同じセリフを同時に口にしておきながら、声のひびきはまるで異なっていた。
ひどく気怠い心底嫌そうな「お前か」は、エースの口から。
たのしげで軽い、からかうような「お前か」はサーペントの口から。
二つの言葉は宙で交錯し、一瞬ふしぎなハーモニーを奏でたが、男もそれ以外の人間も感銘ひとつ受けた様子はなかった。
エースは男へ視線を戻すと、親指でサーペントをさした。
「申し訳ないが、手クセが悪いのはこっちの方だ。コレと話をしてくれ、俺は帰らせてもらう、ミスタ──ええと、」
わざとらしく言葉をつまらせた。男がうるさげに右手を振る。
「ベイグラス」
「ベイグラス・コールドハンド?」
サーペントがヒュイッと口笛を吹いた。室内の空気がピインと引きつれる甲高い音だ。唇ではなく、前歯の裏に舌先をつけて息を鳴らしたらしい。
「昔、生体認証キィを開けるために他人の手を移植して静脈のバイオメトリクスをクリアしたって話は本当?」
エースが横で笑いをこらえるのに苦労したほど、サーペントの声は子供っぽい好奇心に満ちていた。どうやら相棒は、その話がお気に入りらしい。
ベイグラスはかるく眉を上げたが、直には返事をしなかった。
リアン・ベイグラス──その名なら、一般人にも知られている。人造宝石に個人の波動をうつしとったヒーリングジュエルで財を為した会社の創業者だ。健康時の「正常な波動」を宝石にうつし、それを身につけていることで「病んだ波動」に移行しそうになる体と心をチューニングして、ノーマルに保つらしい。オカルトのように聞こえるそれは、神経を病んだ人々にたしかな効果が認められ、治療に取り入れられて一つの財を築いた。
が、同時に、ベイグラスには裏の顔があった。それが「ベイグラス・コールドハンド」だ。マフィアグループとつながりを持ち、人造宝石の「波動」を使って、人の精神に干渉するジュエルを闇社会に流す。
ベイグラスの胸元に飾られたロードライトガーネットの深紅を、エースはベイグラスの顔を見たまま瞳を動かさず、視界の中でじっくりと眺めた。視界に入りさえすれば、そちらに目を向けなくても細部が見てとれる。特技というより、彼らの必須スキルと言うべきものだった。
そのガーネットが人造なのかどうか判断するすべは、この距離ではエースにはない。だが、ベイグラスとガーネット、そしてなくなった「指輪」。それだけ並べばつながりは見えてくる。新商品かプロトタイプか、外に洩れてはいけないシロモノだったのだろうと、エースは見当をつけた。神経質になるのもわかる。そんなものを馬鹿息子に持たせた方も方だが。
さてどうしようか、と考えて耳の後ろを軽くかいていると、サーペントがやけに甘ったるい声を出した。
「お会いできて光栄だったけど。お茶もシャンパンも出ないのなら失礼して、俺たちは」
睫毛のはじからちらりとエースを見た。
「午後の "汚れ仕事" の準備をしたいんだけどな」
「まだ帰ってもらうわけには、いかんね」
「だって、客扱いする気ないんでしょ、あんた。それともコインでも払ってくれる? なら少しはサービスしてあげてもいい」
相手の男を誘惑でもするつもりかというくらい、喉にかかった声を出す。エースはまた笑い出しそうになって横を向いた。それくらいサーペントの「芝居」はベタベタだった。当人もそれは踏まえた上で、頭がからっぽのストリートの男娼のような口をきいている。
退屈なのか、怒っているのか──両方、だろう。
ベイグラスが答えるより先に、エースがひらりと右手を振った。
「失礼。俺は帰る。指輪は知らん、コレに聞け。肋骨の件はホテルまで知らせてくれれば治療費は払うが、謝罪はしない。人の恋人と寝る以上、それくらいは覚悟してもらわないと困る」
事務的な口調でつらねながら、殺気のこもったサーペントの視線を無視して、ベイグラスを見つめる目に力をこめた。
