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からさわぎ act.1

 考えてみれば、その日も、最初から予感はあったのかもしれない。まあサーペントが相手の場合、常に「予感」はつきまとうもので、そういう嫌な感覚に慣れるすべをエースはいつのまにか身につけていた。
 ──本気で心配していたらキリがない。
 し、本気で怒っていてもキリがない。
 奔放というよりも前向きに破れかぶれなところのある相棒を、彼は本気で愛していたが、心のどこかで突き放してもいた。自ら引いた最後のラインと言ってもいい。独占は不可能。そんなふうに二人の存在そのものをぴたりと重ね合わせるようなありかたを、サーペントがはっきり拒否するだろうとわかっていたから、彼らの関係自体はきわめて遊びじみたルーズなものだった。少なくとも、見かけは。
 しかし、遊びにもルールというものはあるんじゃないのか──と、思わず、いつもの余裕も忘れて毒づいてしまいそうになったのは、疲れていたせいもあるかもしれない。朝から無意味な人捜しで忙殺され、しかもそれが何の金にもならないしがらみだったので、サーペントは指一本動かすのを拒否した。
 エースがあちこちアタリをつけて相手を探し出した時には夜中になっていて、酔っていた相手をその妻のところへ引きずり戻し、ナイフをかざした妻に鎮静剤を打って寝かせ、相談を持ちかけてきた相手──妻の浮気相手だが──に連絡を入れ、ちょっとうんざりしながらホテルに戻ってきたころにはもう夜の淵が白みかかっていた。


 遊びに出てるかな、という思いがちらっとよぎったのは確かだ。エースが出てくる時、サーペントはかなり陽気なムードだった。誰かひっかけに出払っていてもおかしくない。
 カードキィで部屋のドアを開けた瞬間、奥に人の気配を感じて、エースは足をとめた。低い位置に埋め込まれたナイトライトの光がわずかに暗闇に浮いている。その闇の中でも、部屋が荒らされたように散らかっているのが見えた。
 ソファが蹴ったように押しやられ、テーブルが倒れて酒瓶が散乱し、その上に脱ぎ捨てられた服が散らばっている。エースはしゃがみこんで床に落ちたピザの塊を拾い上げ、顔をしかめて、壁にとりつけられたディスポーザーに捨てた。
 ベッドルームの扉が大きく開いていた。近づいてエースは中からの寝息を聞く。二つ並んだベッドの片方が乱れ、ベッドルームにはむっと鼻をつく汗とセックスの匂いがたちこめていた。エースはするどく青い目をほそめる。
 ブランケットの塊のようなものがベッドの中心に盛り上がっていた。それは寝息とともに盛り上がり、沈み込む。エースは大股に歩み寄るとブランケットの両側を持ち、まるで網ですくうようにひっくりかえして中にいる相手をブランケットの中にからめとった。セミダブルのベッドなのでブランケットもそれに応じて横幅がある。両はじをぐるっとねじってキャンディのように丸め、そのはじをぐいと一つに結び合わせると、風呂敷包みのようになったそれを肩にかつぎあげた。
「! ──っ!」
 袋がバタバタと暴れる。左肘を脇腹あたりへ容赦なく打込むと、ぐぇっと音がして静かになった。少し目測をあやまったらしく固い手ごたえがあったが、別に心も痛まない。エースはひょいひょいと床の汚れ物をよけて部屋を横切ると、ドアをあけて廊下にその包みを出した。
 部屋のライトをつけ、惨状の中に放り出されているベルトやスラックスや背広やシャツや下着を拾い集める。それも持ってまた廊下に出た。
 ちんまりと置かれたままだった 包みを右手に持ち上げ、服を左手に持ってエレベータホール近くまで歩いていくと、エースはそこに包みを置き、上に服をのせた。ブランケットの結び目がしっかりと結ばれていることを確認して部屋に戻る。
