──最低だった。
 吐き気がする。メールを打とうとしたが文面が思いつかず、コールしようとしても指が直前でとまる。大体、つながったとして、何を言えばいいかわからない。
(この間はごめん。俺、やっぱりあんたとセックスしたいんだけど、また会えないか?)


 お前は、最低だ。


 どんな顔をしてヴィクに会えばいいのか──それよりさらに根本的に、どんな顔をして「会いたい」と言えばいいのか、まったくわからないままうつうつと時間がすぎ、時を合わせたようにオーガストの仕事も忙しくなり、配属された緑化プラント研究層でサンプルの採取とテストに追われ、そこに逃げ込むように彼はヴィクのことを忘れた。
 忘れようとした。
 濃密で異様な昂ぶりに満ちたあの電脳セックスも、甘えるようなヴィクの悲鳴も、彼を締めつけて離すまいとする奥襞の快感も、日々汗して体を動かし、くたびれはてて泥の眠りをむさぼるうちにぼんやりと遠くなった。日常の中に、オーガストは自分の感覚を埋没させる。友人とのとりとめのない会話、一日三度の食事、残業、一人での眠り、気怠い朝、仕事、そのくりかえし。
 だがあれだけは忘れられない。
 ミストにけぶるシャワールーム。黒いタイルの床に膝をついたヴィク。唇から垂れた精液のすじがゆるやかな水に流されておちていく。その目、黒くみひらいた形のよい目の中にあるのは、彼への怯え。


 ウィステリアに出かけたのは、ヴィクと会えなくなって一月後のことだった。記憶の棘にさいなまれながら日々をすごし、だがどうやっても重苦しい吐き気は日ごと夜ごとにオーガストを苦しめ、うなされるような眠りがつづいた挙句、睡眠不足から来る不注意でミスをしでかした。
 どうにかしないと、とは思ったが、どうしたらいいのかわからない。ヴィクに連絡を取ることなど考えられなかった。はじめはただうろたえながら日をすごしてしまい、今となっては何もかも遅いような気がした。今さら何が言えるだろう。ヴィクはもう代役を手に入れている筈で、願うならその相手がヴィクをなぐさめてやってくれればいいとオーガストは勝手なことを思うが、同時にヴィクが他の男に組みしかれることを考えると腹の底にどす黒いものがたぎった。
 本当に勝手なものだ。自分で傷つけたくせに。あんな目をするほどに。まるで自分をレイプした相手を見るように、ヴィクはオーガストを見つめていた。
 あんな顔をもう一度見るくらいなら、一生会わないほうがマシだった。
 ──いや。
 それでもいい。会いたい。会って、せめてあやまりたい。何を言ってあやまればいいのかわからないが、それでもヴィクの中に彼がえぐった傷をそのまま灼きつけていきたくはない。
「結局」
 滅多に喫わない煙草を口にして、オーガストは呟く。
「‥‥惚れてた、かね」
 もごもごとした声を注文だと思ったか、カウンターの向こうでマドラーを手にしたバーテンが眉を上げたが、オーガストは無視して右手の中のバーボンを見つめていた。周囲の喧騒も低く叙情的な音楽もすべてひっくるめて雑音のように遠く、わずらわしい。世界のすべてが彼を苛立たせる。何よりも、自分の存在そのものが。
 それでも一人でいるよりマシだった。一人で、自分だけと向きあっていると、忘れたつもりの深みをのぞきこんでしまいそうになる。こうして何かにまぎらわしていると、はりつめていたものが体の内でわずかにゆるみ、オーガストは久々に少しくつろいだ気分になった。飲みすぎないように手を抑え、ことあるごとに暗いところへ這い戻りかかる心を引き戻す。