サーペントが鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。ベイグラスは口元にひややかな笑みをよぎらせ、かるく右肩をうごかした。彼らの後ろでまた嘔吐の音がする。
「しつけが悪い恋人だな」
「いや。もっと悪いところがたくさんある」
重々しい口調でそう言った瞬間、髪をつかもうと横から手がのびてきたが、エースは片手でそれを払ってサーペントから素早く距離をとった。険悪に唇を歪めて右の犬歯を剥くサーペントへにっこりしてみせる。心にもない笑顔をふりまけるのは、相棒一人というわけではない。
「じっくり話をしていけ。お前のまいた種だ」
一段と、サーペントは獰猛に歯を剥いて、動物的な唸りを喉でたててエースへつめよった。エースが下がる。それを上回るスピードでサーペントが距離をつめ、あっというまに壁際へ追いつめられたエースは胸ぐらをつかまれて壁に叩きつけられていた。そばのサイドボードが揺れ、高そうな首長の花瓶がぐらりとする。
「どーの口がそれを言うかなっ」
サーペントの右手が大きな花瓶の口をひっつかんだ。左手でまだエースの首を留めたまま、右手一本で花瓶を返すとふくらんだ陶の腹をサイドボードの角に叩きつけた。甲高い音をたてて肉厚の陶器が砕ける。
中に水は入っていなかったが、常温凍結処理された花がバラバラとカーペットに振り落ちた。
エースの顎がぐいと上がる。喉元にするどいエッジをつきつけられていた。サーペントは花瓶の首をつかんだまま、割れたふちをエースへ押し付ける。
「もう一度、言ってみ?」
「‥‥ほら」
エースは相棒から目を離して、ソファへ座ったままのベイグラスへ雄弁な視線を投げた。周囲のガードは用心深く体勢をととのえてはいるが、武器に手をのばしている人間は一人もいない。サーペントより余程しつけがいい。
「成程」
奇妙に納得した表情でベイグラスがうなずいたが、表情は渋い。眼前のちょっとした余興を楽しんでいるようではなかった。
サーペントが襟首を絞り上げる手に力をこめた。
「元はと言えばてめェが悪い!」
「おい、苦し──」
「それに」
エースに顔を近づけ、サーペントは歯を見せてにっこりと微笑した。
「5日前にエルクドのシャトルロードで、カイザーウォラスを煽って隔壁につっこませたのはコイツでーす」
サーペントの肩ごしに見えるベイグラスの顔がこめかみまでピキリと凍りつき、エースは目だけで天井を仰いだ。巨大なシャンデリア。ガラスでつくった小さな城を吊るしたようだ。
ベイグラスの声はひどく低かった。
「あの‥‥ルビーレッドのカデンツァか?」
「そう、えげつない改造した並列二重層キャパシタエンジン使用のアレ。テールライトが紫色の。阿呆か」
「改造したのは俺じゃない」
二人の会話に、エースがぼそっと呟いたが、どちらも彼の言い訳には興味がないようだった。知り合いのパーツ屋が趣味で組み上げたものを「テストしてくれ」とたのまれたのだ。ひどく気難しくチューンされたその車を走らせるのに熱中していて、つい羽目を外したのはエース本人だが。
「ほう。ほほう」
不吉なフクロウのように半ば呻いて、ベイグラスが立ち上がった。ゆっくりとテーブルを回りこみ、エースへ近づく。両目にはっきりとした怒りがたぎっていた。この男が表情をあらわにするのは、彼らが顔を合わせてはじめてのことだった。
「あれは、お前か。‥‥じっくり話をきかせてもらおう──」
エースは目をほそめてベイグラスの憤怒を受けとめる。
その瞬間、サーペントの姿が視界から消えた。するどく空気が揺れ、ベイグラスがいきなり折れたように倒れる。その体が絨毯にぶつかる寸前に抱きとめて、サーペントが右手を男の首に回した。
「動くな!」
細い陶器の破片が指の間にはさまれている。それははっきりと、ベイグラスの左目につきつけられていた。
「いや、動いてもいいけど」
と、凍りついた面々の顔を見回して、サーペントはにこやかに前言を撤回する。さらににこやかに解説した。