 散らばった酒瓶を集め、あちこちに落ちている夕食の名残りらしいものを拾い、油のついたペーパーナプキンが散乱しているのを集めて捨てる。ソファの位置を戻し、テーブルを立て、もう一組探し出した服をソファの上へ置いた。拾ったクッションがトマトソースとシャンパンの泡で汚れているのを見て溜め息をつき、もう一つ、部屋のすみへ投げつけられて観葉植物をばっきりと折ったクッションを拾いに行く。ぐたりと頭を垂れたモンテスラの葉に手をやって無言の謝罪をつぶやいてから、彼はクッションの土を払ってソファに戻った。冷蔵庫から取ってきたビールの缶を開け、プシュッと大きな溜息をついた缶を、にこりともせずに見つめる。
 たしかに、おとなしく待っているとも、心配して待っているとも、帰ってきたら喜んでくれるとも期待はしていなかったが。
 ──これは少々、頭にくる。
 シャワールームの扉がひらいて、鼻歌が聞こえてきた。


 調子っぱずれの何かを謎の歌詞で歌いながら、サーペントが長い髪から水をぼたぼた垂らして出てきた。きれいになったリビングにもエースにも目もくれず、素裸のまま右手にバスタオルを引きずって部屋を横切り、窓際の冷蔵庫からシャンパンのミニボトルをひっぱりだした。しゃかしゃかと右手で勢いよく上下に振る。
 エースは大股に近づくと、サーペントの手からシャンパンをひったくった。こんな状態で開けるつもりか。
「阿呆」
「はぁん?」
 寝惚けたような返事をして、サーペントはエースを見る。くせのない長いクリームブロンドにはまだ泡がまつわりつき、水滴を雨のように足元にふらせていた。すらりと締まった体は細いがみごとなバランスを持っていて、無駄なところがなく、どこか獰猛な力を内に秘め、そうして彼が裸になるといつもエースは体の奥に名状しがたい圧力を感じる。だが今は、赤い愛撫が散った体を見て溜息をつき、サーペントの手からバスタオルを取ると濡れた頭にかぶせてがしがしと拭き始めた。
 サーペントがけらけらと笑って、またシャンパンに手をのばす。溜息を重ね、エースはバスタオルをボトルにかぶせて左手で口金をゆるめた。ポンと鈍い音がしてコルクが抜け、泡が吹きだすようにあふれるボトルをサーペントに差し出す。
「ほら」
「サンクス」
 ボトルを受け取って、泡で手や顔を濡らしながらサーペントは上機嫌にシャンパンをあおった。エースは髪の余分な水気を拭ったところであきらめて、大判のバスタオルをバスローブのようにサーペントの肩にかけると、ソファに戻って自分のビールを手にした。
「服を着ろ、ストリーキングでもするつもりか」
「したことあるよ」
「そういう問題じゃない」
「不機嫌だなぁ」
 振り向いて、サーペントはにっと笑った。首すじまでご丁寧にセックスの痕が残っている。それからまた窓の方を向くと、謎の歌をくちずさんだ。──何かを逆回転させているらしい、と、エースは気が付いたが、それを逆に回して歌の正体をさぐる気にはなれなかった。
 罪悪感を持っていて欲しいとは思わないが、それにしてもこの手ごたえのなさに、エースはいささか気分が傾く。何もかもをなかったことにするのならまだしも、サーペントは平気な顔をして他人との情事の痕が残る体をエースの目の前にさらしてくる。お前はいったい何を考えているんだ、という気持ちの一方、サーペントをわかろうとしてはいけないんだというあきらめと、コイツは全部わかっててやってるんだろうなという怒りがないまぜになって、彼を憂鬱にした。
 ──疲れてるんだがな、こっちは。
 口の中でつぶやいて、ビールをあおる。サーペントは機嫌がよさそうに部屋をうろうろしていたが、ふっと下を向いて右足をもちあげ、立ったまま器用に自分の足の裏をのぞきこむと、指にはさんだ何かを拾い上げた。
 エースは、投げつけられたそれを受けとめ、眉をしかめた。ガーネットの指輪。波形のラインが彫りこまれた太い銀のリングに澄んだ赤紫のロードライトガーネットが四本爪ではめこまれている。サーペントの趣味ではないし、見覚えもない。
 と、言うことは。
「忘れもん。返しといてよ」
 相棒は笑顔だった。ほんとに綺麗な顔をして笑うよな、とエースは考えた。すらりととおった鼻梁やととのって涼しげな目元、青みがわずかに勝った淡いラベンダーの瞳とか、そういうパーツだけの問題ではなく、サーペントはきわめて美しい表情をつくる。そして、エースはきわめてこれに弱い。だが今朝ばかりは笑顔一つでころがされる気はなかった。