 ウィステリアはかなり広い店で、壁がゆるい弧に湾曲し、店の内部は巻き貝の内側のような形をしている。一階からはオープンフロアの二階の一部が見え、両フロアあわせて4つのバーカウンターが点在する間に観賞用のパネル型水槽が置かれていた。水槽は厚みがほとんどない──二枚のアクリル板の間に水をわずかに封じこめただけのものだ。その中をホログラムの深海魚が悠然と泳ぎ、水の揺曳に合わせて半透明の体をゆらゆらとくねらせては、パチンと泡のようにはじけて消えていく。
 水槽パネルはあちこちの床から生えるように設置され、その向こうを通る人々の姿を水と同じ色にゆらめかせた。
 水槽のそばに置かれた黒革のソファの上では親密に身をよせあって語らう者たちがいる。独特の濃密な雰囲気が二人の周囲にたちこめ、彼らを世界から隔絶された存在に見せている。しばらく語らい、二人は指と指をからませるようにして立ち上がり、服ごしに肌を押しつけ合うあからさまなサインを示しながら店を出ていく。
 カウンターに右肘をついて酒を含みながら、オーガストは薄ぐらい店内へ視線をはしらせる。その様子がパートナーを探しているように見えたのか、カウンターにいる客に声をかけないルールを無視して誘ってくる相手はいたが、オーガストは片手でそれを追いやった。一人はかなり彼好みの、細作りで華奢で、たてがみのようにくしゃくしゃの金髪を肩まで垂らした美形だったが、いかんせん、今日は何一つ食指が動かない。
 気晴らしに誰かと、という考えが頭をかすめないではなかったが、美しい顔をしばらく眺めてからオーガストは首を振った。
「駄目だ。──人を待ってるんだ」
 人形のようにととのった顔をした青年は、気を悪くした様子もまるでなくクスクスと笑った。断っておきながらオーガストが一瞬見惚れるほど美しい。自分が美しいことを充分に自覚している人間特有の素直な驕慢さが、その姿にさらに華をそえていた。オーガストに断られたことを歯牙にもかけていないのがわかって、彼は苦笑した。
「君ならすぐいい相手が見つかるよ」
「どうかな。難しいんだよ」
 妙に悟ったようなセリフを吐き、青年はふいにじっとヴィクを見つめた。信じられない、シルバー・バイオレットの瞳。合成色? それにしても凄い──と思わず見つめたオーガストへ、彼はかすかに喉にかかる声で言った。
「来ない人を待ってるんだ」
「‥‥そんなふうに見えるか?」
「あなた、この世の終わりみたいに淋しそうだよ。でなきゃ声なんかかけない」
 そう笑って、オーガストの頬にひんやりとしたキスを残し、青年は手を蝶のようにひらめかせてステップを踏みながら去っていった。
 ──この世の終わりみたい、か。
 煙草を三日月型のトレイで押しつぶし、苦い溜息をついて天井を見上げる。剥き出しの配管が蛇のように這い回り、そこにからみつく電飾の触手がエロティックに明滅している。
 ヴィクと会ったのは、この店だった。一階フロアの壁際にある水槽のかたわらで、ヴィクは立ったまま子供のように深海魚を眺めていた。ゆらゆらとうごめく魚たちはどれも皆グロテスクで、異様に大きな目や白い鱗、体の半分近くを覆う口などを持っていたが、ヴィクがその中でじっと見つめているのは普通の小さな魚だった。やや寸詰まりだが流線形の体に、短い背びれ。先のとがった鋭角な尾びれを振りながら泳いでいる。その体はちらちらと発光し、銀の体を薄くきらめかせていた。
「ランタンフィッシュだ」
 そう声をかけるとおどろいたように振り向いた。オーガストは魚を指さす。
「昼間は深海にいるが、夜になると海面近くまでのぼってくる。一日に500メートル近く海の中を上下に移動する。そういう種類なんだ」
「‥‥‥」
「網にかかると、鱗が全部はがれてしまう。弱い魚だよ」
「ふぅん」
 ヴィクはまたその魚へ目を戻し、地味な光の動きを目で追っていたが、その映像が泡となって水槽の中で消えると、オーガストへ顔を向けた。
「魚の解説にきたのか、それとも俺に用?」