「何故なら俺は少し虫の居所が悪いので、このおっさんをちょっとばかり引っ掻いたりむしったりするきっかけをもらえたら、とっても嬉しい」
彼らの動きをとめたのがサーペントの一喝なのか、説明なのか、笑顔なのか、手慣れた様子で得物にされた陶器の破片なのか、それはわからなかったが、とにかくガードは武器に向かっていた手をおとなしくおろした。エースはテーブルの脇に立つガードに手で命じて、まだくぐもった嘔吐の音をたてている息子のそばに立たせた。
ほぼ同時にドアの向こうでシャッターが落ちるような大きな音がしたが、二人とも目もやらなかった。外からこの部屋が監視されていることはわかっている。ドアが封鎖されるのは予想の範囲内だ。ガードシステムの誘導電波は入らないように、エースはブレスレットに仕込まれたアクティブパルサーをオンにして妨害電波を出していたが、有線のカメラはまだ死んでいない。
サーペントの左手にセラミックの小さな刃がひらめき、ベイグラスのループタイが切れてガーネットヘッドが手のひらに落ちた。何か言いかかるベイグラスの首をしめあげて言葉を封じ、サーペントはガーネットをエースへ放る。
エースは片手で受けとめ、軽くそれをもてあそんだ。重さを確かめるようにしてから裏返し、プラチナの表面に掘られた細いエッチングの文字を見た。アンティークに丸いひげがのびたイタリック体。
「"またとなけめ"──」
「大鴉?」
と、サーペントが顔を向ける。それはエースが読んだ古い詩の名だった。
エースは小さくうなずき、唇のはじを持ち上げた。
「噂のマインドドラッグの名前だ。テレパスを媒介としてノーマルの脳にも入りこむ。‥‥結晶体だという話は聞いたが、宝石の形をしていたとはな。まだマーケティングレベルらしいが、なるほど。それは、たしかに失くすとまずい」
「夕べ、もしかしてそのマーケティングに来てたのか。それとも、それ使ってテレパスとセックスしようと思ってた?」
サーペントが口笛を鳴らして、拗ねたような顔を上げたディンクを眺めた。ディンクは床に座ったまま汚れた顔でそっぽを向く。
ベイグラスが身動きしようとしたが、首に回されたサーペントの腕はびくともしなかった。セラミックの刃を内側に隠したままの左手が、ベイグラスの髪をなでる。まったくこいつは弱みを握った相手にはやたら優しい、と、エースは目のすみでサーペントの手つきを眺めた。猫が鼠で遊びたがるようなものだろうか。この相手がそれほど無力だとは思えないが。
「どら息子持つと苦労するねぇ、パパ。さて、ちょっとお手々見せて」
左手でひょいとベイグラスの手をつかみ、手のひらを上に返して、おろす。左右の手をじっと検分して、サーペントはうなずいた。
「本当なんだ。左右の手で指紋のタイプがちがう。移植したんだねぇ‥‥ありがとう、噂のコールドハンドが見られてちょっとうれしい」
ほのかに、だが本気でうれしそうだった。エースは室内を見回しながら手首のブレスの表面に浮かぶシグナルを確認し、見落としたガードシステムがないかどうかチェックする。
壁に浮き上がった巨大なモナリザの瞳の中に、監視カメラが仕掛けられていた。テーブルのペーパーナイフを握ると女の目の中にそれを突き刺し、仕掛けられた監視カメラを引きずり出してケーブルを切る。ウォールランプの中にある口径9mmの銃口を見つけてそれも床に捨てた。全部で三つ。
ガードはシェインを含めて五人。息子のディンクを入れれば相手は六人。部屋の外にはすでに人員が集まっているだろう。だがエースもサーペントも急く様子はなく、ガードから取り上げた拳銃をそれぞれ手にすると、拳銃に仕込まれた個人識別の回路を焼いて、登録者以外にも使えるようにした。
「さて」
サーペントはまだベイグラスの髪をなでていたが、エースが逆の壁際に立つと、微笑をうかべて手を引いた。
「待っててもお茶も出ないし。そろそろ帰らせてもらっていいかな?」