「誰だ、あれ」
「知らない。お前が片づけたろー。それも片づけてきてよ」
「知らないってどういうことだ?」
「だって知らないよ。男は男だったみたいだけど。ついてるもんついてたからね」
 と、自分の体の下の方を見て訳知り顔にうなずき、
「俺途中まで女口説いてたんだけどな。そんで女と店でやってたら、俺の女に手を出すなとか言われて、そこからまぁ何かそんな感じ。名前なんかいちいち聞くわけねぇだろ」
「下らないことをいばるな」
「何、怒ってんの?」
 笑みを口元だけに浮かべたまま、サーペントは目をすいっと細めた。エースは立ち上がって、相変わらず精液の青臭い、どこか熟れたような匂いが漂うベッドルームからタオル地のガウンを取って返すと、サーペントにそれを投げた。首を振る。
「お前が誰と寝た、とかそう言うことをガタガタ言うつもりは俺もさらさらないんだがな」
「言ってるようにしか聞こえねーぞ」
「言ってない」
「ふぅーん」
 楽しそうに鼻先で笑って、サーペントは白いガウンを羽織るとエースの座ったソファの肘掛けに腰をかけ、裸の足を組んだ。ひょいと手をのばす。
「煙草」
「‥‥」
 エースはシガレットケースから煙草を振り出して一本くわえ、ケースをサーペントへ投げた。ライターで火を付けたところでサーペントがかがみこみ、同じ炎にくわえ煙草の先端をかざした。
 ふ、と息を吐き出す。目の上にかかった長い前髪を小指で払った。
 エースはテーブルの上のクリスタルの灰皿に指輪を放り込んだ。
「わざわざつれこむな、馬鹿」
「何で。俺のベッドだ。お前のベッドはきれいだったろ?」
「そういう問題じゃない!」
「気に入らないならてめぇも誰かつれてこいよ。俺は文句言わねぇぞ。三人でもいいけどね。その方が話が早いか」
「だから」
 エースは指輪の上に煙草の灰を落とし、鮮やかな青の瞳でサーペントをにらんだ。
「そういうことを言ってるんじゃない。阿呆かお前」
「誰が阿呆だ」
 言葉づらだけに反応したサーペントが、エースの後頭部を勢いよくはたく。エースがその腕を払いとばすと、今度は脚で蹴りが入った。
「俺がどこで誰と寝ようがお前にゃ関係ねぇだろう、エース。お前の目の前でやってるわけじゃなし」
 目の前も同然だろうが、と思ったが、エースはそれは口にしなかった。そんなことを言おうものなら本当に目の前でやらかしかねない。「ほーらちがうだろ?」と言いたいがためだけに。
 こめかみの奥が重い。エースは立ち上がり、吸い殻を灰皿へ放り込んでシャワールームへ向かう。怒ってはいない。多分。だが相棒の軽口を聞き流すには少々くたびれていた。
「もういい。指輪はお前が何とかしろ」
「やだよーこんな悪趣味なの」
「うるさい」
 びしりと言い放ち、後ろを振り向かずエースはシャワールームへと入っていった。振り向いたらどんな凶悪な顔が見られるだろうと思うと振り向きたい誘惑にはかられたが、言葉の通じない相手とこれ以上やりあうのは不毛だ。おもちゃとじゃれあっただけの猫を叱りとばしても意味がない、ことくらいは、わかっているのだ。
 頭では。


 シャワーを浴びている最中、何やら外から音が聞こえて、エースはそっと入り口のドアを開けた。細い隙間から様子をうかがう。
「るせぇな、指輪ならくれてやるから帰れほら」
 というサーペントの不機嫌な声がしたかと思うと、それに反論しようとする男の声にかぶせてまぎれもなく何かを殴る音がして、エースはため息まじりにドアをしめた。
 シャワーレバーを上げ、ふたたび熱いシャワーを浴びはじめる。髪の中に指を入れて泡を洗い落としながら、もう一度長いため息をついた。
 ヘアドライヤーで乾かしたが湿り気の残った髪にタオルをかけ、エースがシャワールームを出ると、サーペントはベッドルームから引きずり出してきた羽毛布団にくるまって、リビングのカーペットの上で眠っていた。