 オーガストはヴィクを見つめ、その目の中に神経質そうな不安を読む。ヴィクの物言いはこの手の駆け引きに慣れた様子でもなければ、愉しんでいるようでもなかった。
 一瞬だけ言葉を迷ってから、彼は直截的にふるまうことにきめた。幾分、ビジネスライクに。
「パートナーを探しているんじゃないのか」
「ソケット」
「入ってる」
 と、オーガストは自分の首の後ろを指す。電脳を入れている人間は今年の政府の調べで23%、非常に珍しいというほどのものではないが、多数ではない。そもそもは脊髄神経麻痺の治療法として開発された電脳仮想中枢神経系システムは、今では娯楽や仕事のツールとして普及率を少しずつ高めていた。
 ヴィクはうなずき、ためらってから声を低くした。
「俺は‥‥恋人を探しているわけではない。電脳の記憶をリプレイする相手がほしいだけだ。そのことは知ってるか?」
 オーガストは水槽パネルに肩をもたせかけ、腕をくんでヴィクを眺めていた。内向的、というのがはじめて間近で見た第一印象で、どこかたよりなく漂う視線がさらにその印象を補完する。ドラッグをやっている気配も酔った気配もない。前立てに二本のタックが入った淡いアズールブルーのボタンダウンシャツにアイボリーの麻のシングルジャケット、少し着古したウォッシュジーンズ。ジャケットの前をきちんとしめているのがやけに硬く見える。
 こういう場所にはあまりなじまない男だった。
 オーガストがうなずくと、ヴィクは見つめられていることが気まずそうで、目をそらして続けた。
「ノイズ処理されていない、市販のものではない、レアの記憶だ。拒否反応が出る可能性もある。こちらで医療的な責任は取れない。それについては、互いに同意の元であると、同意書を書面でつくる」
 ちらっと目が上がった。オーガストがうなずくのを見て、また視線を伏せる。
「かわりに‥‥君に金を払う」
「いくら?」
 わざと乾いた口調でオーガストがたずねると、ヴィクが値段を口にした。まともな男娼を一晩買う程度の値段。それなりに相場は知っているのかと、オーガストは小さく笑ってうなずいた。
「OKだ。あんたに買われるとしよう」
 自分の前にさしだされた右手に、ヴィクは少しとまどった様子だったが、すぐに手を出して二人は握手をかわした。


 目の前にコトンと音をたてて置かれたグラスを右手の指で持ち上げる。底に紙のコースターがはりついていっしょに持ち上がる。オーガストは溜息をついてそれを払い落とすと、肘をカウンターに乗せて両手の中でグラスをもてあそんだ。バーボンが揺れる。
 耳にけだるいムードミュージック。頭痛がする。ショータイムがはじまったのか、二階で歓声が上がり、時おり高いあえぎ声がきこえた。甘い声を聞き流しながら、グラスの中の氷を鳴らす。
 ──来てくれ、ヴィク。
 酔いの中でオーガストはぼんやりと呟く。
 ──もう一度、俺を買ってくれ。


 右横にドカリと座った男の気配にオーガストは顔を上げ、ぎくっと身をこわばらせた。灰色の目が自分を見つめている。脱色した淡い金髪を短く刈りこみ、両耳にずらりと鋲のピアスを打って、首まで襟の上がった革のライダージャケットを着込んだ男だった。
「レックス‥‥」
「ついに、ヴィクにお払い箱にされたらしいな?」
 ニヤッと笑うと舌の右端を貫くピアスが光る。するどく切れ上がった目でオーガストを見つめながら、嫌みったらしく喉の奥で笑った。
 オーガストは肩をすくめ、グラスに目を戻す。レックスはオーガストより二人ばかり前のヴィクの「相手」だった。電脳セックスの後で茫然としているヴィクにドラッグを含ませ、酔った彼を「生身」で犯したのはこの男だ。その話をいかにもしてやったりと言うように吹聴していたのも。