喉にかかった腕の力がゆるめられて、ベイグラスが細い息をついた。
「指輪を置いていってもらえるなら、丁重にお帰りいただくが」
かなり冷静に言う。脅し文句を吐かないあたりが気に入らないのか、サーペントは気難しく唇のはじを曲げたが、すぐに笑顔にもどった。
「指輪は俺じゃないよ、パパ、あんたは相手をまちがえたんだ。ねぇ、シェイン?」
無邪気なほどの微笑を向けられて、男は一瞬サーペントを見つめ返した。周囲のガードが一瞬にして緊張する。エースとサーペントに向いていた注意力がシェインに向けられ、室内の気配がざわりと波立った。
シェインは頬の筋肉ひとすじ動かさなかった。
「何の話だ」
「ゆうべ。あんたはあの店にいなかったと言った。それは確か? ねぇ、ディンク?」
「どうしててめぇに──」
それを言わなくちゃならないんだ、とでも言いかかったようだったが、ディンクはサーペントのラベンダーの瞳でねめつけられると、おとなしくうなずいた。
「‥‥シェインはいなかった」
「それはおかしい。俺はあんたを見たから」
刺すような光を含んだラベンダーの瞳を、サーペントは今度はシェインに向けたが、彼は無表情のままそのまなざしを受けとめた。
「気のせいだと、言った」
「気のせいならそれでいいけど、ねぇベイグラス、偽の指輪は本物にそっくりだっただろう? でなければあの夜ディンクがそれを身につけていたわけがない。俺と顔をあわせた時には、彼はもうその指輪をしていたからね」
ベイグラスが右肩だけをわずかにすくめた。それを肯定と取って、サーペントはつづける。
「指輪を盗ったのが俺じゃない以上、あの夜のはじめから、あれは偽物だった。そうでなければおかしいんだよ。すり替えたのはディンクにもっと近い相手だ」
「‥‥それが何故シェインになる」
低い声でベイグラスが言うと、何故かディンクが追いつめられたウサギのような怯えた視線をカーペットに固定した。サーペントはほがらかに、
「あの夜、ディンクが寝たのは俺が最初の相手じゃないからさ。はっきり言って、彼のケツは使用後の状態だった。それと、俺はシェインだけを店で見たわけじゃない。あんたとこっそり会話をかわすシェインを見たんだよ──ディンク。パパには内緒だったみたいだね? どうして内緒にしようとするのかな?」
シェインは身じろぎもしないが、その体の内側にたしかな力がみなぎりはじめるのをエースは感じた。それに反応しないようにして自分の体をリラックスさせ、思考ではなく体の反射にすべてをゆだねる。ほとんど動物的な感覚──獰猛に世界を感じとる鋭敏さが全身に満ちていく。
一瞬ずつ、緊張が空間を引き攣れさせていく中で、サーペント一人が子供のようにあけっぴろげに笑っていた。
「シェインとためしてみたのか? ノーマルと、その指輪の波動が効くかどうか?」
「‥‥彼は微弱テレパスだ」
そう低い声でつぶやいたのはベイグラスだった。サーペントがくるりと瞳を回す。
「なるほど、それなら話がわかる。ディンクとシェインはセックスしながら指輪をテストした。その後ディンクはあの店に送ってもらって、あの店で、次の実験台がわりにテレパスリングをはめた女を拾おうとした。結局、ベッドに入ったのは俺とだったけど」
「ディンク──」
「シェイン!」
父親と息子の怒号と哀願が交錯した。すがるようにガードの男を見上げた息子の表情に、サーペントの告げたことが真実だと──少なくとも、二人の関係について──悟ったベイグラスの顔が、怒りにどす黒く染まる。サーペントが手を離すと、喉を押さえて立ち上がりながら、男はシェインを左手でさした。
「とらえろ!」
すべてが闇につつまれる。その寸前、エースは視界の上にはしった光が天井から落下してくるシャンデリアであることに気づいていたが、ガラスのきらめきも続いて空気をふるわせた破壊の不協和音も、相棒の不敵な微笑みも、光の消えた室内に呑み込まれていた。