 それをそのまま、さっきの相手のようにしばって廊下に放り出せたらさぞや爽快だろう。そう思いながらエースはソファに身を横たえ、腕組みして目をとじた。サーペントがわざわざこれ見よがしにベッドルームを明け渡してくれたのはわかっていたし、そこにはちょっとばかり親切心がまじっているかもしれないとは思ったが、そこで眠ってやるほど、殊勝な気分にはなれなかった。


 次にエースが目を開けた時、部屋の中には五人のダークスーツ姿の男がいた。サーペントはいつのまにやらきっちり上まで黒いシャツを着込んだ姿で、神妙な顔をして床に正座している。その気になればそういう顔もできるらしい。
 目の前に立った男を見上げて、エースは目をほそめた。
「何の用だ?」
「若頭がご面倒おかけしたようです。失礼いたしました」
 馬鹿丁寧に、錆を含んだ声で銀の髪の男が言う。大柄だが鈍重な印象のまるでない、よく鍛え上げられた隙のない男だった。軍隊上がり、とエースはにらむ。
「それは俺じゃない。そっちのだ。礼ならそっちにしてやってくれ」
 サーペントにあごをしゃくると、サーペントが伏せた睫毛の下からぎろりと彼をにらんだ。
「そちら様にもお世話になったとのことで。うちのボスが是非お会いしたいと申しております。ご足労いただけると幸いです」
 エースはサーペントに視線を流した。
「お前の彼氏の保護者が呼んでるとさ。心当たりは?」
「婚約の報告をしにいく約束してたかもー」
 サーペントがにっこり微笑む。エースは一つ溜息をついて、男を見上げた。
「少し眠いんだが、車内で眠らせてもらってもいいか?」
「どうぞ。枕、お持ちしましょうか」
「そこまではいい」
 もう少し威圧的に出られていたらエースも出方を考えたかもしれない。だが男の態度はおだやかで抑制されたもので、エースは少し考えを変えた。武器を脇腹に呑んでいるのは一目でわかったが、それをちらつかせないところもポイントが高い。この際気晴らしにつきあってやってもいいか、という気分になっていた。
 サーペントがはっきりと非協力的な態度を見せているせいもある。あらかじめ髪をとかし、化粧をし、シャツを着て、彼はつれていかれる気満々に見えた。
 左右と後ろをがっちりエスコートされて、二人はエレベータを地下駐車場までくだり、そこで待っていた車に乗り込んだ。リムジンか何かかと予想していたが、流線形のボディが美しいエドナというサーペント気に入りのスポーツタイプだったので、サーペントは機嫌よく乗り込み、足を組んで頬杖をついた。
 前には運転手と銀髪の男──「シェイン」と呼ばれていたのをエースは耳にしていた──が座り、ほかの男は別の車に乗りあわせて先導する。
 サーペントはまだ鼻歌を歌っていた。エースはなめらかに走り出した車内で腕組みして目をとじていたが、左目だけを半分ひらいてサーペントを見た。
「よせ」
「何で」
「頭の中でとまらなくなる」
 まとまりのないくせに、妙に回りやすいメロディなのだ。
「知るか。耳に栓でもしとけ」
 とは言ったが、サーペントはとりあえず鼻歌はとりやめたようだった。エースに言われたからではなく、あきたのだろう。エースを見て睫毛をまたたかせ、彼はふふんと笑う。
「まだ機嫌悪いの。眠い?」
「‥‥」
「おなかすいた? 風邪でも引いた? 頭、痛い?」
「サーペント──」
「それとも嫉妬?」
 エースは目を開けて、サーペントへゆっくりと顔を向けた。相棒はかわいらしい顔つきで少し首を右にかしげ、エースを無邪気に見つめている。
 溜息をひとつ口の中で噛み殺し、エースは前を向いてぼそっと呟いた。
「睡眠不足だ」
「おや奇遇。俺もあんまり眠ってない」
「それとはちがう」
「何が、どう」
「‥‥とりあえず、寝る相手は選べ。趣味が悪いぞ」
 そう言って、エースはまた目をとじた。本当に耳栓がほしいな、と思った時、直接体の奥にふれるような囁き声が耳にきこえてきた。ほかの誰にも聞こえないほど、かすかな声で。
「ばぁか。だから、お前に惚れたんだよ」


 ──どのツラさげて、お前がそれを言う。
 そう思いながらも、やけに色っぽい言い方に一瞬くらりと揺れた自分が情けないエースだった。