唇のはじが切れた傷が治るまでに二週間、かかった。さらに一週間でやっと傷が消える。相手の傷はもっと残っていればいいのだが、と考えて、オーガストは鏡の中の自分を見ながら笑みの形に唇を歪めた。カウンターに叩きつけてやった時のレックスの悲鳴からして、多分、肋骨にひびくらい入っている筈だ。オーガストもみぞおちのどす黒い青あざが引くまで、幾日も吐き気に苦しめられた。
 ウィステリアには行くことができなかった。つまみ出された時、背の高いボディガードからしばらく出入り禁止を言い渡されてもいたし、言われてなくともノコノコと顔を出すのは恥ずかしい。
 もう一軒、ヴィクが使っていたバーを知ってはいたが、オーガストはそちらへは足を向けなかった。ヴィクとオーガストはその店で会ったことはない。ヴィクがその店へ行くなら、それはオーガストに会うためでもオーガストを探すためでもない。そんなところに行くことはできなかった。
 ヴィクからの連絡はないまま、傷の痛みが引いて行くと同時にオーガストは少し落ちつきを取り戻していた。胸の中がふさがれたような重苦しさはそのままそこにあったが、その存在にも少しは慣れた。
 ヴィクは恋人が去った時、どんなふうに苦しんだのだろう?
(──彼はまだ、苦しんでいる‥‥)
 電脳の中に過去の記憶を探し求め、自分を抱く男の中に愛しい記憶を探し求める。彼にはほかのものを見る余裕などなかったのだろうな、とオーガストは今さら気がついていた。ヴィクが「生身で抱いてくれ」と言った時、オーガストはヴィクが恋人から目を離して彼を見てくれたのだと思った。だが、ちがった。ヴィクは電脳の中ではなく、オーガストの中に恋人の影を求めはじめただけだったのだ。
 受けとめてやればよかったのかもしれない。今ならそんなふうにも思う。だがあの時、オーガスト自身も求めることしか頭になかった。そしてそれを与えようとしないヴィクに苛立ちをぶつけた。
「馬鹿だなぁ」
 呟いて、オーガストはIDカードを研究棟のゲート脇のスリットに入れる。二重の自動ドアをくぐって廊下に出ると、棟内との気圧の変化に耳の奥が一瞬引きつった。
 ふうと息をつき、頭を振って歩き出す。人とすれ違いながら総合棟へ出て、そこから通用口を通って外へ出る。昨日は夜勤だったので、早引けの今日はまだ空が明るい。隣りの駐車場へ入り、二階までのぼって、通勤に使っている二輪のモーターサイクルへ歩み寄ろうとした時、黒い車体のそばに立っている人影を見つけて、オーガストは喉に息をとめて立ちすくんだ。
 ヴィクは、少し心もとなさそうに見えた。ジーンズのポケットに両手をつっこみ、肩をすぼめて、立ったままオーガストを見ている。そのたよりなげな様子が、はじめてウィステリアで彼と話したあの夜のことを思い出させた。はじめて服を脱がそうとふれた時、彼は少し震えていたように思う。
 しばらく立ちすくんでいたが、オーガストは大きく息を吸いこみ、まっすぐヴィクへ向かって歩き出した。
「やあ」
 ヴィクはそれだけを言うと、あいまいに微笑した。オーガストは右手に下げていたサイドバッグをバイクに取り付け、シートを持ち上げると下のスペースからパーツのかたまりを二つ引っ張り出し、バタンとシートを戻した。何回か部品をいじると、折りたたまれていたカーボンファイバーの骨組みがかみ合って、半球形のヘルメットの形を取った。
 自分に投げられたスペアのメットを、ヴィクはおどろいた顔で受けとめた。オーガストは自分のメットをかぶってあごの下でストラップを留めながら、
「場所をうつそう」
「どこに?」
「もう少しゆっくり話せるところだ。ここじゃ」
 親指で天井をさす。球形の黒い物体は全方位型の防犯カメラだ。
「あいさつのキスもできない」
 冗談めかして言いながら、オーガストは目のはじでヴィクの反応をさぐる。ヴィクは冗談を冗談として明るく受けとめた様子で、くすっと小さな笑いをこぼしてメットをかぶった。


 オーガストは少し迷ったが、ヴィクを自分の部屋へつれていった。人目のあるところで話をするのは互いに落ちつかないだろうと思ったし、きちんと話がしたかったからだが、ヴィクは少し驚いたようだった。これまで彼らは、ウィステリアを除けばヴィクの部屋でしか会ったことはない。
 クリーム色の壁紙にパイン材の腰板がはりめぐらされた室内は、飾り気はないが、丁寧にととのえられている。リビングの大きな革のソファに案内されて、ヴィクは少したじろいだ表情で、リビングから見える対面カウンターつきのキッチンや二つのベッドルームへつながるドアを見回した。
「大きい部屋だね」
「最近まで二人で暮らしてたんだが、片割れが出ていった」
 上着を脱いで壁にかけながら言い、オーガストは口ごもったヴィクにちらりと笑みを見せた。