「お前には関係ないだろ」
 低く呟くと、レックスはまた喉にかかる粘っこい笑いをこぼした。酒臭い息をオーガストへ吐きかけ、頭をゆらゆら振る。
「バァカ。本気になったとか言うなよ? あいつにゃケツにつっこんでなんぼだぞ」
「くそったれ。あっちへ行けよ」
「まさか、フラれて未練がましく待ってんじゃねェだろうな」
 オーガストがするどい目つきでにらみつけると、レックスはけらけらと笑い出した。カウンターに伏せ、ばんばんオーク調の天板を叩く。ひどく酔っているようだった。二階のショーを見てきたのか、男娼の誰かと「踊って」きたのか、体から甘い香気が漂ってくる。興奮の強い光が目にともっていた。
「おー、マジかよ! こいつぁ笑えるな。だが今日は来ねぇぞ、あいつ。男なんかしばらくほしくないだろうな」
 含みのある言い方に、嫌な予感がした。オーガストはカウンターに左肘をのせ、レックスへ向き直るとできるだけ静かに聞いた。
「どういう意味だ」
「誘ったのはあっちからだぜ」
 チラッと犬歯を見せた。
「ここで拾った。昨日。ヨリが戻ったってことだ」
「!」
 表情を隠そうとしたが、思ったより深い酔いの下でそれは完全に失敗し、オーガストはカウンターの上の拳を握りしめていた。何故、よりにもよってレックスと? 体だけをもてあそぶようなつきあいしかしない男で、ヴィクもそれは思い知っている筈だった。
 ──結局、あんたが欲しがっているのは体だけか? それが「誰」であろうといいってわけか?
 沈黙を保つオーガストをじっくりと眺めて、レックスはパチンと指を鳴らしながら目を細めた。笑っているのに目のはじが吊って、ひどく獰猛な笑顔をつくっていた。
「会うなり、電脳抜きで抱いてくれってさ。あいつ、頭どうかしたのかよ?」
「‥‥それで」
 抑えた声で聞く。先を聞きたいのかどうか自分でもわからなかったが。ニヤニヤしたままこちらの表情をうかがっているレックスの思い通りの反応を見せてやるのも腹立たしく、オーガストはとにかく平静を装ったが、それが成功しているのかどうか判断する余裕はなかった。
「抱いたのか?」
「どうしていけない? 金をもらったしな」
 肩をすくめるレックスを見つめて、オーガストは自分がけわしい顔をしているのがわかった。レックスは図に当たったという顔で楽しげに、
「そのツラじゃ、本気になっちまったのかよ。やめとけ、やめとけ。あいつ、電脳抜きじゃマグロだぞ」
「‥‥‥」
「ま、電脳につないどきゃ結構いけるけどな。クスリかませて電脳で記憶読ませて、一晩可愛がっといたよ。料金分だ、ばっちり愉しませてやらねぇとなあ──」
 その言い方に、ヴィクの了承をとらずに無理矢理に記憶をリプレイさせたのがわかった。快感の記憶にひきずりこんで体の反応を引き出したのだ。さらに続く下卑た言葉を聞きながら、オーガストはカウンターのグラスをひっつかんでいた。
 顔にバーボンを浴びせられたレックスは声をとめた。オーガストは空になったグラスをおろし、カウンターの向こう側へ押しやる。レックスの顔からぽたぽたと琥珀色の液体が落ち、口元をつたうそれをピアスの光る舌がなめた。
 次の瞬間、レックスにとびかかられてオーガストの体が床に崩れた。予期していたがレックスの力は凄まじく、喉元をつかみあげてオーガストの頭を床板に叩きつけようとする。のしかかってくる体を膝蹴りではがそうとしながら、オーガストは相手の顔を手で押し上げながらやわらかい喉の場所を探す。喉笛をつかんで揺さぶってやりたかった。レックスが悪態をつきながらオーガストの腕を振り払おうとする。
 荒い息とギラつく敵意が入り乱れ、握った拳と力のこもった手足で相手をぶちのめそうとしながら、男二人は全身に怒りをみなぎらせて店の床を転げ回った。