?」
「肋骨に2本、ひびが入っている」
さっと笑顔が消え、サーペントは怪物でも見るような顔でエースを見た。
「何てひどい。あやまれ、エース」
「‥‥何で俺が」
「俺に人の骨が折れると思う?」
柳眉をしかめて言ってのけるサーペントの顔を、エースは無言で眺めた。サーペントは人さし指を上げて顔の横で左右に振る。ちっちっと舌を鳴らした。
「それにほんとに俺じゃない。ってことはお前だ、暴力男」
「‥‥‥」
「やだなあ。もうそんな年か。人の骨折ったことも忘れるなんて。脳みそタワシで洗ってこい、はじっこんとこ、きっとウジが湧いてきてるから」
「‥‥あ」
ふいに記憶がよみがえって、エースは小さく声を洩らした。ブランケットの包みにくるんで男をホテルの廊下へ引きずり出そうとした時、暴れたので肘を入れた。その入れどころがちょっと微妙な気はしていたのだ。あの後のサーペントとのやりとりで頭に血がのぼって、経緯を丸ごと忘れていた。
エースの様子を見ていたサーペントが「それ見たことか」と全開の笑顔になった。
「お前だ。ほら、あやまれ、人様の子供に何てひどいことをするんだ」
そう言った瞬間、ディンクが喉の奥で派手な音を立て、膝をついてうずくまった。口元を押さえ、嘔吐の息をついて激しく肩をふるわせる。サーペントが大仰な身振りでそちらへ右手を振った。
「ほら、可哀想に。あやまれ」
「いやそれは俺じゃないだろう」
エースは顔をしかめながら、嘔吐の仕種をくりかえすディンクを見た。肋骨にひびがはいった程度で、多少熱が出るならともかく、ここまで嘔吐するなど考えられない。もう散々吐いた後なのか何も出るものがないらしく、ディンクは膝をついて手で口を押さえ、ガードが差し出した新しいハンカチをひったくってまた口元にあて、涙目で苦しげにサーペントをにらんだ。
「貴様‥‥っ!」
サーペントがエースの肩をつかんで自分の前に出す。
「ほら呼んでる」
「あきらかにお前をな」
エースはサーペントの手をふりほどき、細い肩にがっちりと手をのせて抑え込んだ。
「何をした」
「いや、俺じゃないよ?」
「お前な──」
「嘔吐剤を飲ませたのは私だよ」
二人は背後からかかった声に顔を見合わせ、同時に振り向いた。サーペントが右肘でエースをつつく。
「ほら、俺じゃないだろう、単細胞」
「黙ってろ、悪ガキ」
息の下で囁き返して、エースは男の鋭い目を見つめ返した。
「で、何の用ですか。ご子息の健康状態のことなら、ある程度のアクシデントはその行動を考えると当然ついてまわるべきリスクだと思いますし、あなたの欲しているものが謝罪ならば、俺は拒否する。彼からそれが引きだせるかどうかは、あなた次第だ。ためしてみたいと言うなら、とめはしないが、望みは薄い」
と、サーペントへちらっと視線を流した。サーペントがエースへ向けて舌を出す。
また嘔吐の音がした。男は嫌悪の視線を自分の息子へ流してから、エースへ視線を戻した。右手を動かし、ポケットから指輪を取りだすとそれをテーブルへ置いた。
「息子が何をしたかには興味がない。何をされたかにも。馬鹿な行為には馬鹿な結末がつきものだ」
「ごもっとも」
しおらしげにサーペントが呟き、肩をすくめた。
「でも言わせていただけるなら、かなり丁重に扱ったし、いい思いもさせてあげた。金をもらってもいいくらいだ」
「だから指輪をくすねたのかね?」
その声はぴしりと打つように厳しかった。
サーペントが沈黙する。数回まばたきする間、彼は何も言わずに無表情でそこに立っていた。エースはちらっと天井を見上げる。
「サーペント?」
「指輪?」
その声は落ち着いていた。顔も、すらりと立った一見華奢に見える体にも、何ら外から感じ取れる緊張は見せていない。
サーペントは左手でテーブルの上に置かれた指輪をさした。
「指輪って、それでしょうが、パパ」
「これは、彼の嘔吐物の中から出てきたものだ」
サーペントの揶揄を無視して、押し出すような声で男は言った。エースが顔をしかめる。
「ひどいことをしたもんだな」
「自分で忘れてったくせに、返せとか人の顔面に向かってわめく方が失礼な話だと思わないか」
すました顔で、サーペントは言った。エースの方を向く。淡い微笑を唇に溜めて、目をほそめるように笑った。
自分がシャワーを浴びていた間にホテルのドア口でどんなやりとりがあったのか、エースは頭のすみで想像して小さな溜息をついた。
「それに、俺が指輪を飲ませたわけじゃないよ。口の中につっこんで顔をはりとばしたら、勝手に飲みこんだだけだ。別に何の害もないだろう、そのうち下から出てくるんだから。ガーネットが胃液で溶けるのが心配?」
ちらっと、まだ膝をついているディンクに目をやって、サーペントは笑いとは違う形に唇のはじを吊り上げた。唇の間から白い歯がのぞいてシャンデリアのきらめきを受ける。優雅な仕種で前髪をかきあげ、顎をついっと上げた。
男はサーペントの傲慢な態度に感銘を受けた様子もなければ、腹を立てたようでもなかった。もっと深く冷たい怒りが目の奥に据わっていた。背後の巨大なモナリザが彼の怒りをうつして、かすかに表情を歪めたように見えた。
物慣れた指先で、彼はつまみあげた指輪をもてあそぶ。
「指輪は多少特別な品でね。下から出てくるのを待ってはいられない。幸い、こうして救い出せたわけだが──」
目がさらにひややかな光をおび、刺し貫くように二人を見た。
「残念なことに、これは偽物だ。それで君たちにきてもらったわけだが、状況がご理解いただけたかな?」
げぇっと背後で激しい嘔吐の音が聞こえたが、二人はそちらを見もせず、男の指先にある指輪を見つめていた。
それから二人は互いに顔を見合わせ、相手を指でさす。
「お前か」
同時に言った。