「弟だよ。結婚したんだ」
「それは‥‥おめでとう」
「うん。何か読むか? ビールでいいか?」
「ああ‥‥」
 部屋のすみの小さな冷蔵庫をあけ、オーガストはビールを二本出してガラステーブルに置いた。リビングで座る場所といえばテーブルを前にしたL字の大きなソファが一つしかなく、二人は角をはさんで左右に座り、無言のままビールを開けた。
 オーガストがビールを一口飲み、ヴィクを見る。自分からきたくせに、ヴィクはうまく話し出せない様子だった。こわばった視線を手の中の缶に固定したままのヴィクへ、オーガストはさりげない口調でたずねた。
「会社、よくわかったな?」
「君‥‥一度、言ったろう。あそこの研究棟につとめてるって‥‥」
 意表をつかれて、オーガストは目を見開いた。たしかに話したが、それはヴィクとすごした三度目の夜で、電脳セックスが終わってひどく不安定になっているヴィクをなだめてから、とりとめのない話をした──その時の話題の一つだ。あの時、ヴィクに話が聞こえている様子はほとんどなく、どうしたらいいかわからないオーガストは仕事の話などだらだらしゃべっていた。
 ヴィクは開けたまま口をつけていない缶を見つめていた。
「それで、受付に電話して君のシフトをきいたんだ」
「よく教えてもらったな?」
「‥‥研究を提携している取引相手のふりをした。すまない」
 本気で申し訳なさそうな彼に、オーガストは小さくぷっと吹き出した。ビールをまたがぶ飲みし、手の甲で口を拭う。体の中にある息苦しさを吐きだすように陽気な声で言った。
「あんたでもそういうことが出来るんだな」
「‥‥‥」
 ヴィクは黙っていたが、いきなり決心したような顔になると、ビールを一気にあおった。大きく息をつき、まっすぐにオーガストを見つめる。
「ウィステリアでレックスと喧嘩したって‥‥聞いた。ケガは?」
「‥‥大体、治った」
 心臓が大きくはねた気がしたが、オーガストは平静をよそおった。ヴィクが両手でビールの缶をしきりに握り直しながら、
「すまない。君が‥‥その‥‥レックスは‥‥」
「‥‥‥」
 あきらめたように長い溜息をつくと、きっぱりとした口調で言った。
「俺はレックスと寝た」
「聞いたよ」
「生身で」
「それも、聞いた」
 うなずいて、オーガストはビールを口元へはこぶ。うまくビールを飲みこめない。自分の喉がこわばっているのに気付き、彼は缶をテーブルに置いてソファの背もたれへ体を弛緩させた。全身ががちがちになっている。
 ヴィクはオーガストの動きを目で追いながら、うなずいた。
「そう‥‥だろうな」
「‥‥‥」
「俺、君が出ていったあと、随分考えた。イヴァのことや‥‥君のこと。俺たちがしたセックスのこと。君には、ひどいことをした」
「おい」
 オーガストは背中を刺されたようにソファから起き上がる。
「ひどいことをしたのは俺だ、ヴィク──ひどいことを言った──」
「ああ、あれはひどかった」
 うっすらとした微笑がヴィクの口元にうかぶ。彼はさっきよりもかなり落ちついた様子で、狼狽しているオーガストを見ながらビールを一口飲んだ。喉がうごく。嚥下して、もう一度うなずいた。
「まるで急所を一突きされたみたいに効いたよ」
「‥‥すまない。本当に、悪かった──」
「君に最初にひどいことをしたのは俺だよ、オーガスト。俺は‥‥自分があんなに君を傷つけているとは思わなかった。本当に」
 笑みを消して首を振るヴィクを見ていたが、オーガストは腕組みしてまたソファにもたれた。抑えた声で、
「ヴィク。俺は、あんたがレックスと寝たことについてどうこう言う資格はないが、とにかく、あいつはやめとけ。あいつは寝る相手のことなんか物のようにしか考えてないぞ」
「おあいこだよ。俺も寝る相手を物のようにしか考えていない」
「‥‥‥」
「でもレックスとはもう寝ないよ。ありがとう」
 そう言うともう一度ビールをあおり、ヴィクは前へ体を倒すともう空になった缶をテーブルの上へ置いた。オーガストはじっとその様子を見つめたまま、何も言わない。少しばかり居心地悪そうに身じろいで、ヴィクは膝の上で指を組んだ。早い酔いが回ってきたのか、顔色が赤い。
「その‥‥何も感じなかったんだ。レックスと。生身で。本当に‥‥何て言うか、すごく彼が遠いところにいるみたいだった」
「‥‥‥」
「レックスにも悪いことをした」
 そうつぶやいて、ヴィクは憤然としたオーガストの表情に気付くとあわてて手を振った。
「だから‥‥その‥‥彼は、傷ついたと思うんだ。あれで結構、その、自信があったみたいだし」
「‥‥まあ、そうかもな」
 あの夜、オーガストに向けられたレックスの悪意は、ヴィクからうまく反応を引き出せなかったことへの八つ当たりだったのかもしれない。今さらそう思って、オーガストはぽりぽりと指であごをかいた。
「ま、あいつにゃいいクスリだよ」
「オーガスト。俺、イヴァと会うまで、男と寝たことがなかったんだ」
 ヴィクの顔をじっと見て、オーガストは何も言わない。ヴィクの声は静かだったが、緊張していた。
「イヴァがいなくなった後、電脳を通じていろんな男と寝た。でもそれだって、俺にとっては全部イヴァとのセックスだった。だから俺は頭の中ではイヴァしか知らない。ずっと知らなかった。‥‥君と、生身で寝るまで」
「あれだって──」
「あれはちがう、オーガスト」
 彼をさえぎった声にははっきりとした痛みがあって、オーガストは口をつぐんだ。だが心に苦いものがあふれだしそうになる。
(お前は、俺に抱かれながら、イヴァを呼んでたじゃないか──)
 それをヴィクはオーガストの顔に読んだらしい。淋しそうに微笑した。
「信じないのはわかる。怒られても嫌われても仕方ない。でも本当に、ちがってた。俺は君に抱かれていると、君のことでいっぱいになってイヴァのことを忘れそうだった。それが怖かった。だから、必死にイヴァを呼んでた」
「──」
「ひどいだろう」
 声が自己嫌悪に引きつれ、微笑をうかべたまま表情が苦痛に歪んだ。自分を見つめるヴィクの目に、オーガストは訴えかけてくる必死の光を見る。これほど懸命に何かを言おうとしているヴィクを見るのは、はじめてだった。
「イヴァは‥‥俺の全部だった。俺は‥‥イヴァを、忘れたくない。忘れるのが怖い。イヴァを忘れて、どうしたらいいのかわからない」
 たどたどしく、ヴィクは自分の中にあるものを言葉で説明しようとする。その言葉そのものよりも、くりかえされるイヴァの名に胸を切られるような思いがして、オーガストはゆっくりと息を吸った。
「だから、俺とはもう寝ない。そういうことか、ヴィク?」
「‥‥‥」
「何で一度目の後、俺を拒否しなかった。まずいと思ったなら、拒絶すればよかった。どうして──3回も、生身のまま寝た?」
「‥‥‥」
「何でだ、ヴィク」
「何でだろうね」
 ヴィクはそうつぶやいて、一瞬目をとじた。あきらめたように力ない首を振って、
「俺は、君を好きになってた」
「!」
「なのに、まだ記憶にすがりついてる。ずっとそうしていたから、もうほかの方法がわからないんだ。俺は‥‥本当に、最低だった。君がどう思うかも考えずに‥‥本当に、ひどい。君が言ったとおり、最低の相手だ。レックスに何をされても仕方ない」
「あいつの話は関係ないだろう──」
「彼にされてる時、君の名前を呼んだ。‥‥レックスは、そう言って俺を殴ったよ」
 下を向いてぽつりと言うと、ヴィクは溜息をついて立ち上がった。オーガストとは目を合わせようとはしない。彼は少しやせたように見える、とオーガストはぼんやりと思った。チャコールグレイの薄手のセーターにインディゴのジャケット。そう言えば、上着を脱ぐようすすめもしなかった。
「とにかく‥‥あやまりたかった。君は悪くない。本当にね。なのに、喧嘩なんかさせて、すまなかった。俺、ずっと君に嫌われたと思ってたから‥‥レックスとの喧嘩の話を聞いて、何だかちょっとうれしかった。ごめん」
 ニコッと笑った。澄んだ笑顔だった。黙ったままのオーガストへ一つうなずいて、玄関の方へ歩き出す。その後ろ姿へオーガストが声をかけた。
「ヴィク」
 足がとまったが、振り向かない。こわばった後ろ姿を見つめてオーガストは少し考えていたが、はっきりと言った。
「俺としないか?」
 ぎょっとして、ヴィクが肩から振り向いた。半身でオーガストへ向き直り、目を白黒させながら、やっと返す。
「‥‥何を」
「セックス」
「だって‥‥その‥‥」
「今、ここで。俺と寝ないか? ベッドでもソファでもバスルームでも、何ならキッチンでも、お好みの場所でいいけど」
 場所をあげるたびにその方向を親指で示した。棒のようにつったったままのヴィクを見つめて、オーガストはおだやかな声を出そうとしたが、それは少しかすれていた。
「俺としたくないか、ヴィク?」
 あからさまに、ヴィクが息をつめた。オーガストをまばたきもせず凝視していたが、少しずつその体から力が抜けて、彼は小さな声でつぶやいた。
「‥‥したい」
「来いよ」
「でも──」
「いいよ。イヴァを呼んでいい。それでも俺は、お前がほしいし」
 チラッと笑みをよぎらせた。
「お前をイヴァと取り合うほど馬鹿じゃない」
「‥‥‥」
「言わないよ。呼ぶな、とか。忘れろ、とか──」
「‥‥‥」
「だから、俺とセックスしてくれ」
 手をのばす。ヴィクはそれでもそこに立ちすくんでいたが、オーガストの顔を見て、ゆっくりと歩き出した。どこかたよりない足取りでオーガストに歩み寄る。その手首をとらえ、引き寄せて、オーガストは自分の上へ崩れてきたヴィクの重みを心地よく受けとめた。